黒の街 小説版 14話「血判」
八咫烏神社の拝殿の中は、ひやりとした厳かな匂いがした。衣擦れの音すら、重い色の木目に吸い込まれていくような錯覚を覚える。
拝殿の中央には本尊のような物はなく、代わりに鏡が一枚祀られている。
その、人の背丈ほどはある鏡の前で、鏡を挟むように左右に分かれて向かい合って座るエルザ達。
座布団の上で正座を正しながらエルザが口を開く。
「で、表の有り様はなんだい?ありゃ血だろ。何があった」
向かい側に一人座る暮雨が答える。
「刺客に襲われてな。斯様な有り様ゆえ、大したもてなしは出来ぬが、勘弁めされよ」
マルコシアスは足を崩して座り、顎髭をしごいていた。
「別にそれはいいけどな。森から火の手が上がってるのも見えたぞ。ここで呑気に話してていいのか?」
「心配は無用だ。火事ならば忍衆が消し止めるであろう。僕が指揮を執るまでもない。それに、噂をすればだ」
ふいに、天井から忍び装束に身を包んだ少年が姿を現すと、暮雨の前に音もなく着地する。
そして、片膝をつくと口を開いた。
「お館様!森の火事は我らで消し止めました!お館様は、大事ございませぬか?」
「見ての通りよ。小雨丸、客人方の前ゆえ報告は後に致せ」
「これは失敬仕った。然らば、拙者は下がりまする」
やり取りを聞いていたエルザが軽くとりなす。
「いいよ、気ぃ遣わなくて。暮雨、私らも聞いていいんだったら、今一緒に報告を聞かせてもらってもいいかい?それに、さっき言ってた刺客に襲われたって話も詳しく聞きたい」
「左様か。では、小雨丸」
暮雨が促すと、小雨丸と呼ばれた少年が短い了承の返事を返し、報告を始める。
「森に火を放った刺客は一人。拙者は遠目から姿を見ただけゆえ断定は出来ませぬが、他の忍達とも情報を共有し整合したところ、みんなのわくわくギルドの構成員の一人ではないかと推測致しまする。みんなのわくわくギルドのマスコットを自称するリトル・トラジティと言う女にございます」
エルザが眉をひそめる。
「スマイルのとこのギルド員が?そう推測したのはどうしてだい?」
「はっ、使用する魔具や背恰好からそう推定するに至った次第にございまする」
「……。暮雨を襲ったのもスマイルんとこのやつかね?」
暮雨が細い顎に手を当てながらエルザの方に向き直る。
「傭兵と称していたが、信用に値せぬやも。ベアトリーチェ・クラウスヴェイクと名乗っていたが」
「ベアトリーチェ……、クラウスヴェイク?!」
エルザの眼が驚愕で見開かれる。
かつて自身の親友と自身を弄んだ、因縁浅からぬ女の顔がエルザの脳裏にありありと浮かんだ。
その様子を見て取ったマルコシアスが訝しむ。
「エルザ?どうかしたか。知った相手なのか?」
「……まあね。確かにそれが本当ならそいつはフリーの傭兵だよ。今フリーかどうかまでは知らないが」
暮雨はエルザの様子に言及することはなく、淡々と推測を進める。
「左様か。スマイルに雇われたのやも知れぬな。命懸けの戦いが目的だとかぬかしておったが……、小雨丸。相手方の目的は?」
「はっ、調査中にございまする。現時点では、森の火災以外の被害は確認出来ておりませぬが……」
「ふむ。こちらも特に思い当たる節はない。エルザ殿。いかが思われる」
「さぁね。スマイルがよく分からないことをしでかすのは初めてじゃないし、狙いは読めないよ。そもそもスマイルじゃない可能性もあるしね。案外、本当にただちょっかい掛けに来ただけなんじゃないかい?」
「ただのちょっかい程度で命を狙われていては堪らんな。……小雨丸。事後処理と今後の対応についての指示は追って与える。下がってよい」
「はっ」
一声答えると、小雨丸はふっと姿を消した。
マルコシアスが話を続ける。
「ま、今スマイルのやつの狙いをああだこうだ話してても仕方がねえんじゃねえか?で、話をそらして悪いんだが、暮雨。お前さんが俺たちを呼び付けたのは何の用だったんだ?」
「あぁ、余りのことで失念していた。奇遇にもスマイルの件でな。茶でも飲みながら仕切り直そう」
