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未來からのハッコウイチウ  作者: 檀D九郎
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第2章 犬と鼠  第2話 「予知」

立夏とは名ばかり。雨の日曜日の遅い朝、ベッドに寝転んでいた茉莉はある人と初めて会った日のことを思い出していた。いつからこの生々しい記憶が茉莉の中にあるのか、それがどうしてもわからない。それなのにこうして一人でいるとその細部が必ず甦ってくる。


高校二年か三年の時だった。茉莉は「たまには気分転換に付き合いなさい」と言う父に誘われ、クラシックコンサートにでかけた。父と二人だけで名古屋芸術劇場まで。とても珍しいことだった。茉莉は父から学業か進路のことでお説教でもされるのではないかとびくびくした。しかも何故かそのときに限ってクラシック。後にも先にもなかった。茉莉の心配をよそに、約二時間の演奏会はなんの波乱もなく、バイオリン独奏の余韻だけを残して終了した。なんだか拍子抜けした。茉莉の口元から「ふうっ」とため息が漏れた。が、そこからが特別なエピソードの始まりだった。

帰り際、茉莉が化粧室から戻ってみると、父が見知らぬ若い男と言葉を交わしていた。知り合いだろうか? 時々うなずくような仕草から「やあ、元気かい」「まあまあです」などと言い合っているふうに見えた。或いは仲のよい親子のように。軽い嫉妬を感じながら近づくと、父は茉莉をその男性に紹介した。そして「こちらカツラギリュウイチ君だ」と律儀にもその男性を茉莉に紹介した。父は以前名古屋市内の私立高校の臨時講師をしていた。その時の教え子だと言った。

「初めまして、でもないんだけど、こんにちは、葛城龍一です」

「あ、はい、どうも。勝山茉莉です」

「先生のお嬢さん、随分大きくなられましたね」

葛城は父を見て言った。どうやら前から私のこと、知っているみたいだ。

「おかげさまで。でも勝手に大きくなったんだ」父は笑った。

茉莉はコクリと頭を下げながら、この人結構タイプかもなどと感じて赤面した。クールな感じでとっつきにくい雰囲気を持っていたが 精悍なスポーツマンタイプで内面から湧き出る輝きを感じさせる。時々日焼けした胸元からシルバーのネックレスが見えたりするところが少しキザ。これが第一印象だった。

すると父は何を考えたのか、これはいい機会だから今から一緒に食事にいこうと言い出した。そして何の摩擦もなく葛城も「いいですねえ」と同調した。彼のクルマは父と茉莉を乗せると、郊外のしゃれたファミレスへと向かった。茉莉はこんなことならもう少し真剣に服を選んでくればよかったと後悔し、気まぐれな父をちょっぴり恨んだ。

彼が、元プロのサッカー選手で欧州でもプレイしていたということはそのとき知った。斜め前に座った彼と時々目が合うと、やっぱりタイプだなと思う。父と葛城の話題は取り留めのない昔話ばかりだったが、茉莉は思いがけず楽しいひと時を過ごした。

食事が済むと、葛城のクルマで家の前まで送ってもらった。「ごちそうさまでした」「いや、こちらこそどうもありがとう」…そんな別れ際の、何気ない父の次の言葉に茉莉は驚いた。

「今日は葛城君に会えてよかった。近い将来、君には茉莉の面倒をみてもらわなければならない。そのときはよろしくお願いします」

えっ、今お父さん、なんて言ったの? 聞き違い? いや、そんなことはない。確かに言った。葛城が「よくわかりました」と言うふうな返事をした。 

(ちょっと、お父さん何を言ってるの。恥ずかしい。良く知らない人に向かって私の面倒をみてくれとか、意味不明だよ)

この人がうちの養子にでも来るって言うこと? 歳も離れているし。ありえないでしょ。多分なにか別の意味だよね。偶々にしてはどこか調子が良すぎた。最初から仕組まれていたような気がしてならない。でも、何の為に? 父に確かめるという一番手っ取り早い選択肢は何故かはばかられた。

別れ際の二人の言葉のやり取りが今でも茉莉の心の底に引っかかっている。

「茉莉、ご飯ですよ、茉莉!」

母の声が階下から聞こえた。魔法が解けるように「ふうっ」とため息をつくと、茉莉はベッドから起き上がり時計を見た。


* * * * * * * * * * * * * *


この日、葛城龍一は名古屋にやってきていた。高校時代の恩師の家を訪れる為である。恩師の名前は勝山幸次郎といった。名古屋駅から私鉄を乗り継いで、今、知立へと向かっている。龍一がこの電車に乗るのも久しぶりだった。相も変らぬ抑揚のない車内放送。車窓を流れる街の新しい風景。全てが懐かしく感じられた。どこかの駅から乗り込んできたユニフォーム姿の野球部員たち。彼らに優しい視線を送る龍一の心の中に、サッカーに明け暮れた若い日の思い出が次々と蘇ってくる…。


高校時代、龍一は勝山や進路指導の教諭から東大受験を強く勧められていた。が、龍一にとっては小学校の頃から非凡な才能を見せていた大好きなサッカーで、自分がその世界でどこまでやれるのかということが人生最大の関心事だった。チームは全国レベルではなかったが、龍一はやれると思った。どうしても試したい。そんな思いは強くなる一方だったが、高三の時、横浜ドルフィンズにスカウトされた。そして翌年、晴れてJリーガーとなったのである。一九九三年、日本初のプロリーグ発足の年だった。

文武両道で龍一の選択肢は他にもあった。周囲の目からすれば、エリート官僚になっても、いずれは一流企業の重役になっても、あるいは父親のように地元政治家の秘書になって将来国会議員を目指してもよかった。だがそのような世俗的な人生には龍一は最初から興味がなかった。

プロになると試練はほどなくやってきた。彼が所属したチームは三年後、龍一がJリーグでシーズンベストナインに選ばれたその年に経営破たんし、川崎ボーダーズに吸収された。何を考えたか彼はそのオフ、単身ドイツに渡りブンデスリーガのチームに移籍した。当然、待遇は落ちた。まだ日本人プレイヤーが海外で活躍しはじめる前の時代で、日本のスポーツマスコミこそは騒いだが、現地のメディアにもそれほど注目はされなかった。最初の二年はベンチに入ることすら容易ではなかったし、同じような境遇の一軍半の選手たちからは「わざわざ東洋の田舎猿が何しに来たんだ」といった敵意の視線を浴びもした。しかし三年目のシーズン後半、レギュラーのミッドフィルダーが家庭の事情かなにかで戦列を離れたのをきっかけに次第に試合に出られるようになった。翌年にはパスの精度とゲームの大局観を読むセンスを買われレギュラーポジションを自らの力で勝ち取った。

