第1章 タイムトラベル 第3話 「旅立ち」
佳奈を乗せたフェアレディZは上田菅平インターを下りると、さらに国道一四四号線、通称上州街道を北へ向かって走り続けた。菅平口で道は草津方面へ向かう長野街道と、菅平高原を経由して須坂方面へ向かう大笹街道に分かれる。信号は青だ。レッドは躊躇なく大笹街道へとステアリングを切った。ここからは菅平まで急な登りのワインディングロード一本だ。ダムを右に見ながら、標高一四〇〇メートルまで一気に登ってゆく。
四方の山々の斜面に銀色のビニールハウスが点在しているのが見える。スキー場の芝生が青い。夏は学生で賑わうラグビーグランドにはもうこの時期人影はなかった。やがて、菅平高原を越えた。そして車は須坂方面へと下ってゆく。遠くに草津の山々が見える。気がつくと後ろに赤のロードスターがぴたりと付いていた。
「あれ、あの子、クルマ運転できるんだ」
バックミラーを見たレッドは、パッシングするロードスターを確認すると言った。
「えっ、誰?」
「ナオミっス。今、後ろに着いています」
思わず後ろを振り返った。視界は良くない。右へ左へと道が流れる中、わずかに髪を風に靡かせながらまっすぐ前を見て運転している女の姿がサイドミラーに消えてはまた現れる。サングラスをかけているが、確かに色白で見た目にも若い。不思議に落ち着いているというか、うらやましいほどに無表情だ。それ以上は、揺れて視点が定まらない。レッドは何故かターミネーターに追われているかのような恐怖を背中に感じた。道は林間を曲がりくねりながら下降し、やがてまっすぐで平坦になると、風景の中に人家が点在しはじめた。
「停まれって、言ってるみたいです」
ナオミのシグナルに気づいたレッドが言った。そして、見通しの開けた路肩にクルマを静かに停めた。ロードスターはZの前に出たところで、停止した。
数秒後、ケータイが鳴った。レッドがとる。ナオミだ。
「ここからは付いて来いって」
「レッド君、どこに行くのか知らないの?」
「菅平経由で須坂まで行けってことだったんで。で、着いたら電話しろって、細かいことは俺も白根ぇ山」
「ん、何?」
「白根山っス。とりあえず、付いて行きます」
レッドにとってこのあたりはすでに地元になる。ただ生まれた家の近くにだけは行きたくない。どうしてナオミはこんなところまで態々来たんだろうか。
レッドの大いなる疑問を無視してロードスターはウィンカーを出すと先に向かって走りはじめた。レッドもギアを入れ直すとゆっくりと後に続いた。
宇原川を渡ったあたりで、付かず離れずの二台のクルマは右手の山側に伸びる細い道に入った。人家と畑が交互に現れる。退屈な田舎道をさらに進んだ。しばらくして桜の大樹がある古めかしい神社の前までくると、ロードスターはウィンカーを出しながら静かに停止した。すぐ後ろに、レッドのクルマも停まる。さあ、これからどうするんだ。しかし、何故かナオミはクルマを降りてこない。仕方なくレッドがクルマを降りて、ナオミのところへ向った。
「何、どうしたの?」
運転席に座ったまま、なかなか動こうとしないナオミを見下してレッドは言った。あれ。なにかが普通じゃない。なんだこの違和感は。何かが足りない。眉間にしわを寄せた。
「ごめんなさい、ちょっと事故があって、それで手間が掛かってしまった」
前を向いたまま言う。何気なくナオミの足元にレッドの目が行った。最初その意味が解らなかったが…。
「はぁ? うわっ、げっぇ。うっそでしょ、でぇぇー、うえっ、うぉおぉぉぉ」
意味にならない言葉を口走ると、見る見るレッドの顔が青ざめた。覗き込んだ運転席、ナオミの左足の、膝から下がない。正座してる? そんなはずない。よく見ると、なんと左足下半分が、助手席の足元に落ちて転がっているではないか。
「でゅぇ、ううぁあぁ…うっ、うっ」
そしてもっと痛々しいのが、千切れた後の上半分の白い大腿部だ。ミニスカートが痛々しい。それなのにナオミは平然としている。
佳奈からはレッドがいきなりカンフーかなにかを始めたように見えた。何やってんのあの子。佳奈もクルマを降りた。レッドは両手をドアに置いたまま、意味不明の、言葉にならない声を漏らし、見るのも初めてのありさまに顔が引き攣っている。近づいてきた佳奈はレッドがまた何かふざけているなと思いながら、視線の先のナオミの足元を覗き込んだ。そして、その光景を確認した佳奈も「えっ、嘘っ」と言ったまま、口に手を当てレッドの腕をつかむと後ずさりした。
ようやくナオミが顔を向けると、
「ごめんなさい。たいしたことはないから、大丈夫」
と、動転する二人をよく見もせず平然と言った。が、二人にはナオミが何を言ったかも聞こえていない。
「でっつ、でっつ、血は?」
レッドがやっと意味ある言葉を絞り出した。しかし、まだ何か別の違和感がある。そうだ、ちぎれた足が無造作に転がっているのに、出血が全くない。フロアマットが少し黒く濡れている程度で、血の出た跡すらない。いったい何時からこういうふうになっているんだ。
「少し歩きづらいから、ちょっと手を貸してください」
言いながら、ナオミはケータイを取り出しどこかにメールを打った。
「きゅっ、きゅっ、救急車呼ばなきゃでしょうがぁ」
レッドは目を背けながら大きな声を出す。気絶もせずに、こんな状態でクルマを転がしてきたって言うのか。
「大丈夫だから、それより手を貸して頂戴」
ナオミは膝を擦りむいた程度のように言った。大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういうレベルじゃないだろ。レッドと佳奈はナオミの足のことで頭の中が目一杯になっている。
「そんなこといったって、大怪我してるじゃない」
佳奈もやっと言葉が出た。血が出ていないことは、不思議に思ったが、人間の体ってこういうものなのかしらとも思う。
そこに一人の黒のスーツ姿の男が、彼らの視界から外れた背後から近づいた。
「お待ちしていました」