そこへおもむろに、アフロヘアーとネグロイド系の見た目が特徴的な忍が、人数分の湯呑みと、お茶を入れた急須を持って姿を現した。
「ハーイ!みなサンよくぞ参られマシタ!粗茶ですガ!」
そう言って、手際よくエルザ達全員にお茶を淹れて回る。
「おっと、悪いね。暮雨、この男は?」
「失敬、紹介が遅れ申した。この者はジョナサンだ。一月ほど前、どうしても忍になりたいと神社を訪ねて来てな。断りきれず、かと言って忍衆に加えるわけにもいかず、雑用を任せているのだが、中々に如才ない男よ」
「お褒めに預り光栄デース!」
多少胡散臭く思えるところがないではないものの、人好きのする笑顔を浮かべながらお茶を淹れるジョナサンを、エルザ達は物珍しげに見やる。
そんなエルザ達の注意を、暮雨が集める。
「さて、良いであろうか。此度、各々方を集めたのは他でもない、スマイルに関して話しておかねばならぬ事があるからだ。」
「ライムライト輸送隊襲撃事件に関係がある話かい?」
「左様。先だっての五席会議にて取り決めた通り、五大組織とその関係各所への調べを行ったのだが、黒の街の地下を調べさせていた密偵から報告がない」
マルコシアスが眉を片方持ち上げる。
「地下か?それがスマイルの野郎と何か関係があんのか」
「そもそも地下を調べたのは、スマイルが地下を不当に占拠し、違法にあたる施設を建造していたからだ」
「へえ?詳しく聞かせな」
エルザの追求を受けて、暮雨が仔細を話し始める。
「幾月か前から、スマイルに怪しい動きがあってな。地下に資材を運び込む様子も確認されていた。正確に何をしているのかまでは掴めておらぬが、化学物質や薬品が下水から廃棄されていたところを鑑みるに、何がしかの実験を行っていたのであろう。しかし、今までは調査の口実を得るのに難儀しておってな。そこへ此度のライムライト輸送隊襲撃事件に対する調査を行うという口実ができ、調査を進めた、は、いいが、調査に送った者が姿を消したという次第よ」
「そいつぁ穏やかじゃねえな。スマイルの野郎、ここんとこ急にクスリの売買に積極的になりやがったのは、実験とやらの資金を調達するためか?それともクスリそのものを作ってたのか」
「何とも言えぬ」
「そうだね。それにしても、リスクを冒してまで地下を占拠してるのが気にかかる。やってんのが実験だと仮定したとして、何のための実験なんだろうね」
「埒が明かねえな。いっそ踏み込んじまうか?」
マルコシアスが強硬策を提示するが、暮雨がそれに待ったをかけた。
「いや、ヘルタースケルターにも不穏な動きがある。装備と人を集め、何やら企てているようだ。スマイルにかかりきりになるのは得策ではなかろう」
「じゃ、どうすんだ。お前さん、何か考えがあるのか?」
スマイルに対する嫌悪感をあらわにするマルコシアスに対し、暮雨も眉をしかめながら答える。努めて冷静さを失わないようにしながら。
「鴉がスマイルの企みを突き止めよう。ヘルタースケルターもだ。そして、各々方は打って出るのではなく、これから起こるであろう凶事に備えるのだ。下手に藪をつついて蛇を出したのでは、民間人にも被害が及ぶやも知れぬ」
「……だとよ。エルザ?」
マルコシアスが隣のエルザの方を振り向く。
エルザは、腕を組んで自身の目の前の床を穴が空くほど見つめていたが、やがて腕組みを解いて口を開く。
「スマイルとヘルタースケルターに関しては、白薔薇の団も調査を進めている。確かに、暮雨の言うように備えを万全にして守りを固めるのがいいのかもしれないね。下手に追い詰めると、あの2人は何をしでかすか分からない。これも暮雨の言う通り、民間人への被害は何としてでも避けたい」
「何しでかすか分からねえから、何かされる前に叩いちまうのがいいと思ったんだが。まぁ、お前さん達がそう言うんだったらな。老いては子に従えとも言うしな」
「誰があんたの子だって?」
「へっへっへ。街の若えやつはみんな俺のガキみてえなもんさ。誰かさんは最近反抗期みてえだがな?」
「誰のことかねえ?」
「さあて誰のこったろうな?」
エルザとマルコシアスが愉快なやり取りをしている間に、暮雨は書状を取り出し、2人の前に広げた。
