第4章 交錯 第5話 「起動」
ここ南京市の城北北区は公官庁、政府系機関、各国大使館が集中する中華民国首都の政治の心臓部とも言うべきエリアである。その一角に、十四世紀の明の時代に建てられた鼓楼が現存している。かつての朱い城郭の一部を形成していたもので、今でも市のシンボル的存在である。そして、その周囲を削るような形で南北に中山広路が走っている。
ここから数ブロック北上すると、東側に玄武湖がある。その人工湖の浮島にある新円明記念公園が、今回サミット前夜のレセプションパーティの会場である。そして湖畔の南京国際コンベンションセンターはサミット本会議場だ。セキュリティ上の要請から、海外の要人を招いて開く会議やイベントによく利用されている場所でもある。
今、二台の大型商用バンがどこからともなく現れると、その鼓楼のロータリーに停車した。スモークガラスで中は窺えない。ボディには大きく「東方電影計画股份公司」の青い文字が見える。イベント会社の車両であろう。
やがて二台は、呼吸を合わせると、中山広路を北に向かってゆっくり走り出した。玄武湖はそこから一キロメートル先にある。交通量はいつもと変わらない。が、サミット会場周辺はテロ対策で機動警察の車両が必要以上に何台も路肩に駐車しており、立ち入り禁止を示すバリケードがあちこちに見える。こうした物々しさが大きな国際イベントの開幕が迫っているという緊張感を高めている。
やがて右手に玄武湖が見えた。二つの橋が浮島と湖の東西両岸とを連絡している。二台はセキュリティゲートを通り抜けると、石橋を渡り、目的の島に到達した。地元では賞月島と呼ばれ親しまれている松や柳の木々で囲まれた直径二百メートル程度の円形の小さい島である。サミット後は、入場有料の歴史公園に生まれ変わる予定だ。
イベント会社のバン二台は噴水時計がある広場の裏に注意深く停車した。すでに夕暮れが近い。レセプションパーティは夜に行われる。したがってイベントの最終確認も日が暮れてから行われなければならない。何人ものスタッフが現場で機材や段取りの最終確認作業をしている。一台目のバンから今、ナオミ、龍一、智明、佳奈そしてレッドが降りた。別の一台からも数人のスタッフが飛び出ると、用意してきた機材や資材を荷台から手際よく運び出した。広場にはパーティ用のベンチやテーブルも適所に配置され、準備が整っている。テスト中のサイドスクリーンには、清朝末期から中華民国建国百年の歴史絵巻の映像が音もなく流れ始めている。
「わお、これが十二支像か」
噴水の前に行儀よくハの字に並んだ動物を象った十一の像をみた智明が感嘆の声を上げた。ネズミもハの字の閉じた側の一番端にいる。イヌ以外の十一支は既に収まるべきところに収まり、お互いを牽制しながらすました顔を並べている。後ろに雑然と配置されたハイテク機材とのコントラストが、またその歴史の奥深さを物語っているようである。
「なるほど、こういう感じなのか。それにしてもよく集めましたね。凄いな」
龍一も別なところに感心した。佳奈とレッドにはピンとこないが、どうやらたいそうなモノらしい。二人は愛想笑いを返した。
現場の責任者や司会進行役らしき男女と段取りについての確認があったのち、責任者の指示によってスタッフが二人掛りでパレット上の木箱からダミーのイヌの頭像を取りだした。そしてすでに設置済みの胴部の上に注意深くセットした。丁度ネズミと同列の反対側端である。本物のイヌがレセプションパーティ本番で最後のミッシングパーツがあるべきところに据えられるという演出でクライマックスを迎えることになっている。別のスタッフ一人がトランシーバーでまた他のスタッフと連絡を取り合っている。
「テスト開始します」
誰かがハンディマイクに向かって指示を飛ばした。
「三、二、一、〇、オン!」
すると十二支像の背後から十二色のレーザービームが天空に向かって放出した。本番ではさらに背後の長江南岸の幕府山から二千発の花火が打ち上がることになっている。が、リハーサルではそこまではやらない。やがて十二支像の上方に、荘厳な故宮と愛らしい二頭のパンダの3D動画が「二〇一五年南京へようこそ」というテロップと共に現れた。
