1 素人は迂闊に入学する
さっきまで何も感じずに歩いていたこの光景。
思い出した今は違和感しかない。
ブロスキット公爵の娘であるジルベルダは、自分の頭に流れ込む別の記憶を走馬灯のように見ていた。
ここは妹がハマっていたゲームの世界だと、脳内再生された妹の声で知った。
『お姉ちゃん、この学園の門が開かれる瞬間の!! ほら、ここ見て門だけ私の高校の門に似てるのよ』
強引に見せられた記憶が甦る。
ああ、ここはローレンス学園の正門前。
開かれた門扉に、大勢の一年生がくぐっていく。
なんでこんな事になったのだろう?
百瀬鈴子はOLで、同じ社内の営業課の男に5股を掛けられていた。
「どういう事なの?」と男に詰め寄ると、あっさり浮気(五股)を認めた。
なのに、あの男は謝るどころか「君も一人って絞らず、もっと遊んだ方がいいよ」とこの状況下でホテルに連れ込もうとする。
鈴子は男の手を振りほどいて逃げた。
そのまま家にも帰らず、やけ酒をしこたま飲んで・・・。
赤信号の交差点に飛び出して、車にはねられた。
そして、最後の言葉が『浮気は嫌、私だけを愛して・・』だった。
(ううう、悲しすぎる・・。前世は浮気されたけど、ここでは真面目な身持ちの堅い男の人と一緒になりたい!!)
しかし、百瀬鈴子は重要な事を知らずにいた。
彼女、ジルベルダはこの世界「ラブミッション・スクール」の悪役令嬢だと言うことを。
それも仕方のないこと。
妹がしていたゲームを彼女は殆ど見ていなかった。
そして、彼女自身、乙女ゲームをしたことがない全くのド素人。
これから何が始まるのか全然知らないのだ。
そして何も知らない彼女は、重厚で美しい学園の建物を無防備に見入っていた。
(ああ、この建物見たことあるわ。初めて来たのに知ってるなんて面白い感覚だわ)
足を止めたジルベルダの背中に、一人の女性徒がぶつかった。
「ああ、ごめんなさい。つい止まってしまって・・。お怪我はないですか?」
ジルベルダが尻餅をついている女性徒に手を差し出した。
目が大きく、潤んだ紫の瞳が庇護欲を掻き立てる可愛らしい女の子。
「え? ごめんなさい? どういう事? 台詞が全然違うじゃない!! ちっ! バグってる?」
今、舌打ちされた?
愛らしい女の子は、態度がかなり悪い。
しかもジルベルダが理解出来ない言葉を並べ立てる。
「でも、いいわ。私のようにやり込んだ人間なら、少しの誤作動は対処できるもの」
ピンクの髪はふわりとカールし、紫の瞳は急に激しく潤み、涙がポロリと流れた。
慌てたジルベルダはハンカチを取りだし、泣いている女性徒に何度も謝る。
「ごめんなさい。怪我をしたのかしら? 絆創膏もないし・・・。そんなにも痛かったなんて。誰か保健室を知りませんか?」
ジルベルダは自分のせいで、怪我をさせたとあたふたと鞄を開けて、絆創膏を探す。
「絆創膏ってそんなのここにはないはずだわ・・・。もしかしてあなたって・・」
ピンクの髪の女の子が目を瞪る。
「そこで、君達は何をしているんだ?」
声がした方をジルベルダが見ると、髪は緑、眼鏡の奥に光る灰色の眼差しは神経質そうな男性が睨んでいた。
「あの・・私が急に立ち止まったから、彼女が私の背中に・・」
ジルベルダは今の状況を説明しようとしたが、ピンクの髪の女の子によって全く違うシチュエーションに変えられてしまう。
「ぐすん・・怖かったぁ・・この女性に押されて怪我をしたのぉ」
ピンクの髪の女の子は、先程までの態度を一変。
急にしおらしく、儚げな感じになった。
彼女のあまりの豹変ぶりにジルベルダは呆気に取られ、否定が遅れてしまう。
そう! 否定しなければ、ピンクの髪女の子の話が肯定される。
眼鏡の男子生徒は顔を顰めた。
「私は今日からこの学園に入学する、ベニート・アバーテだ。この学園でそのような行いは許さない」
ピンクの髪の女の子は目を細め、思いどおりの成果が得られたことを喜ぶ。
