猫に腕毛
ある晴れの日。散歩の最中、いつの間にかオレの右腕には、まったく見覚えのないキジ猫が一匹、その全身を使ってしがみついていた。そしてそのキジ猫は、オレの腕毛を咥え、むしゃむしゃと口を動かしていた。
「なんだこの猫。こら、離れろ。」
当然オレは猫を引き離そうとするが、まったく無意味はなく、ビクともしないのである。キジ猫は余裕綽々そうな顔をしながら、黙ってオレの腕毛をしゃぶっている。
「くそ、離れろ。」
次にオレは右腕を振り回してもみたが、やはりこれも無意味で、腕にしがみつく四足のうち一側すらも滑ることがない。腕が振り回されるたびに猫の毛はなびき、その分の負荷が加えられた腕毛にかかってしまうのでオレは却って痛い目をみることになった。
「……もういいよ。そんなに美味いならずっとしゃぶってな。」
「美味かないよ。」
その声は確かに、オレの右腕にしがみついているキジ猫の口から聞こえた。
「マジかよ。この猫、疲れてるのかもな。」
「そう思いたいのは分かるけどよ、いいか、俺だって好きでこうしてるんじゃないんだ。まして野郎の毛を味わっているなんて誤解は不愉快極まりない。そこんとこ、俺のことも分かっとけよ。」
そう言う猫の口は、喋りながらもオレの腕毛を放していなかった。まだまだオレの腕毛を味わい足りないのだろうか。
しかし驚くべきことだ。喋る猫だなんて童謡みたいじゃないか。それにしては口も悪いし、キジ猫と柄がありきたり過ぎるかもしれないが、とにかく人間の言葉をここまで自由に操ることができるのは尋常でない。
「というか随分喋るのがうまいな。それに何かものを口に咥えながら喋るなんて中々できることじゃない。いや、行儀が悪いからとか、そういう皮肉じゃない。」
「前のご主人が暇の有り余った人でな。よく一緒に遅くまで腹話術を練習したもんさ。」
「へえ仲良かったんだな。他にも遊んだんだろうな。猫じゃらしとかボールとか……ってそんな普通な遊びはしないのかな。腹話術をやってたくらいだもんな。」
オレがそう言うと、急に猫が口の動きを止めた。
「ああ、普通ではなかったな。……自分から始めといて悪いが、ご主人とはいい別れ方をしてないんだ。すまないが、もうあまりこの話はしたくない。」
「そうか。それは悪かった。」
しばらく沈黙。次第に猫の口はまたもぐもぐ動き始めていた。
「それやめてくれないかい。引っ張られると痛いし、あと単純に嫌だ。」
「なんだ、お前これ嫌なのか。」
「そりゃそうだろう。だからこそあんなに振り回してたんじゃないか。」
「そうじゃない。俺だって気づいてたさ。お前が、まっとうに猫を怒ることができるタイプだってことくらい知ってたよ。」
「じゃあすぐにやめてくれ。」
「ただな、お前ぱっとみ根暗だからよ。少しでも言葉を交わした猫なら許してくれる、どこかずっと相棒探してます系の人間だと思って試してたんだが。だけど違ったみたいだな。こんなにハズしたのは久しぶりだよ。」
「何意味の分からないこと言ってんだ。早くどけ。」
オレの話を聞いているのか聞いていないのか、猫の腕毛食いは終わることを知らない。それどころか、新たな問題をふっかけ、オレの気を逸らそうとしだしたのだった。
「ところで、処女の逆ナン狐の嫁入りって言葉、知ってっか。」
オレは一瞬、このキジ猫に何を言われたのか認識できず、まったく反応がとれなかった。だが猫は構わずに続けた。
「つまりな、それ以降はぜんぶ夢、ぜんぶ嘘って意味さ。」
語りながら猫の口からはよだれが溢れだし、腕毛からオレの右腕を伝ってきた。
「オレの気を逸らそうたって無駄だぞ。」
「気を逸らす? 気を逸らしてまでして俺のやることって何だ? そんなことしなくたって俺のやることは決してお前に邪魔できない。さっきまでので腕力勝負はついているだろう。」
一体この猫の情緒はどうなっている? まったく急に突き放された気分だ。挨拶を済ませ、その後少しだけだが自身の過去を明かし、そうまでした相手に今度は脅迫まがいな文句を垂れ始めたのだ。オレはこれまで、脅迫というのは完全なる初対面か、あるいは長期的に付き合った末に脅しのメリットを見出しているかしなければ発生しないと思っていた。しかしこの猫はそんな人間関係の定石など軽々超えてしまい、出会って会話もそこそこという最も微妙なタイミングでの脅迫に成功した。
それとも人間同士であっても、たとえば腕力によって上下関係を決定し、それを心の内に秘めながらも付き合いを続けるものだろうか。こう言い直してみると、まったく自然のことのように思える。つまり猫の行った脅迫というのは、あくまで俺と猫、両者間の現状を分かりやすく直接的に述べたに過ぎないわけだ。
だがそれでも、人間ならばあえて心の内の上下関係を打ち明けることはない。仮に不愉快な行いに格下の相手を黙らせようと思っても、表情やなんかで遠回しに伝えて相手にそれを感づかせるくらいの配慮はする。それでも相手が気づかなかった場合にのみ、直接的な手段は用意されているのだ。
今回の件、猫による突然の脅迫というのは、結局のところ自分の強さを見せつけるのが性である動物、とりわけ猫がであったがために起きたことであって、この脅迫文の内容は、夜中よく耳にする「シャー」とか「グワニャー」とかと変わりがないのだ。
猫の脅迫を受け、およそ二秒間のうちにこの思考がオレの脳を巡った。しかし残念ながら、オレの口は脳みそほどスムーズなつくりにはなっていないのだった。それはちょうど、字が汚いのは頭の回転が速いせいだという迷信によく似ていた。
「お前の情緒はどうなっている。それとも人間同士であっても腕力による上下関係を遠回しに伝える直接的な手段は用意され、結局お前はシャーとかと変わりがないそれは字が汚い。」
「……で、何が言いたいんだ。」
「とにかくオレの腕から離れてくれってことだ。」
ひどく恥ずかしい思いをしたものだ。あの失態を聞いている相手が猫であるのも一役買って、オレは人間としての自信すら喪失しかけた。
「うん、わかったよ。」
オレは自分の耳を疑った。どんなに振り回しても、何回頼んでも降りてくれなかった猫の口から、了承の言葉が返ってきたのだ。しかも今度はちぐはぐなこともなく、猫は自分の言ったことを実際に行動へ移した。つまりオレの右腕はついに解放されたのだ。
「なんか、ごめんな。じゃ。」
そう残してキジ猫が足早に去っていくと、自販機の下や電柱の陰から何匹の猫が飛び出し、その先を走るキジ猫と合流を果たした。猫の大群がオレの目の前から消えるのは一瞬だったが、どうやらその中心にいたキジ猫はみんなに向けて何かを喋っているようだった。むろん猫同士の会話のため、人の言葉でなく猫の鳴き声である。
オレは終始いい気分がしなかったが、こうして終わってみるとお腹が空いていることに気づいた。時間はもうすっかりお昼時である。このままどこかで食べて帰ろう。とびきり美味しくて快適で、そしてペット入店禁止の店がいい。