「スモーク!」
また誰かの指示が飛ぶ。白煙のスモークスクリーンが故宮の背後に現出し、今度はプロジェクションマッピングによって京劇の舞踊が展開する。さらに続いて南京百年史の映像が走馬灯のように流れだす。
「OK、丁度いい」予行演習は順調なようだ。
この時だった。ナオミが手にしていたシュトッカーの土器時計が突然赤く光りはじめた。イベントとは無関係である。周囲の誰もそれには気づかない。が、ネズミとイヌが反応した。シンクロを開始したのだ。二匹の両目からレーザー光が発出し、中空に何かを映し出した。演出の一部ではない。スタッフ数名がイヌに駆け寄った。ナオミがそのスタッフに向かって叫んだ。
「プロジェクションマッピング、中止して!」
「プロジェクションマッピング中止!」驚いた別のスタッフがハンディマイクに指示を飛ばした。
京劇の踊り子が無念な表情を残しながら消え去ってゆく。すると何やら文字が浮かび出た。それを確認したナオミが言った。
「パスワードを要求している」
「佳奈さん、康司君!」龍一も叫んだ。
両端のネズミとイヌの目が点滅している。
「まずはネズミへ」ナオミが動いた。
「勝手なことをするんじゃない!」スタッフの一人がナオミに向かって怒鳴った。が、別のスタッフがその男を制止する。ナオミは佳奈とレッドの手を取りネズミの近くへと導いた。するとなんということか、決して動いたりすることはないと思われたネズミの口がわずかに開いた。辺りにいた数人が驚いて同じように口を開けた。ナオミに促されて佳奈が躊躇しながらネズミの口に人差指を挿し入れる。
「痛っ!」
佳奈は指先にちくりとした電気的刺激が走ったのを感知した。その拍子に指を引いた。次にレッドも促されてネズミの口に指を差し入れた。
次にナオミは佳奈をイヌの前に連れてゆくと言った。
「目を見て」
イヌの目を見ろというのだ。するとその目から発する光線が佳奈の瞳の奥へと侵入した。レッドも同じことをした。
やがて中空にさっきとは別の黒っぽい三次元スクリーンが突如現出すると夥しい文字や図形、数式らしき情報が映画のエンディングロールのように流れ始めた。
一体これはなんなのか。皆唖然としている。龍一や智明らにはいったい何が展開しているのかわからなかったが、これがそれなのかといった興奮の表情を浮かべている。
ナオミがこれを読み取ろうとして、凝視する。黙っている。が、やがて重そうな口を開いた。
「これは生体更新技術情報…不老不死…」
「生体更新?」聞いた龍一が驚いた。
「不老不死? そりゃ素晴らしい」
智明は言ってから、いや待てよと考え直す。
「そうではない。これらの情報はむしろ危険。人類に破滅をもたらす」
スクリーンを凝視しているナオミがまた言った。「有用な情報」とは別の何かを感じたらしい。
「危ない」ナオミは何かを確信した。
「えっ、そうなの?」ナオミの言葉を理解できない龍一も思わず声を出した。
その時、突然、背後のプロジェクションマッピングのスクリーンが眼前でボンボンと音を立て破裂した。
「きゃぁ!」
誰かの悲鳴と共に、脊髄反射で皆の肩がすくんだ。不意を突かれて尻もちをついた者もいた。バラバラっと何かが飛び散り、佳奈とレッドの前まで飛んできた。龍一も頭上に手をかざして咄嗟に防御姿勢を取った。
どうした! 離れたところにいた無関係のスタッフも音に驚いて振り返った。
大丈夫か? 誰かがまた叫ぶ。一瞬の出来事だった。何が起こったのか。いや、誰にもわからない。演出の一部ではないことは明らかだった。
「スモークマシンが破裂した」誰かが大声で言った。
「怪我はないですか?」龍一が佳奈の元に駆け寄った。
「大丈夫」
佳奈はレッドを見ながら言った。状況がどうにか把握できたスタッフらが飛び散ってバラバラになったスモークマシンの残骸の一部を拾い上げた。
「何があったんだ!」
上級責任者と思われるスタッフが駆け寄ってきた。
「皆、大丈夫か?」智明も叫んだ。
「一体どうなっているんだ。それにしても、危なかった」