いきなり佳奈の後ろから声が掛かったので、佳奈は飛び上がって「きゃっ」と小さな悲鳴をあげ、またレッドの腕にしがみついた。弾みでレッドも思わず小さく飛び上がった。そして同時に振り向いた。
「ありがとう、美馬さん」
ナオミが応えた。なっ、なんだ、ビックリしたなあ。知り合いか、ならば早い。早く病院に連れていかなくていいのか。レッドと佳奈が同時にそう思ったとき「ちょっと手伝ってください」とナオミが男に言った。
「はいはい。じゃぁ、行きましょうか」
最初は少し驚いた表情を見せた男もそれ以上は平然としている。どうなっているんだ。
「お二人もどうぞ、一緒にいらしてください。彼女は大丈夫です、生身の人間とはちょっと違いますから」
男はそう言った。だよね、人間離れしているよ。私ならとっくにぎゃぁぎゃぁ大騒ぎしているか、そんな間もなく気を失っている。それが人間っていうもんだ。男は、ナオミに肩を貸すと、そのまま歩き出した。よく歩けるものだ。しかも片手にはナオミのちぎれた足を抱えている。気持ち悪い。切断面とか、怖すぎて見られない。あり得ない。どこへ行くっていうのか。そっちは山の中でしょ。
二人は恐る恐る続いた。辺りに人気はない。随分離れたところで老人が自宅の囲いと思しき低いブロック塀に腰かけてたばこを吸っているのが見える。が、こちらには目を向けようともしない。農家の女が運転する軽が一台通り過ぎた。こちらの事情は分かるまい。路傍の青い薄のような雑草が風に揺れている。
四人は美馬とかいう男とナオミを先頭に、桜の木が作る青々とした木陰の下を通り過ぎた。短い石畳に沿って歩くと、そこは神社の境内だ。小ぶりな煤けた社殿を抜けると、前を行く二人はその裏手へと回ってゆく。その先は森の中だ。細かい羽蛾のような虫が飛び交っている。医者が待っているとは到底思えない草むらを下り、細い水の流れに掛かる丸木橋をどうにか渡りきる。ナオミと美馬の意志はしっかりしている。一方のレッドと佳奈の足元は風になびく雑草のように心許ない。
ここまで納得のいく説明もなしに、レッドに付いてきた。私は、龍一のことを知りたいだけ。想像とはかなり違う展開になっている。佳奈は自分がここまで来た本来の目的を反芻した。
さらに奥に分け入ると、獣道のような細い上り坂が続いた。草のにおいが濃くなってきた。山裾が近づいてくる。あまり人が来る様子もない。まもなく木々に覆われたところに、突然赤みがかったログハウスが見えた。一軒家くらいの大きさがある。その前で立ち止まると先導する二人は入口の三段あるステップをなんとか上りきり、鍵の掛かっていないドアを開けその中に入った。あとの二人も最初は躊躇していたが、誘われるがまま仕方なく彼らに続いた。
男が部屋の明かりをつけた。壁は無垢のログが木肌を晒している。ベッドがひとつ、テーブルとイスが二脚あった。こぎれいなキッチンも備わっている。奥に扉がある。その先にさらに部屋かバスルームがあるようだ。一体何をするところだろう。整然としており、猟師小屋ではない。
「どうぞ、座ってください」
椅子に腰かけたナオミが言うので、二人はベッドに腰を下ろした。ぎいっと軋んだ音がした。男は立ったままでいる。
「私はロクゴウナオミです。よくここまで来てくださいました」
そんな普通の挨拶より、怪我のほうはどうなっているの? 佳奈はそう思ったが「私は山本です。あなたにお会いするのは、初めてだと思うんですけど、そうですよね」と機械的に応じた。
「はい、山本佳奈さんご本人にこうしてお会いするのは初めてですが、貴女のことはよく知っています」
「なんか不思議。龍一に会わせてくれるっていうので、彼に案内されてきたのだけれど、こんな状況は予想外です。あなたの怪我だって、相当変でしょ。ていうか、ホントに大丈夫なの?」
「脚は大丈夫です。これからすべてをお話します。そのあと、葛城さんのところへご案内します」
えっ? ご案内っていったって、集団自殺でもするつもりなの? 佳奈には女がそう言っているように聞こえた。
「その前に、美馬さんを紹介します。私のパートナーです。色々お手伝いしていただいています」
「美馬幸生です、よろしく。心配しなくて大丈夫です。この人のいうことは、言葉通りですから。私はさっき通ってきた神社の宮司です。仮のといったほうがいいかもしれませんけど」
神社の宮司? 仮って何? 佳奈は黙っている。
「えーっと、ちょっと待って。俺がここにいる理由って何だったっけか? いつまでいればいいんだろ? 佳奈さん、もう連れてきたし。てか、マジで怪我は病院に行かなくってもいいんか? そのままじゃ死んじゃうんじゃねーの?」
レッドが美馬の自己紹介を無視して割って入った。佳奈がレッドの顔を覗き込む。レッドはレッドでナオミのことも心配しているのだ。尋常な怪我ではないのだから、あたりまえだ。ナオミと美馬は顔を見合わせた。
「では、私のことから、お話します」
ナオミが言った。そうして欲しい。とにかく、なんでもいいから話を聞かないことには状況がキチガイじみている。
「わたしは見ての通り、普通の人間ではありません。HBRです」
ナオミは刺激の少ないところから話しはじめた。いや、すでに刺激は十分だ。聞きようによっては単に人をおちょくっているふうでもある。
「エッチビーなに? 不死身のサイボーグとか言うんじゃね」
レッドが期待通りの反応で言い返した。
「そうです、私の世界ではHBRと呼ばれていますが、生体サイボーグまたはロボティクスと考えてもらって結構です。或いはアンドロイドという言い方もある」
ナオミはけろっとそのまま肯定した。美馬は顔をくりっと横に傾げて微笑んでいる。
「自分で言うか。SFだねえ。いったい誰が何処でそんなヤツを開発したんだか、今時。俺聞いてないし。御茶ノ水かい?」
