03 天使という絵
自分であることを確認した後、いつもならすぐに寝室を出る。
だけど、急に思い立って、ベッドの下で塊になっているタオルケットを拾い上げ、たたんだ。
シワのよったシーツを伸ばし、ベッドメイキング後さながらの状態に仕上げた。
ついで、洗濯機に投げ入れる予定だった寝巻きを綺麗にたたみ、ベッド脇に添えた。
目覚まし時計の向きを微調整し、
デスクスタンドの傘の傾きを直し、
デスクに椅子をまっすぐにしまう。
そうやって生活感がないほどに寝室を整えたぼくは、ここでやっと寝室を出て、隣にあるアトリエへと向かった。
ぼくはいつだったかは覚えてないけど、突然絵の才能に目覚めた。
主に描いているのは、ぼくが住んでいる町の夜景だ。
今は一応『名の知れた画家』として活動している。
『名の知れた画家』というのは、文字通り、名前しか知られていないからだ。
人を避けて暮らしているぼくが画家であることを知っているのは、両親とその使用人くらいしかいないだろう。
そもそも、ぼくの存在を覚えているのも、両親とその使用人だけかもしれない。
そんなぼくも元々は、丘上の好立地に住むことを許されたお金持ち、『丘族』の出身だった。
父は、ぼくが生まれた頃からおそらく約二十年来町長を務めており、ぼくはいわゆるぼんぼんである。
両親も同じ丘に住んでいるけど、ある時からは訳あって、ぼくはこの家で一人別居している。
常に一人を好み、人との接触を完全に避けた日々を送ってきた。
そんなぼくの活動場所。
大きな窓のあるアトリエの真ん中には、キャンバスの載っていないイーゼルと腰掛椅子が置いてある。
壁には色ごとに分けた絵の具のチューブが並び、上の棚には未使用のキャンバスと製作途中の絵が立てかけてある。
完成した絵は、玄関脇の箱に入れて合図を送れば、両親の使用人が回収してくれるシステムになっている。
だから、完成した作品は『ある一つの作品』を除いてここにはない。
その作品をぼくは『天使』と呼んでいる。
題材は昔死にかけた実体験。
現場は家の真下にある大きな池だ。
ある晩、池で溺れかけている時、ぼくはとある女性に助けられた。
その時は、意識が朦朧として視界が揺れていたから、どんな女性だったのかは今も昔もわからない。
彼女の姿を思い出そうとすると、いつも決まって頭に思い浮かぶのは天使の姿。
彼女がぼくに触れている時、ぼくは今までに感じたことのない安心と、自由と、幸福を感じていた。
他人と触れ合って、これほどまでに心に平和が芽生えたのは彼女だけだった。
この体験は今でも強烈な印象を残している。
ぼくはそんな天使の存在を毎日そばで感じられるようにと、この体験を絵という外部記録媒体に保存した。
そして今日、このアトリエに来たのは、『天使』に最期の別れを告げるためであった。
ぼくは保管箱から『天使』を慎重に取り出し、イーゼルに載せた。
イーゼルに載った『天使』と向き合うように椅子に座り、右手で『彼女』に触れる。
目を閉じると、あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
水面の揺れる音。
風に揺れる草木の音。
月明かりの仄暗さ。
ぼくの顔をのぞき込んでくる、霧がかった彼女の顔。
そんな彼女を記憶の中で見つめていると、彼女が絵に描いた天使へと変貌していく。
その天使に見つめられている間、天使を見つめている間、羊水に浸かっているようなイメージがぼくの中で湧いてくる。
自分の存在が広がっていくような、無になっていくような感覚に包まれる。
ぼくはその感覚を味わい尽くし、目を開けた。
「ありがとう……」といった。
そして、「さようなら……」といった。
ぼくは絵から手を離した。
いつもなら『天使』を保管箱に戻すところを、今日はイーゼルに載せたままにした。
保管箱という窮屈な暗闇に、彼女を永遠に閉じ込めたくはなかった。
これがぼくが最期にできる、ぼくなりの『天使』への恩返しだった。
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