そう言いながら、龍一ははっとした。待てよ、これは只の事故、なのか、それとも例の…。
プロジェクションマッピングのスクリーンは透明の大きなアクリル板二枚を重ねて、その間隙にスモークマシン四台を上下左右に配置した構造になっている。どうやら上部二台の機器の一部が何らかの原因できれいに吹き飛んだようだ。破損したアクリルからスモークが漏れ出し、その辺りを霧で包み始めていた。すると突然その霧が赤く、そして黄色く光って、光の粒が拡散した。
最初に気づいたのはレッドだった。
「誰かいる」声が出た。
やがて、霧は足元だけに残った。人影の正体が崩壊したスクリーンの背後から顕れた。
「あれれ、なんだぁ? ナオミさん?」
レッドがその姿を確認して言った。
「違う」ナオミの声が別のところから聞こえた。
それは誰が見てもナオミにしか見えない人物がもう一人、鏡の中の本人のようにそこに立っていた。
「マジか」
龍一は独り言のように呻いて、智明の方を見た。智明も驚いた顔を遠慮なく見せる。今なんと、ここに二人のナオミが、対峙するかのごとく正対し、そしてお互いを見つめている。
「こういうことなんだ」
一方のナオミが言った。
「どういうこと?」
もう一方のナオミが訊きかえした。
「今見せてくれたもの、私が必要としているものなの、ロクゴウナオミさん」
「アナタは誰?」
「誰って、私はあなた、でしょ。まあいいよ、私はソゴウナオミ」
「Mの正体はアナタってことなのね」
「そうなの? M? 知らないな。勝手に名前を付けたりしないで」
「私の計画を邪魔した張本人。というより、こう訊いた方がいいのかな。山井さんは一体何をアナタに託したの?」
「おやおや、変な言いがかり。それより、さっきのモノ、頂戴したいの」
「そういうわけにはいかない。あれが何だかわかるでしょ」
「ふふふ、生体更新技術だけじゃない。まだある。フリーエネルギーに放射能除去技術。でも問題はそんなことじゃないんだ」
「あら、じゃあ何? アナタに手渡して、どうするっていうの」
「イヌ、ネズミ、そこに秘められたもの全てを破壊する」
「そんなことできるわけない」
「ゴタゴタはいいから。そこの二人も含めて、渡して頂戴。これはキミの使命でもあるんだから。でしょ」
「そんなことは許さない」一瞬の当惑の表情がナオミの顔に表れた。
「じゃ、仕方ないね」
次の瞬間、ソゴウは目にも止まらぬ速さで隠し持っていた黒い何かを龍一に向かって投げつけた。それはひゅっと宙を飛んだ。全く油断していた龍一。顔に当たる直前だった。横にいたナオミが左手で振り払った。ピシリと音を立てて地面に落ちたものがあった。
「あっ!」
龍一が叫んだ。ナオミの左手から黒っぽい液体がしたたり落ちている。蜘蛛だ!
「やめろー」
突然叫んだかと思うと、レッドがソゴウに向かって突進した。一瞬「えっ」と驚いた表情を見せたソゴウは、目の前に来たレッドの鼻っ面をパチンと叩いた。レッドはそれだけでソゴウの斜め後ろにすっ飛んで、転がりひっくり返った。誰が見ても女には何のダメージもない。だが、そのソゴウが無造作によろめいて体勢を崩した。そしてそのまま片膝をついてしまった。
その隙を計って佳奈がロクゴウの元に駆け寄る。
ソゴウの背後からプシューっと激しい音と共に再び白煙が上がった。すると、その中から二人の男が跳び出してきた。そして何の躊躇もなくソゴウの元に走り寄ると、彼女の両脇を抱え後ずさりし始めた。智明が「待て!」と叫ぶ。が、その連中は言葉を無視し、スルスルっと背後の暗闇へと消えた。スタッフの誰かが半身でその後を追う。が、また何が飛んでくるかわからない。次の瞬間、プシューという音と共にまたスモークマシンの一つが勢いよく煙を吐き出す。「あっ!」誰かが何かに蹴躓いたのか。ソゴウがさっきまで立っていた辺りは白煙で何も見えなくなった。
全てが一瞬のうちに起こった。
「大丈夫?」
佳奈はハンカチを取り出すとナオミの手の甲に巻き付けながら声をかけた。
「私は大丈夫。それよりアイツは必ず戻ってくる。レッド君は…」
龍一が転倒したレッドをいち早く助け起こした。