鼻で呼吸しながらレッドが訳の分からないことを言う。そんなんじゃ何の説明にもなっていない。と佳奈も思う。しかし、事実は厳然として目の前にある。ナオミの怪我を説明することは簡単ではない。マジシャンのトリック? それとも催眠術? 確かに最近のマジックはかなり手が込んでいる。観客四囲の状況で空中に浮いてみせたり、二次元の写真をいきなり本物のハンバーガーに変えたりする手品もある。どんな仕掛けか全く理解不能のものもあって、そう言うものにも見慣れてきているので、マジックだと言われれば成程そうかとも思うのだ。
だがナオミは何処からどう見ても生身の人間だ。足の件をさておけばクルマも運転すれば、トイレだって行きそうだ。飯だって食うだろう。そういえば飯を食うところはまだ見てない。レッドもレッドなりにそうナオミのことをみている。
「私がHBRであることは、いずれわかりますから、その前提で話を続けます。まず、佳奈さんとレッドさんが何故ここにいるのかを理解するためには、二人の関係について知っていただかなければなりません」
「俺、まだ終わってないのか? ちぇっ」
とは言ったものの、レッドはまだ自分にも出番がありそうなことに内心喜ぶ。このあたりは自分のホームグランドだ。土地勘もある。その分、気分が大きくなっているのかもしれない。が、佳奈は違う。
「二人の関係って言ったって、昨日偶然会ったばかりなのに、関係なんて別にないでしょ。とりあえずあなたが普通の人間じゃないとしたって」
佳奈は言いながら、レッドがナオミのことを普通じゃないと言ったことを思い出している。
「あなた方、実は親子です」
DNA鑑定を終えた医師のようにナオミが宣告した。
「ぷっ、なんで?」
レッドは思わず吹き出した。ナオミはすべてが突拍子もない。確か前は「親戚」とか言ったはずだ。随分昇格したな。レッドと佳奈が同時に同じリアクションをとる。うーん、さすがに無理だ。ナオミの足よりあり得ない。どこからその発想が来るのか。レッドが、その言い分を覆そうと笑いながら反論した。
「年齢差、そこまでなくね?」
佳奈は黙っているが、何言ってんのこの女、とだけ思っている。
「だははっ、つーの。俺のお袋はずっと昔に消えたっきりだし。俺生んだときが三十二って言ってたから、もう五十じゃね。佳奈さんは、子供産んだことあんの?」
レッドは大いなる嘘でも看破したかのように、佳奈を見ながら勝利宣言した。確かにレッドの母親はすでに五十を超えているはずだ。レッドにすれば三十代も十分オバサンだが、さすがに二十の差はわかる。
佳奈はレッドにも呆れて言葉が出ない。子供産んだことあるかなんて、失礼なガキだ。それにまだ三十一よ。ショッパイ視線をレッドに送った。
が、ナオミは真顔でいる。
「近い将来佳奈さんが子どもを生むっていったほうがいいですね」
高い透きとおったような声で美馬が妙な補足をした。
「意味わかんね」
レッドの言うとおりだ。いやそうじゃない、これはなにかのレトリック(喩え)で言っている。佳奈はそう直感した。
「父親は、葛城龍一」
ナオミがまた衝撃的な一言を繰り出した。これを聞いた佳奈が顎を引きながらぐっとなにかを詰まらせたかのように咽喉を鳴らした。
「俺のオヤジの名前は龍一じゃないしな」
レッドも即座に反発する。
「ふう、何が言いたいのかしら、もう少し普通にわかるように話していただけないですか。謎かけみたいな言い方は不要だから」
気を取り直した佳奈はこんな話を聞く為に来たんじゃありません、とまでは言わなかったが、代わりに、「わざわざ時間をかけてこんな長野の山ん中まで連れてこられて、なんか気分悪くなりそう」
と続けた。彼らの意図はわからない。レッドは故郷を長野の山ん中呼ばわりされたことにムっときて佳奈をみた。が、佳奈も元を糺せば南信州の出身なのである。おそらく山ん中ではさほど負けていない。
「じゃぁ、レッドさんの苗字は、何?」ナオミがレッドに向かって敢えて訊いた。
「カツラギだよ」レッドは無造作に答える。
そういえばこの子カツラギっていった。佳奈もそこは確かに気にはしていた。ただしそれは、偶然のめぐり合わせの面白さという意味でのこと。
「龍一もカツラギ」ナオミもしつこい。
「じゃぁ、レッド君の苗字はどういう字を書くの?」佳奈がレッドに訊いた。
「木へんに土二つの桂木だよ」
「龍一はかずらにおしろの葛城よ」
「それみろ、違うじゃんか」
レッドにしてみれば、自分の生い立ちを馬鹿にされているようなもので、ここは引き下がれない。
「わけがあるの。パラレルワールドって、聞いたことありますよね」
「…そうきたか」
そうとはどうなのか、レッドにはわからない。言葉だけがついて出た。
「葛城龍一は確かにこの世界ではもう存在しません。でも、別のところでは、彼は生きているのです。その生きている彼があなた達を必要としている」
ナオミの言葉は諭すような言い方になった。
「達って…」
突然のジョークのように湧いたパラレルワールドに二人とも黙っている。するとナオミはもう一度同じことを繰り返して言った。
たしかにそんなSF話は聞いたことがある。佳奈とレッドは顔を見合わせた。こいつら何を言ってるんだ、二人の目はそう話しあっている。
「必要としているって言ってもなんでしょうね。パラレルもいいけど、そんな世界があるんだったら、一ヶ月くらい時間をもとに戻して欲しい」
佳奈が反応した。そっちのほうがてっとり早い。そりゃそうだとレッドも相槌を打った。
「俺もそんなの聞いたことあるけど、あっても行けねーし。だったら意味なくね?」
レッドの言うとおりだ。
「行けないことはない」
美馬がナオミに加勢した。一体この男は何者なのか。
「いや、行けないでしょ。行けたとしても、そっちにも俺がいる訳だろ。何が違うん?」
確かに、同じ世界が別のところに存在したとして、だからどうしたという発想はまともだ。
「それは認識の問題なのです。パラレルワールドといっても、すべてが同じと言うわけではない。同じ人間が向こうにも存在することもあればそうでないこともある。稀にループするキャラクターがいることもある。レッドさんはその稀の一人」
