第2章 犬と鼠 第3話 「騙し絵」
龍一は、外難を一望できる黄浦江対岸の高層ホテル、シャングリラのスイートルームで、週末らしいのんびりとした時間を過ごしていた。上海中央電子台のニュースが、ソマリア沖でフランス海軍突撃隊が海賊九人を逮捕したことを伝えている。ソマリアとは、アフリカ大陸東端の「アフリカの角」と呼ばれる半島に位置する国である。一九九一年に勃発した内戦後、無政府状態が続いている地域だ。近年頻発する海賊行為からアデン湾周辺を航行する商船の安全を守る為に、各国海軍が交代で治安維持活動の任に当たっている。
数日前に中国艦隊もソマリアを目指して勇躍海南島の基地を出港していた。ところがだ。出航後まもなくして船酔い者が続出し、艦隊行動に支障をきたすという恥ずべき事態に陥った。国家の威信を掛けた海軍出動が、海外メディアによってコメディのように扱われ、嘲笑めいた内外の批判がその海軍に集中している。それが今朝の最新ニュースだ。
龍一は何故か「北京の五十五日」というチャールトン・ヘストン主演のアメリカ映画を思い出した。義和団の暴徒から北京を守備するヘストン扮するアメリカ陸軍将校の奮戦記だ。最後は八カ国連合軍が次々と救援に現れ、北京を開放するという清国滅亡前夜の物語である。史実に即した戦争ドラマだが、これほど滑稽なストーリーはない。悪者とされ、次々と撃ち殺されているのは清国の人民兵なのだ。「そもそも君たち欧米人は何故そこにいるのだ」龍一はそう問わざるをえない。
テーブルの上のケータイが鳴った。着信音はいつものワグナーだ。龍一はテレビのスイッチを切るとケータイを取り上げた。森泰蔵だった。威勢のいい声が聞こえた。
「龍一君、俺だけどさ、起きてたかい」
「はぁ?もう昼だし。てか、誰だっけ?」
「はい、はい、てっこ盛りの森泰蔵君ですから」
「知ってる」龍一は笑いながらとぼける。
てっこ盛りとはてんこ盛りのことだ。大食漢で飯をいつも大盛りにしているイメージから、龍一が時々泰蔵のことをそうからかった。福島か山形の方言である。そのてっこ盛りからは、インドからの帰国後すぐに「松本の寺での新たな手掛りはナシ、とりあえず土器の線を追う」との連絡を受けていた。一年前の夏か秋のことだった。
「で、何?」龍一は続けた。
「重要な用件だよ」泰蔵は声を落とした。
「ほう、何だか知らないけど、いいねぇ。今どこ?」
「今福岡にいる。なぁ、近いうちに上海あたりで会えないか?」
泰蔵は知ってか知らずか言った。
「えっ、今、上海だけど」
「なんだよ、やっぱり行っているのか、ふう」
「だな」
泰蔵は、龍一が東京と上海を頻繁に行き来していることは知っていた。どうやら確たる何かをつかんだに違いない。龍一はそう直感した。が、誰にどこでどう何を盗聴されているかわからない。だから、ケータイといえども不用心に秘密めいた話はできない。その辺のことは泰蔵も分かっている。
「オーケー、オーケー、じゃあね、近いうちにそっちに寄るから、久しぶりだし、飯でもどうかと思ってね」
「なんだ、それが重要な用件かよ。でも、しょうがないな、で、いつ来る?」
「実は今度、俺が字幕やったインド映画が新京の映画祭で上映されるんだ。一週間後だよ。けっこう評判いいみたいで。で、ご招待となったわけ。上海とかはついで、ていうか経由地だな」
上海経由なんてずいぶん遠回りになる。アジア・ミレニアム号で鉄路を直行すれば東京から六時間少々で新京に着く。それを態々ぐるりと回って上海を経由してまで飯を食う理由は何なのか。それは二人にしかわからない。
「へー、ご招待か、やるじゃん。でもその評判は原作が、じゃないの。で、新京じゃ日本語字幕、誰が観るわけ?」龍一が茶化した。
「いるでしょ、沢山、俺のファンが」泰蔵もふざけた。
「いやいや、わざわざインド映画は関係者しか観ないでしょ。それに寒すぎる」
「寒くはないでしょうよ。まだ夏でしょ。俺だってやるときゃ、やるで」泰蔵はもう一度ふざけた。
「で、それ、どんな映画なの?」
「おー、良く訊いてくれた。でもこれが結構、濃いんだよなあ」
いつの時代かは定かでない。しかしそれはインドかネパールあたりの貧しい農村で起こった悲しい恋物語である。
若いクマールには将来を誓い合ったナズリンというとても可愛らしい恋人がいた。しかし、クマールが町に働きに出ている間に、ナズリンが不慮の事故に遭ってあっけなく死んでしまう。ナズリンは死に際にクマールに言った。どんな形であれ、必ず戻ってくる。だからきっと待っていて欲しいと。クマールは必ず待つと約束した。
無情な十年の歳月が流れた。クマールには、フィアンセがいて充実した日々を過ごしていた。ある時、そんなクマールの前にアキレッシュという青年が現れた。どこかウマが合う二人はたちまち仲のいい友人になった。が、ある日、アキレッシュはクマールに意外なことを言った。僕は昔からずっと君のことを愛している。今の恋人とは別れて欲しい。クマールは、なんて気味の悪い奴だろうとアキレッシュに対してたちまち嫌悪を顕にした。そして彼を無視し遠ざけるようになった。するとアキレッシュは、クマールと彼の恋人の仲を裂こうと、陰に陽にとなにかにつけて二人の仲を妨害しては、周囲にもわかるような問題を起こした。
