さらば、愛しき魔王
この街に来るのは30年ぶりになるのか。俺は龍騎から颯爽と降りた…つもりだったが膝からグキと音がして、痛みでその場にしばらくうずくまる。次からはそっと降りることにしようと決めた。
街の入り口には『始まりの街』と看板がある。懐かしさに涙が出そうだ。
「ハーツ、勇者ハーツか?」
どこかで聞いたこの声。そうだ、戦士バロンだ。俺は振り向いた。
「あれ?」
バロンはどこだ。一般人の倍以上ある肩幅と、真四角の頭に真四角の鼻、誰よりも太い筋肉の鎧を腕に纏っていた戦士だ。この俺が最も頼りにしていた男、バロンは…
「ハーツ、久しぶりだなあ」
目の前のハゲ親父が俺を見て眼を潤ませている。
「…バロン?お前なのか?」
俺は羽織ったマントの端で眼をこする。老眼が進んで目の前の顔がよく見えない。
「ハハハ、悪いな。冒険をやめたら身体がしぼんでな」
すっかり身体の厚みがなくなった只のオヤジが、バロンの声で喋った。
「で、どうした。お前は王都で隠居したんじゃないのか」
「うむ。だがお前も聞いただろう」
俺はグッと拳を握って腰に当てる。
「おい。まさか」
バロンが眼を見開く。
「新しい魔王が大陸の北に現れた。魔王を倒すのは勇者の役目だ」
呆れたようにバロンが手を振って、苦笑いをする。
「お前…。なあ、確かええと…軍…いや、新しい勇者もたくさん派遣されたそうじゃないか。何でお前も行かなくちゃならないんだ」
「だから言っただろう。魔王を倒すのは…」
「勇者の役割かもしれんが、それは若い勇者達に任せておけ。悪いことは言わん。他人のことは言えんが、お前も老けたぞ。お前さっき馬から降りたとき、膝を痛めただろう」
俺はキッとバロンを睨みつけた。
「そ、そんなのはささいなことだ、戦士バロン。お前こそ、なあ、お前は稲妻の速さと鋼鉄の身体を持つ王国の楯、超戦士バロンではないのか」
「それは30年前の話だろ。今はその辺の子供にも追いつけない。女房に背中を叩かれて痛みで涙ぐんでる。ついでに最近腰が痛くて散歩は三日に一度にした。それから咳も止まらん」
バロンは身振り手振りで笑って話した。何故こいつはそんなに笑っていられるのだ。俺たちは魔王を倒す無敵のパーティではなかったのか。
「バロン、もう戦士ではないバロン。見損なった。たとえ身体は老いても心は戦士のままだと思っていたのにな」
バロンが憮然として俺を見る。
「それはお前が成長しないということだ。なあ、ハーツ。人は変わっていくものだ。いつまでもこうであってほしいというお前の願望を人に押しつけるな」
「…残念だ、バロン。旅を共にする戦士はお前しかいないと思っていたのだが」
「ああ、悪かったな。他を当たってくれ」
もはやバロンの表情には最初に再会したときの喜びはない。俺はため息を吐いた後、取り繕うように言葉を絞り出した。
「…冒険の仲間ではなくなっても、いつまでも俺の友人でいてくれ、バロン」
俺の言葉にバロンの返事は冷たい。
「わかった、わかった。心の友でいいぞ。もう来ないでくれ」
「…ハーディは何処だ」
バロンもまたハアとため息をつく。
「酒場にいると思うが、会わないほうがいいと思うぞ」
酒場の場所は何とか覚えていた。懐かしいこの酒場…俺たちは冒険を繰り返してはここで笑い合い、励まし合い、時にはケンカをして絆を深めた。そしてついには俺が勇者の剣を得て、魔王を倒すまでになったのだ。
俺は酒場の扉を開けた。
喧噪が待っていると思ったのに、至って静かで薄暗いバーだった。落ち着いたスタンダードジャズが低く響いている。
俺はあちこちを見回した。老眼の上に暗いところでの視力も弱くなっているので、様子が判らない。近くの若いカップルが俺をまじまじと眺めた。場違いな扮装とでも思っているのだろうか。
「勇者ハーツ」
背後に覚えのある気配を感じた。
「ハーディ、ひさしぶ…うがっ」
振り向いたらいきなり顔面を殴られた。
「何しに来やがった。どの面下げて」
魔法使いハーディだ。だが魔法使いのローブは着ていない。上下黒のスーツだ。
「魔法使いハーディ、いきなり何をする」
