結婚式のバイト3
夏特有の長時間勤務に耐え抜いた真っ赤な恒星は、いよいよその身を休ませんと、やってくる闇と共に姿をくらませようとしていた。
しかし、そこは流石天の川銀河最大の物体。
サービス残業とでも言わんばかりに残存エネルギーであるオレンジ色の光線をこれでもかと東京湾に振りまいている。
浴びた光を照り返す海面はキラキラとダイヤモンドように輝き、仮にとは言え、それは結婚式を執り行う僕達に対する無言の祝福の言葉のようだった。。
ウェディング体験も終盤に近付いていた。
あの後、ハルがドレスアップを終え、ウェディングドレスの格好で化粧室から出てきたその後。
僕達二人はウェディング体験のメインイベントである、教会での挙式を行った。
普通にクラシカルな音楽と共に礼拝堂へと入場し、普通に誓いの言葉と指輪の交換を済ませ、最後に誓いのキスのふりをして退場。
とても一般的でプロトタイプな挙式。
それらはしめやかに執り行われ、無事体験者としての責務を果たすことができた。
うん。できたはずだった……。
のだが、
「何でハルはあそこで僕を押し倒したのかな?」
船のデッキへと続いている螺旋階段を登りつつ僕はハルに尋ねた。
船のデッキ——本日最後のイベントは、夕暮れ迫る東京湾をバックにした花嫁花婿姿での撮影ということになっている。現在はそのデッキに向かっている最中だ。
「スタッフさんに言われたよね?写真をパンフレットに使うかもしれないからキスはしなくていいって」
そっぽを向いてこっちを見てくれないハルに僕は更に詰問する。
誓いのキス……のふりをする際、ハルはどうしたことか突如僕の腰に腕を回してきて、そのまま近くにあった長椅子に僕を押し倒してきた。それも他の体験者の皆様方、及び牧師の前でである。
押し倒され、迫ってくるハルを仰向けの体勢で見上げると、ハルは口からその艶めかしい舌を出していた。口と口が触れ合う残り数センチの所で回避行動をとったからよかったものの、あのままの状態で放っておいた場合の未来を考えるとさすがに身が竦む思いがした。
……牧師キレてたなあ……。
僕はあの時の牧師の反応を思い出す。
あの時のハルもある意味怖かったが、僕はそれ以上にその時の牧師の怒り具合の方がよほど怖かった。
僕の中で牧師に対する穏やかでまじめな性格というイメージは消え去り、今は牧師と言えば木魚のような頭をタコのように真っ赤にして地団太を踏みながらひたすら罵詈雑言を捲し立てる、聖職者どころかもはや人ですらなくなった危ないイメージが頭にインプットされてしまっている。……十字架を振り回す聖職者というのを僕は初めて見た。
「……だって見て欲しかったんだもん」
しかし、ハルにとってはその程度のこと、潰した蚊ほどにどうでもいいことらしい。質問の体で詰る僕にようやく顔を向けてくれたかと思ったら、聞こえてきたのはそんな言葉だった。
少しばかり頬を膨らませて呟いている。
「見て欲しかったって何?ウェディングドレス姿をってこと?」
僕はミニシュークリームのように膨らんだハルの頬を見ながら訊いた。
まあそれなら分からないこともない。
ウェディングドレスなんてのは本来生涯で着ることなんてせいぜい一回程度、多くて三回くらいだろう。僕達の場合はおそらくもう着ることはない。
であれば、それをもっと見ていて欲しいというのは当然のことだったのかもしれない。
だから注意を向けるためにキスをした。
たしかにそう考えるとわき目もふらずに怒りをぶつけた僕は些か浅慮だったのかもしれない。
「ううん、私達が既成事実を作る瞬間を」
「まずい、どうしようハル。僕の身近にとんでもない変態がいる」
前言撤回。いや、もはや撤去。
……まさか神聖な教会で行為に及ぼうとする16歳がいるとは思わなかった。
「特にあの牧師さんには見てもらいたかった」
「牧師さんはカンカンだったよ……」
「え?あれって怒ってたの?……フユのことが好きだからキスしようとした私に嫉妬してるのかと思ってた……」
「ハルの中で僕はいったいどういうキャラなの?ついでに牧師さんは男だったよね?」
おかしい。人の気持ちを読むのがハルの唯一の取り柄なのに……。何でハルは自分の恋愛事になるとこうも愉快な間違いを犯すのか……。
「では、みなさん、今、担当の者を呼んでまいります。申し訳ありませんがしばらくここでお待ちください」
とかアホなやり取りを繰り返していると、いつの間にかデッキについていた。撮影班を呼びに行くらしくここまで案内してくれたスタッフさんはそう言って階下に下りていく。
デッキは普通の客船のデッキとは違い、吹きさらしではなく、ドーム状のガラス張りになっていた。おそらく花嫁のドレスや髪型を海風で乱さないためだろう。
