第1章 タイムトラベル 第6話 「ミッション」
上海市黄浦江西岸、この界隈はかつてのフランス租界。今日でも上海の商業活動の中心地である。更にその中央、茂名南路と長楽路が交わるところに旧時代の雰囲気をそのままに残すガーデンホテルがある。十九世紀風の横に長い二階建て本館部分は、一九二〇年代に建てられた仏蘭西倶楽部が前身である。新バロック調の重厚な二階の窓からは、直下の噴水、そしてその向こう側に広がる青々とした芝生が一望できる。かつてはテニスコートだったその緑の庭の先には白いドリームパビリオンの屋根が見え、それを守るように取り囲んでいる大きな木々が早春の強い風に揺らいでいる。上海の銀座通りともいえる淮海中路がその南側を東西に走っている。
この日、ガーデンホテルの二階大会議室にはダークスーツに身を包んだ二十人ほどの男たちが集っていた。コの字型に並べられたテーブル。前方演壇の大きなプロジェクター。蝶ネクタイの係員やウェイトレスらが忙しく動き回る。FEORの第九回総会会場である。
その賢人会議の正式名称は「極東ひとつの屋根評議会」(Committee for the Far East under One Roof)といい、通称がFEORである。二〇〇三年の春に満洲共和国(一九六八年に立憲君主制から共和制に移行している)の新京で東アジアサミットが開かれた際に、招かれていた各界の有識者の呼びかけで発足したものだ。極東地域の政治的・経済的統合(東アジア連邦の創設)がその究極の活動目標である。会長には満洲王室の溥禳親王が名誉職として就いている。年に二度、総会が開かれる。
議題は参加者の都合でどうしても総花的になる。近年顕著となっているロシアの強圧的な動きを踏まえつつ、今回のアジェンダは「極東における非伝統的安全保障についての域内協力の在り方」と「食糧危機とパンデミックに対する脅威」の二つに決められた。「非伝統的」云々とは、即ち「東アジア連邦」という新しい枠組みにおける安全保障という意味に他ならない。
出席メンバーの中に葛城龍一の姿があった。FEORは、エイティワン・インスティチュート主任研究員の肩書を持つ葛城をゲスト・プレゼンターとして招いていたのである。エイティワン・インスティチュート(EOI)とは、東大・未外研を公益法人化したもので、半年前に設立された。今では政産学の有識者が研究員という名目で参加している。龍一は人種問題、外交・経済政策の議論・研究を他のメンバーらと共に重ねていた。そんな彼に、白羽の矢が立ったのである。少なくとも表向きにはそういうことになっていた。
ところで、FEORの活動資金の出所は一様ではない。極東域内の民間向け経済開発援助の拠出金の二〇%以上が協賛する法人・団体会員によって賄われていることから、FEORで示される政策提言には各国政府も無視できない政治性が備わっている。すなわち政府筋に対しては強力なロビー活動団体ということになる。また二年前に起きた欧州経済ブロック化によって引き起こされた経済混乱のときも、FEORの適切な政策提言に基づいて、アジア各国が歩調を合わせ為替・金融政策を実施したことで、経済危機を回避することができた。今では政府の意向をここで表明するという逆のアプローチも可能であり、政策提言組織としても一目置かれた存在に成長している。龍一の参加は、そのFEORにEOIの血を注ぎ込むという意味もある。全てはシナリオ通りだった。
今回の総会出席者は龍一のほかに、副会長の瀬上智明(三宝ストラテジ代表取締役)、實澤智治(元日本国外務大臣)、議長の井村兼一(極東シベリアフォーラム理事長)、さらには袁涛中華民国国際商務中央研究所所長、王世平満洲・シベリア平和研究所(通称マシピン)理事長などの常任メンバーのほか、各国のシンクタンクの研究員や大学教授、協賛団体役員らが名を連ねている。またテクニカル・アドバイザーとして横井勝彦(日本国外務省極東沿海州局地域政策課外務事務官)の名前もあった。