ナオミの説明は一層の混乱を呼ぶ。
「ループ? 意味わかんね。どーしてそんなことがわかるん?」
この説明にレッドはついていけない。佳奈は全く別の見方をしていた。
「…そうなの。大体話はわかった。ここに来た時、私はてっきりあなたが霊媒師かなにかで、龍一の魂と交霊するとか言い出すものとばかり思っていたけど、全然違ったね。ある意味期待はずれ」
佳奈は話を引き取るようにそういって腕を組むと部屋のなかを見回した。すると「それ、どういう意味っスか」とレッドが佳奈に訊いた。
「悪い意味よ。こんな山ん中まで連れてこられて」
佳奈には美馬という男も含めて、今更ながらなにか全く別な魂胆があるということを確信した。それがなにかはわからないが、こんな労を費やしてまでやらなければならないことって何? 人の弱みに付け込んで、お金? いや、違う。いづれにしても、早くここから逃げ出さなければならない。でも迂闊には行動できない。下手に動けば、こいつらは豹変して暴力的になるかもしれない。レッドもおバカの甘ちゃんを装っているだけで、敵か味方かわからない。見極めなければ。ひたすらチャンスを窺うしかないだろう。意外にも冷静に状況判断が出来ている自分が不思議だ。自らに危険が迫っている以上、龍一のことは後回しにするしかない。死んでもいいけど、ここで殺されるのはダメ。佳奈は薄情な自分に嫌悪感を持った。
ナオミはそんな佳奈の思惑を見透かしている。
「人類がパラレルワールドの存在を実証するのは二〇三〇年代後半になってタイムトラベルマシンが発明されてからです。人類は滅亡の危機に瀕しましたが、タイムトラベルマシンの発明を機に、歴史を遡ってこれを修正するという計画が実行されました。より良い人類の未来の為に。ところが、修正を実行したタイムトラベラーが元の時代に戻ってみると、それは全く別の世界だった」
まだそんなこと言っているの? 腹が立つが声にならない佳奈。レッドは違う。
「あー、それなら、知っている。なんて言ったっけ。なんとかのパラドックスだろ」
「それなら『親殺し』でしょ」
佳奈が仕方なく、教えてやる。
「そう、でもその計画はそんな個人の問題ではない。分かったことがあったのです。それは人類滅亡の結末だけは変わらないということ。人類は必ず滅亡する。そういう絶望的な未来だけがある」
「滅亡するって。ノストラダムスはやっぱり正しいってことか」
レッドは実感のない話にも付き合いがいい。
「ところが後になってそうした滅亡の結末を変えるシナリオがあるかもしれないことに気づいたある人物がいた。私はその人の使者と言ってもいい」
ナオミの真顔のジョークに、佳奈は「ぷっ」と思わず噴き出した。この女、ぶっ飛んでる。佳奈は怒りを通り越して、呆れた。
ところがナオミはこれが二人をここまで連れてきた本当の目的であると言った。
「お二人を、異次元の世界にご案内します。葛城龍一のいる世界に。そして二人が親子であることを明らかにします」
とうとうナオミは核心を言った。が、佳奈もレッドもその意味を理解できていない。
「えっ、何だって? 俺も途中から解らなくなった。もう一回最初から、よろしくです」
まともに話を聞いていなかったレッドには難しすぎた。それはそうだ、一度や二度聞いてもわかるはずもない。
「ややこしすぎるでしょ。それに異次元の世界にご案内とか、何ですか。最初からお願い」
佳奈も口に入れた食べた物を吐き出すように同じことを言った。ナオミは、真面目にもう一度同じことを、レッドにも分かるように、ゆっくり説明した。佳奈にはその真剣さが、滑稽にすら感じられた。
二度目の説明で二人ともようやく言葉としての意味は理解できたようだが、しばらくの沈黙が訪れた。一体どうフォローしろと言うのか。何かを考えていたレッドがうすら笑いを浮かべながら訊いた。
「うーん、そうか。てえことは、ナオミさんが自分は人間じゃないって言ったんは、未来から来た本物のサイボーグってことだよね? だから足もそんなんで大丈夫なんだろ」
すると佳奈も「そーなんだー」と突っ込んだ。そう、いずれボロが出る。
「サイボーグ。じゃぁ仮にそうだとしたら、どうやって信じればいいっていうの。荒唐無稽にしては、それなりに話はよくできてはいる。そこまで言うのなら、なにか証拠がないとだめでしょ」
証拠なんかありっこないんだ。そう思いながら佳奈は迫った。ところがだ。
「タイムトラベルマシンをお見せします」
ナオミは丁寧にしかし簡単に言った。
「おっ、マジでぇ?」
レッドが餌にすぐに喰いついた。
「どんなんでもいいから俺はそれ見たいなぁ、佳奈さんも、見たくない?」
佳奈の顔を覗き込むレッドは「タイムマシンを見せる」の一言でテンションが上がった。逆に佳奈は懐疑の念を広げる。そのタイムマシンを見せるっていう瞬間が勝負かもしれない。どうせそんなものないに決まってる。また同じようなことを考える。隙をついて思いっきり走るのだ。近くの民家に飛び込んで、助けを求める。でもそれ以上の考えが浮かばない。ただ、不用意に見ず知らずの人を事件に巻き込みたくはない。いや、そんなこと構っていられるか。しかし道に迷うと山中をさまよう羽目になる。まあ仕方ない、リスクは付き物だ。
「タイムトラベルって、どうやってやるのかしら。ドラえもんがいるのかしら」
バカを装って佳奈も調子を合わせた。心中の意図は読まれたくない。
「そうそう、ちょっと未来に行ってくらぁみたいに?」
レッドはテンションがもう一段上がっている。
「ワームホールを通って行くのです」
ナオミはまた簡単に言った。
「ミミズの通り穴かい」
レッドが知ってるぞといった感じで話を追いかける。
「のび太の勉強机の引き出しがワームホールの入り口ってことです」
しばらく黙って聞いていた美馬もわかりやすく説明しようと努力した。
「私もドラえもんは好き、かな」
小首をかしげる。だからなんだっていうのよ、とは佳奈は続けない。が、美馬は続ける。