「大丈夫か?」
「大丈夫っス」
「結構勇敢だね」佳奈が声をかけた。
「いや、何だか、自分が悪いことをしているような気になって、思わず身体が動いたっス」
「しかしだ、無茶はよしなさい」智明がたしなめるように言った。
「彼らは必ず戻ってきます」ナオミが同じことを言った。
「それより、手の方は?」龍一はナオミを気遣った。
「問題ありません」
騒ぎを聞きつけた公安が二人三人と駆けつけてきた。そして現地スタッフにあれやこれやと事情聴取を始めている。これで本番は大丈夫か?などと言った声も聞こえる。同道したマシピンのスタッフが智明に向かってややこしいことに巻き込まれる前に早く行けと目配せした。
「そうだ、ここは一先ず退散するほうがよさそうだ。奴ら、どこに消えたのだろう」
「イヌはどうするか?」智明が心配した。
するとそれを聞いたマシピンから派遣されていた男の一人が親指を立てて合図をした。任せろと。
「そうしましょう。パスコードがなければ何も意味はない。引き揚げましょう」
五人は乗りつけてきたイベント会社のバンに乗り込んだ。気配に気づいた公安が待て!と合図している。それを見て、クルマは急発進した。
「一体、どうなってしまったんだ」
クルマが走り出すなり智明が自問自答するように言った。
「あれがMの正体…」ナオミが断定した。
「ナオミさん、どういうことなんだ?」龍一が驚いた。
「私は山井泰司によって造られたHBR。試作を重ねた後の六体目。恐らく彼女も彼が同様に制作したアンドロイドの一体に違いない。レッド君の行動に相当な衝撃を受けたのもそのせい」
ナオミは言いながら、レッドの姿に目を遣る。レッドは「どうだい」といったふうの仕草をしているが、なんのことかは分からない。
「確かに、すっ飛んだのはレッド君なのに、それ以上のダメージを受けたようだった」
智明がその不可解なソゴウの反応を思い出している。
「それにしても君にそっくりだった。彼女自身が『私はあなた』って言っていたし。訳が分からないぞ」
龍一が混乱を口に出した。ナオミは何も言わずに黙っている。
「もしかしたら、アイツが言うように、あれは私自身なのかもしれない」
誰もが聞きたくないことをナオミが確信ありげに言った。
「後ろから出てきた男らも、仲間だろうか?」
「そういうことです。彼女は一人では何もできない」
「そうか、なるほどね。ところで、今訊くことじゃないかもしれないが、どこからどう見ても、見かけでは君は人間じゃないか。どこがどう普通の人間と違うんだ」
智明が今まで一度もナオミに訊いたことのないことを訊いた。
「生殖能力は備えていません。必要はないから。でもセックスはできます」
佳奈が「あれっ」といった顔を向けた。すごいジョーク、なの? いや、訊かれたくない質問だったのかもしれない。
「あっ、いや、そういうことじゃなくて、人間離れした能力のことだよ」同じことである。
それにしても予想外の言葉がナオミの口から出たものだから、気まずい空気でレッドまでもが反応できずにいる。言い出した手前収拾を付けなければならないのは智明だ。
「あ、いやいや。余計なことを訊いてしまった、すまない、そういう意味で訊いたんじゃないんだが」
中年オヤジでも赤面するしかない。
「そうだよ、ナオミさんは、俺たちと同じ人間だ」
ようやくレッドが気を使ってフォローした。それは誰も否定はしたくない。無表情なナオミの顔に街のイルミネーションの彩が流れてゆく。
「しかし、彼女が君の分身だったとしたら、やっていることが君の妨害ってことは、理解できないだろ」
龍一が皆をソゴウの話に戻した。確かにそこは大きな疑問だ。本来なら協働するべきじゃないのか。
「恐らくは、何らかの要因で世界線が分岐し、そこで不都合が発生した結果、山井が別のミッションをソゴウに課したのではないかと考えられます」
「また別の世界からっていうのはややこしいな。それにちょっと君とは性格が違っていた」
智明も話題が変わってほっとしている。
「待ってよ、不都合っていったって。それじゃぁ俺たちがやろうとしていることに何か重大な欠陥があるって言うことなのか?」