「外へ出ろ。店の迷惑だ。俺は雇われで用心棒もやっている」
ハーディが凄んだ。
「俺は客だ。水割りを一杯持ってきてくれ。お前に殴られた口の中を消毒する」
俺は近くの椅子にマントを翻して座ると、勇者の剣をテーブルに立てかけた。
口の中で血が流れ鉄の味がする。頬をさすりながら、俺はハーディに席を勧める。
ハーディはしばらく睨んでいたが、長い息を吐いてから俺の横に座った。
「迷惑なんだ。お前はここをまだ冒険者が集う荒くれ者の酒場だと思ってるだろう」
「八百屋や魚屋だとは思っていない。酒を飲ませる場所だと思ってる。間違ってはいない」
俺がすぐに立ち去る気がないのを察すると、ますますハーディの眉間に深い皺が増えた。
「お前はパーティ全員を捨てて、王都で出世する道を選んだ。俺たちはもう違う世界にいるはずだ」
「新しい魔王が大陸の北に現れた。お前もついてこい」
俺が用件を言うと、ハーディはテーブルの下で俺の脛を思い切り蹴飛ばした。
「痛ててててっ」
「勝手なことを言うな。俺たちを用済みとばかり置き去りにして出て行ったくせに。バロンは人がいいからお前のことを悪く言わないが、俺は許してないぞ」
俺はニヤリと笑った。
「フフン。そのくらいお前は俺を求めていたということだな。遠慮はいらん。新しい冒険の旅にお前も連れて行ってやる。早く支度をしろ」
ドカッ!と大きな音がしてテーブルがひっくり返った。
「うわっ、何をする。まだ水割りは一口しか飲んでいないぞ」
「てめえ。早く出て行け!」
ハーディが立ち上がって怒鳴った。
俺も立ち上がって怒鳴り返す。
「30年前だったらお前は水魔法か風魔法で俺を吹き飛ばしていたんじゃないのか。情けないぞ、王国の大魔法術士ハーディ!」
急にハーディが真顔になり、俺を見つめる。
「本当にお前はそう思っているのか。魔法を信じる人間がいなくなって、魔法使いは絶滅した。勇者も戦士も神官もすべて同様だ。人々の信じる心が冒険者のパワーだったはずだ。もう世界に冒険者などいないぞ、ハーツ」
「俺がいる。勇者ハーツがいて、魔王がそこに現れた。俺は戦う」
ハーディの顔つきは暗いままだ。
「俺の魔法は消え去った。だが、お前は俺に殴られ、脛を蹴飛ばされた」
そう言って俺の頬をもう一度拳骨でぶん殴った。
「ぎゃっ」
俺はもんどり打って床に転がった。
「非力な魔法使いに腕力で勝てない勇者が今のお前だ。もう時代が違うんだ。とっとと王都に帰ってお前をおだててくれる人間に囲まれて暮らせ」
そう言って、ハーディは倒れた俺の脇腹を思い切り蹴飛ばした。
「うぐっ」
「おい、こいつは無銭飲食だ。…まあいい、一杯は俺が奢る。営業妨害だ。外へつまみ出せ」
若い店員達に指示をするハーディの声が上の方で聞こえた。
「うぐぐぐ」
体中が痛い。俺はゆっくり立ち上がって、土埃を払った。
この道を真っ直ぐに行けば…そうだ、教会があったはずだ。
神父がいればそこで癒やしをもらえる。脇と脛と口の中の怪我を治して貰おう。
くそう、ハーディのやつめ。油断した。仲間だと思って気を許したのが間違いだった。
ヨタヨタと歩いて教会の入り口まで辿り着いた。俺はそこでやっとある可能性に行き当たった。
ここにはモニークがいるかもしれない。ああ、モニーク。俺の心は甘酸っぱい気持ちで満たされる。モニークは冒険者パーティで唯一の女性メンバー、そして超一流の癒やし手であった。女性神官は恋愛が許されていなかったので俺たちが結ばれることはなかったが、確かに俺たちの間には強い恋愛感情があった。
ああ、会いたいなあ、モニーク。
「おーい、開けるぞ。教会の方、誰かいませんか」
口の中が痛むのを我慢して呼びかける。
「はい、どなたですか。一般の方のお祈り時間は終わっているのですが…」
中から出てきたのはふくよかだが上品な中年女性だ。
「…あなたは」
「?」
次の瞬間、俺は理解した。モニークだ。彼女もこの地に留まって教会に勤めていたのだ。何と運命的なのだ。
「モニーク!俺だ!ハーツだ。勇者ハーツだ!」
次の瞬間銃声が響いた。俺の足下に銃痕の穴が開き、煙があがった。
「うわっ」
「出て行きなさい」