会議は午前十時に始まる。そして予定ではバフェ形式の昼食をはさんで午後四時過ぎまで熱い議論が続く。メンバー間の意見を調整したり、新しいメンバーとの交流を深めたりすることも狙いである。いくつかの連絡事項や簡単な出席者の紹介、前回総会のペンディング項目の確認等々をおこなった後、本会議がスタートした。まずは議長の井村が進行の挨拶を切り出す。まだるっこい話し方をする男だが聞いてやってほしい。いつも自分でそのような自己紹介をする憎めない人物だ。
「それでは本日の一番目の議題に入らせていただきます。『極東における非伝統的安全保障についての域内協力の在り方』というテーマでございます。本日スペシャルゲストとしてお招きしましたエイティワン・インスティチュートの葛城先生から御研究の報告をいただき、その後に、メンバーの意見交換をしようということでございますが、まずは何故、今日こういう形でこういうアジェンダをオーガナイズしたのか、という本会としての狙いについて一言申し上げたいと思います」
井村のこんな調子は常連メンバーもよくわかっている。議長の趣旨はこうだ。
極東連邦制構想というものを何らかの形で具体化しようということで、評議会は七年前にスタートして活動を重ねてきたが、すでに数年前より重大な試練に直面している。満洲やモンゴル各地でロシア政府に支援されたと思われる地下組織が頻繁に治安かく乱活動を繰り返している。今のところそうした工作は小規模で現地の治安維持組織やサイバーテロ対策チームが協力して事なきを得ているが、朝鮮や中国中央部に飛び火することが今は懸念されている。一つの屋根構想を実現させようとしている我々にとっては、これが大きな障害として認識されはじめている。
さらに続く。
先年のサイゴンでおこなわれたFESA(極東・アジア)サミットでは、中国とヴェトナムの南沙諸島の領有権をめぐる対立が表面化した為、ヴェトナムを暗に支持する日本や満洲と中国のあいだで軋轢が起き、どうも一つの屋根の実現に向けたベクトルパワーが失速気味である。推進役の満洲と日本としては、つまり我々評議会としては、両国外務省・政府レベルでなんらかの実力行使を検討する段階に来ていると思われる。ついては、理念の空回りを補って余りあるような進歩をつくっていく為に、設立十周年を迎える二〇一三年までに域内で民論調査を実施し、準備を怠りなくして、二〇一八年から二〇二〇年を目標として各国代表からなる極東議会を設立、その後の連邦制度導入へ繋げていきたい。よってこれらの理念、計画を謳った共同宣言を次回のFESAサミットで採択するよう各国首脳に働きかける必要がある。
メンバーはお互いの顔を見合せた。冗長だが井村の弁は熱かった。
「そもそもサミットにおける共同宣言ですが、サミットでの議論に基づき書かれるということですが、ではサミットでの議論はどうして導かれるのかというと、今年のプサン宣言の場合ですと、これに非常に大きな影響を与えておりますのが「極東・シンクタンク・ネットワーク(FEAT)」の提言であります。これは昨冬広州で開催されたわけでございますが、ではそのFEATの提言というのはどのようにして書かれたのかというと、これは、FEATの中にあらかじめ設けられた幾つかのワーキング・グループがあって、彼らが明確なイニシアティブをとって、全体の提言をつくるということが確立しているわけでございます。そのように考えると、次のサミットに対するこのFEATの影響力というものは非常に大きいということでございます。というわけで、日満の外務省・政府とも相談して、そこのワーキング・グループでご活躍の葛城先生を本日お招きしているわけです。スポーツに詳しい方はよくご存じだと思いますが、葛城先生は元プロサッカー選手でありまして、Jリーグやその後欧州のチームで活躍され、引退された後は世界中を旅されながら政策研究に熱心に取り組んでおられ、また世界情勢に大変詳しい経歴をお持ちの著名人です」