龍一が「不都合」に反応して、また疑問を呈した。
「それにしたって、あんな毒蜘蛛かなんかを使うなんて卑怯だ」
どうやらレッドはそこが一番気に入らない。
「それにこっちが先であっちが後とも限らないだろう」智明が指摘した。
「彼女はソゴウと名乗った。それは十番目ということ」
「十番目? それってどういう意味? したの名前は同じだが」龍一にはピンと来ない。
「そうか、てことは、君は六番目ということか」智明が謎を解いた。ロクゴウは六号で、ソゴウは十号だ。
「じゃぁ、あのいきなりしゃしゃり出てきた女の言うとおりにしろってこと?」レッドは兎に角、十番目のほうが気に喰わない。或いはロクゴウの肩を持ちたいだけなのかもしれない。
「そうではありません。彼女は別の世界線からやってきた。その意味するところは、この世界を破滅させるということ。そう考えるのが自然だと思う。でなければ…」
「でなければ?」
「でなければ、イヌとネズミがもたらす何かに致命的なものがあるのかもしれない」
「例えば?」
「例えば、人類破滅の仕掛けが起動する」
「はあ?」皆が反射的に同じ声を出した。
何故そんなふうな発想になるんだ? だがナオミはその「破滅の仕掛け」の可能性を否定しない。ひょっとするとロクゴウにも身に覚えがあるのか。それぞれがあれこれと頭の中で思いを巡らしながら黙りこんでしまった。
バンは中山路を南下している。
「ところで、肝心のイヌとネズミの秘密というのは、あっちのナオミはなんか色々言っていたみたいだけど、つまりは、生体更新情報ということでいいのかな? ナオミ君」智明が訊いた。
「それも含まれていました。これは厳密にいえばアンチエイジングと生体の更新技術で、しかも病原体に対する耐性を著しく高めた、いわばニュータイプの人類の創造ということのようです。人類の寿命は五百年まで可能となる」
「五百年?」龍一とレッドが同時に驚きの声をあげた。
「確かにすごいな。悪いことじゃない。でもだ、五百年生きたいかっていうとちょっと待ってくれってなるな。それに脳みそがそんなに長い間持つのかっていうのもある」
智明が人生あと四百五十年と言われたら、それはそれで辛いなぁと冗談めかして笑った。
「今でも医療技術の進歩によって、人間の寿命は一二〇歳程度まで延びると言われている。それが一気に四倍ってことは、どうだろう」龍一も智明に完全同意する。
「寿命が一二〇歳で出生率が平均二・〇で推移したとした場合、百年で地球上の人口は三倍になるとのシミュレーション結果もあります」ナオミがそう付け加えた。
「なんてこった。三倍とか、あり得ん。そうなったら、今でも足りない食料や資源があっという間に枯渇するんじゃないか。環境破壊も今の比ではなくなるだろう。寿命が延びたら延びたで、人口抑制は必要と言うことなのか。そう考えると、やはり人間は死ぬために生きているってことなのかもしれないな」
率直な感想が智明の口から出た。確かに、それはそれで、人類滅亡の一シナリオとなるかもしれない。
「火星か太陽系外へでも人類が移住するという前提なら五百年くらい寿命があってもいいのかもしれないけど、人口が今の三倍になるだけでも大きな問題だ」
龍一は真剣に考えている。人口問題は、アジア連邦の存立・運営にも大きくかかわる。食糧問題は特に深刻だ。現在でも食物の五十パーセントは消費されずに廃棄されているという現実がある。これもなんとかしなければならないだろう。新しい技術は必ず新しい問題を引き起こす。それがこの世の習い。
「でも、人生百二十年だったら、結婚適齢期が五十くらいで、きっと子供も還暦過ぎたくらいになって作るんじゃないのか?」
智明が面白いことを言った。皆も「ああ、なるほど」と感心する。あり得なくはない。人生、慌てなくてもいい。そういうことだ。しかし、五百年となると、話はだいぶ違う。出生率は限りなくゼロに近づくだろう。龍一は仙人のような老人ばかりが暮らす世界を想像して身震いした。
「それ以外にもあります」ナオミが言った。