ところが、そのような僥倖も長続きはしなかった。これからという二〇〇〇年の欧州チャンピョンズリーグの初戦で相手ディフェンダーの不必要なタックルを受け、古傷であった右膝の靭帯を負傷した。その後何年かはリハビリに専念しなければならなかった。当時日本代表候補の呼び声もあったが、実際に召集されることは結局一度もなかった。アジアで初めて開かれた日本ワールドカップの二年前のことである。


今日は大切な話がある。知立駅からタクシーで五分ほど走った。野鳥のさえずりが晩夏ののどかな田園風景に秋の気配を与えている。閑静な郊外の、川沿いに建つ住宅街に恩師勝山の家はあった。八十年代に地元のディベロッパーが開発した分譲住宅で、売り出し早々、勝山は多少の無理をして日当りのいい一戸建てを購入した。以来、妻の美智子と一人娘の茉莉の三人で暮らしている。茉莉は、日本人離れしたすらっとした肢体と、まつ毛の長い切れ長の目が特徴的な娘だった。龍一が高校を卒業してからも昔の仲間と何度か訪れたことのある家だ。約束の時間は決まっていなかったが、暗くなる前には伺いますとメールで伝えてあった。

タクシーを降りた龍一はやがて恩師の家の前に立った。この家のたたずまいさえも青春のスナップ写真の一枚のような気がする。玄関の呼び鈴を鳴らして暫く待った。が、何の応答もない。不在なのか。いや、今日自分が来ることはわかりすぎるほどわかっている。それとも、元Jリーガーの教え子が久しぶりに来るというので、奥様とあわてて買出しにでも出かけたのか。不在にしても、すぐ戻ってくるはずだ、そう思って、近くを散策しながら時間を潰すことにした。まだ三時を少し回ったところだ。来るのが少し早すぎた。確かに買い物の時間だ。勝山のケータイにメールを打ち、来着を知らせた。

幼稚園の子供を後ろに乗せた若い母親の自転車がゆるい上り勾配をゆっくり進んでゆくのが見える。暦の上では秋とはいうものの日差しはまだ強く、遠くのあぜの片隅に若いがまの穂が風になびいている。一時間ほどして戻ると、もう一度玄関の呼び鈴を鳴らした。だが、誰もでない。お土産に買った高級チョコレートはもう溶けてしまっている。玄関先に座り込んだ。気がつくと住宅街の白壁は斜陽を受けて朱くなりはじめていた。名古屋の方角には巨大な入道雲がみえる。メールの返信は未だにない。

龍一は「はぁ」とため息をついて立ち上がった。仕方ない、また来るとするか。まさか一家で夜逃げでもなかろう。何度も振り返りながら、来た道を歩いて駅に向かった。大した距離ではない。どこかですれ違うかもしれない。多分、自分が日にちを言い違えたのだろう。あり得ないことだが、後々の行き違いの言い訳はそんなところだろう。

龍一が川崎の自宅に戻ったその晩、ケータイが鳴った。いつものワグナーが不吉な音色で響く。それは勝山幸次郎からではなかった。着信画面に「茉莉」と出る。嫌な予感がした。「元気かい、しばらく会ってなかったね」そんな挨拶からはじめようと思って受信ボタンを押した。

「はい、もしもし、葛城です」

茉莉が先手を取った。

「葛城さん、お久しぶりです。こんばんは、お元気ですか? 勝山です」

「あーこんばんは、茉莉ちゃん? うん、勿論元気だよ。キミは?」

「はい、私も大丈夫です。すみません、突然。今日は、うちにおいでになるはずだったと思いますけど、父とはお会いになりましたでしょうか」 

大丈夫と言いながら、茉莉の声は緊張感を帯びている。それは自分に対してだろうか、それとも…。

「あっ、いいや。実は夕方伺ったんだけど、どうやらどこかで行き違いがあったみたいだ…」 

会えなかった。そう言いながら、何でそんな訊き方なのか、と龍一は不思議に思った。

「そうですよね」茉莉の落胆する声が届く。

「やっぱり今日で間違いなかったかぁ」 

最初の目論見は外れて、よそよそしい会話の出だしになってしまった。茉莉と話をするのが久しぶりといえば久しぶりだった。それに茉莉ももう子供じゃない。仕方なく「お留守で先生に会えずに残念でした」と付け足した。

「すみません、どうも父が今朝からどこかへ行ったきりで、戻っていないんです、家に。もしかして急に予定を変えて、そうしたら、どこかで会われたのかなと思いまして」 

茉莉は動転しているようだ。だったら力にならなければならない。

「ケータイにはかけてみた?」

「いいえ、母にはすぐ戻るといって、ほんとにタバコか本を買いに行く感じだったみたいなんですけど、お昼過ぎても戻らないし。ケータイを持って出なかったくらいで、母もクルマに轢かれてでもいるんじゃないかって心配になって、探しに出てたんです」

話しているうちに、心細さが増したのか、茉莉の声は小さく震えている。

「今、母と警察なんです。病院とかあたってもらっていますが、それらしき身元不明で病院に運ばれた人とか、迷い大人はいないみたいなんです。迷い人なんかに、なるはずないんですけど。警察の人からも思い当たるところへは全部あたってみるように言われて、今当たっているんです」

「そんなことになっていたなんて、心配だ。でも変だな、先生が黙って家を飛び出すなんて…」 

茉莉の父を心配する気持ちが龍一の心に伝染しはじめる。が、やはり肉親ではない。うっかり「何処かで酒飲んで酔っ払っているんじゃない」とジョークを言いそうになった。が、これは今の茉莉の心境を考えると、楽観的すぎる。バカなことを言ってふざける雰囲気ではない空気は電話の向こうから十分伝わってきている。