怒ったクマールは村のチンピラに頼んでアキレッシュにひどいことをした。そしてクマールは結婚する。やがて子供も生まれた。悲しんだアキレッシュは河に身を投げて自らの命を絶ってしまう。
アキレッシュがナズリンの生まれ変わりだったと後で悟ったクマールは、やがて原因不明の重い病気に罹り、アキレッシュの後を追うようにしてこの世を去ったのである。
「どうだい、大体こんな筋書だよ。これに時折、男と女のボリウッド・ダンス・ショーとかが挟まる」
「うえっ、だな。救いようないじゃないか。バンガロールでは、そんな仕事をしていたのか」
「まあね。でもあっちのほうの文化はよくわからん。それじゃぁ、ねえ、新京来る?」
「うん、行きたいのは山々だけど、でも今度にするよ」
ここは丁重にお断りするしかない。
誰かが訊いた。
歩いていたら植木鉢が上から落ちてきて、それが頭に当たって死んじゃうっていう運の悪い人って、時々いるでしょ。十センチどちらかにずれていたら死なずにすんだのに、どんだけ運が悪いのかっていう人。そういう人の運命って、いつからそうなるって決まっていたのかな。将に当たるというその瞬間? それともその道をその時間に歩くって決めたとき? でなければその前の日の夜? いやいや一週間前に恋人と別れたとき? それとも生まれたときから? でなければ生まれる前から? もう起きてしまったことは、後には戻らない。運命って受容するもの? それとも逆らうもの?
すると誰かが答えた。
ひとたび起きてしまえば、過去という選択肢は一つしかない。どんなことも小さな偶然や気まぐれの積み重ね。やがてそれらが大きな奔流となって一人の人間の一生を形作る。自らの意志だけではどうにもならない目には見えない力が存在する。それを力と表現するから逆らいたくもなる。が、皆そんな力の糸でがんじがらめに操られている。
夕方、そぼ降る雨の中、龍一はホテルを出るとタクシーを拾った。ほどなく、約束した通りに泰蔵がやってくる。三十分前に電話があった。今頃、空港からタクシーで市内へ向かっている最中だろう。泰蔵の宿泊予定のホテルで待ち合わせた。龍一は明城大酒店の前でタクシーを降りた。
ロビーで龍一は腕時計を見ていた。せわしなく次から次へとシボレーのタクシーが車寄せに入ってきては客をはき出してゆくが、彼の姿は中々みえない。タクシーから降りる見知らぬ中国人の数を数えているのもいい加減バカバカしくなってきた頃、ようやく泰蔵が一台のクルマから降りてきた。トランクの荷物を取り出しながら、運転手となにか言葉を交わしている。が、こりゃだめだといったような態度を残しながら金を支払うと、ようやく体を左右に揺らしながらホテルの中に入ってきた。
「よー」
泰蔵は片隅のソファに座っている龍一の顔を見るなり、ずいぶん離れたところから声を上げた。エントランス中央に円形の舞台のような大きなラウンジがある。客もいなければ、ウェイトレスもいない。整然と並んだ石のテーブルとイスが空しい。設計時の目論見は大いなる誤算となり、以来そこは一度も営業されていないようだ。そのラウンジをぐるりと迂回すると、龍一は軽く左手を上げながら泰蔵に近づいた。
「元気そうで」
「だねー、でも疲れたぁー。イミグレーションが混んでるの何の。タクシーが分からなくて、客引きに引っ張られていって白いのに乗ったら、ボラれるの何の、ここまで四百元とられた」
「そりゃ三回は行ったり来たりできるな」
「だろ、くそっ、やつを今度見つけたら只じゃすまないぞ」
「いいだろ、そいつだって生活掛かってんだから、大目に見てあげなさい。君のお陰で、何人の恵まれない人が救われることか」
「そういうもんスか。あの野郎、絶対人を救うタイプじゃないぜ。違うだろ」
龍一は笑っている。すると泰蔵のほうが少し俯くようにして言った。
「いいお土産があるよ」
「おっ、そうきたか。でも、きりたんぽとか言うんじゃないよな」
龍一はまだ笑っている。
「高級腕時計だぜ」
泰蔵はフロントでチェックインの手続きをしながら言った。
「へぇ、マジか、あれ」龍一は笑みを消して真顔で訊いた。
「だな」泰蔵が丸い目をさらに丸くして瞳を輝かせる。
「そうか、じゃぁちょっとお前の部屋に行こう」
龍一は何が出てくるやら、すこしだけ緊張した。二人は誰もいないロビーを気にしながらエレベーターに乗り込んだ。
一時間後、二人の姿はロビーに戻っていた。泰蔵は思い出したようにまだタクシーのことでぶつぶつ言っている。
「で、領収書ないけど、経費でいいよね、白タク。オーケー、じゃあ景気直しに、めし喰いにいきますか。それも、君のおごりね」
泰蔵は言いたいことを一方的に言い切ると発想を転換したようだ。別のところで倍にして取り返せばいいという腹だ。
「はいはい、わかったよ。じゃぁ何食う? 軽く中華だね」
龍一はそう言って頭を掻くしかない。
「勝手に決めてるじゃん。まあいいか、よし、これでアイコだ」
何がアイコか龍一には見当がつかない。
「近くにまあまあのレストランがあるから歩っていこう」
二人は雨模様の外に出た。東方路を歩き、通りひとつ隔てたところにある上海料理専門のジェイド・ガーデンという店に入った。混んだ店内は皿やグラスががちゃがちゃと音を立てながら行きかっていたが、女マネージャーが目ざとく入り口の二人を見つけると、手際も良く窓際の席に案内した。テーブルには洗いたての白い布が掛っている。まだ時間は早い。そのうちにもっとごった返すはずだ。