「さっきソゴウがなんとか言っていたやつか?」龍一も何かを思い出す。
「そうです。フリーエネルギーと放射能除去技術」
「えっ、何、それ?」佳奈が関心を持った。
「フリーエネルギーとは、この宇宙に無限に存在するエネルギー。一の入力に対し二の出力があるエネルギー取得技術と定義されます。これとセットになって初めて五百年の寿命も意味を成すのです」
「なるほどね」智明も納得する。が、それでも五百年は駄目だろうと思う。
「それは永久機関というやつだ。電磁誘導かなにかの応用でフリーエネルギーの電池を作れるっていう話もある」龍一が補足すると、さらにナオミが説明を加えた。
「おっしゃる通り電磁誘導技術の応用による発電システム。アイディアとしては二十世紀からあったもの。半永久的に生成できる誰もが利用可能なエネルギーなのです」
「産業化が可能なら夢のような技術だ。世界から貧困をなくせるかもしれない。争う必要もない」
龍一は少しだけ希望をみた。
「それに放射能除去技術だって」佳奈が口を挟んだ。
「そうです。前史では核戦争後、様々な放射能汚染の除去技術が開発されては試されました。しかし決め手となるものはなかった。移染はできても除染はできない、そんな技術的な限界に直面したのです」
「この世界では核兵器というものの怖さはあまり知られていないけど、放射能は駄目なのか」
龍一もあれこれ想像した。放射能と言えば、有馬温泉に代表される放射能泉だ。寧ろ体に良いとされる。
「核兵器とか、放射能は、マジでヤバい」
レッドは、この世界線が自分たちのものと大きく異なることを実感しながら、知ったかぶりで言った。
「この世界が創造されたのには、それだけの因果があるのです」
「で、シュトッカー情報は具体的にはどういうものなの?」智明が訊いた。
「邪魔が入った為に、完全な読み込みには失敗しました」
「なんだあ、もう少しだったのに」レッドが悔しがる。
「ということは、やっぱりあそこには戻らないといけないってことか」龍一が独り言のように言った。
「しかし、寿命五百年にしてもフリーエネルギーにしても、医薬品業界やオイルマネー、その他の既得権益にしがみつく連中が黙ってはいないだろうな」
答えのない部分を智明が指摘した。
「あのー、俺、よくわからないんだけど、ナオミさんに一つ訊いていいっスか?」
レッドがある疑問を口にする。
「そのシュトッカーっていう奴は、なんで、態々、そのイヌとネズミに、そんな仕掛けをしたんスかね。てか、なんで、イヌとネズミなんスか?」
いい疑問だ。ナオミは一呼吸置いて答えた。
「シュトッカーは、ネズミとイヌを時限装置として利用したのです。二十一世紀のあるタイミングになって、それが必要となるときに、歴史の表舞台に出てくるということを彼は承知していた。偶然や幸運を狙ったものではなく、精巧な計画の上に成り立っているのです」
「え、でも、もしそれが思ったように世に出てこなかったらどうしたんだ?」
龍一が突っ込んだ。あり得なくはない可能性だ。
「それはシュトッカーの予定した世界線ではないということになるのです」ナオミは断定した。
「あれ、でも円明園の十二支像は英国軍が略奪したんじゃなかったっけ?」龍一がもう一回突っ込む。
「略奪についていえば、フランス軍が正犯、英国軍が共犯です。その後ネズミはフランスへ、犬はイギリスに渡った。シュトッカーがどのように像を手に入れ、改造し、またこれを戻したかは謎です」
「きっとシュトッカーはタイムトラベルを利用したんだろ」レッドがそう決めつけた。
「それから何故ネズミとイヌなのかというもう一つの理由は、二体の配置にあります」
「そうか、あるべき場所とは、二体の位置関係だったのか!」
「なるほどね、あの条件が揃わなければ、3Dも再現しなかったってことだ。考えたな」智明も呻った。
今やっと、謎の一部が晴れたような気がした。
「ところで、ナオミさんって、人間だけど、人間じゃない部分って、寿命なんじゃないの? やっぱり五百年くらい長生きするとか」
レッドがまた別の疑問を言ってみた。そういう技術が未来では確立しているのかという問いでもある。