「ごめん、できれば一緒に先生を探せればと思うけど」

「あっ、そんなつもりで電話したわけじゃないですから、すみません。逆にご心配おかけして」 

茉莉の龍一に対する話し方がよそよそしく聞こえた。

「きっと今頃は家に戻られて、みんなどこへいったんだ、飯の支度もしないで、なんて怒っているかもね」

気休めに過ぎない。

「それはないと思います。昨日の晩、龍一さんが今日来るのを楽しみにしていましたから」 

茉莉は気持ちが落ち着いてくるのを感じた。葛城が龍一という呼び方になった。やっぱりこの人と話すと安心できる。ノスタルジックな感覚も入り混じる。それだけで、少ないやり取りなのになにか明るい希望が見えるのだ。

「そうなんだ。大丈夫、お父さんはすぐに元気に戻ってくるから」

こうとしか言いようがない。こんな状況で茉莉のほかの気持ちを探るような話をするわけにもいかず、「また今度ご飯一緒に食べに行こう。きっと直ぐに先生は帰ってくるから大丈夫だ」

と似たようなことを繰り返すと龍一は電話を切った。慰めにもならなかったかもしれない。どうやら、なにかが進んでいるらしい。そんなことを考えながら、ふと茉莉をデートに初めて誘ったときのことを思い出した。五年も前のことだろうか。きっと茉莉も同じことを思い出しているに違いない。


* * * * * * * * * * * * * *


二〇〇三年の冬も終わりかけていた季節だったろうか。ある週末の午後、電話が鳴った。家族は皆何処かへ出かけて留守である。ひとりでいた茉莉が電話を取ると龍一だった。

「もしもし、葛城です、茉莉さんですか?」

「あっ、そうです。この前はどうもです」 

どきっとして、次に家にいてよかったと思いながら、ファミレスで父と一緒に食事をした時の礼を言った。龍一が用件を切り出す。

「実は君に用があって電話しました。今何しています?」 

私に用って、それって何?

「ええと、まぁ、今日一人なんで、夕ご飯どうしようかとか考えながら、勉強飽きたし、ぼうっとしていました」 

えっ、なんか恥ずかしい、何? 夕ご飯どうしようかなんて、誘ってくださいって言ってるみたいで、やばい。茉莉は言ってから後悔すると勝手に顔が赤くなった。電話の向こうの龍一にそこまではバレていない。

「あっそうなんだ。もしよかったら、僕、今名古屋に来ているんだけど、一緒にどうですか? たまには気分転換も必要だよ」

「あっ、えっ、何をですか?」 

食事に決まっているだろう。でも、一応確認しないと、はしたない。

「もし時間あったらでいいんですよ。ご飯どうかなって思って」

「あっ、そうですよね。なんか、悪いです」 

声が上ずっているせいで、いちいち「あっ、あっ」と言わないと次がでない。しかも不必要な間が空く。

「全然大丈夫です。もっと茉莉さんとお話もしてみたいなって、この間から思っていたんです」

「えーっ、そうなんですか。なんか、うれしいかもです。でも葛城さん、有名人だし」 

茉莉は「私はあなたの遊び相手には向きませんよ」と言外に言っているつもりだが、一押しされたら、たぶん抵抗できない。要は、一押しされたい。でも、自分はガキだし、どうしよう。

「全然有名とか、忙しいとかはないですよ。それより、どうですか、付き合ってもらえるかな」 

なんか、自信たっぷりだなー、もしかしてプレイボーイ?

「あっ、はい、大丈夫だと思います」 

別にいやじゃないのだから、そう返事するしかない。でも、電話一本でのこのこ出て行くのって「どーよ」って感じ。たぶん向こうは、ただの子供扱いしているんだ、きっとそうさ。

「じゃぁ、今日もクルマなんで、一時間後にお宅へお迎えに行っていいですか?」 

えっ、そんな早くに?

「あっ、はい、じゃぁ、仕度して待ってます」 

晩御飯には、まだ早くない?

「じゃぁ一時間後に」 

やっぱ早いよ。やばっ、急がなきゃ、頭もぼさぼさだし。ほわーんとした茉莉の週末が急にあわただしくなった。こういう忙しさならまあいいか。葛城さんはお父さんの教え子だし、問題ないよ。あっという間に、ドキドキのルンルン気分に早替りだ。母にケータイでメールする。

「ちょっと葛城さんと出かけるね。いい?」 

返事はすぐ来た。

「いってらっしゃい」

しかも絵文字のガッツポーズ付き。それだけ?

龍一の提案で、夕ご飯にはまだ早いからと時間潰しに映画を見ることになった。トム・クルーズ主演のマイノリティ・レポートというタイトルのハリウッド映画だ。五十年くらい先の未来の世界で、殺人予知による犯罪防止システムによって、自身が殺人者になることを知った刑事が警察に追われる羽目になる。そして逃亡しながら真実を少しずつ解明していき、最後には汚名を晴らすというストーリーだった。たぶん。茉莉は時々字幕を飛ばした。

「未来が予知できたら最高だね」 

映画館を出ると龍一が言った。二人で映画を観たことで確実に距離感が縮まっている。龍一の話し方は、茉莉に年の差を意識させない。

「先のことが分かりすぎても、つまんないかも」茉莉は茉莉なりの感想を言った。

「どうして?」茉莉にもっとしゃべらせたい龍一。

「やっぱり分からないほうが私は好き。次何が起こるかわからないから、人生って面白いんじゃないかなぁ。分かっちゃったら、その時点で意欲半減。ていうか十分の一くらいになっちゃう。大学受験の結果が分かっちゃったら、結構落ち込むかも」

茉莉は、少し悲観論者のようだ。

「ははっ、悪いほうに考えすぎだよ。でも、先が分かれば、危険回避できるし、ベストの選択が可能になるけど、駄目かな」龍一は楽観的だ。

「でも、それって本当に予知っていうのかなぁ。私は、やっぱりわからなくていい。男の人って考えがちがうんだな」

「確かに予知したことが現実にならなければ、それは本当に起こるはずのことかどうかは、永遠に謎ってわけだね。ある意味回避した時点で、予知は無効だな」

確かに龍一の言うとおりだ。

「難しいことは分からないけど…」

茉莉は少し考え込む。

「じゃぁ、ひとつ予知しようかな」

龍一が意味深な顔をする。茉莉は確実に誘導されている。

「何?」

「今から僕たちは、おいしいステーキを食べる」

「…」茉莉の瞳に星が流れた。そういうことか。話がうまいなぁと茉莉は思うが、言葉にならない。

「…ってのはどう? 肉嫌いじゃないよね。育ち盛りだし」少し意地悪に龍一が言う。

「はは、そういう予知ってのはいいかも」 

でも、育ち盛りっていうのは余計でしょ。気にしてんだから。一応女子なんですけど。茉莉は心の中で少しだけすねて見せた。

「じゃ、行こうか」と龍一が言うと、茉莉はコックリと頷いて黙って龍一のあとに従った。

茉莉を助手席にエスコートすると、龍一はクルマを名古屋方面に走らせた。茉莉はどこに連れて行かれるのか少しだけ不安。でも、この人の匂いは好き。

千草区のカウンターしかないショットバーのようなステーキハウス。個性的でマジシャンのようなマスターが二人を出迎えた。あっ、いらっしゃいというマスターの態度からして、龍一は常連のようだ。茉莉にもわかる。