「ここの肉団子はいけるよ」龍一が言った。初めてではない店のようだ。
「じゃ、それととりあえずビールだな。やっぱりチンタオかい?」
「バドかサントリーでいいんじゃないか」龍一が返す。
「あっ、そうなの、それちょっと味が薄くない?」
「じゃアサヒと肉団子と酸辣湯と空芯菜と蝦飲茶でいいか、あとはワゴンから好きなもの取っていいから」
龍一がビール銘柄に修正を加えた。だが、泰蔵はいちいちオーダーが来るのを待っていられない。
「何でもいいんだけど、腹減るねー、待てないよ」
そう言いながら、タイミング良く通りがかったワゴンからピータンやら揚げ豆腐の小皿をとり、挨拶もなく箸を突っつきはじめた。
「それで、いつ新京に行くんだい?」龍一が尋ねた。
「明後日の朝」と口を動かしながら泰蔵は答える。
「そうか、じゃぁ今日はとりあえずゆっくりだ」
「それが、そうでもなくてね。最近はさぁ、日本の漫画やアニメが世界中で引っ張りだこだろ。結構仕事が入ってくるんだな、これが。飯は最低食わなくちゃいけないから、向こうを出てくる前に無理して仕事受けちまったら、今週中に一本分やってくれって言われてね。出来あがったらそれをすぐタイに送る。次はタイ語に直すらしい。専属がいるんだけど、なんかぶっ倒れたらしくって、大忙しさ。ちょっくらホテルの部屋でも気合入れないとだよ。最近の漫画も結構内容が複雑なんだ」
「へえ、森君も仕事してるんだなぁ。酒飲んでて大丈夫?」
「今夜は調子が出るか、さもなくば爆睡かもね。まあ明日詰めるさ。それでダメなら明後日。龍一君こそ、上海にもう十日もいて、何してるんだ?」
「ていうか、キミが上海に居ろっていうから居るんだろ。違ったっけ?あとは賢人会議の準備だな」
「ケンジン会議?」
肉団子がテーブルにやってくる。
「まあややこしいから、知らんでいいよ」
「賢いやつは違うね。この肉団子うまいな!」
泰蔵は「あっちっちぃ」とか言いながら肉団子をビールで流し込みながらあわてて咽こんだ。
「いやー、食ったね」
店を出ながら満足げに泰蔵は言った。日はとっくに沈み、少し雨が強くなってきている。街路はネオンの灯りの強弱で明暗が分かれている。東方路を行き交う車のクラクションが姦しい。
「いやだね、雨少し強くなってきた」
「近いから、濡れていけばいいよ。泰蔵君に限って風邪は引かないだろ。じゃ、帽子だけ貸してやるよ。濡れると禿げるんだ」
そう言いながらふざけて、龍一は自分がかぶっていたヤンキースの帽子を泰蔵の頭に載せた。
「そういう意味ね。で、これから龍一君はどうするの?」
「君のホテルからタクシー拾う」
「えっ、いいところ連れて行ってくれるんじゃないの?」
「仕事するんでしょ、君は」
「いやなこと思い出させてくれるねぇ」
二人は戯言を交わしながら、歩道をホテルに向かって足早に歩き出した。路面は黒光りして、青や赤のネオンが水たまりに映し出されている。クルマのヘッドライトが時折そこに反射する。道行く人影は少ない。前方からジャージ姿の長身の男がジョギングしながら近づいてくる。傘をささずにフードで頭まで覆い隠している。十五メートル、十メートル、五メートル、一定の速度だ。そして顔に雨が当たるのを避けるように俯きながら二人とすれ違う。
「フェ、フェ、フェック、ショーン」
いきなり泰蔵が大きなクシャミをした。勢いでよろけながら右へ体が傾く。
男は一瞬泰蔵の顔に視線を向けたようだが、同じペースで二人の横を通り過ぎて行った。
「相変わらずだね」
龍一はこの憎めない男を笑った。
その時、何かがドンと当たって、泰蔵が龍一のほうへ凭れるようにしてよろめいた。
「痛ってーなー」
泰蔵は誰かが不意にぶつかってきたと思い、文句を言った。
「あれっ」
だが回りを見渡しても誰もいない。
「えっ、何?」
龍一はまた泰蔵が一人でふざけていると思った。泰蔵はあらぬ方角を見やりながら自分の腹部のあたりを弄っている。そして「なんか脇腹の辺りが妙にあったかいんだよね」と言うと泰蔵は地面に座り込んだ。
「なんだよ、ビール二、三本で酔っ払ったか」
龍一がそう言いながら、泰蔵を抱え起こそうとした。が、泰蔵の脇にやった手に何かが付いた。雨ではない、もう少しねっとりとした感触の液体が泰蔵のわき腹から染み出ている。一体どうしたというのか。わけもなく周りを見渡した。ジョギング男はとうに消え去っている。
「何が起きたんだ」
考えてもわからない。もう一度自分の手を街灯にかざした。これは何だろう、いや、これは血だ。さっき食ったエビかシャコが泰蔵の腹の中でまだ生きていて、そいつが腹を食い破ったっていうのか? いや、何言ってるんだ。これは冗談じゃないぞ。
「泰蔵、大丈夫か? 血が出ているぞ。何やったんだ?」