モニークが短銃を手にこちらを見ている。眼には何の感情もない。
「どういうことだ、モニーク。王国の聖女モニークよ」
モニークは俺の言葉に何の反応も示さない。顔は氷のように冷たく固まっている。
「そんな人物はいません。すぐに街から出て二度とここに来ないと約束しなさい」
「なぜだ。俺が君を捨てたと思っているのか。教義だったから仕方なく別れたんじゃないか。俺はずっと君を愛していたんだ」
俺の言葉に苛立つとか怒るとかそういうこともない。ただただ無表情のモニークは弾丸を二発放った。一発は俺の太ももを、もう一発は右手の甲を貫いた。
「ぎゃああっ」
俺はその場にうずくまって喚いた。
「頼む。癒やしてくれ。この傷を治してくれ。この足では大陸の北に現れた魔王のところに行けない。この手では聖剣が持てない」
ようやくモニークは無表情から冷たい笑いを浮かべた。
「そんな都合のいい治療はないわ、ハーツさん。いつの時代の話をしているの?大陸の北に現れたのは魔王ではなくて隣国の機械化師団よ。帰りなさい。冒険者の時代は30年前に終わったのよ」
彼女は近くの木の椅子を持ち、俺の背中を力任せに横殴りした。
「ぐわああっ」
私は転がって、彼女の狙い通り教会の玄関外へ叩き出された。
「ハーツさん、ひとつだけ訂正しておきます。私がまるであなたに惹かれていたかのように仰いましたが、まったくの勘違いです。出来たら王都で楽な暮らしがしたかったというだけ。あなたは昔から今に至るまで、すべてをずっと勘違いしてるのね」
教会の厚い扉が閉まる音がした。
「よお、気がついたか」
ハゲ親父のバロンの顔がそこにあった。
「だから言っただろ。誰にも会わない方がいいぞって」
「…バロン」
粗末な部屋の木のベッドに俺は寝かされていた。
「ああ、まだ動かんほうがいいな。ビックリしたよ、ハーツ。お前血だらけで道に倒れてたらしいからな。俺に知らせてきた街の奴がいたんで助けに行ったんだ」
足と手が猛烈に痛む。
「すまん。バロン」
「気にするな。場所から言うと、お前教会に行ったんだろ。駄目だよ、そりゃ。モニークの30年分の怒りだからな。殺されなかっただけ運が良かったと思えよ」
バロンはそう言いながら右手の包帯を取り替えてくれた。
俺は声を振り絞る。
「ハーディにしろ、モニークにしろ、それからバロン、お前だって俺を恨んでいるのは仕方ないんだ。それは仕方ない。でもそれよりショックなのは誰ひとり魔法も癒やしも必殺技も使わないことだ。いや、使えないんだ。俺たちの時代は何だったんだ。冒険と魔法の時代は何処へ行ったんだ」
返事をしないバロンに俺はなおも呟く。
「なあ、バロン。本当にあったのかな、あの冒険は?俺たちが魔王を倒したのは夢だったのかな?」
1週間ほど寝込み、まだ身体のすべてが痛む状態だが、俺はバロンに礼を言って街を出た。大陸の北に行くのはひとまず延期し、もう一つの思い出の地『破滅の村』へと向かった。
俺の記憶が正しければ、奴がそこにいるはずだ。
村に入って、まだ思うとおりに動かない身体を無理矢理に操る。
「うぐぐ」
さびれた村の小さなメインロードを俺はヨタヨタとゆっくり歩く。小さな村の小さな居酒屋がそこにあった。俺は痛む右手と杖で身体を支え、左手でようやくドアを開けた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
元気のよい少年給仕が俺を迎えてくれた。
「ああ、一人だ。こんなだから座って飲ませてくれ」
立ち飲み席が多い居酒屋だが、テーブルもいくつか空いていた。
俺はそこに座って、周りを見回す。広くない店内に十数人の男達がいた。
「いた」
俺は奴を見つけた。カウンターで周囲に喚き散らしながら飲んでいる。
「てめーら!なめんなよ!儂の地獄の火炎で黒こげにするぞ!」
ほんのわずかだが何かを言うたびに口からポッとロウソクの十分の一ほどの火が出ている。ささやかだが火炎を出しているのだ。
「うるせーな、じいさん。大声出すなよ」
彼は周囲に注意されてさらに声を荒げる。
「何を!人間風情が!」
俺は胸を熱くしながらその老人に話しかけた。