そんな略歴説明に、何人かが、そうかどこかで聞いたことのある名前だ、といったような顔で周囲を見回した。ただ、龍一がFEATでご活躍というのは語弊があった。数回アドバイザリーディレクターという肩書で政策提言書の作成過程で意見表明したことがあるだけだ。しかしここは「ご活躍」で押し通すしかない雰囲気である。
「では、葛城先生お願いします」
井村の言がやっとことを先に進めた。紹介にあずかった龍一がすっと立ち上がった。そしてみなさんはじめましてと一礼すると、持参したプレゼンテーションをプロジェクターに映し出した。
「エイティワン・インスティチュートの葛城です。近年強まる西欧列強の排他的な保護主義の高まりと、とくにロシアの敵対的脅威に対処するという観点から、極東の繁栄と安全保障のありかたを研究しております。重要なアジェンダとして、極東の政治的統合のフィージビリティ、税制金融統合、そして投資・産業振興、食糧問題などをあげることができます。本日のテーマに則してこのうちの極東の政治的統合のフィージビリティについてご報告させていただきたいと思います」
そう切り出すと、明瞭な論旨と根拠を示しつつ、龍一はEOIの研究内容を披露した。一時間のプレゼンのポイントは、連邦国家を成立させるための条件を明らかにすることであった。と同時にその条件をクリアするための方策を提示したことにある。即ち、
1.域内の農業生産力の向上
2.税制の統合
3.外交政策の一元化
4.連邦軍・警察・行政組織の創設
5.教育改革と人材育成
6.医療社会保障制度の再構築
7.科学技術開発連盟の設立
以上の七項目であった。そして龍一は未来展望と題する結論でこんなことをつけ加えた。
「一九九〇年代後半から食糧事情が世界規模で悪化していますが、さらにこの先十年で危機的状況に陥るとみられています。欧米諸国はアジアに対し既に食糧輸出の制限を行っているのはご存知のとおりです。繰り返し言われていることですが、農業産品の生産力・食料の域内自給率向上の為の方策実行は喫緊の課題といえます。極東または周辺地域の各国が協働してこの困難に立ち向かう必要があります」
この提言を受け、ひとしきりメンバーの意見交換のセッションが続いたあと、龍一は、プレゼンテーションの締めとして、地域統合の今後に障害となる懸案事項に言及した。ロシアである。
「これは二号議案で話し合われるべき範囲ではありますが、ここ数年来定期的に大規模なウィルスによる疫病がアジア各地で発生し大勢の死者を出しています。これは人だけでなく家畜や野生動物へも広がってきているのは周知のとおりです。問題なのは、全てとは言いませんが、このうちのいくつかのケースは自然災害というより、人為的、計画的に仕掛けられたものであるとみられることです。あ、すみません議長、この部分は議事録からは外してください」
龍一は言葉を継ぎ足しながら、書記と議長のほうをみた。するとメンバーのひとり王世平が声を上げた。
「葛城先生、人為的計画的っておっしゃる意味はどういうことでしょうか? それから、そういう根拠のようなものがあるのでしょうか?」
王も実は気になっていることがあった。当然の質問だが、龍一は想定内といわんばかりに続けた。
「近年ロシア国内で特殊なウィルスが開発されたことが確認されています。二年前にフィラートフというロシアの細菌研究者の一人がインドに亡命しましたが、その科学者がコマロフ理学研究所で研究をしていたのが特殊ウィルスです。フィラートフ氏が言うには、特定の遺伝子配列に働きかけて致死率の高い病気を発病させることのできるウィルスの開発に成功したということです」
王やその他のメンバーは黙って聞いている。
