黒の街 小説版 9話「ベアトリーチェ」
エルザとドロテアは、20年来の友人である。
黒の街の初等学校で席が隣だったことをきっかけに交友が始まり、大学に進学した際も、期せずして同じ大学に進んだ。
当時、18歳だった二人。
ドロテアは現在とあまり変わらないが、エルザは今の蓮っ葉な言葉使いや豪胆な態度とは打って変わって、大人しく控えめな、どこにでもいる年頃の乙女といった風情だった。
そんな二人は時に親友として励まし合い、時に学友として競い合い、時に悪友として肩を並べ、荒廃した時代の中で珍しく一点の曇りもない青春を過ごしていたのだった。
だが、事件が起きる。
それはドロテアと、ベアトリーチェ・クラウスヴェイクの出会いだ。
ベアトリーチェは、歪んだ女性だった。独善的で偏執的、気分屋で我が儘でとてつもなく飽きっぽく、また極度のサディストで人の優しさに付け入ることになんの呵責も感じない人物であり、美しいのは外見だけだった。
だがそんな危険な魅力に、学生だったドロテアは逆らえず、未成年であることを隠して不法に入店したクラブで、口説かれるがまま交際することになったのである。関係は2ヶ月と保たなかったが。
実家に学費や学業に必要な費用と偽ってまで金を無心し、ベアトリーチェに貢ぎ続けるドロテアは、日を追うごとに憔悴していった。そして、それを見兼ねたエルザが、ドロテアを伴ってベアトリーチェに別れ話を持ちかけたのだが、それが悲劇の始まりだった。
ベアトリーチェはドロテアから別れたいという言葉を聞くやいなや、彼女を激しく殴打し始めたのである。
一瞬、呆気に取られるエルザだったが、身を挺して止めに入った。
「やめてよ!!何するの?!」
間に入ったエルザに向かって、ベアトリーチェは恐ろしい形相で吼える。
「当然でしょ?!別れたい!?別れたいですって?!私は別れるつもりなんてないのに?!!別れるって何!!」
エルザを押しのけドロテアの方へ迫ろうとするベアトリーチェだったが、エルザが彼女を押し戻す。
それにカッとなり、エルザの胸ぐらを掴んで引き寄せるベアトリーチェ。
「さっきからお前は何なのよ!!お前には関係ないでしょ?!」
眼に怯えの色を浮かべながらも、毅然と立ち向かうエルザ。
「私はドロテアの友達。だから関係ないことないよ」
「……はぁ?それがなに?私たち二人の問題に首突っ込まないでくれる?!」
ベアトリーチェの血のように真っ赤な眼は危険な光を放っていたが、エルザは手を小刻みに震わせながらも目を逸らすことはしなかった。
「殴って蹴って、暴力を振るって問題を解決しようとするような関係、間違ってる。放っておけないのが当たり前だよ」
「……」
ベアトリーチェがエルザの胸元から手を離したと思うと、今度はエルザの髪を鷲掴みにした。エルザは全身をビクッと震わせる。
「お前、なんなの?すっごいいい子ちゃんじゃない。虫唾が走るわ。何が友達よ。友達だったら私たちの問題に入り込んできていいっていうの?ねぇ?!部外者のくせに!!殺すわよ!?」
「……お願い。やめて」
「やめる?何をやめろって?お前を殺すのを?それともこいつを殺すのを?!」
ベアトリーチェが、顔から血を流しながら地面にうずくまるドロテアの方を指す。
矛先が自分の方に向いたのを察知してドロテアが顔を上げた。ベアトリーチェの方を光のない目で見上げる。
「……やめて。もうやめてよトリィ。エルザは関係ないから」
「気安く呼ばないでよ!!私の物じゃないお前なんて何の価値もないんだから!!別れるって言ったくせに!!私に必要とされなくなったくせに!!ムカつくのよ!!」
ベアトリーチェがエルザから手を離す。そして、怒りに任せてリボルバー形の魔具を左右両方のホルスターから引き抜くと、何の躊躇もなく二丁拳銃の銃口をドロテアに向けた。
エルザが、ベアトリーチェに背を向ける形で飛び出し、割って入る。
「だめっっ!!!」
「エルザぁっ!!!」
数発の銃声。そして鮮血。