龍一はようやく只ならぬ状況を認識した。そう、これは本物の血だ。救急車を呼ぶかそれとも泰蔵を病院まで担いでいくか。二つに一つ。いや、落ち着け、病院はどこにある? ダメだ、ホテルへ戻るか。いやそれもダメだ、タクシーだ。歩けるか? さっきすれ違った人はどうした? 呼べば助けてくれるか? 龍一は事の起こったいきさつを咄嗟に復習する。走行中のクルマからなにか飛んできたか? いや、違う。待てよ、でもどうして。頭の中で思考がどんどん空回りする。いや、やっぱりタクシーだ。泰蔵をもう一度抱き上げようとした。が、重くて無理だった。
そのとき、道の反対側から一つの影が駆け寄ってきた。近づくなり泰蔵の横にしゃがみ込むと「どうしましたか、大丈夫ですか?」と言って泰蔵の顔を覗き込んだ。女だ。
目の前に黒塗りの高級車がすっとやってきて急停止した。
「クルマに乗って。急いで。手を貸してください」
女は泰蔵の異変に気づくやいなや、泰蔵の脇を抱えて激しい口調でそう言った。日本人だろうか。いや、そんな品定めしている場合ではない。
「おい、大丈夫か」
そう言いながら、龍一も泰蔵のもう一方の脇を支えながら、横付けしたクルマの後部座席に友を押し込んだ。
「東方医院に行ってください」
女が運転手に告げる。クルマはヒューンという甲高いエンジン音をあげながら猛スピードで走り出した。すると女がケータイを取り出し、電話をかける。すぐにどこかに繋がったようだ。
「…葛城氏の友人が撃たれました」
えっ、後ろで聞いていた龍一がびくっとした。自分の名前を知っている。しかも泰蔵が撃たれたと誰かと話をしている。撃たれたとか、どうやってそう決めつけるんだ。ここは戦場ではないぞ。そもそもどうして撃たれるのか。時計のせいか? いや、そんな馬鹿な。その時、龍一は智明が言っていた「身の回りに気をつけろ」という言葉を思い出した。こういうことなのか。ひょっとすると、ならばこの車に乗り込んだことも危険の一つかもしれない。龍一の声は出ない。
「…はい…今から病院へ搬送します…。はい、分かりません…急いでください…。はい、ここからなので、東方医院へ向かいます…。ええ、病院へはそのようにお願いします…。はい、また連絡します…」
女の身のこなしには隙がない。龍一は泰蔵の腹を押さえながら、初めて口を開いた。
「あの、あなた方は、いったいどちらさんですか?」
「心配いりません。敵ではありません」
敵だって? 気に入らないな、そう、敵味方といった前提での言い方が気に入らない。しかし状況はそういうことなのか。車窓を赤や緑の色鮮やかなネオンが直線的に流れてゆく。
「マスコミじゃないですよね。どう見たって」
龍一は見当違いの質問を意図的に投げかけた。脂汗が泰蔵の顔から流れ出ている。意識はあるが、次第に朦朧としてきているらしい。いや、ただ黙っているだけかもしれない。致命的という感じではないが、出血が気になる。
「しゃべらないほうがいい。出血がひどくなる」
女は血の出ていない龍一にそんなことを言った。黙ってろってか。クルマはいつの間にか赤いパトランプをルーフに点滅させながら、大方の信号を無視して突っ走っている。覆面か?と龍一は思った。
「泰蔵、大丈夫か、我慢しろ、すぐだ」
腕時計の針を見ながら、龍一は早くしてくれと心の中で何度も叫んでいた。クルマは充分速く走っているが、刻一刻が長く感じる。東方医院の救急処置室へ泰蔵が運び込まれたのは、実際にはクルマに乗り込んで五分後だった。だが龍一には三十分は掛かったように感じた。
救急治療室の前、龍一はベンチに座って頭を抱えた。何故こんなことが起きたんだ。気がつくと女の姿は消えていた。しかし、この受け入れの手際といい、医師や救急看護士の対応といい、段取りがよく出来ていた。医者や看護士も日本人のような身のこなしだ。考えれば考えるほど、わからない。こうなったら誰も信じてはいけない。仲間を装って近づいてくることもある。そうだ、自作自演ということだってあるのだ。
龍一はジャケットの内ポケットに手を入れると、もう一つの腕時計を握りしめた。
森泰蔵が撃たれた翌日の午後、龍一のホテルの部屋の電話が鳴った。出ると、それは泰蔵を東方医院まで搬送した女だった。泰蔵の容態は落ち着いているとの連絡を病院から受けたそうだ。何故友人の俺ではなく女の方が先に知っているんだと、不機嫌になりながら話を聞いた。二週間もすれば退院できるだろう、ただし日本に帰ってしばらくは自宅療養が必要とのことだ。ほっとした。すると女は、それでこれから会えないかと言った。泰蔵を助けたのも偶然通りがかったにしてはタイミングが良すぎた。いやあそこに意図して居たのは間違いない。何がどうなっているのか、説明を受ける権利くらいはあるだろう。女の正体も見極められるなら見極めたい。そこでグランドフロアのカフェですこし話をすることに同意した。
一時間後、龍一はカフェのソファで一人コーヒーを飲んでいた。黒のスーツを着た女が何のためらいもなく近づいてくる。そして、龍一の向かいに腰掛けた。傍から見ればデートの待ち合わせのようにも見えたかもしれない。しかし女はビジネスライクだった。
「お忙しいところ、すみません。私は、大使館付きの桜井といいます」
大使館付き? 南京から来たと言うのか? とにかく女はそう自己紹介した。無駄な話は好かないような空気を漂わせている。やはり隙がない。
「葛城です。森を助けていただいたことは心から感謝します。どうもありがとう」