「ロシア国内で慢性化している失業と食糧問題がかなり深刻で、反政府的な社会情勢に対して軍部は過剰に反応し、最近中央アジア方面への南進政策が顕在化しています。これは、我々に対するウィルス攻撃です。覇権を目指す右よりの軍内部のグループによるものなのか、或いは産業資本によるテロリズムなのかは現在のところ不明ですが、動機は十分ではないでしょうか」
仮想敵国はロシアであることを明言した。歴史上、ロシアがアジアの諸国にとって友好国だったことがないという現実を考えれば、地政学的にも自然な常識の範囲内の論旨とも言える。それは状況証拠にしかならないとの声も聞こえたが、龍一の立ち位置に躊躇はない。さらに大胆不敵にも「人為的計画的に仕掛けられたもの」をロシアによる「ウィルス攻撃」という表現に置き換えた。これにはメンバー皆が驚いた。
「いづれにしても、対抗措置が必要です」龍一がダメを押した。
「ちょっと待ちなさい。対抗もいいが、もう少し、その、穏便に、平和裏に、事実関係をもう少し丁寧に積み上げてだね、外交努力によって解決するっていうのが、筋だと思うが。根拠薄弱でいきなり、ロシアに対抗すると言っても、いかがなものでしょうな」
政治家らしく傲慢そうな官僚上がりの元外務大臣の實澤がのけぞって反論した。若い時ロシアやウクライナの大使館に二等書記官として勤務したことがある御仁だ。以来ロシア通、ロシア贔屓で知られている。
「このままで行きますと、おそらく数年後にはさらに大規模なパンデミックが発生し、食糧事情、衛生状況などからして、域内で大量な死者が出ることになると予想しています」
「大量な死者って、数千人とか数万人とかの規模の話じゃないのか」
實澤が、その程度ならよくある疫病流行の範囲だろうと、高を括って言った。
「いいえ、数千万か数億人が死にいたるというシミュレーション結果がでています」
一同、予想外の桁にもう一度驚いた。が、實澤は政治家だ。その程度の脅しでは相手の言うことに耳は貸さない。
「計算上ですか、君ね」と言いかけて、實澤が恫喝めいた目で龍一を睨んだ。が、龍一は怯まない。
「何らかの対処をしなければ、おそらく、アジアの国々はどこも国家としての体をなさなくなるでしょう」
「しかし、ウィルスはもろ刃の剣ですよ。ロシアもそんな恐ろしいもの、世界にばら撒いたら、自分たちもただでは済まないんじゃないですか?」
黙っていた中国の袁涛が当たり前の疑問を口にした。
「そうですよ、一週間も経てば全世界に蔓延する。防げない。それは自殺行為だ。いくらロシアでもね、そこまでは出来ませんよ」
誰かが、覆いかぶさるように付け足した。
「アジア人、つまり黄色人種だけが高確率で罹病するウィルスです」
呼吸を整えた後放った龍一のこの言葉に、会議室の空気が一瞬凍りついた。「やれやれ、何をおっしゃるかと思えば…。そんなことはありえませんよ」といった嘲笑にも似た表情が何人かの顔に読み取れる。そんな話、誰も聞いたことはない。ため息をついて下を向く者や、眉間にしわを寄せる者もあったが、しばらくの沈黙が流れた。根拠曖昧なことを議論しても仕方ない。そんな雰囲気だ。
ようやく井村が話題を引き取るように言った。
「まぁ、ウィルスのお話は二号議案の『食糧危機とパンデミックに対する脅威』でも議論いただくことといたしまして、ここのところは、色々な角度からのあらゆる想定が必要と言うことで、東アジアの安全保障を考えるという意味からも、葛城先生にはそのへんのフィージビリティについて、ご意見を頂戴いたしました。今後の研究課題として継続的にウォッチするということにさせていただきたいと思います。つきましては、葛城先生にはすでにご相談の上ご了解をいただいておるのですが、この先本会の常任メンバーに加わっていただき、今後もお知恵を拝借していきたいと思っています。議長からの提案というかたちですが、みなさんのご意見はいかがでしょうか」
皆、頷いているのか、それとも首が疲れて上下に細かく振動しているだけなのか。實澤は嘲るような仕草を肩のあたりに漂わせたが、黙っている。他もはっきりしない。井村は、それまでじっと成行きを窺っていた副会長の瀬上のほうへ顔を向け「瀬上さん、いかがですか」と、水を向けた。