銃弾は、ドロテアを庇ったエルザの背中に撃ち込まれ、白いセーターをみるみるうちに真っ赤に染めていく。
「あぁああああ……っ!」
「エルザ、嫌!!エルザぁ!!」
ドロテアが、膝を付いて崩れ落ちるエルザの身体を支えた。
エルザが苦痛に呻く。
「すぐ、すぐ手当しないと……!エルザ!!しっかり!!」
声を掛け、エルザを励まし続けるドロテアだったが、そこへベアトリーチェがゆっくりと歩み寄って来る。
いつの間にか雨が降り出していた。
ベアトリーチェが静かな声で問い掛ける。
「……ねぇ、どうして?」
ベアトリーチェが、エルザに縋りつくドロテアの肩を蹴って倒し、押しやる。
「うっ……!トリィ!!やめて!!エルザに触らないで!!」
ベアトリーチェにドロテアの静止を聞き入れる様子はなく、エルザの前にしゃがみ込んだ。
「……どうしてこの娘のこと庇ったの?そんなに大事?」
エルザが、激しい苦痛に顔を歪めながらも懸命に答える。
「……大事、だよ。……ドロテアを失うのが、撃たれるよりも怖いくらい」
「へぇ?そうなんだ。……ねぇ、顔見せてよ」
ベアトリーチェが銃身をエルザの顎にあてがって持ち上げる。そこには、涙でぐしゃぐしゃになったエルザの顔があった。
それを見てベアトリーチェの顔が気色満面の笑みに歪む。
「あはぁ。いい顔するんだぁ。かーわいい」
「……うっ……く……」
「ねぇ、痛い?痛いわよね?どのくらい痛いの?死んじゃいそう?」
と、背後から這い寄ったドロテアがベアトリーチェの肩に手を掛けた。
「もう、やめてよ……トリィ」
「……うっさいわね」
ベアトリーチェは、振り返りざまに銃床で一撃を見舞う。
悲鳴をあげて倒れたドロテアだったが、ベアトリーチェはお構いなしにその倒れた身体へと蹴りを入れ始めた。
「気安く!呼ぶなって!言ってんでしょ!?もうっ!私のっ!ものじゃっ!ないくせにっっ!!」
執拗に蹴りを入れる度に、ドロテアがくぐもった悲鳴をあげる。
エルザが地面を這って、ベアトリーチェの足を掴んだ。
「やめて……!ドロテアが、しんじゃう……」
「……ハァッ、……ハァッ。あははっ、自分が死んじゃいそうなのに、まだ言うんだ」
ベアトリーチェが再びしゃがみ込み、リボルバーを持ったままエルザの両頬を掴んだ。
「エルザ、って言うんでしょ?あなた。エルザ、なに?名前なんていうの?」
「……エルザ・シュヴァリエ」
「エルザ、シュヴァリエ……。あは。ねえ、じゃあこうしよっか。あなたが私と付き合うの。そうすればやめてあげる」
ドロテアが地面に倒れたまま呻く。
「だめ……エルザ」
ベアトリーチェはそれを無視して続ける。
「どうしよっか?どうして欲しい?ねぇ」
「……付き合う。あなたと。……付き合って、ほしい」
それを聞いたベアトリーチェは、頬が裂けるほどの笑みを浮かべた。
「あっはぁ……。そっか。付き合いたいんだ。私と。……ねぇ、じゃあキスして?エルザ」
「……」
エルザの血にまみれた手がベアトリーチェの頬へと伸び、そして、弱々しく触れるだけの口づけをした。
ベアトリーチェは目を閉じ、恍惚の表情を浮かべる。
「……っはぁ。もしかしてキス、初めて?」
エルザが微かに頷く。
「あはっ。そうなんだ。キスってこうやるのよ?」
今度はベアトリーチェの方からエルザの唇を奪う。貪るような、荒々しく執拗なキスだった。
雨と共に、唇同士がたてる水音が静かに響く。
しばらくしてベアトリーチェが唇を離し、焦点の合わないエルザの顔を優しく両手で包んだ。
「……エルザ、ボーっとしてる。ごめんね、痛かったよね。すぐに助けてあげるから」
ベアトリーチェは、ぐったりと力のないエルザの身体を抱き上げた。
どこかへと歩み去ろうとするベアトリーチェを止めようと、ドロテアが力を振り絞り、鈍痛に軋む身体を起こそうとするが思うように身体に力が入らず、手を伸ばすことしか出来ない。
「……エルザ、ぁ」
ベアトリーチェの後ろ姿が雨の中へと消えていく。
二人の後ろ姿を見送るまま、ドロテアの意識は闇に呑まれた。