龍一は「心から」を強調しながら、表情は変えずに頷いた。だが、油断はするなとも思う。大使館だからと言って味方とは限らない。むしろ余計怪しい。
ウェイトレスが来て、不自然な笑顔を見せながらご注文は?と訊いた。龍一がコーヒーを追加注文すると、女はミネラルウォーターをオーダーした。
「ご友人の怪我はどうやら大丈夫のようなのでよかったです。週末には面会も可能になるとのことですから、訪ねてあげてください」
「ありがとうございます。近いうちに行ってやろうと思います。それにしても早いですね、何もかも。でも、わからないんです。ただの通りすがりの旅行者相手に大使館の人が偶々あの場所にいて、我々に気がついて、あそこまで親切にしてくれるとは、普通ありえませんよ。何がどうなっているのか、説明していただけるとありがたいですね」
「怪我人が目の前にいれば大使館員だろうがそうでなかろうが、同じことをします」
そこがポイントじゃないだろ。女は警戒されていることを悟ったようだ。
「でもお察しのように、昨日のケースは特別でした。実は、これは事故ではなく、事件、しかもあなたを狙い間違って友人を襲った傷害事件です。私たちはそう判断しています」
龍一の表情が一瞬にして曇って強ばった。そういう時ウィンクするように右目だけ半分とじる癖がある。やはりそうなのか。しかし、正体の知れぬ女に必要以上の話はできない。
「何故僕が狙われるのでしょうか。それに何故、泰蔵が間違って…」
言いながら、龍一は「あっ」と心の中で叫んだ。
「そう、ご友人があなたの帽子を被っていたために、テロリストは彼を刺した、そうとも考えられます」
「刺した?」
昨日は撃たれたと言っていたが、傷口から判断したということか。誰も近くにはいなかったはず。それに、泰蔵は俺の不注意のせいであんな目に会ったってことなのか。なんてことだ。申し訳ないなんていう謝罪じゃあ、すまない。あの時ふざけ半分に帽子をあいつの頭に載せさえしなければ、もしかしたら…。そんな思いが交錯する。大使館員というこの女は、何を知って、何を知らずに動いているのだろうか、一気にそんな疑問も湧いた。女は話を続ける。
「…もしくは警告の意味。私達は、あなたにテロなどの危険が降りかからないよう身辺を監視せよとの命令のもとに、警戒の任についていました。日本から緊急に人を集めて五人二十四時間体制です。それでも、あんな形になって、一瞬の隙をつかれて、こんな結果になって、申し訳なく思っています」
そう言うと、女のほうが本当にすまなそうに頭を下げた。
「ちょっと待ってください、警告って言っても、何に対してですか、それに二十四時間体制っていったって、何の為にですか? 別に俺、政府要人でもVIPでもなんでもないですよ、ただの一般人をどうして。そんなことをいちいちしていたら、政府予算いくらあっても足りないでしょ」
龍一は少しだけ語気を強め、相手の出方をみた。
「理由は私たちも聞かされていませんが、本省からの指示です。あなたを隠密裏にガードするように、ということです」
「はぁ。俺が上海にやってきたのは三ヶ月後に開かれるFEATという会議の下準備です。ガードの必要ありますか?」
「それだけ、ですか?」
女はなにか知っているぞというふうにかまを掛けてきた。個人的な興味から訊いたのかもしれない。少し隙のある表情を見せた。そして龍一の瞳をじっと見ている。尋問されている気分だ。
「何がどう関係して、そういう話になるんでしょうかね」
「近いうちに日本政府は、中国、満洲、朝鮮、あるいはヴェトナムなどの各国政府とともに共同声明を発表することになっているとのこと。あなたがそこで重要なかかわりをもつということで理解しています。私たち下っ端が知っているのはそこまでです。あなたが一番おわかりのはずですが」
女は、わかっているくせにと言っている。一方、自分が疑われていることも承知している。が、龍一が簡単にガードを下げないことに逆に好感をもった。龍一もそうかこいつらなにか情報を抑えているなと直感する。テロ組織の一味あるいは内通者ということだってありうる。大使館に問い合わせればわかることかもしれない。すると桜井はもっともらしいことを言った。
「ですから、あなたの安全確保は各国政府の要求でもあるんです」
随分話が大きくなってきたようだ。
「はっ、そうなんですか、なんか大げさですね。俺の知らないところで、いろいろなことが起こっているっていうわけか。とにかく森君のことはありがとうございました」
「私たちも多少の油断がありました。これからはより万全を期しますが、とにかく身辺には気をつけてください。できれば夜一人での外出もここでは控えるようにお願いします」
「そうですか、とりあえず気をつけます。こういうことが起こったことは事実ですし。一度日本に引き揚げようかと思います」
そこまで言うと、龍一は頭をこくりと下げ、伝票を持って席を立った。桜井はまだ話が終わっていないと言いかけたが、相手に隙はなかった。
龍一は、その足で二十五階にあるエグゼクティブフロアのビジネスセンターへ向かった。パソコンのインターネットを起動し、どこかにメールを打った。十分ほど待つと、返信がやってきた。そして、もう一度メールを打つ。五分後、またメールが帰ってきた。そこで、パソコンをシャットダウンした。周りに誰の姿もないことを確認して、ひとつ上のフロアの自分の部屋に戻った。