「盛り上がっているところ済まぬが、大事な話をさせて頂きたい。僕の方策を了承してもらったは良いのだが、調査を進めるにあたって、各々方の治める区域内を調べさせて頂く必要がある。もちろん、立ち入った場所も調べさせて頂くゆえ、それを承知してもらいたい。彼奴らの無法が、奴らの管轄区域内で留まっている保証がないゆえな」
マルコシアスがちらりと目を通して、すぐにエルザの方を向く。
「何書いてあんのか分かんねえ。エルザ、頼むぜ」
「何かあった時に私のせいにしないどくれよ?えーっと」
エルザが書状に目を通す。
「……平たく言うと、鴉が私らの治める地区内で好きに行動してもいいかどうか許可が欲しいって感じかね。重要施設内での諜報活動、地区内での武力の行使、逮捕権の行使を認めて欲しいってさ」
「ああ。んなもん好きにしてくれ。お前さんと鴉に裏切られるようならどっちにしろオシマイだ」
「だってさ。私も異論は無いね」
「……そ、そうか。些か不安になる返事ではあったが。ともあれ、何としてでもやり遂げよう。鴉に任されるがいい」
そう言うと暮雨は、短刀を取り出した。
「ん?何すんだ?」
「約定の締結には印が必要であろう?」
暮雨は鈍く光る短刀の刃を鞘から引き出し、その切っ先で自身の指を突いた。
赤黒い血がぷつりと親指に玉をつくる。
暮雨は書状の端に、それを押し当てた。
「血判かよ。古風だな」
「私も用意して来た甲斐があったね」
エルザがローランに目で合図をする。
ローランはエルザの前に取っ手のついた銀印と、ロウソク、台座、匙のような物を用意した。
「抜け目ないな。ま、俺もこんなこともあろうかと……」
「あんたはいつも身に着けてるだろ」
「へっ、馬鹿言え。用意がいいだけだ」
マルコシアスがそう言うと、ダンテも、ローランと同じように動く。
アルコールランプがマルコシアスの前に置かれた。
マルコシアスは自身の指に嵌めたイニシャルリングを熱し始める。
「それじゃあ暮雨、任せたよ」
エルザがロウソクの火で匙を熱し、書状に封蝋を垂らして印を押す。
「右に同じく、だ」
続いてマルコシアスが指輪を書状に押し当てる。
小気味よい音と共に、焦げ跡が書状に残った。
暮雨が、それを丁寧に畳み、懐へ仕舞い込む。
「承った」
厳かに頷く暮雨。
暮雨の了承の返事は板の間に吸われていき、また耳が痛くなるほどの静寂が戻った。
ふいに、それを破るかのようにマルコシアスの腹が音を立てる。
全員の注目を浴びながら、マルコシアスは悪びれる様子もなくニヒルに笑う。
「おっと。失敬、失敬。そろそろ昼飯時だからな」
「本人に似て辛抱強いお腹だこと」
「これは気が付かなんだ。相すまぬ。何か用意させよう」
「お?ホントか。なら俺ぁソバってやつがいいな。こないだ来た時に食ったやつは美味かったぞありゃ」
「そ、蕎麦か。うーむ」
「ちょっと。図々しいんじゃないかい?マルコシアス。私は何でも構わないからね」
「おいおい。何も昼間っから一杯やろうってんじゃないんだ。硬えこと言うなよ。なあ?」
暮雨が些かきまり悪そうに煮えきらない態度を続ける。
「う、うむ。しかしな。蕎麦は少し……」
「なんだよ。何が問題なんだ。茹でるだけじゃねえか」
「察しなよ。自分の食べる分が減るから渋ってるんじゃないのさ」
「そ、そのようなことはござらぬ!相わかった!客人に蕎麦も出せぬとあらば久慈八条の名折れよ!しばし待たれるがいい!」
「あ~あ。酷なことするねえ。あ、私はネギ抜きで頼むよ」
「へっへっへ。儲けたぜ」
「ちょいと意地汚えですぜ親父。引き下がりやしょうや」
「何言ってやがる。ここで引き下がっちゃヴァレンティーノの名折れってやつだ」
「見た感じもうポッキリいってるよ」
「おいおい、お前さんもちゃっかりご馳走になるんだろうが」
「そもそも私が贈った蕎麦だからね。切らしたらまた贈ってやるさ」
勢いよく立ち上がると、猛然と拝殿の戸を開け、どこかへと向かう暮雨。
その様子を見送りながら、エルザたちは思い思いに言葉を交わすのだった。