「葛城さん、東京に住んでいるんですよね」 

カウンター席に腰かけるなり、茉莉は訊いてみた。

「そうだね、今回は昔のJの仲間で、病気で入院しているやつがいて、お見舞いに来てたんです。まぁついでだけどね」

やっぱりそんなにいつもは会えないんだと思う。

「そうですよね、以前は有名なJリーガーだったんですよね。父から色々聞きました。絶対大学いけって言うのに、サッカー選んだやつがいたとかって」

「結構モテたよな…、おっといけね」 

ざっくばらんなマスターが茶々を入れる。が、茉莉が龍一の新しい彼女というには幼すぎるようだ。

「そんなに長くはなかったから、まぁ道半ばだったかな。もう少し続けられたらよかったんだけど」 

龍一はサッカーのことに思いを馳せていた。

「今は何をされているんですか」

茉莉にしたら自然にわいた疑問だ。

「今は色々ボランティア活動。みんなを元気にしたいんだ。やることがたくさんあって。茉莉さんにも手伝ってもらおうと思っている」 

手伝うって、受験生の私には無理だよ、と茉莉は思うが、龍一の言っていることはどうもニュアンスが違った。マスターがカウンターの目の前の鉄板で、今まで見たこともない分厚いステーキを焼きはじめた。油をひいたり、肉を切ったりひっくり返したりするのを珍しそうに眺めながら、茉莉は龍一に向かって受験生の悲哀、学校の友達との日常の出来事など、普段のストレスを一気に吐き出すかのようにお喋りした。龍一は黙って聞き役に徹し、いちいちやさしく頷いた。

今まで食べたこともないようなとろけるステーキを堪能して、おなかいっぱいになった二人が茉莉の家の前に着いたのは夜の十時前だった。やっぱり大人はちがうなぁというのが茉莉の素直な感想だ。

「また付き合ってもらえるかな」

礼を言ってクルマから降りようとする茉莉に龍一は言った。

「はい、喜んで。今日のステーキ、マジおいしかったです。いつもスーパーで買ってきて食べるやつとは大違い」

茉莉は言ってからしまったと思い口元を手で覆った。龍一は笑っている。

「じゃぁ、今度のステーキはもっとおいしいかも。これも予知だ。回避しちゃ駄目だよ。次はもう少し長く付き合ってもらおうかな」 

茉莉の手を握った。握手のつもり?

「!」 

そんな、急だよ、やだ、手のひら汗ばんでいるから。

「あれ、手が結構汗掻いている」 

うわっ、そのままいうか! 思わず恥ずかしさのあまり茉莉の額が龍一の左肩に倒れかってそのまま触れた。次の瞬間、龍一は茉莉の髪をなでながら言う。

「いい匂い。またデートしよう」 

龍一の息遣いが耳元で囁いた。ぷっ、ステーキ肉の匂いじゃないの? 

「…」 

しかし無言のうちに頷いてしまった。これはやっぱりデートだったんだ。

「先生によろしく。もう遅いし、今度遊びに来ますって言っておいてくれるかな」

「は、はい、おやすみなさい。今日はご馳走様でした」 

気が動転して、声が低くなっている。ばっかみたい。大人にからかわれているだけだよ。

「近いうちにまた連絡するね。あっ、でも勉強はしっかり集中しよう」

また、無言で頷いた。体の芯がきゅっと引き締まるような感じがした。そうだよ私受験生なんだけど…。だよね。それに、年離れすぎているし。茉莉の頭の中は期待とそんなわけないという考えが行ったり来たりしていた。まったくもぅ、早く受験、終われよ~。

「ただいまぁ」 

玄関を潜ると茉莉は恐る恐る小さな声を出した。奥のほうから、大丈夫だったぁ?とか言っている母の声がする。何が? 大丈夫でしょ、と聞こえないように返事する。

「おっ、行ってきたかい」 

居間にいた父が茉莉を見るなり言った。

「帰りが遅いっ!」なんて開口一番言われると思ったら、父はテレビを観ながら、なんだか嬉しそうにしている。えっ、やっぱりこれも仕組まれているってか? なんか、気味悪いな。こうなったら早く自分の部屋に逃げ込まねば。廊下をそろりそろりと歩いた。

そうだよ、集中集中。龍一の言った言葉を思い出していた。茉莉はこの先自分に待ち受けている運命をまだ知る由もない。


一年後、茉莉は希望通り名古屋の大学に進学した。それから入学祝とか、成人式とか、なにかの節目の時に限って龍一がやってきては、茉莉を誘って食事に出かけたり、ショッピングに付き合ったりした。そして二〇〇八年の春大学を卒業すると名古屋市内の小さな会計士事務所に就職した。以来税理士を目指して勉強している。


* * * * * * * * * * * * * *


結局、父は翌朝になっても戻らなかった。茉莉は母に諭されて、いつも通りの時間に仕事へと出かけた。仕事が終われば夜九時前には帰宅する。この夜もそうだった。母からメールで父がまだ戻ってきていないことは知っている。オフィスを出たのは午後七時過ぎだった。茉莉はいつものように知立駅から豊田市行きのバスに乗った。月なのか倉庫の大きな照明なのか、揺れる車窓から見える狭い空を明かりが行ったり来たりしている。加藤美容室前でバスを降りた。

この辺りは所々街灯があるものの、緑地公園や保育園の周囲は夜になると少し寂しくなる。茉莉は、家路を急いだ。街灯の一つが切れかかってチカチカ点滅している。母の不安は今が限界なのだろう。茉莉は知立の駅に着いた時、母に電話した。母はバス停まで迎えに出ると言った。この上茉莉になにかあったら大変、そんな気持ちからだろう。が、バス停に母はいなかった。