龍一は泰蔵を見舞った後、日本に戻った。
三千世界の真理を感得できるのはタイムトラベラーゆえの特権といえる。その他の全ての人間にとって、それは夢のまた夢のような現実である。だから「決して存在しないもの」となんら変わりはない。そもそもこの世界はそんな都合よく「とっかえ、ひっかえ」できるものではない。だから人々は目の前にある過酷な現実に立ち向かうことができるのかもしれない。
だがタイムトラベラーの場合は異なる。特権との引き換えに、想像も及ばない不幸なことがその身に起こる。異世界の存在の不可思議によって、突如に情緒不安定となったり、自身の実在が説明できなくなったりするのである。あるいは狂人のように振舞うようになるか、さもなくば己を神の子とする倒錯に命を捧げることに己の存在理由を見出すのかもしれない。しかしそのことに自らが気づくことは決してない。
* * * * * * * * * * * * * *
上海で泰蔵が受難した日、龍一は彼からチワン族自治区で出土したという腕時計の形をした土器を受け取っていた。もう二ヶ月ほど前のことである。どのように入手したのか龍一が訊くと、泰蔵は、彼の依頼を受けたエージェントが発掘者の元を訪ねて一万元で買ってきた、と言った。これを聞いた龍一は、時計が本物かどうかは別にしても、こいつはマジで得体のしれない奴だと驚いた。
事件後、一人で上海に留まることに不安を感じた龍一は、泰蔵を病院に見舞った後、すぐに帰国すると智明の元を訪ねた。そして土器の鑑定を急ぎ依頼した。京都大学の研究所や警察庁の科学捜査研究所にも持ち込んだ。が、それが一体何なのか、皆目わからなかった。土器時計は現代科学では手に負える代物ではなかった。
頼りはナオミだった。しかし、神の啓示のごとく、彼女はこちらの都合では現れない。何処にいるのかも、この世界に存在するのかすらも定かでない。それは生身の人間には知らせてはならないもの、と以前ナオミは言ったことがあった。予断が生じる要因全てを排除する為だと言う。その気になればナオミは過去に遡って自分たちの行動に幾らでも干渉できる。即ち、望むべき未来に合わせて過去を書き換えることもできるということ。触らぬ神に祟りはなし。龍一は智明とそんなことを話した。彼女が現れるのを寝て待つしかない。が、そういう時に前触れもなく現れるのがナオミである。
その日、龍一のマンションに、茉莉と美智子が訪ねてきていた。幸次郎の「葛城君と結婚しなさい」は茉莉への最後の言葉となった。ひと月ほど前に仕事を辞めていた茉莉は、以来母の手伝いをしながら、週末になると龍一のもとに来て一緒に過ごしている。
今回は、神奈川に引っ越してくる為の物件調査ということで、EOIの仕事で龍一が外出している間、母娘で横浜市内の不動産会社めぐりをしていた。「やっぱり住むなら海の見える部屋がいい」とか、昼間に立ち寄った山下公園や中華街のランチの話で「今度は絶対あそこの店に行きたい」とか言って盛り上がっている。幸次郎も苦笑いするしかないだろう。「あとは任せた、龍一君に」と。その龍一が「じゃあ、お腹もすいたし、都内にしゃぶしゃぶでも食べに行きましょうか」と口走った矢先だった。ワグナーが部屋中に響いた。智明だった。
今ナオミが現れた、すぐ来られるか?と興奮気味に言った。龍一も「よし!」と思った。行くに決まっている。母娘の希望に輝く瞳は、どんよりと曇った日の灰色の海のように静まり返った。が、すぐに気を取り直した茉莉は「いってらっしゃい。お気をつけて」と言って彼を送り出した。
「ごめん、急用だ。ちょっと行ってくる」龍一もすまなさそうに応えた。
これも、妻の務めだ、と茉莉は自分自身に言い聞かせたのだろう。そうだ、その日の為のシミュレーションだ。龍一は部屋を飛び出た。
この晩に限って道路がいつもより渋滞し、智明のオフィスまで一時間以上も掛かった。
「お待たせしました」そう言いながら、龍一が息を切らして智明のオフィスに入ると、
「待っていたよ。ナオミ君には状況は説明済みだ」
と言って智明が龍一を出迎えた。
ナオミも龍一を見てニコっと微笑んだので、彼も「よっ」と片手を上げた。二時間ほど前から智明とナオミは色々と話し込んでいたらしい。が、時計にはまだ手を付けていなかった。
将に土色をした土器時計は、丸いセラミック調のケースに、連結しない中途半端な長さのハードベルトが付いている。見立てによっては装飾用のブレスレットのようにも見える。円形の風防部はガラスでも貴金属でもない不思議な材質の平面で構成されている。側面にはリュウズが付いている。これはいくら回しても動かない。そしてベゼルだ。野暮ったい厚みがここぞとばかりに土器の風合いを与えている。ここに、Swissの文字が深く刻印されていた。
「これは、本物なのだろうか?」
本物の時計かという意味だろうか。テーブルの上に置かれた土器を見ながら智明が懐疑的なトーンで呟いた。
「すぐに分かります」