「じゃぁ宇宙怪獣ブースカではどうでしょう?」
「ブースカぁ?」
「最後にブースカは少年との別れ際、一年後の再会を約束してロケットに乗って宇宙へ旅立つ。地球に残された少年にとってそれは一年後だけど、ロケットに乗ったブースカにとってそれは一日後のことだったんです。つまり明日には帰るよってことでした」
美馬は言ってみてから、あまりに話がそれたことに気づいた。だいたい古すぎて佳奈やレッドがブースカを知る由もない。が、言いだしてしまったから、最後まで言い切るしかない。
「つまりブースカが二十四時間高速で宇宙を旅して地球に戻ってくると、すでにそこは一年後の地球になっている。つまり未来にタイムスリップしたっていうことになるわけです」
やはり、二人の反応はない。
「時間の流れ方は静止しているほうから見ると移動しているものの方が遅いっていうのは聞いたことあるでしょう。Aという地点から、光速を何十倍も越えた速さで一瞬のうちにビューンと移動して、その移動した先のBからワームホールを通ってAに瞬間的に戻ってくるとAの時間は先に進んでいるわけです。実際の原理は少し違うけど、今の人類の知識ではそれが解りやすいと思います」
ナオミがやり取りに補足した。というより言い直した。
「わかんない。じゃ過去に行くにはどうするの」
佳奈は理屈には体が反応する。
「同じことです。伸ばした方向を縮める方向に超光速移動すればいいんです」
「わからん。縮めるって言うのは、地底にでも潜るんスか?」
レッドの質問は猫じゃらしにじゃれる子猫のようにナオミに飛び掛る。
「伸びるも縮むも無限なの。わからなくてもしかたない。ワームホールを通れば未来過去への旅ができる。でも、もうひとつあるんです」
「何々?」
さらにじゃれる。
「このワームホールを伝わって、多次元世界間のトラベルも可能です。今のこの宇宙をAとすれば、B、C、D、E、Fと無限に宇宙がある。そのひとつひとつを膜宇宙という呼び方をする場合もある。三千世界という表現でもいい」
「けったいな話だ。あれ、さっきも聞いた気がするぞ。で、そっちへ行くと、やっぱり俺がもう一人いたりする。やっぱし」
「いえ、いなかったりもする。膜宇宙はレッド君個人の都合では存在していないし、さっきも言ったようにキミは少し特殊」
これがナオミの説明だ。
「俺は特殊なんだ、でも誰の都合ってか?」
さらにレッドは喰いつきたい。
「話はどんどんわからなくなる」
佳奈はこれ以上話についてゆく気がしなくなった。
「肉体と精神の枷から脱却できない人間が理解するのは難しいかもしれないけど、たとえば深海魚は目も見えず海の底深くに棲んでいるから、海の外のことはまったく分からない。でも、外の世界は厳然として存在する。同じことです」
そう美馬がまた付け加えるように言った。なんとかわかって欲しいと思っている。
「じゃぁ私たちは、深海魚ってわけね。海の外を見ているあなたたちは差し詰めトビウオ。やっぱり人間じゃないみたいな言い方するのね。美馬さんもサイボーグなの?」
佳奈には騙されようとしている上に、馬鹿にもされている感じがして癪に障った。
「ナオミさんは人魚姫かもな。しかもサイボーグだぜ、かっけーぇ」
どんなストーリーか忘れたが、レッドは「僕の彼女はサイボーグ」という映画があったのを思い出して、ナオミを彼女にしたらかなりヤバイかも、などと妄想してまたニヤニヤしている。
「私のほうは一〇〇%生身です」
美馬は頭を掻きながら答えたので、レッドの連想は途切れた。何故か、佳奈もレッドもナオミの足がちぎれていることが余り不思議ではなくなってきている。
「美馬さん、私は足をフィックスするので、その間にお二人にマシンを見せてあげてください。乗る前に、一度見ておいてもいいでしょう」
ナオミはそう言うとタイミングを見計らったように立ち上がろうとした。乗る? 佳奈は何言っているのと思ったが、黙った。
「ですね、わかりました」
美馬はナオミのない足を見遣りながらにっこり頷いた。
「えっ、すぐに見せてくれるんスか?」レッドが即応する。
「どうぞ、行きましょう。外です」
美馬は早速二人を屋外に案内した。レッドは外に飛び出した。佳奈も気配を伺いながら二人に続く。「ふぃっくすするって何?」「バカ、直すってことよ」こんな会話をしながら、二人は美馬の後ろに付くと、ぐるりとキャビンの裏手へと回った。ナオミは、彼らを見送ると奥にある別の部屋に消えた。佳奈は今かもしれないと思ったが身体が動かなかった。そのあとのプランがないのである。しかたない、行くとこまで行くしかない、そう覚悟した瞬間だった。
背の高さまである雑草を掻きわけ裏手に出ると、そこには下草が丁寧に刈り込まれた平地があり、そして見えたのは、ベージュのナイロンシートに覆われた工事現場のプレハブ小屋くらいの大きさのなにかであった。周囲は広葉樹で囲まれている。キャンプをするにはもってこいの場所だ。
「これかい?」
言いながらレッドは美馬を横目でみた。美馬は、ペグで固定されたシートの四隅を緩めると、一気にめくり上げた。すると下に隠された正体の半分が現れた。
「なんじゃ、こりゃ!」
思わずレッドが悲鳴にも似た歓声を上げる。佳奈は組んだ腕を下ろした。
少し角が取れた楕円球状の日焼けマシンをサイズアップしたようなカプセルだった。二〇フィートコンテナ一個分かそれを一回り大きくして潰したというサイズ・形状か。表面は乳白色でツルツルしており、近未来のトイレか、或いはビタミン剤をでかくしたような代物である。
「日焼けサロンか、これわぁ?」
レッドは想像と違う形にやや拍子抜けしたが、冗談は忘れない。全体をよく見れば、それは鎮座しているとでも表現すべき神の乗り物と言えなくもない。これは一体何? 何故かドアも窓も吸排気口や排気管のような突起物もない、文字通りツルツル坊主なのだ。どこから中へ入るのか、それさえもわからない。それが中に入れるモノであればの話だが。
