あはれ虚無に揺蕩ふ空の袂にゐる
霞む視界を晴らそうと、瞼を擦る。
其処には代わり映えのしない薄汚れた自室があった。
いつからだろう、此処で生きているのは。
いつからだろう、此処で目を覚ますのは。
埃と鉄粉に塗れた工場にある寮の部屋。朧気な記憶に残る姿には誇りにむせ返り咳き込む自分が居たのだが、それは無駄な抵抗だといつからか諦めて埃を飲み込んだ。
それと共にであろうか。俺は声も置き去りにした。声など、誰と疎通を取る必要もない此処では要らぬ物。そもそも、そんな考えすら気怠い面倒な物。
何も要らない。
ふと磨り硝子の様にくすむ窓に目をやると、ふわりふわりと雪が舞い降りていた。嗚呼、道理で指先が震える訳だ。
寂れた四畳半の自室に冬の訪れを受け入れる術も無く、いつ干したのかも分からない布団に包まる。
あと三十分もすれば仕事か。
震える指を擦りながら寒さに耐え、この部屋の景色の様に馴染む灰色の作業着を見つめる。
今日も一日が始まるのか。否、昨日が終わりを告げたのか。
のそりと立ち上がると、冷え切った作業着を身に纏う。俺は工場の一部となり、昨日の繰り返しを再開させる。
作業は至って単純だ。今は何処ぞの国で使われる家電の部品を組み立てている。
一丁前な装具がある訳でもなく、鉄粉や火の粉をその肌にちりちりと浴びるが、冷えた体に心地良いと言い聞かせ、今日も俺は工場と化す。
「お疲れ様。少し話があるんだけど」
仕事が終わると上司に声を掛けられた。
人との対話をしたのは幾年前か。不意に訪れたその機会に、閉ざされた口からはだらしなく汚れた呻き声を発する事で精一杯だった。
「……知り合いがね。知り合いが、仕事と住処を探しているんだ。だからね、君には悪いけど今日で此処を出て行って貰えるかな」
突然に訪れる、終わり。
「……ぇ…ぁ……す…すみませ…ん……、少し、少しだけ……待って、ください……っ…」
俺は情けなく懇願するも、眉間に皺を寄せて溜め息をつかれる。嗚呼、俺の存在は欺くも此の様に小さな物か。
「すみません、住処が……住処が無ければ、次の仕事を探すのも」
早く終われと言わんばかりに上司からの冷ややかな視線を浴びる。冬の寒さと居場所を失う恐怖に、かたかたと震えが止まらない。
「すみません、すみません、物置でも構いません。どうか、どうか」
「……薄汚い。早めに出て行ってくれよ」
針の穴程の救いに、感謝を送り平伏す。気が付けば俺は涙と涎を垂れ流していた。
――生きる為に、新たな住処を探さなくては。
宛ても無く雪が積もる白の世界に、錆と埃に塗れた靴で踏みしめ彷徨う。
吹けば消えてしまう程の自身は、他者から認知されているのであろうか。
ふと消えてしまったら、俺がこの町から失せてしまったら、誰か気付くのだろうか。誰か探すのだろうか。俺の名を呼んでくれるのだろうか。
悴む手に息を吹き掛け、体温を呼び戻す。見上げると空からは降り止まぬ雪。
降っては他に混ざり、どれかも分からぬ物になって溶けて消え行く雪。
個の存在とは、これ程までに儚いものか。
いつからだろう、生きる意味を考えなくなったのは。
いつからだろう、名を失ったのは。
しんしんと降り積もる雪に寝転がり、はらはらと雪に呑まれる。
孤独に住まう俺を、其の雪と共に包み込み、花々が芽吹く季節には、どうか共に溶かし消え行く事をお許しください。