「魔王アモン、久しぶりだな」
俺の呼びかけに奴は一瞬身体を硬くし、それから振り向いた。
「むう、お前は…」
俺をじっと見る。
「誰だっけ」
俺はガッカリしてアモンに怒鳴る。
「忘れたか!お前の天敵、勇者ハーツだ!」
「何を!ハーツがこんなところにいるわけが…お前ボロボロじゃねえか…うん?」
それから眼をカッと開く。
「おおっ、ハーツ!こんなところで会うとはな。ムハハハハ。飛んで火に入る夏の虫だ!」
だがそれからまじまじともう一度俺を眺めて首を捻った。
「むう。それにしても傷だらけだな、まあいい。今日こそ30年前の決着をつけようぞ!」
「もう決着はついている。お前は俺に敗れ、能力を封印されたはずだろう」
「何をうっ!まだ儂は負けておらんわいっ!」
俺たちは店の真ん中で睨み合う。
店主がウンザリした顔でやってきて、俺たちに言った。
「お客さん、口から火をチョロチョロ出したり、怒鳴り合ったり、他のお客さんの迷惑なんです。店の外でやってくれませんか」
魔王アモンが怒鳴る。
「何だと!この魔王アモンに指図をするか!たかが人間のくせに!」
俺も怒鳴る。
「勇者ハーツにその口の利き方は何だ!頭が高い!」
店主が顔を顰めて、店の奥にいる若い男性店員二人をチラリと見た。
逞しくて若い店員二人は店主とアイコンタクトを交わすと、頷いてこちらへやってくる。
「お客さん、出てって貰います」
「何をする!」「やめろ!俺に触るな!」「こら!天罰を与えるぞ!」
二人で喚くが大柄な店員達に抱えられて俺たちは店の外に放り出された。
「くそうっ!」
魔王アモンが立ち上がって俺と店のドアを交互に睨み、少しだけ大きくした炎を口から出した。
「アモン、お前はまだ戦っているのか」
俺も杖をついて立ち上がり、魔王アモンに問いかけた。
「何を言っておる。儂は何百年前からずっと魔王アモンじゃ!一時お前などに不覚を取ったが、必ず復活してみせる!お前らなど地獄の底、恐怖の坩堝に落としてやるわい!」
言葉とは裏腹に口の炎はチリチリと小さくなって、プシュウと煙が出て消えた。
「くそおおっ!今日は調子が悪い。だが三百年前くらいにこのくらい不調だったこともあるから、大したことではないぞ!」
言い訳じみた解説をした魔王アモンは外に出してある店のゴミ箱を思いっきり蹴飛ばした。
「こらあっ!まだいたのか!お前ら!」
店の扉が開いて店主が顔を出す。
俺は驚いて魔王を振り返ると、すでに奴はいなかった。
酒場の店主に殴られてさらに腫れた顔をさすりながら、翌日俺は村の出口にいた。片手片足で竜馬に乗るのはやはりスリリングだ。それでもよく調教された竜馬は俺に素直に従ってくれる。
「とりあえず帰るか。それとも大陸の北に行くか」
迷う俺の目に奴の姿が入った。
「アモン!」
魔王アモンが村の出口に立って、俺を睨んでいた。手には地獄の戦斧と俺たちが呼び怖れた武器を持っている。
「フハハハハ。ハーツよ。我が好敵手よ。我が輩はこの不調を早々に克服して大復活を遂げ、人類を再び恐怖に陥れる。お主もまずは体調を整え、出直してくるが良い」
眼を光らせ、わずかな炎を吹き出しながら魔王アモンが俺に言った。
俺は決心を固め、微笑んでアモンに言う。
「悪いな、アモン。俺はこれから大陸の北に向かう。こんな身体だが俺は行かねばならないのだ。人々を襲う脅威がある限り、勇者は行くのだ」
「行ってしまうのか、ハーツ」
魔王がどこか寂しそうに言った。
「ああ、行くよ。アモン」
俺も言った。
俺が村の出口から少し離れた丘まで行って振り返ると、魔王アモンはずっと先ほどの場所でこちらを見ていた。
いつまでもいつまでもそこに立って俺を見送っている。奴は何を思い、そこにいるのだろう。
何故か涙が止まらなかった。きっと奴もそうだ。
俺は何度となく振り返っては魔王の姿を確認し、真っ直ぐ北へ進路を取った。
読んでいただきありがとうございます。物悲しい話になってしまいました(笑)。無敵の主人公の話には感情移入しにくい自分を振り返りながら、あっという間に書き終わりました。自分的にはいい出来です。