「なんか、想像していたのとずいぶんちがうなぁ。これ、ほんとにそうなの?」
レッドはおそらくデロリアン型を想像している。
「で、どうやって走るの? それとも飛ぶの?」訊いたのは佳奈である。
「それにしても、どっから入るんだ? それとも入らないのか?」レッドも気づいた。
「じゃぁ、中も見せてもらいましょうか」佳奈が美馬に迫った。
「この辺りにありますが、高気密高精密のドアで、四千ニュートンの反力でしまっているので、入り口はわかりにくいですね。搭乗するときは、専用のクリーンジャケットを着用します」
「なんだ、今入れないのかぁ」
レッドは悔しがった。
「それでこんな山ん中で、どうやって、これ動くの? 危険じゃない?」
どうしても動くものという先入観を持っている佳奈も訊いた。レッドは佳奈を見る。何度も佳奈が言う「山ん中」が面白くない。しかしここはれっきとした山ん中だ。
「核融合エネルギーでマシンの周囲を包囲して、ある一定のエネルギーレベルに到達すると、光の速度を越えて、トランスを開始します。飛んだり走ったりはしません。実際には重力場が形成されて、ワームホールが生成し、光の速度を越えますので、つまりは次元超越するので、肉眼ではなにもわかりません。それより近くにいたら肉体は消滅、それこそあの世に飛ばされます。量子レベルで異次元に遷移します」
美馬は冗談めかして原理を説明した。が、何度言われても分かろうはずもない。
「へぇ、そうなんだ。かなりヤバくね」
レッドは分かったフリをする。
「乗員は大丈夫なのかしら」
佳奈もこうして現物を見せられた以上は、説明は最後まで聞かないと、という気持ちもある。つまりそれが実際はなんなのか知りたい。可能性として最も高いのはうまくできた監禁部屋だ。いや、どうみてもそうだ。こんなものの中で何日も飲まず食わずの監禁、拷問を受けるのは嫌だ。しかも、ゲロすることは何もない。
「内部は安全です。それから、トラベルの瞬間、若干の紫色の光が空に立ち昇ります」
美馬が尤もらしいことを言う。
「見たことあるんだ」
レッドは美馬という名前を忘れてしまっている。もともと「ひと」にはあまり興味がない。
「通常は目立たないように、日中晴れたときにトラベルするんです。ただですね、次の瞬間戻ってくるので、実際には外から見たときには、なにも変わっていないんですね。ただこれが発光しただけに見える。見ていたらの話ですが」
「じゃぁ、実際にも旅はしていないんじゃないの」佳奈が突っ込む。
「ちゃんと中は旅してくるんです。それに、もうこの世界に戻って来ない場合に限って、消えてなくなります。最初からここに存在したものではありませんしね」
だから間違いないという。どうやら美馬もトラベルの経験はあるという前提で言っている。
「ナオミさんとお二人はこれで明日トラベルしていただきます」
「私、乗るとか、トラベルするとか、言ってませんが」
佳奈が釘を刺す。レッドが佳奈を見た。「何言ってんだよぉ」という顔だ。
「ナオミさんがご案内するので、心配しなくて大丈夫です。恋人に会ってきてください」
「恋人」の一言で、佳奈は観念するのだろうか。なるようになれと。
「…じゃあ、出発はいつなんスか?」レッドが訊いた。
「予定は明日の朝六時になっています」
「なんだ、そこまで決まっているのか。えっ、てことはだ、今日はこのあたりに泊まりかぁ。一瞬で帰ってくるんだよね。じゃぁ、休みを延ばすこともないってわけね」
「大丈夫。ただ申し訳ないけど、タイムトラベルは、年中好きな時にできるわけではないので、明日の朝は外せません」
えっ、そういうものなのといった顔の二人。いいように言いくるめられている気がしないでもない。
「そっかあ、わかった。泊まりじゃあ今夜は須坂あたりに宿を取るしかないか」
佳奈にとって逃げるチャンスだった。が、無情にも美馬が言った。
「キャビンに今夜は泊ります。設備は揃っていますし、タイムトラベルのレクチャーも必要です。それに問題ないと思いますが、サイコウェーブのチェックもします」
「???」
返す言葉もなく佳奈とレッドは顔を見合わせた。
誰かが言った。いや、その夜、ナオミがレッドに何気なく言ったことかもしれない。
世の中に、偶然というものはない。宇宙は全て因果、すなわちカルマの法則によって支配されている。すべては必然。
あるときキミは偶々街に出て、そこで私に出会う。偶然と思うでしょう。それはそうだね、だってキミがその時刻に家を出たのも、この道を通ったのもただの気まぐれ。前から決めていたことじゃない。だから出会いは必然的ではない、とね。でも、それはちがう。キミの無為に過ごしている毎日、昨日何気なくなにかを食べ、なにかを考え、なにかに笑ったことも、それらのすべてが偶然の仮面を装った必然なの。
美馬はその夜二人に夕食のサンドイッチとスポーツドリンクを差し入れた後、どこかへ消えた。そういえば宮司といっていた。ナオミの左足には、いつの間にかギブスが装着され、そのせいで少し引きずるような歩き方になっているが、それ以外は何事もなかったように足は元通りになっていた。危険が身に迫って、自分で咄嗟に切断したのだという。それを元に戻した、ただそれだけのことだと言った。夜は小屋の中で寝袋に包まり寝た。寝心地は最悪だったが、佳奈は久しぶりに熟睡した。スポーツドリンクになにか入っていたのかもしれない。
翌朝、東の空にまだ朝焼けのオレンジ色の雲が残る頃、三人はクリーンジャケットに身を包み、ツルツル坊主の前に立っていた。
「おー、これ、一度着てみたかったんだ、やばくね」
レッドは、こりゃ宇宙人スーツだ、と言ってはしゃいでいる。ナオミは腕時計を操作している。すると、プシューといって、ツルツル坊主の小さな入口が開いた。開いたというより、ドアに相当する四角い部分が、内側に後退して、内部への進入路が開けた、といったほうが正しい。ナオミは二人にこっちよと合図をすると、傾斜のある入口から身を屈め内部に入っていった。佳奈も小さくなってナオミに続いた。レッドも「わ・れ・わ・れ・は・宇・宙・人・だ」とふざけながら進んだ。もうこうなったら、なるようにしかならない。