「いえ、私は長くて十年。只、私の中では、時間とか年齢と言う概念は希薄…」
「はは、十年とか希薄って、いやー、それはないだろう」
龍一が意外な別のジョークと受け取って笑った。しかし、タイムトラベラーの時間感覚というのは、生身の人間のそれとは異なるものに違いない。それは誰もが何となくそう思った。
車のエンジン音と路面の騒音が軽快なリズムを刻んでいる。突然、誰かのメロディ着信音が無言の車内の空気を破った。すると智明が慌てて内ポケットからケータイを取りだし、通話ボタンを押した。
「はい、瀬上です」
大きな声がケータイのスピーカーから漏れ聞こえてきた。
「あ、どうも。王さん、こっちは大変なことになりました」
用件を聞く前に、智明が言いたいことを言った。マシピンの王のようだ。智明の言ったことを無視して、何かをまくし立てている。すると智明が突然声を上げた。
「ええ! なんてことだ。それは本当なんですか?」
なにやらあったらしい。
「…えっ、何ですって!」
智明が前席のシートの肩を掴んで、バランスを崩すまいとした。血の気が一気に引いてゆく。車内は暗く智明の顔色までは分からない。皆、耳を聳てて会話を聴いている。この期に及んで何があったんだ?
「わかりました。善後策を協議しましょう、といってみても…」智明は絶句した。無力感が声に表れた。
「で、王さん、これからどうしますか」
なんとか気を取り直そうとしている。
「わかりました。こっちも状況が急変しているので、これはもう出直ししかありませんね。ちょっと一回電話切らせてもらいます。また連絡しますから」
王がもう一度何かをまくし立てた後、電話は切れた。黙って電話のやり取りを聞いていた龍一が訊いた。相手はマシピンの王だということは分かっている。悪いニュースに違いない。
「どうかしましたか?」
「驚かないでくれ。ロシアが満洲に宣戦布告した」
「え?」
「とんでもないことになった。これはもうサミットどころの話じゃない…」
数年前、満洲とロシアの間で国境紛争があって以来、両国の関係はそれまで以上に悪化していた。伏線はあった。一年前にバイカル湖近郊の満露共同開発プロジェクトのポチョレフ鉱業株式会社がロシア政府に接収された。満洲は対抗して、在満ロシア人の居住権に制限を加えるという制裁措置を取った。これを不服としたロシア側が、満洲国物品に高関税を課すという措置に出た。報復の連鎖・応酬である。さらに決定的だったのが、満洲政府による在満ロシア人の資産一部凍結と、ロシア船籍の松花江航行全面禁止の法令化だった。これに対してロシアはこの事態の結果に対する責任はすべて満洲側にあるとの最後通牒ともいえる声明を発表した。四ヶ月前のことだった。ロシア側も問題を抱えていた。大量のアジア系移民の不法流入がシベリア、中央アジア方面で問題となっていた。それでも誰もが楽観視していた。まさかいきなり戦争になるとは考えていない。そもそもそれでは何の解決にもならない。それでも愚行は繰り返す。
「宣戦布告ですか。随分いきなりですね。それ、確かな情報ですか?」
龍一が聴き間違い、或いは前回のような局地的な武力衝突ではないかと思い、訊き直した。
「王さんが言うには、水面下でこれまでも随分やりあっていたそうだ。知っての通り、ロシア国内では満洲人に限らず、アジア人の排斥運動が暴走している。産業が疲弊しているロシア国民の堪忍袋の緒が切れたといったことかもしれない」
「それにしても、戦争とは。そんなに簡単に起きるものなのですか?」
佳奈がまた口を挟んだ。が、その答えは誰にもわからない。起きるときは起きるのである。
「ソゴウが現れたことと関係しているかもしれない」
黙って聞いていたナオミが奇妙なことを言った。
「それ、どういうこと?」龍一が中央道の事故の時のことを思い出した。
「彼女の出現がこの世界線に遷移をもたらした、そう考えられる」
「どういうこと?」今度はレッドが反応した。
「過去を変えてしまう力。誰も気がつかぬまま、過去が変わってしまうことをいいます」