家までは徒歩で五分。まさかそんなと思いながら、茉莉は一人バスを降りると、うつむきながら歩きだした。午後九時五分前だ。家まで五分。なにかが起こる距離でも場所でもない。家々の団らんの灯りを頼りに住宅地の広い道を足早に進んだ。最初の角を曲がる。そして後ろを振り向く。誰もいない。今日に限って何をそんなにびくびくしているのだろうか。自分でもわからない。脇の下から汗がにじみ出た。母は迎えに出ると言ったのに、どこに行ったのだろう。それが不安を増殖したのかもしれない。

いつもの黒っぽい家の角を曲がる。もう一度後ろを振り向いた。身体がビクんと反応した。

「ひぇ」

誰かがいる。黒い人影だ! こちらを窺っている。声にならない悲鳴が茉莉の肩を激しく揺らした。やっぱり誰かがいる! でも、さっきまでいなかった。いやいや、犬の散歩かなにかだよ。犬はどこ? 影は二十メートル後方だ。茉莉は動揺を見せまいと、毅然と前に向きなおり、そして歩いた。後ろはもう怖くて見ることができない。しかし茉莉の願いを嗤うように、靴音がせわしく、そして大きくなる。距離が縮まっている。しかも意思をもって茉莉に歩調を合わせている。やばい! 茉莉が立ちどまる。すると影も止まった。次の瞬間、茉莉は駆け出そうとした。「ちょっと」影がそんな声を発した。イヤ、付いてこないで! そう心の中で叫びながら二、三歩走り出したところで、いつの間にか間を詰めた後ろの影が茉莉に飛びついた。そしていきなり左肩にかけていたバッグのベルトを掴んだ。堪えきれず後ろにのけぞった。

「ぎゃっ」茉莉の声が出た。

影は無言だ。女の子らしくしている場合ではない。掴まれたベルトを思いっきり引っ張り返した。影は多少のバランスを崩すが、手を離すだけのインパクトはない。護身術を学んでおけばよかったなどと瞬間的に考える。が、今は手遅れだ。影は音も立てずに、反対の手が茉莉の後ろ襟に延びる。髪の毛と襟とを同時に掴まれた。もがき抵抗する。髪の毛が何本もバリバリと音を立てて抜けた。影は茉莉を引きずり倒そうとする。ハイヒールが片方脱げて飛んだ。意図は明白だ。狂気すら感じる力だ。冗談でやっているとは思えない。

「嫌っ、やめてぇ、くださいっ」

茉莉は相手を威嚇するつもりで、普段は絶対出さない悲鳴のような大声をあげた。助けて! このままでは、なにかされる。誰か、出てきて!

その時、前方の少し離れた曲がり角の植え込みにクルマのヘッドライトが映った。すると一台のセダンがこちらに曲がってきた。一瞬二人の姿がライトの中に浮かび上がった。影は驚いた。握力が緩んだ。今だ。茉莉は肩を回して影の手を振りきった。こちらに向かってくるかに見えたクルマは最初の角で再び曲がるとあっという間に視界から消えた。影が再び攻勢をとる前に、茉莉は持っていたバッグを横の植え込みに思い切り投げ込んだ。バッグが目当てならそっちに行くはずだ。欲しければくれてやる、そんなもの。そして、脱げた右足のハイヒールを残して、思いっきり走った。が、半分腰が抜けて、足は空回りし、中々前には進まない。呼吸が瞬時に上がり、はぁはぁ肩で息をしている。こんな時、大声を出せとよく言うが、恐怖が先で声を出す力がでない。とにかく前に進むしかない。片足だけのハイヒールがかっさかっさと滑稽なリズムを刻む。

しかし、影はバッグには目もくれず、その音を追うように執拗に茉莉の後を追いかけてきた。もうあと五十メートル足らずで家だ。この距離をこんなに遠く感じるなんて。あっという声が口からこぼれる。そして足がもつれて茉莉は転んだ。左膝を地面に強打した。擦れて膝小僧から血が出たかもしれない。起き上がれず肩を丸めて地面に両手をついた。家は目の前だと言うのに、変質者に立ち向かう気力なんかない。勝ち誇った影が速度を緩めて追い付いた。そして背後で立ち止まった。茉莉が「おかぁーさぁーん」と大きく声を上げようとした刹那だった。

「ちょっと、大丈夫かい?」

影が喋った。何を言われたのか考える余裕もないまま、茉莉は「もー、やめろって」と男のような口調になって開き直った。反応がない…。影を見上げた。すると、

「おいおい、すごいなぁ。どうしたの、大丈夫? こんなところでコケたのか?」

影はそれまでの暴力的な態度とは裏腹に、優しげな冗談交じりの声を茉莉に投げた。茉莉はその声のシルエットをもう一度見上げた。「えっ何で」と思った途端、茉莉の体から一気に力が抜けた。安堵すると「う、うっ」と半泣きになり言葉が出なくなった。それとも只甘えているのか。

それは龍一だった。

「茉莉ちゃんだろ、一体こんなところで、どうした?」

龍一は、もう一度同じようなことを言いながら膝をつくと、茉莉を抱え上げるようにして立たせた。あれ、靴がない。片足は?という龍一の問いかけは茉莉の耳には入らなかった。

家は目の前だ。思い出すように、お母さんはどこ? こんなとき、何をしているのよ、と茉莉が心の中で母を詰ったその時、その美智子が家から暗い路上に飛び出してきた。そして辺りを窺う。「茉莉かい?」すぐに二人に気がつくと小股で駆け寄った。そして母は嬉しそうに言った。

「茉莉! お父さん、戻ったよ、帰ってきたよぉ」

茉莉の硬い表情がポッと緩んだ。弾みで横にいた龍一の腕を無意識に掴んだ。母は、そこで初めて娘の只ならぬ様子に気付いた。そして強い口調になった。

「ちょっと、あなた、一体どうしたの?」

心配そうに娘の肩に触れ、顔を覗き込んだ。表情は暗くてわからない。

「変な奴に、追いかけられた…。でももう大丈夫だから」茉莉は答えながら鼻を啜った。

やがて外の話し声を聞いた父も飛び出してきた。


出窓の置き時計がカチカチと音を立てている。美智子が茉莉の片手をずっと握っている。茉莉はさっき味わったばかりの恐怖を、膝の包帯に視線を落としては思い出し、時折肩を細かく震わせている。涙が止まらない。何故父も母も警察に通報しないのか、それも不思議だ。それぞれの思惑を胸に抱いたまま、幸次郎、龍一、そして茉莉と美智子、四人は言葉を発しない。母が入れたコーヒーもすでに冷めている。やがて茉莉の様子を見ながら幸次郎が最初に口を開いた。