(やっぱり、最初はベニート・アバーテ様が現れたわ。ゲーム通りよ。侯爵家の次男で、成績優秀。彼は婚約者を疎ましく思っている。つまり彼を攻略するには、婚約者のクラリッサ・ガスコ伯爵令嬢とは全く反対の性格を演じればいいのよねー。楽勝だわ)
心で余裕の舌だしをしても、演技を忘れないピンクの髪の女の子。
彼女はこのゲームを何度も周回して、全てのルートを網羅している転生者の猛者だ。
名前はモニカ・アイマーロ。
そう、彼女こそこのゲーム『ラブミッション・スクール』のヒロインなのだ。
平民から男爵の養子になり、16歳でこの学園に入学してきた。
「私はアイマーロ男爵の娘のモニカ・アイマーロです。・・ベニート様ぁ、助けて下さってありがとうございますぅ」
甘ったるい声で、瞳を潤ませて少し小首を傾げた。
そして、わざとふらついてベニートに寄り掛かった。
「ああ、ごめんなさい。私ったら」
ベニートの頬が微かに赤くなる。
「大丈夫かい? 私が保健室まで送って行こう」
ベニートはモニカをお姫様抱っこで、さっさと立ち去った。
「今のは何? 私は何を見せられたの? って言うか、よく考えたらモニカって子、自分から私の背中にぶち当たっておいて、私に押されたとか・・何で嘘をついたの?」
ジルベルダは、我に返ると目の前で起きた理不尽極まりない、二人のやり取りに、今更ながら腹が立ってきた。
「おはよう、ジルベルダ。えらく息巻いているけど・・・どうしたの」
ジルベルダに優しく微笑みながら、トマスが近付いてきた。
トマス・ド・コルトはコルト王国の第2王子で、ジルベルダの婚約者でもある。
そして、彼も16歳で一年生。
金髪のストレートヘアーをかきあげて、エメラルドグリーンの瞳を辺りの女子に向ければ、歓喜の悲鳴が上がった。
「おはようございます、トマス殿下。いいえ、少し取り乱しましたが、殿下がお気にされるような事柄ではございませんわ」
さっき、大量に前世の記憶が流れ込んできたが、ジルベルダは長年鍛えた王子殿下の婚約者になるための教育が染み付いている。
先程の動揺は覆い隠し、いつものジルベルダに戻った。
「私の可愛い婚約者さん、一緒に講堂に行こう」
トマスは目を細めて、ジルベルダの手を取り、講堂へ足を進めた。
ジルベルダはこの美しく優しい婚約者が好きではあったが、いつも違和感を感じていた。
だが、それが何か分からず焦っている。
この違和感は年を追う毎に大きく膨らんでいくが、違和感の正体が分からないジルベルダには為す術がない。
トマスから伝わる温もりで、不安を消そうと彼の手を握りしめた。
その頃、モニカと一緒に保健室にいたベニートは、そこを婚約者であるクラリッサ・ガスコ伯爵令嬢
と鉢合わせになった。
「ああ、ベニート探したわよ。さぁ、講堂に行かないと入学式が始まるわよ」
おおらかなクラリッサは、ベニートが保健室で他の女性徒と二人っきりでいたところを見ても、気にする様子もない。
「・・・あのぉ・・・ベニート様ぁ・・私はもう大丈夫ですぅ・・・なので入学式に出て下さい」
両手を胸の位置で組み、祈りのポーズで、ベニートを入学式に行かそうと促す。
「君を一人置いて、式に出れないよ」
ベニートがモニカの側に残ろうとする。それをクラリッサが笑い飛ばした。
「ベニート、大丈夫よ。もうすぐ保健室の校医も戻ってくるでしょう。心配症なんだから!!」
アッハハハハと豪快に笑いながらクラリッサはベニートを引きずって講堂に行ってしまった。
保健室で一人になったモニカ。
「ふー。ベニートが一緒にいたらこのキャラ続けなきゃなんないじゃないの。クラリッサが連れてってくれて助かったわ」
安堵の息を吐くと、ベッドにゴロンと寝っ転がった。
「イベントのない入学式に出てもつまんないから、ここにいようっと。それにしても、ベニートの好感度爆上がり過ぎ。もう落ちてるわよね。もっと私を好きにさせて、クラリッサを捨てさせないと!! あー早く会いたいなぁー。トマスおうじさまぁ」
モニカは獲物を狙うように唇を舐めた。