「その気がつかないうちっていうのが、全く恐ろしい」龍一が知ってか知らずか呟いた。
「そんなあ」一瞬、希望の表情を見せたのは佳奈である。知らぬ間に過去が変わって、ある日目が覚めたら、龍一が何時ものように傍らにいる。そして変わらぬ日常がゆっくりと流れてゆく。それこそが佳奈が望む唯一の願い。が、そのようにストーリーが書き換わることは決してないのだろう。
ナオミが続けて言う。
「さもなければ、今夜イヌとネズミを甦らせたことが引き金になったのかもしれない…」
そんな馬鹿な。それじゃあ、俺たちは、これまでずっとシュトッカーに踊らされていたって言うことなのか。龍一は混乱した。智明も言葉がない。
「で、この先どうなるの?」
レッドが誰にとでもなく訊いた。元々ここは自分の世界ではない。が、それでも気になる。
「ここも何らかの形で戦争の影響を受けるだろう。南京サミットはノーチャンスだ。もう撤退しかない」
智明の状況判断は確かだ。スモークマシンの暴発どころの騒ぎではなくなった。
「この状況は、ソゴウが作った。彼女を排除しなければ、事態は悪化の一途を辿るかもしれない」
ナオミが断定した。
「え? 排除って言っても、どうやって?」龍一が訊き返す。
「いずれ私が決着を付けないとならないでしょう」
皆が黙ってしまった。それは可能なことなのだろうか。でもどうやって?
再び、智明のケータイが鳴った。
「瀬上です、ああどうも、桜井さん」
今度は外務省の桜井だった。そうか、今のこの当面の状況を打開してくれるのは日本政府しかない。
「今、ロシアの件、マシピンの王さんから連絡がありました。で、日本政府の対応は? ええ、はい…」
何がどう進行しているのか情報は必要だ。
「わかりました。南京緑口ですね」今取るべき行動に方向性が与えられた。
「OK、じゃぁ帰国してから、話しましょう。はい、では」
どうやらこのまま帰国することになりそうだ。智明がケータイを切ると龍一が訊いた。
「今度はどうしました?」
「ロシアで昨日クーデターがあったらしい。それが引き金だ」
「なんと。そんなニュース聞いてないですが。それに昨日の今日で宣戦布告なんて」
「詳細は分からない。で、我々にすぐに帰国するようにとの話だ。サミットは勿論中止。首相の訪中もなしだ。茉莉君にも桜井さんから連絡を入れてくれたそうだ」
「ありがとうございます」龍一は切れた電話の向こうの桜井に礼を言った。
「それで、急きょ南京空港で民間機をチャーターしたそうだ。サミット関連で来ている政府関係者は全員それに乗ってくれとのことだ。想像以上に事態は良くない。前のような国境紛争レベルではない」
智明は悲観的な状況を説明した。龍一は考えた。佳奈とレッドがこの世界に存在しない理由はこういうことなのかもしれない。元はといえばシュトッカーにおびき寄せられたのだ。佳奈とレッドは長くこの世界にいてはいけない。説明のできない責任感が龍一の心を圧迫した。
「ナオミさん、腕は大丈夫ですか?」
佳奈が心配して訊いた。気やすめなのは分かっているし、彼女が自分で何とかすることもわかっている。
「佳奈さんとレッド君は私が元の世界まで送り届けます」
ナオミは佳奈の問いをそのように解釈して答えた。しかしデータはまだ読み切っていない。帰っていいのか。佳奈はふとそんなことを考えた。それは龍一との別れも意味する。それともまた戻って来るチャンスがあるのだろうか。それならそれもいい。
「ソゴウが二人を追って向こうの世界まで行ったらどうなるんだ?」
智明は別のことを心配した。
「別の世界線へトラベルするためには、何時どこで元の世界線と分岐したかを知らなければならない。だから、その情報を持たない彼女にそれは不可能です」
ナオミは明瞭に答えた。しかし、ソゴウがロクゴウだとすれば、どうなる? 或いは全く別の世界線から二人を探し出すという選択肢もある。そしてまた沈黙が訪れた。
気を取り直した智明が運転手に、このまま空港へ直行するように指示した。三十分程の道のりであろう。今は元来た道を戻るしかない。車窓を流れる南京市内の夜景はいつもと変わらず華やいでいる。