入り口は音もなく閉まった。後戻りはできない。佳奈は焼き場で焼かれる前の死体の気分とはこんなものかと思った。しかし、怖くはなかった。それにしても外界との隔絶感が半端ではない。生きて棺桶に閉じ込められたらきっとこんな感じだろうな、ともう一度同じようなことを考えている。そして龍一が入れられた棺桶の中を想像した。閉所恐怖症の人には絶対無理だろう。
内部は、あっさりしていた。外側よりやや濃いクリーム色の室内。天井は低いが影がないせいか角は見当たらない。何もないから遠近感もない。
「あれ、なんにもないじゃん」
レッドは、航空機のコックピットを想像していた。計器と呼べるようなものは一切見当たらない。三畳一間程度の空間に、カプセル状のシートが四基、所狭しと前後に並んでいるだけである。
「どのシートでもいいから、座ってください」
ナオミは事務的に言った。佳奈もレッドも、言われたとおりに、目の前のカプセルの中に身を沈めた。
「おっ、これって、ファーストクラス?」
レッドがまたもや一人テンションを上げている。佳奈は、何かの拍子で爆発でも起こしたらひとたまりもないなと、不安が募るが、口には出さない。シートに身を沈めると、どこから出てきたのか戦闘機のキャノピーのような透明カバーが上からかぶさった。正に棺桶の蓋が閉まった瞬間だ。レッドの驚いた顔が横に見えるが、声はすでに聞こえない。ウレタンのような柔らかい弾力性のあるシートがしっかりと全身を包みこんだ。それまでの不安や疑念がウソのように去り、何故か安堵感が全身を覆う。
ナオミはなにやら小型のヘッドギアを頭に装着すると「じゃぁ、出発します」と言った。どこからともなくその声は二人に届いた。ピーィンという音が遠くの方で聞こえはじめると、クリーム色の室内が、一瞬赤みを帯びたようにみえた。そして次第に灯りが落ちてゆき、やがて真っ暗になった。佳奈とレッドがその闇を見た瞬間、強烈な睡魔に襲われ、そしてそのまま眠りに落ちた。
心地よい眠りに浸りながら静寂の中で寝息を立てていた佳奈とレッドは、ナオミに起こされた。
「大丈夫ですか」
そう言いながらナオミは交互に二人の肩にかるく触れた。
突然の声に、反射的に「えっ」といって起き上がろうとしたのは佳奈だった。が、力が入らなかった。少し考えている。あれ、頭が痛い。暗黒の宇宙の底、あるいは地球の中心核のそのまた真ん中で目が覚めたかと思った。こんな感覚は初めてだ。依然力が入らない。
「うーん、なんか頭いてぇ」と言いながら、素早く起き上ったのはレッドのほうだった。そしてあたりを見回した。佳奈と目が合う。
「えっ、もう着いたってか? …まさかね、失敗じゃね」言葉とは裏腹にレッドは期待満々だ。
「いえ、予定通りトラベルしました。今はすこし落ち着くまで休んでいてください」ナオミが言った。
「私たち、どうなったんですか?」佳奈が訊いた。
「トラベルしました」ナオミが繰り返した。
「マジでぇ?」レッドが反応する。
「マジで」ナオミがオウム返しに言った。佳奈は黙っている。
「外にクルマを待たせてあるので、落ち着いたらすぐ出かけます。寒いけど、我慢してください」
「寒かねっしょ、てか、腹減ったかも、でも、頭もイテぇ」
レッドは意外にも落ち着いている。それはそうだ。ちょっと眠っていただけだ。軽く頭痛がする以外異常は感じない。
ナオミが手元でなにかを操作すると、プシューっと扉が引く音がした。佳奈は一昨日の夜カクテルを飲んだことを思い出しながら、あり得ない二日酔いのような頭痛と闘っている。すこし居眠りしていただけで、状況が一変しているわけがない。実は何も起きていない。そうでしょ。しかし、佳奈のその思考は次の瞬間いっぺんに吹き飛んだ。
ドアが開くなり、外気が中に入りはじめた。
「おっ、開いた。どらどら、何がどうなったって?」
レッドは期待している。ナオミは立ち上がると「じゃあ、出かけましょう。クリーンジャケットはここで脱いでください」と言うと、ジャケットを手際よく脱ぎはじめた。二人も遅れまいと、見よう見まねで宇宙人コスプレを脱ぎ捨てた。
「さぶっ」レッドは二の腕を擦る。
山の朝の冷気だろうか。閉じ込められたらヤバイと滑稽なことを思った佳奈は、外に出ようとするナオミの後にぴたりと続いた。前のナオミが飛び出た。が、佳奈の足は出口で停まった。いや半歩あとずさった。声が出ない。いや、実際には「何これ」と小さく声を発していた。佳奈の肩がすぐ後ろにいたレッドの額に当たった。
「いてっ、何?」
痛くもない声がでた。レッドからは佳奈が邪魔になって外は見えない。佳奈はようやく諦めると恐る恐るナオミが待つ外へと足を踏み出した。レッドも無造作に続いた。
空気は重く冷たい。今、狐に抓まれた顔二つが呆然と周囲を見回している。寒いはずである。葉を落とした木々の枝に雪がうっすらと降り積もっていた。地面の湿気を吸って紅く映える落ち葉と雪のコントラストが美しい。透き通った空は赤みがかり、遥か彼方までが白い。夕方なのか、早朝なのか。目覚めたばかりでそれすらもわからない。間違いないのは、さっきまで青々とした夏の終わりの景色だった山々の眺めが、ミュージカルの舞台装置のようにあっというまに半回転したということだった。季節が真逆である。どのような仕掛けなのか。レッドの目が輝いている。やったぜ、と。
佳奈は昨日から起こったことを一から思い出そうとした。明らかに動揺している。文字通り、いや言葉通りにタイムトラベルをしたっていうのか。この辺りで夏に雪が降ることは万が一にもない。ナオミはどんなトリックを使ったのか。寝ている間にどこか北方の寒冷地へ移動した? いや、そうか、南半球にきたんだ。ちょっと待って、そんなわけはあろうはずがない。このコンテナのようなサイズの建物が簡単に長距離を移動できるわけがない。今の閃きはすぐに取り消す。短時間と思っていた睡眠が実は数日で、その間にどこか別のところに連れてこられた。そうか、これだな。佳奈はどこまでも疑り深い現実主義者、いやご都合主義者なのかもしれない。レッドをみると、何を思っているのか、ニタニタしている。信じる者は救われている。