「情報や、考え方は色々あっていいんじゃないですか。未来を背負うのは若い人なのだから、葛城さんのような人がメンバーに加わってくれたら、私としては大歓迎ですよ。アジアの統一という方向性についても皆さんと同じ考えですし、ぜひお願いしたい」
そういうと瀬上は、ちらと龍一を見た。この瀬上の言葉に共鳴したかのように、大概の人がそりゃ確かにそうだと頷いて付和雷同した。
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数週間後、中国から帰国した龍一は横浜みなとみらいのサッカーグランドに隣接したイタリアンレストランにいた。春の風が磯のにおいを運んでくる清々しい朝だ。クラゲのような白い月が野毛山の上方にかろうじて浮かんでいる。月が地球に対していつも同じ顔を見せているのは、内部の偏心で重い側が地球に引っ張られているからである。
やがてダークブルーのスーツ姿の、紳士然とした中年の男が店に現れた。窓際のテーブルの龍一を目ざとく見つけると、さっと右手を挙げて近づいた。そして一言二言何かを言うと、龍一に向き合うように座った。瀬上智明である。龍之介が二年前老衰で他界して以来、智明はある時は龍一のマネージャー、ある時は後見人のような動きをしている。FEOR総会へ龍一を招いたのも智明である。
その智明はウェイターの顔を見上げながら迷った末、朝の定番メニューをオーダーした。しばらく二人は笑いを交えて四方山話をしている。上海の話題かもしれない。やがて朝食が運ばれてきた。ナプキンを膝に掛けながら智明が言った。
「最初は信じられなかっただろうけど、君は実際自分が死ぬ場面に立ち会ったわけだ」
もうずいぶん前の話だが、事あるごとに智明はそのことを言う。知らないものが聞けば脅迫しているようにも聞こえる。が、確かにあの日を境に、葛城龍一の進むべき道が大きく拓けたのだった。龍之介の後ろ盾を得た彼は、積極的に世界各地を旅してまわった。未外研(現EOI)の研究員にもなった。目に見える国際関係や経済の問題ばかりではなく、宗教紛争や民族独立運動、人種問題、貧困や飢餓の現実を目の当たりにした。富が一部の闇の権力に集中するこの世界の不条理さに憤りを覚え、自ずと欧州・ロシアそしてアメリカの支配階級の動向にも注目するようになった。時にはメディアに登場し、人生観や世界平和についての発言や著述を残していた。自然、彼の活躍は世間の多くの人が知るところとなっている。そして今、晴れてFEORの常任メンバーにもなったのである。
「…あの時は本当に訳がわからなくなりました。時空を超えて別世界があるということもそうですし、あれが僕の世界観というか人生が大転換するきっかけだったことは間違いありません」
笑いながら龍一もいつもと同じような返事をした。気が向けば何度でも同じ会話をする。そして少しだけ違う味付けをその会話に見出すのが楽しみでもあるのだ。
「誰にでもそういう変節点と言うものが人生に二度三度あるものさ。で、二〇〇九年まではまだ二年ある」
智明の口から二〇〇九年という言葉が出る。今日に限らず智明の顔は色つやが良く、現役バリバリのビジネスマンだ。今では二人はすっかり打ち解けた関係になっている。龍一も智明のことを気の置けない伯父貴くらいの気持ちで接している。その智明がなにやらややこしいことを言おうとしている。
「だからこの先が勝負だ。わかってはいると思うけどウィルス兵器による最終戦争は回避しないとならない。この先の未来のシナリオを書き換えるのは僕たちだが、過去のリンクも重要だ」
「やっぱり二〇一〇年代からアジアで猛威を振るう人型鳥インフルエンザの流行が節目ってことですか?」
「そうそこ。節目と言うより、軌道修正点ということだろうね。それが起こるってことは、過去の修正が上手くいっていないということだ。だから、石原さんの力が必要となる。そして僕たちがそれにシンクロしないといけない」
