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結婚式のバイト1



 8月某日早朝


 

「フユ……きて……起きて」


 お馴染みの安いビジネスホテルの一室の床。どこか静かに人を安心させる声と、何かにリズムよく揺さぶられる感覚を受けて、僕は目を覚ました。


「ふぁぁ……」


 あくびを吐き出し、一度背伸びしてから上体を起こす。寝ぼけ眼を手の甲でこすり、古い金庫の扉みたいに建付けが悪い瞼に覚醒を促す。カーテンの隙間から夏の日差しが差し込んでいるのか、光に照らされた右頬がやけに熱かった。


「おはよう、フユ。いったいどうしたの?」


 靄がかかったみたいな視界がようやく回復してきた後、僕は僕の安らかな睡眠を妨げたであろう犯人。僕をぐわんぐわんとその細く白い腕で揺さぶって叩き起こしてくれた女の子、ハルにそう尋ねた。


「あ、また急にカレーが食べたくなったの?駄目だよ、太っちゃうよ」


 ハルは普段、というかめったに自分から起きることはない。バイトがある日も休日の日も関係なく、僕が起こさなくては昼過ぎまで寝ていることもしょっちゅうだ。

 だから、そんなハルが僕よりも早く起き、しかも僕に起床を促したということは、それは何か、『夜は怖いからトイレに一緒についてきて』とか「カップラーメン食べたい」とかいったような、そんな類の異常事態が発生したということを意味する。

 だから僕はハルにそう尋ねたのだが、しかし、当のハルはといえば僕のそんな指摘を受けてもキョトンとしているだけで、ただ不思議そうに首を傾げているだけだった。

 会話が噛み合ってないことに気が付いたのか、ハルが、まるで息子と旦那に朝食の準備ができたことを告げる母親のような口調で呟く。


「フユ、バイトの時間だよ?」

「……バイト?」

「そう。バイト」

「カレーじゃなくて?」

「カレーじゃなくて」

「……ああ!」


 逡巡すること数十秒。僕はそう言われてようやくこの事態を飲み込むことができた。

 いつもと立場が真逆すぎて、気が付くのにかなり時間がかかってしまった。

 ああ……なんてことだ……。

 つまり、ハルはバイトに応じて設定した起床時間を過ぎても僕が起きなかったので、端的に言うと寝坊をしていたのでわざわざ起こしてくれたのだ。

 あの三年どころか万年は寝ていそうなあの寝太郎美少女バージョンが。

 あの雷が鳴っても、地震が起きても、食欲以外では自然に目を覚ますことがないこの健啖家ガールが……。

 よくよく見ればハルは既にスーツを着ている。朝はいつも全裸か、せいぜいパンツ一枚なのにすごいビジュアルの進化だ。いったいぜんたいどういう心境の変化だろう。

 もしかするとこれが天変地異の前触れ、というやつなのかもしれない。


「フユ、早く着替えて。遅れちゃう」

「……ああ、分かったよ」


 僕がやっと合点がいったことに気が付いたのか、ハルがそう言って僕にもスーツを渡してきた。バイト用のスーツ。触ると若干熱が籠り、丁寧にノリがかかっていて、これが昨日ではなく今日の朝アイロンしてきたものであることに気付かされる。

 着心地もとてもよく、におい付けがされているのか、シャツに袖を通すとフローラルな香りが体を包み込む。

 どこまでも着る人に対する思いやりが感じられる、素晴らしい愛情のこもったスーツだった。

 ……本当にどうしたんだろう。

 僕はスーツを着ながら、ベッドに腰かけ、やけに上機嫌に朝ごはんであるスティックパンを咀嚼しているハルを眺めた。

 どうしてか、ここまでハルが献身的であると逆に薄気味悪さを覚える。

 いつもは朝ごはんの時でさえベッドから降りようとせず、そのまま寝転んで「フユ―ごはん―」と言って、まるで僕を飼い猫の主人であるかのように食事を催促してくるのに。

 ここまでバイトに積極的なハルを見るのはもしかすると初めてかもしれない。

 …………ん?バイト?


「そういえば今日は何のバイトをするんだったっけ?」


 僕は昨日の夜のことを思い出しながらハルに訊いた。

 昨日はハルに「バイト取ってきたから明日は頑張ろうね」と言われたっきりだったのだ。

 何のバイトかと聞いたような気もするのだが、如何せん、昨日は雑誌の売り子のバイトと情欲モンスターと化したハルをあしらうのに疲れていて、半分脳みそが停止していた。そのため昨日の記憶があまりない。

 僕が自らの記憶と格闘しているとハルは少しだけ得意気な表情を作って、僕を見た。


「……フユは駄目な子」


 ……くそう。

 元凶は間違いなくハルなのになぜかめちゃめちゃ悔しい。

いつもは真逆の立ち位置のはずなのに!


「でも、大丈夫。今日はお姉さんに任せて」


 そんな僕の反応を見て一通り満足したのか、ハルはさらに上機嫌になってガッツポーズをして見せた。顔はいつも無表情だからその光景は見る人が見ればとてもシュールに映ることだろう。

 ……って任せる?

 任せてほしいとはいったいどういうことだろうか。

 いったいハルは僕に何を期待されていると思っているのだろう。


「私はこのことだけには詳しい……」


 詳しい?

 あの知識不足には一家言あるハルが?

 僕が尚も首を傾げていると、ハルはやがて据わった目をして言った。


「今日こそ確実にフユを悩殺して見せる……」


 ……僕はその危険極まりない言葉に黙り込む。僕はそこでようやく初めて昨日ハルから伝えられたバイト内容を思い出した。

 そしてそれと同時に恐怖で身震いする。そうか……だからハルは今朝こんなにもやる気だったのか……。   

 確か、ハルが言っていたバイト内容は……

 ハルはまるで、魔王との最終決戦を控えた伝説の勇者のような表情をして言った。


「今日のウェディング体験のバイトで」


 バイト名を間違えないところに本気を感じ、僕はさらに身震いするのだった。  

 

  

 

  



御一読ありがとうございました。

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