「本当に、やっちまったんだ。やっベぇ。よっしゃぁぁぁ!」
やはり無邪気に興奮している。予想通り、単純なやつ。
「佳奈さん、どうしたの? これってぇ、マジっスよ」
「え、ええ、まあね」
投げやりというかうわの空で苦笑いする佳奈にはそれ以外の言葉は出てこない。寒さが身にしみて、指先や肩が冷えはじめた。三人とも夏の格好なのだ。それがいきなり冷凍倉庫に放り込まれたようなものだから、無理もない。寒さだけは厳然とした事実だ。でなければやはり催眠術にかかっているのか。まだあきらめない。佳奈は冷たくなった自分の肩を抱いた。
ナオミはあらぬ方を向いてケータイで誰かと連絡を取っているようだったが、振り向くと二人に言った。
「毛布が小屋にあるので、それを持っていきましょう。日が暮れはじめているから、風邪引かないように。服は後で調達します」
「それより、ここはどこ?」
佳奈はナオミに訊いた。ここぞとばかりにレッドが「どこって、ここは須坂でしょ、だって、ほら、白根山が見えるし」と言って遠くの東の空を指差した。しかし、その方角を見上げた佳奈の目に映るのは薄桃色の東の空に一筋の飛行機雲だけである。
三人は、細い雪道を下り、半分凍った小川を渡ると神社の脇を通り抜け、昨日Zとロードスターを停めた道へと出た。見慣れないジープ型のSUVが、排気管から白い排煙を出し小刻みに振動しながらアイドリングをしている。だが、自分たちのクルマはどこを見渡してもない。ナオミはクルマに近づいてゆくと、振り向きざま二人に言った。
「じゃぁ、乗ってください。都内で葛城氏らと合流したら、その足で空港に向かいます」
龍一とこれから会うという言葉を聞いて緊張が佳奈の五感を走った。そして淡い期待を胸に、まさかという顔でレッドを見た。レッドも佳奈を見ている。二人の様子を確認したナオミが言った。
「都内を回った後、厚木空港から上海へ向います」
「えっ?」
「あつぎくうこう?」
再び、二人は顔を見合わせた。厚木といえば、たしか自衛隊か米軍の基地だ。それで、そのあと上海? パスポートを持ってないし、海外なんて無理。着替えもない。それになんで中国に行くわけ? 二人は程度の差こそあれそんなことを考えた。本当にタイムトラベルしたのだろうか。佳奈には土地勘がなかった。しかも夏と冬の景色は全く違う。一体自分は今どこにいるのか。考えようとすると、目眩がした。このまま気を失うか、或いは気が狂うのではないか、そんな不安を感じた。
「さあ、クルマに乗ってください」
そう言うとナオミは二人を車内に押し込んだ。
三人を乗せたクルマは、須坂インターから長野道に乗ると、南へと走った。更埴ジャンクションで高崎方面へと進路を取ると、一路東京へ。季節の矛盾を除けば間違いなくここは日本だ。それは道路標識、町並みや広告看板を見てもすぐわかる。高速道も昨日通ってきた道にちがいない。更埴では東京まで二二〇キロの標識がでていた。そしてさっきまで雲間に隠れていた夕陽が北アルプス連峰の向こう側に沈みかけている。タイムマシンのような長いトンネルをいくつも通った。
軽井沢を過ぎると長野道は曲がりくねって一気に下る道になる。佳奈はおかしなことに気づいていた。追いこしてゆくクルマがすべて見慣れないかたちなのだ。それから、見覚えのないような古くて頑丈そうな工場やら倉庫のような建物がなんとなく目についた。日常とは違う可笑しな世界にいることを認めるには必要にして十分であった。やはり催眠術なのか。それとも夢。だが何度目を瞬いたり頬を叩いたりしても、この術からは逃れることはできなかった。
夜の高速道は、遠くに前橋辺りの美しい夜景を映し出していた。三人を乗せたSUVは時間を調節しているのかのようにゆっくりと走行車線を走る。そして藤岡から関越道へと入ると急に交通量が増えた。やがて見慣れないクルマのテールランプもどこかが違う通り過ぎる建物の造形シルエットも気にならなくなった。
須坂を発して三時間ほどは経っているだろうか。関越道の終着に差し掛かった。ここでまた奇妙なことが起こった。練馬で終点の関越道、ここからは一般道に降りるか、外環道に乗り継がなければならない。が、SUVは大泉から直進すると、そのまま別の地下高速道へと潜って行ったのだ。オレンジ色の天井の照明が先に向かって一直線に延びている。催眠術だろうがなんだろうが、結局は人間にとって自分に見えたものが真実なのだ。レッドがいち早く気付いた。
「あれぇっ! いつから関越道が練馬の先まで延びたんだぁ? 聞いてねえぞ。てか、昨日通ったばっかりじゃんか、ありえねぇっし」
目を何度も擦りながらレッドが狭い車内で興奮している。タイムトラベル、実は信じていなかったのか。
「…ここは、違う」
もう佳奈も認めるしかない。ここなら龍一がいても不思議ではない。そんな期待感が現実として佳奈の心の中で頭をもたげはじめていた。
「ここでは、関越は下落合の中央環状線までつながっています。それから、厚木空港は空軍の航空基地です。民間機の発着もあります」
ナオミがここではこれが現実といったふうに補足した。
「まじでぇ、これやっぱり違うんだぁ! 全然このほうがいいっしょ!」
レッドは流れるトンネルの照明を見てすっかり納得している。
「歴史の因果法則で、なにかが少し変われば、その結果として他のなにかも少しずつ変わる。その積み重ねで、やがて全く違う世界が現出する。そう言う世界が無数に存在している。宇宙は多次元の中にある。この世界では太平洋戦争を回避したので、その影響が大きいのです」
ナオミがいとも軽ろやかに難しいことを言った。