土器を手に取り暫く考えていたナオミが確信ありげに言った。どうやら、なにか策があるらしい。するとナオミはそこに自分の腕時計をかざした。通信を試みているのか。いや、それはないだろう。智明と龍一は訝りながら、被さるように身を乗り出した。どうした? 反応するのか? 固唾をのんだ。土器が動き出すとは思えない。一〇秒ほどは予想通り何も起こらなかった。が、突然、なんと土器時計の風防が細くて赤い、そして深い光を放ち、明滅を始めたのである。
「おお! これ、すごいぞ」
龍一が驚嘆の声を上げて智明の顔を見た。智明も「うん」と言いながら、土器を睨んでいる。まさに百年の眠りから目を覚ました瞬間であろうか。見るとナオミの時計のLEDも明滅している。
「私の名前はヨハンソン・G・シュトッカー…」
「わっ、来た!」
突然、鼻っ先の土器が声を発した。龍一と智明がのけ反った。ナオミは「しっ」と口に人差指を当てる。龍一が、そうきたかといった表情で目を丸くした。
…私の名前はヨハンソン・G・シュトッカー。スイス連邦パイェルヌ空軍基地所属の空軍少佐である。二〇三九年よりも以前にこのメッセージに接する者は、私と同じくタイムトラベラーであることを確信している。その前提で今から話をしたい。
…フェルミラボで二〇三九年に実施されたRプロジェクトに参画した私は、欧州で第二次世界大戦が勃発する一九三九年にタイムトラベルすることに成功した。特定されたある人物をその世界から抹消あるいは行動不能にする為である。私はこのミッションを完結する為、そこで一ヶ月以上を要した…。それでも無事任務を完了した私は、仲間たちが待つ元の世界へと帰還した。そう、帰還した。
…しかし、計画の齟齬はたちどころに明白となった。何故なら、私を待ちうけていたのは笑顔の仲間たちではなく、想像すらもしなかった異世界だったからである。当初ミッションが計画された時、その可能性は当然予想されていた。それでも核戦争による人類滅亡の回避が目的であったプロジェクトの立場では、その後の歴史の変遷の多少の誤算は許容したのだ。が、結果は予想をはるかに超えていた。世界は全くの別物に変異していた。
…仮にその別物の世界をベータ・レイヤーと呼ぼう。私は冷静さを取り戻したのち、ある決心をした。何故そのような結果になったのか、そして一九三九年以降の歴史にどのような変化が起きたのかを綿密に研究することにしたのだ。それもミッションの一部と考えた。そして二年かかった調査の末、私はある結論を得た。
…現在、私は一九〇〇年のアルファ・レイヤー、すなわち私が生まれ生きてきた世界線に身を置いている。そして訳あって中国雲南省のとある町にいる。しかし私の存在によって、この世界線もすでに別のレイヤーへと移行しつつある。したがってこの世界の延長線上に私が生まれ育った世界は存在しないだろう。これは古くからある考え方だが、この宇宙は無数に存在する。なぜならそれを認識しているのは生身の人間である私たち自身だからだ。私は身をもってそれを実証した。
…今、私は思考している。無数に存在するこの平行宇宙、その一つに本来あるべき理想の世界が存在しなければならない…。さて、ベータ・レイヤーのことをもう少し話しておこう。その世界が私を驚かせたことのひとつは、そこが異常に遺伝子工学と生化学が進歩した世界であるということだった。二十一世紀初頭、人類は特殊な細胞再生技術を用いて臓器を複製できる技術を持つに至り、人間の平均寿命は百年以上と言われていた。しかし、皮肉なことにその技術こそが人類の争いの種となり道具となる。争いがエスカレートするにつれ、あるグル―プが特定の遺伝子配列を持つ人種を選択的に攻撃する特殊ウィルスを開発した。そして、それを最初に使用したのが東亜アジア連邦という国家群だった。
…これによって人類の生存権は崩壊した。が、言うまでもなく、その世界は私がプロジェクトのミッションを完遂したことによって生起した、いわば私が創造した世界でもある。生じたすべての相違する結果の責任は私に帰すべきものだろう。それゆえに、今、熟慮の末に私は償いの誓いをたてようと思うのである。即ち、このベータ・レイヤーから得た知識と技術を用いて、私の理想とするシータ・レイヤーを創生する。それ以外の世界線には、一切存在価値はない。
…ベータ・レイヤーから帰還した私はタイムトラベルを繰り返した。そしてより以上のモノを手にした。しかし問題があった。タイムトラベルというものは、タイムトラベルマシンという核融合エネルギーで駆動するハードウェア、イッテルビウム原子時計、そして時空計算ソフトウェアなどに依存している。いずれもそこには物理的・計数的な制約が生起する。つまりタイムトラベルには限界がある。さて、それではどうするのか。私は考え抜いた…。
…支那の皇帝の離宮にあったという二体の動物のブロンズ像が今、私の手元にある。犬と鼠だ。これに私は正しき世界を創生する為の鍵と情報を託すことにした。将来この犬と鼠を手にする者が、私の意志の後継者としてやがて神の子となる。その時が来るまでは長い眠りにつくことになるだろう。そしていずれこの二体があるべきところに戻った時、私の願いは具現化し、やがて事は成就する。
…私の命はもう長くはない。生身の人間にとってタイムトラベルを繰り返すことは賢明な選択ではなかった。私の身体の変調もそのせいだろう。サイドエフェクトも測りがたい。