普段は温水プールとしても貸し出しているのか、中央にはどでかい、学校で使われているような大きさのプールも設置されている。周りにはデッキチェアやパラソルといったプールの装飾品のようなものもたくさん置いてあって、一見ビーチのようにも見えるが、夜景や夕暮を一望できる分、その光景はビーチよりも更に幻想的な光景に思えた。
先に着いていた体験者の人たちはその光景に見蕩れているのか、皆めいめいにガラスの傍で「きれい」だの「この光景を君に」だの騒いでいる。
「ハル、僕達も行こうか」
「うん」
特にやることもないので僕達も倣ってその光景に見蕩れることに。
「あ、待って」
が、しかし、ガラスドームの一歩手前まで来たところでジャケットの袖を引かれた。バランスが崩れ、思わずその場につんのめる。
「どうしたのハル?トイレ?」
僕は袖を引いてきた犯人であるハルに少しむっとして問うた。あれほどトイレは先に済ませておいたほうがいいといったのに。
「違う……乙女はトイレなんか行かない。お花摘み」
結婚式で貞操を奪おうとしてきた少女がなんか言っていた。
「じゃなくて、アレ」
「うん?」
どうやらトイレではなかったらしい。僕はハルがそう言って指差した方向を見た。
「あの人ってたしか……」
そこには一人の女性が座っていた。
設置されたパラソルの下。ある種ウェディングドレスからは最も縁遠い色とも思われる真っ黒なベルラインのウェディングドレスに身を包み、物憂げな様子でオレンジ色の海へと冷たい視線を送っている。
「上条さん?」
「うん」
里原さんの婚約者。上条さんだった。
オレンジ色に染まった横顔がどこまでも儚く、しかしその分、右手で弱弱しく掴んでいるシャンパンのグラスがこれ以上ないほど似合っている。
ハルほどではないが、あの時控室にいた人と同一人物だとはとても信じられないほど綺麗になっていた。
女性というのは化粧と服だけでここまで変わるモノなのか……。まるで魔法をかけられたシンデレラみたいだ。
これならば里原さんの細君と言われても違和感を感じる人間は少ないのではないだろうか。
が、しかしここで僕は別の違和感に気が付いた。
あれ?そういえば……
「どうして一人なのかな?」
何故だか、その未来の旦那様であるところの里原さんが不在だった。上条さんの向かいの椅子には誰かが座っていた痕跡こそあるものの肝心のその姿がない。さながら、上条さんは幽霊と晩餐をしているようだった。
「うん。それが気になって」
ハルは僅かに好奇心を滲ませた声音で頷いた。
どうやらそれで僕の服を引っぱったらしい。
見ると、ハルはマンホールくらいの穴は空きそうな、グラスをくゆらせる上条さんをフェレンゲルシュターデン現象のように見つめていた。
おそらく、ハルは上条さんのあの悲し気な横顔に何かを感じたから僕を呼び止めたのだと思う。
僕はその視線に肩を竦め、苦笑しながら提案した。
「行って来たら?」
「でも……」
「気になるんでしょ?僕ならてきとーに海でも眺めてるからさ」
僕は促すようにハルの背中を押した。僕のことならそれこそ気にすることはない。僕があそこに行っても、きっと邪魔になってしまうだけだろうから。
「……分かった。行ってくる。でも、すぐに戻ってくるから」
ハルはそう言うと、ドレスの裾とロングベールを翻しながら早足で上条さんの所へと向かう。
一度だけ僕を振り返って、またすぐに向き直ると、再びパタパタと駆けて行った。
「里原さん、間違って海にでも落ちたのかな」
ハルが気にするところである里原さんが上条さんの傍にいない理由について僕も考えてみた。
しかしこれは絶対に違うだろう。
確かに上条さんは悲しい顔をするかもしれないけれど、それならばもっと驚愕の混じった、取り乱した悲しみ方をするはずだ。
今のような上条さんの顔からはそれがまるで感じられない。
「ま、僕が考えても無駄か」
僕はやがて椅子に座って話し込み始めたハルと上条さんを眺めながら考えることを放棄した。
人の気持ちが分からない僕にはきっといくら考えても分かることはない。
何か悲しい顔をしていることは分かるけれど、ただそれだけだ。
妹が死んだ、だから悲しい、みたいな感じで、知識として人が悲しむことを知っているだけで、何故それが悲しいことであるのかは、まるで見当がつかないのだ。
人の気持ちが分からない。
あるのは知識だけ。
だから僕はハルと一緒にいられるんだろうなぁと、そう思いながら、僕はただ黙って、泣き始めた上条さんと、無感情な顔で上条さんの話を聞いているハルを眺めていた。
御一読ありがとうございました。