「ということですね」龍一も同調する。
「あれ、これはもう聞いていたかな。とにかく僕たちとしては、今やるべきことを為すだけなのだが、後年パンデミック666とか呼ばれるやつで、これが今年の夏あたりから出はじめる。これを未然に抹殺する必要がある。それが当面のミッションだ」
「わかりました。対症療法的にウィルスを相手にするのではなく、その出所を叩く。それに過去とのシンクロ、連動性が重要ということですね」
「ウィルスは確かにその通り。だがそもそもウィルスは誰が造り出したかってことだ」
「そういうことですね」
「過去とのシンクロナイゼーションというのは、目に見えない力が時間の流れに関係なくこの世界全体に作用している、その力、いや波のようなエネルギーなのかもしれないが、とにかくそれを偏向することで、これが可能になるということだ」
なにやらそんな奇想天外のマジックが本当にあるということなのだろうか。理屈で考えてもわからない。
「そこでだ、満洲のハルビン疫学中央研究所を知っているかい」
龍一はどこかで同じような名前を聞いた気がしたが首を振った。
「元々は日本軍が一九三〇年代に細菌研究を始めた研究所だ。今はロシアのスパイの巣窟らしい。なにか始まるとすればここからだ。ナオミによれば、一九三〇年頃に遡って、これをどうこうすると言う」
「そこに作用するということですね。石原さんの出番ということですか」
「僕にはわからない。多分そうだろう。いづれにしても、何かに少し修正を加えるという手法だろうが、人ひとりくらい殺ってしまうのかもしれない。が、もっと重大な問題がある。この修正行動を実行すると、やがては君をも抹殺しようとするグループが現れるはずだというんだ。君が別世界で殺られたようにね。だから気をつけてほしいというのがナオミの君へのメッセージだ」
抹殺という言葉を聞いた龍一は悪寒を背中に覚えた。また、殺されるのかよ、そう思ったのかもしれない。自分が死んだ世界を傍目で見るのは気持ち良くない。幽霊にでもなった気分だ。次は傍目ではないかもしれない。確かに以前も似たようなことをナオミは言ったことがある。しかし、気をつけろと言われても、何をどうしろと言うのか。
「その、グループというのは、やはり未来から来ると考えたほうがいいのでしょうか」
「うーん、現時点では何とも言えない。以前からある組織だとも思われる。ただナオミのような未来人ならそう思わせることはいとも簡単だろうから、早合点もできない。別の世界線からやってきているってことも念頭に置いておいた方がいい」
「つまり僕が経験したようなパラレルワールドですね」
「そう、パラレルワールド。まぁ四の五の言っても始まらない。僕らはこの世界に生きているんだから、ここでやるべきことをやろう」
「はい。僕も心の準備はできています」
「やっぱり、君の血筋だな。ただ、気をつけてほしい。ひとたびシンクロが起ったらそれまでの事実関係が破たんするらしい。しかも当事者はそれに気づくこともない。恐ろしい話だ」
「どういことですか」
「つまりさっきまで記憶し認識していた過去、現在が全部パーになって、全く別の状況が生起するってことだ。それがナオミの説明だが、要は別の世界線に知らぬ間に移行するらしい。しかもこの数年はそのような現象が起こりやすい時空に突入するという話だ。わからないだろ?」
智明は半ば呆れながら言った。
「想像つきませんね」
「だな。とりあえず身の回りの危険には十分配慮してほしい。間違いない。満洲に潜在するロシア系のテロ組織かなにかを操ってくるか、もしかしたらもっと賢い方法をつかってくるかもしれない。仲間を装って近づいてくるかもしれない。だから誰も信用しちゃダメだ。結局はそういうことだ」
「肝に銘じます」が、見えない敵と戦うのは容易ではない。
