48.最後の竜(1)
その日は朝から良く晴れていた。
「グロリア様、お疲れですか?」
朝食の後、着替えの時間にフランチェスカが尋ねた。
口の中のあくびを噛み殺し、私は誤魔化すようにえへへと笑った。
「ええ、ちょっとだけ、ね」
「昨日まで海辺に居たんですもの、無理はないですよ。けっこう急な日程でしたし」
言いながら彼女もあくびを噛み殺す。いけない、と舌を出す仕草が可愛くて笑ってしまった。
「フランチェスカも疲れているでしょう? 支度が終わったら寝ていていいわよ」
「そんな!王宮で朝寝なんて恐れ多い……! でもしたいですね、朝寝!」
何気ない会話に他のメイドもクスクスと笑う。王宮の空気にも慣れ、第二の我が家ともいえる雰囲気になってきた。
「グロリア、支度はできたか?」
ノックと同時にエドガーの声が聞こえる。
フランチェスカが急いで髪を撫でつけ、髪飾りを付けてくれた。今日の服装は目が覚めるような青色のサマードレス。真珠の耳飾りを付ければ完成だ。
「いま終わりました! どうぞ!」
他のメイドがドアを開け、黒い軍服姿のエドガーが入ってくる。すらりとしたその姿は見慣れた今でも最高にイケメンだ。惚れ惚れと見上げて私は息をついた。
ふとしんみりしてしまう。
最初はこの姿が近付くたびにドキドキしていたなあ……。
エドガーはこちらの手を取り、口づけを落とした。
「今日も綺麗だ、グロリア。さあ父上のところへ行こう」
「ええ」
これから国王陛下のところへ行って、結婚式を早めてもらうよう正式にお願いしなければならない。私は差し出された腕に手を絡め、寄り添って部屋を出て行く。
今日の会場は庭の小さなサンルームだ。木漏れ日の中、夏の名残の薔薇を見ながらゆっくりお茶をし、視察や結婚の話をする予定だった。
歩きながら息をつく。おしゃべりをする。
うん、大丈夫。
いつもの日常、いつもの朝。穏やかな空気が私を包んで、いつもどおりささやかに幸せを噛みしめることができる。
昨夜感じた不安。
一晩経った今、その気持ちはほとんど消えている。
いや、隠した、という方が正しいか。
少しでも心の底を覗けば言いようのない恐れに満ちているのが分かる。エドガーの健康、これまでのこと、なぜ結婚式を急ぐのか。
それをなるべく見ないようにして……平穏を取り戻したい。ただの杞憂だと終わらせたい。
ポンコツと言われても、臆病と言われてもいい。今の私はただ、この小さな幸せを守りたいと強く思っていた。
それは心の目を塞ぐ行為に似ていた。
そういえば前世でも似た気持ちになったきがする。
自分がぽっちゃりで。
生活がブラックでお給料が少なくて。
おひとよしと言われても、なかなか良いことがなくて。
そういう不安を、まとめて心の底に押し込めて生きてきたのよね。そうしてソシャゲをしたり友達と遊んでいれば、自然と無かったことにできると思っていた。誤魔化しながら、ポンコツなりにやってきた。それなりに幸せだと思いたかった。
それがトラックに轢かれて、すべてがいったん終わって……。
どうしていま、それを思い出したんだろう。
ふと顔を上げて庭を見ると、黒猫が座っている。
えっ、どうして王宮に?
しかも、王子と一緒のときに出てくるなんて。
「どうした?」
私が不意に手を離したのでエドガーが首を傾げた。
「ええと、ちょっと、猫が……」
渡り廊下のすぐ脇に庭へ通じる開き戸がある。私は急いでそれを開けると夏の庭へと降り立った。陽射しがまぶしい。
その光の中に、影みたいにぽっかりと座る、黒い猫。
「あの、神……」
言いかけたその目前で強い風が吹く。
きぃん、という音がして私は目を見開いた。これは、ユイカの転送音だ。
思う間もなく空中から人が振ってくる。
しかも二人も!?
ドサリと落ちた人影を見て私は声を震わせた。
「ユイカちゃん!? それに……パリスくん!? えっ、そのひどい怪我は!?」
「セン、パイ、いっしょに、来て……ひとまず、ここから……」
はあ、と息をついてユイカちゃんが崩れ落ちる。私は慌てて彼女を抱き上げた。服は破れ、あちこちに擦り傷が出来ている。まるで長い距離を歩いてきたような、逃げてきたような。
パリス君はまだ傷が少ないが、こちらは顔色が悪い。まぶたを閉じたまま、具合が悪そうだ。
「ユイカちゃん、しっかり! ひとまず手当を……」
ユイカはわずかに顔を上げ、それから顔をしかめた。私の背後に駆け寄ってきたエドガーを睨むように見つめる。
「……エドガー王子……呪いのこと、黙っていたなんて、ひどい……センパイを、何も関係ないセンパイを巻き込むなんて……!」
エドガーがハッとしたように立ち止まる。私は怪訝な顔で二人を見比べた。
「呪い? エドガー、どういう……」
言いかけた私は目を瞬かせた。
エドガーの身体が、赤く光っている。
「ああ、もう……!」
エドガーは苦しい表情で自分の手を、身体を見た。顔を上げてこちらを見たのも一瞬、爆発的な風が私たちを包み込む。
「きゃああ!」
私は震える手で、守るようにユイカを抱きしめた。ものすごい暴風だ。広い円形に私たちを取り囲み、外界と遮断してしまう。
黒い渦の中央に見えているのは、エドガーの身体。
ますます赤みを帯びて、赤い煙、いや、赤い光を発している。
滲み出るようなその色は禍々しくて、恐ろしくて。その光がエドガーの苦悶の表情さえも覆っていく。
「グ、ロリア……」
苦しげなうめきが聞こえ、胸が張り裂けそうになった。エドガーは胸をかきむしり、頭を抱えている。近付きたい。でも身体が動かない。本当に、何が起きているの?
そうしている間にも風が強まり、スカートの裾が、次いで足が浮き上がる。風に攫われそうになって私はしっかりとユイカ、それにパリスを抱き寄せた。だめだ、このままでは……。
ふわっと、ついに身体が浮き上がったのも一瞬。
氷が割れるような音がして、浮き上がっていた身体がストンと地面に落ちた。
周囲の風は収まっていない。私とユイカ、パリスの回りだけが静かになっている。
そっと肩に手を置かれる。
「大丈夫ですか?」
「クロムウェル先生!? どうして、そのお怪我は!?」
すぐ後ろに立っていたのはクロムウェル先生だ。笑いかけた先生のこめかみからわずかに血が流れていた。
「心配をかけて申し訳ありません。でも大丈夫ですから。……しかしこれは、予定よりも早いですね。ユイカさんが余計なことでも言ったのか」
先生の視線を追い、私は愕然とした。
エドガーの姿がぼやけ、にじみ、変わりつつある。
夢だろうか。それとも魔法? 人間の身体が、こんな、膨らんで、形を変えて……!
「り、竜……!?」
暴風を纏い、そこに顔を上げていたのは紛れもなく竜だった。
黒い影で、赤い光を纏い、ウロコが光っている。ツノをとがらせ、瞳はエドガーと同じ赤色だ。背丈はすでに庭の木々を追い越し、王宮の屋根も超えているだろうか。風に巻き込まれた木の枝が、花が、狂ったように周囲を乱れ飛んだ。
もはや幻でも夢でもない。
巨大な竜がそこにいた。