「実は、昨日突発的なことが起きて、それでみんなに心配をかけた。すまない」

妻と娘の顔を見比べながら言った。

「ふぅ、そうよ、お父さん、昨日は一体どこで何をしていたの?」

涙眼の茉莉がきっと父を睨み、そして詰問調で言った。ずっと父のことが心配だったのだ。自分が暴漢に襲われたのは偶発的かもしれない。でもお父さんの場合はそうじゃないでしょ。目がそう主張していた。

ところが、幸次郎はその問いに答える代りに、とても奇妙なことを言い出した。

「わかった、わかった、が、その話はあとだ。お前が無事なのだ。それがなにより。だから、お父さんのことの前に、茉莉、今夜はもっと大切なことをお前に話す」

茉莉は眉を上げて「えっ」と不思議そうな顔をした。お父さんがどこで何をしていたかをみんなが聞きたいって言っているのに。それより「もっと大切なこと」って何? 訝る娘に父は言った。

「我が勝山家についての話だ」

「勝山家? え、何で、急に、そういう話になるの?」

「いいから、聞いてほしい。大いに関係がある」

父がそこまで言うのなら…。仕方なく茉莉はとりあえず父が何を言い出すのか聞くことにした。が、そう言って語り始めた父の言葉は、茉莉にとっては驚きのカミングアウトであった。信じれば、の話である。が、それは紛れもなく勝山家の秘中の秘とも言えそうなその出自についてであった。聞いたことも、想像すらしたこともない話…。幸次郎は居住まいを正した。

「先祖に中国大陸で活躍したある有名な人がいた。その人はお前の曾祖父に当たる」

茉莉は一瞬何の話になるのかと戸惑い、言葉の意味を探った。が、その言葉はその言葉通りである。

「私の曾祖父って、何それ、初めて聞く」

「そうだ、初めて話す。お前の曾おじいちゃんは、中国人だった」

「えっ、じゃあ、その血を勝山が引いているってことは、私も中国人ってこと?」

「そういうことだ。厳密には八分の一だが」

戸籍上、自分が日本人なのは茉莉もわかっている。あくまでも血の話だ。父もわかって答えた。

「じゃぁ、お父さんとお母さんも中国人なの?」

矛盾した質問だが、茉莉は混乱している。いや、今度は戸籍上の話だろうか。

「お父さんもお母さんも、れっきとした日本人だよ。今話した通りお父さんの祖父が中国人ということだ」

曾祖父が中国人。四人いる曾祖父のうちの一人がそうだというだけの話だ。つまり血は八分の一。「へー、そうなんだ」程度のことである。勿論、会ったこともない。現代日本人の半分以上が大元を辿れば大陸方面から来ていると言ってもおかしくはない。しかし父の話はそれだけのことではなかった。

「汪季新って、知っているか? というより汪兆銘といったほうがいいか」

幸次郎がその中国人の名前を言った。

「ん? なんか聞いたことある名前。えーっと、たしか…なんだっけ?」

「中華民国の第二代首相だよ」

龍一が口を挟んだ。茉莉は首を傾げてから、はっと何かに気づいたように目を大きく開いた。

「そんなぁ」

茉莉は母の顔を見た。美智子もそうよといった顔をしている。

「本当だ」

父の言葉に茉莉は眉間にしわを寄せた。

「マジで? 私のひいおじいちゃんってそんなに偉い人だったっていうの?」

「へぇ」が「うそっ!」に変わった。父がもう一度頷いた。祖父の話まではなんとなく聞いたことがあったが、曽祖父が歴史の教科書にも登場する偉人という話なのだ。勝山家って一体なんなの? 聞いてないよ。

「私のお祖父さんが、東京の大学に留学していた時にお祖母さんと知り合い、そして付き合った。それで生まれたのがお前のお祖母ちゃんというわけだ。それでだ…」

幸次郎はそこから堰を切ったように茉莉がこれまで聞いたこともない話を次から次へと繰り出した。母も龍一もそうそうといった様子で話を聞いている。そんなぁと反応するのは茉莉だけだ。一時間は二人で問答を続けただろうか。


「話は大体こういうことだ」

「お父さん、大体って言ったって、すごい話すぎない? 全部ホントだって言われても、あーそうすごいねっていうレベルじゃない」

興奮している。するなという方が無理だ。ともかく茉莉が驚かされたのは、八分の一とはいえ茉莉自身が中国大陸の著名な人物の血を受け継いでいるということだ。が、更に驚くべきことを父は並べ立てた。茉莉は大勢の人々の期待を背負う宿命にある、ということ。そして近い将来、曾祖父の志を受け継いで中国へ渡らなければならないということ。だから幸次郎自身はそれらの目的の為にずっと生きてきたという話であった。何で私が? ことそこに至っては、開いた口が塞がらなかった。父はずっと隠し続け、そして今このタイミングでなんの躊躇も尾ひれもなく言い切ったのだ。話した方は、すっきりしたかもしれない。が、茉莉からすれば、話は尾ひれだらけだ。すっきりしない。いや、納得できない。無理だ。

「大体、なんでよりによって私が中国へ行かなければならないの? もしそうだったら今まで生きてきたことは何なのっていう話でしょ」

そう言うとさっきとは違う理由で茉莉の目に涙が滲んだ。それに、父の話は本当にこれで終わったのか、いやまだ続くのか、話が飛躍しすぎていて、何かをはぐらかす為に冗談を延々まじめな顔で父が言っているようにも聞こえた。茉莉には判断がつかない。

「今まで黙っていたのはすまないと思う。でも、もっと前に話していたら、どんな危険や災いがお前に迫るかもわからなかった…」

父も娘の気持ちを察してそのように言った。

「今までの話、それはお母さんもすべて知っていたことだったの?」

茉莉は母を見ながら父に訊いた。父は頷いた。これまで何かおかしいと思っていたことのいくつかはこれで説明がつくのかもしれない。子供の頃から、人前での立居振舞とか、変なところで躾が厳しかったのもそういうことと関係があったのか。まずは茉莉の中で消化しなければならない新事実が多すぎた。