「よし、この話はここまででいいだろう。それで実は、君にやってもらいたいことがある。例のイヌだよ。覚えているかな、石原さんが話していた奴。これを探しだす。今がその時だという」
「覚えています」
「そう、あれ。元来、ナオミの世界の未来を救う為のモノなんだが、我々のアジア連邦構想にとっても極めて重要なものだ」
「犬が、ですか?」
「そう。その入手を中国側がアジア連邦樹立の合意の条件にしている」
「妙な行きがかりですね」
龍一は、犬のように首を傾げた。しかし、根底で何かが繋がっているのかもしれない。
「中国の清朝の時代、皇帝の離宮に円明園という庭園があった。そこに干支をモチーフにした水時計があったらしいのだが、アロー号だか義和団の時にその干支の動物を象ったブロンズ像を英仏軍が根こそぎ略奪したという。その後行方不明になって散逸したものを今中国政府が探している。イヌはそのうちの一つだそうだ」
「それがそうなんですか。石原さんが言っていたイヌって」
「そう、これ。中国側も残りは殆ど目途がついているらしいが、イヌとネズミ、それからウシだったかヒツジだったかがどうしても何処にあるのかわからないそうだ」
「で、とにかくイヌを先に手に入れろと言うのですね」
「そういうこと、単なる文化財の回収事業ということではないらしい。なにやらそれ以外の秘密がある。ただ探すだけならまだしも、中国政府が絡んでくるとちょっとややこしい」
「確かに。でも何故でしょう。中国政府が探してもわからないモノを探せって」
「いずれはアジア連邦の総裁になるんだ。ここは力量の見せ所だろ。それに僕たちにはナオミが付いているじゃないか」
智明はそう言って笑いながらまた話を転じた。
「前にも言ったと思うが、極東ひとつの屋根協議会の活動をさらに活発化する。で、君にはもっと表に出てもらうことになると思う。マスコミへの露出もこれまでとは違うアプローチにしないとな。それから、東亜連合会の武内幹事長は知っているだろう。近いうちに紹介する。あと何年かすると彼らは政権与党になる。その時の為だ」
「そうですか。是非お願いします」
「世の中には二種類の人間がいる。ひとつは、とことん誰かに頼って、縋って生きてゆくタイプ。もうひとつは、誰にも頼らず自力で道を切り開き、最後まで生き抜こうとするタイプだ。僕は前者、君は後者だ」
何を急に言っているんだろうと思いながら「そんなことはないですよ」と龍一は言い返した。グランドに目を転じると、いつのまにか、川崎ボーダーズのジュニアユースチームの少年らがボールを追いかけ走り回っている。
円明園という皇帝の離宮は北京郊外にある。十八世紀、清の康熙帝が皇子に下賜されたとされる庭園を起源とする。下って乾隆帝の時代に拡張整備がなされ、西洋楼庭園の海晏堂の前に十二生肖獣首銅像と呼ばれる噴水時計が造られた。十二支の動物を象った獣首人身座像が並ぶ機械仕掛けの噴水時計だ。鼠、虎、龍、馬、猿、犬が南側に、牛、兔、蛇、羊、鶏、豚が北側に配置され、それらがハの字の配列で並び、夫々の時刻になると前に広がる円形の池に向かって口から水を噴出したという。イエズス会宣教師であり、清朝宮廷お抱え画家でもあったイタリア人ジュゼッペ・カスティリオーネなる人物の設計である。
アロー号事件のとき、北京に侵入してきた英国軍が報復措置と称して、フランス軍の略奪行為に便乗してこの円明園を破壊し尽くした。一八六〇年のことである。この時、十二支像は何者かによって首を切られ持ち去られたという。異説としては像を持ち出したのは英国軍ではなく、後年の支那人窃盗団による仕業だとするものもある。その根拠は、一九三〇年代に北京の某所でこれら十二支像が確認されているというものだ。どちらにせよ真相は闇の中。十二支像の全てが元の場所に戻るのにはまだ時間が必要のようだ。中華民国政府は十年ほど前からこの噴水時計の復元を計画している。当然、成算あってのことであろう。
第1章 タイムトラベル 完