…最後に、山井ドクターのことを話そう。彼は私のボスであり、そして友人である。タイムトラベラーとして私を抜擢したのも彼だ。彼との出会いは偶然だった。私が学生時代に日本を旅した時、彼と知り合った。軍人になる前である。その後、私は二年ほど日本に滞在する機会を得た。日本での生活は単に楽しいだけではなく、私のその後の人生に新しい視点を与え続けた。山井氏の家にも長く滞在した。特に彼の母である佳奈は私を康司の弟のように可愛がってくれた。私にとって彼女は今でも日本の母である。
…康司には私がベータ・レイヤーから持ち帰った技術で生体サイボーグを開発することを進言した。タイムトラベラーを製作することが目的だ。いずれ、そうした生体サイボーグのタイムトラベラーが現れるはずだ。正当な私の後継者はそのサイボーグである可能性が高い。
…二年ほど前に、私の元にある手紙がアメリカから届いた。私の存在を知る者は今のこの世界にはいない。故にそれは未来から来た差出人不明の手紙だった。手紙にはこんなことが書かれていた。タイムトラベルマシンが発明された唯一の世界はもはや存在しない。二〇四五年にその世界で最終核戦争が起こり、フェルミラボのタイムマシンの製造技術とともに北米大陸に存在した人類が消滅したからだという。
…これは私の仮説であり、このメッセージを残す所以でもある。どこか別のレイヤーにタイムトラベルしていた生存者が、私がここにいることを何らかの方法で知り、その悲惨な未来の行く末を私に知らせたのだと考えている。私に未来を委ねるためである…。
土器はここまで延々と話すと、やがて沈黙した。龍一も智明も声が出ない。
「ふうっ、これはなんだかすごいなあ」
智明がようやくため息をついた。そして「どうだ?」とナオミに向かって訊いた。
「間違いありません」
「というと?」
聞いてもよくわからない部分も多い。それに何が間違いないと言うのか。
「ちょっと待って、夢でみたシュトッカーの話とは何がどう違うんだ?」
今度は龍一がナオミに訊いた。
「あれは、一九三九年へのタイムトラベルから帰還して自分に会ったと報告したシュトッカーのもの。今日のこれは、消えたシュトッカーのその後のメッセージ。別人と考えてもいいでしょう」
驚くべきことだ。智明も龍一も考え込んだ。するとナオミが解説する。
「このシュトッカー時計は電波時計ですが、これはタイムトラベルマシンに搭載されている原子時計とリンクしています。タイムトラベラーでなければ必要としないもの。タイムトラベラーが他にいたとしても、一九〇〇年という年代を考えればシュトッカーしか考えられない」
ナオミは自分の電波腕時計を見せながら断定した。そもそも智明と龍一の目の前にいるナオミこそがこの一九〇〇年のシュトッカーの存在の証拠でもあるのかもしれない。が、そこまでは二人とも気が付かない。
「これはとんでもない話だな」
「でも、彼は何故一九〇〇年の中国に行ったのだろう」
龍一は素朴な、しかし的確な疑問を、二人にぶつけた。
「それはわかりません。一九三九年で失敗したあと、別の要因を発見したのです」
「要因と言うと?」
「マンハッタン計画以外の、歴史を修正するインシデントだと思います。それが一九〇〇年の前後にあったと考えるのが適当でしょう。彼も言っていますが、生身の人間がタイムトラベルできる回数は限られている」
やっぱり君は生身の人間ではないのか。思わず龍一と智明は顔を見合わせる。
「成程、でも一九〇〇年前後のその後の世界に相当の影響を与える重大な出来事といったらなんだろう?」
龍一は少し考え込む。
「日本がらみでいえば、日露戦争。中国なら義和団とか、世界では、ロシア第一革命…、米西戦争…」
智明があてずっぽうに歴史の知識をひけらかした。
「そういう結果系のイベントではなく、原因系かもしれない」
龍一が少し違う視点を与えた。
「なるほど、それは的を射ている」智明も認めざるをえない。
「それにしても、シュトッカーの言うシータ・レイヤーとはどういった世界なんだろうか」
「それは今私たちがいるこの世界のことかもしれない。彼の時計が出てきたことからもその可能性が高い。神の子になるかどうかは別にして、イヌとネズミを探し出すことが重要です」
ナオミがいとも簡単なことのように言った。智明と龍一は再び顔を見合わせる。
…あれ、待てよ。龍一は少し考えてから思考を停止した。確か、これまでイヌを追っていた。このシュトッカーのメッセージを聴く前からである。そうだ、そもそも円明園のイヌの像を探せと言ったのは智明だ。そして泰蔵の協力で手掛かりとしてシュトッカーの腕時計に辿りついた。偶々かもしれない。が、あんな事件にあいつを巻き込んだのもそのせいだ。そして今、シュトッカーのメッセージを知る。するとナオミは「イヌとネズミを探せ」だ。いや待てよ、イヌの手がかりは松本にあるんじゃなかったのか。俺は迷路の中を堂々巡りしている。騙し絵の構図にはまり込み、抜け出すことのできない恐怖。そんな感覚が龍一を襲った。これはおかしくないか…。しかし、そう思ったのは一瞬だった。
シュトッカーはイヌとネズミがあるべきところに戻った時、彼の計画が具現化すると言った。これは新しい情報だ。が、それは一体何を意味するのか。イヌとネズミがこの世界に現れて、何が起こると言うのだろうか。