「えっ、じゃあこの話はいつから始まったことなの?」

当然の疑問のひとつ。まさか誰かの気まぐれな思い付きではないだろう。

「お父さんとお母さんの仲人だった人、瀬上龍之介さん。名前くらい聞いたことがあるだろう。お父さんがまだ若い頃、結婚するずっと前のことだ。ある日突然、その瀬上さんがオヤジのところにやってきて、息子さんに是非いい人を紹介したいと言った。そこからすべてが始まった、と言ってもいい」


幸次郎の父は兆治といった。兆治は母親の手一つで育てられた。兆治の父、兆銘が息子の顔を一度も見ることもなく、日本での留学期間を終えると大陸へと去ってしまったからだ。そのことで兆治は父親を恨んでいた。兆治は成人後結婚すると幸せな家庭を築き二子をもうけていたが、ある日瀬上と名乗る人物がやってきた。汪兆銘の血を引く勝山家には成し遂げるべき使命がある、というような話をしたという。経済的な援助もすると言った。ついては、次男の幸次郎に娶せたい娘がいる。そのかわり、将来子供ができたら、その子を子息の嫁にしたいと言った…。父の話をじっと聞いていた茉莉が鋭い指摘をする。

「え、でも私が男だったらどうしたの?」

「女の子が生まれるということは分かっていた」

「そんなわけないでしょ」

龍一が苦笑いする。すると茉莉が今度は母に向かって訊いた。

「じゃあお母さんは、どうしてお父さんと一緒になったの?」

「瀬上さんから縁談のお話が父のところにあったの。父がお話を聞いて、石原家にとってもとてもいい縁談だっていうことで、是非にという話になったのよ」

「ふーん、昔はお見合いとか、結構普通だったんだねえ。お母さんは、山形の人だし、それにしてもよくそんな遠距離で結ばれたもんだ。瀬上って言う人、一体何者って感じ」茉莉は妙な関心をした。

ここで幸次郎が咳払い一つする。

「これでわかっただろう。茉莉、お前は、葛城君と一緒になってくれ」

我、奇襲ニ成功セリ、と父は思ったか。

「ぷっ…。はぁ?」

父を見つめる茉莉の目が点になっている。

「龍一君と結婚しなさい」もう一度言った。

「何言ってんの、お父さん。今日は変なことばかり」

照れ隠しだろうか。いや、あまりに唐突に思わぬ方向に話が飛んだから、これこそは本物のジョークだと思った。この奇抜な展開にどう応じていいのか茉莉にわかるはずもなく、あとはもう「えっ、えっ」としか声が出なくなった。

「どうだ、いいだろう。これはさっきの話とも繋がっている」

予想さえしていない父のこの発言。というか、そんなこと父が言うとは。しかも龍一本人の目の前で。どんな顔したらいいのか。両手で口を押さえた。茉莉はもう二十三だ。小娘ではない。が、中身はよくみると小娘と変わらない。これまでの龍一への思いと重なって体が熱くなっていくのがわかる。

「やだ、お父さん、もう冗談はよして」

嬉しいのに、また同じようなことを言った。私、女の子なんだから。そう言いながら、初めて龍一に会った時のことを思い出した。

「茉莉、いいか、これはもう確定していることなんだ」

父はまた強引なことを言った。

「茉莉さん、真面目な話なんです。僕と付き合ってください。結婚前提です」

龍一が、なんとまぁ、平然としかも簡単に茉莉の両親の前で言い切った。どれだけ話ができているのか。しかも付き合ってほしいなんて回りくどい言い方。もしかして龍一さんが昨日も家に来たのはこの話の為? 茉莉の体がより一段と熱くなる。ついさっき暴漢に襲われたという人生初の恐怖すら忘れそうだ。茉莉は言葉での返事に窮した。が、どうみても、まんざらではない様子は傍でみている母にも一目瞭然だった。幸次郎が言う。

「茉莉、お前も葛城君のこと、嫌いじゃないだろう。いい話だと思う。汪ファミリーにとっても、輝かしい名誉だ」

えっ、ワンファミリーってなぁに。初めて聞くよ。茉莉はそんなことを考えながらも、龍一と正式にお付き合いするという話は願ったり叶ったり。恥ずかしくてうつむき加減な顔に自然と笑みが顕れる。嬉しいのか恥ずかしいのか、かろうじてごまかしている。

「そうだね、悪いことじゃないよね。龍一さんは、血筋を辿ればやんごとない人なんだから」

脇役に徹している美智子が父の言葉を補強するように言った。そのやんごとなき龍一が口元に不敵な笑みを浮かべたが、美智子の言葉には誰も突っ込まなかった。

「お母さん、喉乾いたな、じゃぁビールにしようか」

黙って照れている茉莉を見ながら、幸次郎は妻にビールを注文した。

「じゃぁ、ご飯ね。こんなことになるんなら、鯛のお頭でも買っとくんだったわ」

台所へ立った美智子が、いきなり鯛のお頭と言ったので、みんな笑った。


ビールで乾杯して、軽い食事が一段落すると龍一が話題を転じた。

「さて、じゃぁ、勝山先生、今度は先生のことですね。昨日からどうしていらっしゃったんですか。昨日は来る日にち、間違えたかと思いましたよ」

「そうよ、それ」

茉莉もやっとのこと攻勢に転じる。

「そうですね、もう一つのことを話さなければ、話は完結しませんね」

幸次郎は、また居住まいを正すと、それまでの口調と変わって、誰に向かってなのか丁寧な言葉で話しはじめた。茉莉はそれを見て、父ではない勝山幸次郎という男性をみているように感じた。

「実は、昨日瀬上さんの使いという人が突然やってきました。そして、今すぐ出かけてくれと言うんです。事情はクルマの中で話すという。それで、取るものもとらず、長野の須坂に向かいました」

「須坂か。遠いですね」

龍一はタイムトラベルした時のことを思い出した。

「それで、須坂でナオミさんと合流すると、ある人たちを東京までお送りしてきました」

「えっ、ちょっと待ってよ、お父さん。昨日の朝から長野に行ってその足で、東京?」

茉莉が口を挟んだ。昨日の朝に出て、東京へ行って戻ってくる、まぁできないことはない。が、長野と東京に行っていただけなら、何故連絡くらいできないの。それにナオミって誰? 愛人とか言わないよね。茉莉は茉莉で父が他にもとんでもないことを隠していることを直感した。

「茉莉、聞きなさい」

茉莉は黙っている。

「私たちは、東亜の平和を願っている。中国、満洲、日本、それ以外のアジアの国々すべての平和だ。今その詰めの仕事をやっているところなのだ。葛城君とお前はその中心的役割をこれから荷っていかなければならない。近い将来東アジア連邦という地域統合社会が実現することになるだろう。さっきも話したが、その時になったら、お前も中国へ行かなきゃならん。私はそのお手伝いに、未来に行ってきたのだよ。私に出来ることはやらなければならない」

「ぷっ、ちょっと、ミライって、何それ」

茉莉は思わず吹き出しながら、笑みを残したまま言った。東亜の平和だとか、なんとかレンポウだとか、茉莉は父が完全にふざけていると思った。が、父の祖父は中華民国の主席だった人。そう考えれば、点は線で繋がるような気もする。それにしても「未来」はないだろう。

美智子のほうは、そういうことかと合点のいく部分とでも何故という合点のいかない部分を察知したが、あえて沈黙している。

「そうですか、見てこられたんですね」

龍一は納得した表情をみせている。ええとだけ幸次郎は言った。

「何、そうですかって、えっ何?」

茉莉は笑いながらまだ混乱している。龍一が父の冗談に真顔で乗っているのがもっと可笑しい。

「それじゃぁ、やれるんですね」

茉莉を無視して龍一が訊いた。

「ええ、そうです。あとはそのレールに乗ってやるだけだと思います。ただ私は東京で皆さんとはお別れしたので、その後のことは分かりかねますが」

「そうですか。しかし不思議ですね。そんな確定した未来があるのに…」

龍一は、ならば今から何をしても同じなのではないかと続けたかったが、言うのをやめた。それはナオミからも智明からも何度も聞かされていることだ。油断をすると、気がつかないうちに世界線は別の路線を走りはじめるものだと。だから、それを実現するためには、やはり今からやるべきことをきちんとやり遂げなければならない。未来を知り過ぎてはならない。未来ありきではない。勝山が言うように、このレールから外れてはならない。勝山も未来から影響を受けた今の自分の言動が現在にどのような変化を与えるかわからない。茉莉が今夜暴漢に襲われたのもそのせいかもしれない。だから、それ以上は何も言わない。

納得顔している父と龍一を見て、茉莉は不思議な気分になっている。

「茉莉、仕事は今年いっぱいで辞めなさい。お前は、これからはファーストレディの修行だ。それに、夜の一人歩きも危険だ。妨害する連中がいるようだ」

幸次郎が父親の威厳で茉莉に言った。

「えー、仕事辞めるって、そんな。やっと慣れてきたし、税理士の勉強だってあるし。さっきの暴漢もなんかこの話と関係あるの?」

茉莉は、父ではなく龍一を見ながら言っている。

「税理士の勉強は続けてもいい。ただ、仕事はもうよしなさい。もっとも、葛城君と一緒になれば、税理士になっても仕方ないかもしれないが」

「今夜の暴漢はおそらく、僕と茉莉さんのことを妨害しようとする連中の仕業でしょう。下手をすると、二、三ヶ月どこかに拉致されるかもしれない。お父さんの言うことは聞いたほうがいい」

龍一は不必要に茉莉を脅したくはないが、なにか起きてからでは遅い、そういう気持ちで茉莉を説得した。茉莉の顔が少し引きつった。しかし、ほかのことも考えている。

「あのー、ちょっと、そのファーストレディの修行ってのも、わからないのですが」

茉莉の質問はそっちへ向かう。半分ふざけて敬語調になる。

「つまりね、葛城さんは、東アジア連邦の総裁になるのよ。そしてあなたはその奥様。だから、そういうことです」

美智子が容赦ないことを優しく言った。しかし茉莉にはそのなんとか連邦がなんなのかがまだわかっていない。

「いずれ、それが実現するように、努力したいと思っています。その前にやらなければならないことも沢山ある」

龍一が決然と言った。たとえ総裁に就任したからといって、絶大な権力を握るわけではない。権力は利害関係と密接だ。経済力や軍事力を背景にして総裁に就任するのでもない。極端にいえば己の人格だけが頼りだ。そこは龍一が一番わかっている。でも、やらなければならない。龍一は旧来のいかなる政治結社、利害団体にも属していない。勿論、世襲制ではない。汪兆銘の曾孫が、その初代総裁のファーストレディとなることで、中国のメンツも保たれるだろう。そんな政治的配慮が背後にはある。茉莉は利用されているという指摘もあるかもしれない。確かにそのように仕組まれている。が、何よりも、父も母も望んでいることである。第一茉莉の龍一に対する好意、いや恋心は否定できない。

「んー、ちょっと考えさせてほしい」茉莉が言った。

「え、考える必要はないだろう」

父が反応した。汪家の将来が掛っている。

「だって、全てが今夜初めて聞く話。それも突拍子もない話ばかりで。そんなのはいそうですかは無理」

そう言うと茉莉は、ぷいと横を向いて席を立ってしまった。当たり前と言えば当たり前の反応だった。

「まぁ、あの子は大丈夫です。私がじっくり話してみますから」美智子が言った。

「多少時間は掛かることは覚悟の上だ。もう少し手順を踏みたかったのだが、そうもいかなくなった。まあ、どうなるのかは、私も少し見てきたから、心配はしていない」

幸次郎は美智子にだけ聞こえるようにこっそりと言った。

「茉莉さんの気持ちもきちんと考えてあげないといけませんね」龍一が付け加えた。

ほどなくして茉莉が戻った。

「どうしたんだ」父が訊いた。

「どうしたんだって、トイレくらい行くでしょ、ファーストレディだって」娘はすまして答えた。


こうして汪ファミリーの秘密が娘の茉莉に明かされ、その娘と龍一との結婚が決まった。勝山家の行く末にとって、幸先この上なく、よい出来事であった。ところが、そうした家族の悦びは、その余韻すらも長続きしなかった。それから一ケ月後のある日、勝山家に思いもよらぬ悲しみが訪れる。幸次郎が大動脈解離という突発性の心臓病の発作であえなく他界したのである。

通夜には智明も駆けつけた。母娘は憔悴した。美智子は、夫が何故未来へ行ったと言ったのか、その理由を知った。幸次郎から、この先自分の身に何があっても驚かないように、と言われていたのである。夫は自分の身に起こることを予知していたのかもしれない。龍一は残された二人を家族として支える決心を、改めて胸に刻んだ。


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