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未來からのハッコウイチウ  作者: 檀D九郎
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第4章 交錯 第4話 「別人」

朝鮮半島の歴史は古い。史記によると、紀元前十二世紀、中国殷王朝からでた王族が箕氏きし朝鮮を興したのがその始まりという。次いで燕からでた衛氏が箕氏を滅ぼし朝鮮を統治した。漢の時代、武帝がこれを攻め滅ぼし、紀元前二世紀後半漢四郡を置きこれを直轄支配した。いわゆる、楽浪らくろう真番しんばん臨屯りんとん玄菟げんとの四郡である。この支配形態は四百年余り続いた。

その後、四世紀になり、満洲で興った高句麗が南下して朝鮮半島北部を制圧すると、南部では倭と関係が深かった新羅や百済が勢力を伸ばした。日本に儒教や仏教が伝えられたのはこの時期である。七世紀になると唐と連合した新羅が、高句麗と百済を滅ぼして半島南部を統一したが、高句麗の故地では渤海が建国する。

十世紀の「後三国時代」を経て、高麗が朝鮮半島を統一するが、十三世紀になると元の侵攻を受け、その統治下に入った。元が滅びると、明と友好関係を築いた李氏朝鮮が建国し、北方の女真族と敵対した。李氏朝鮮四代国王の世宗は、ハングル文字の制定をおこなうとともに、史書の編纂、儒学の振興、さらには農業生産や科学に力をいれた。李氏朝鮮の黄金期である。

十六世紀末、日本の侵略を受けたが、十五世紀から続いていた日本への通信使の派遣が再開したのはこの前後である。十七世紀には、中国を征服した女真族の王朝、清による侵略を受け、冊封さくほう体制(宗主と朝貢国の関係)に組み込まれた。清の属国となると、その状態は日清戦争後の独立まで続いた。その後、日露戦争に勝利した日本が朝鮮を併合した。これを契機に半島の日本化が始まったのである。

以来百年、今日に至るまで、朝鮮の公用語は日本語であり、国民には日本国内と同じ教育が施されている。そればかりではなく、金融システム、鉄道、行政システムなどの国民生活にかかわる体制・仕組みは本土と変わらない。国際法上は朝鮮国という独立国家であるが、日本国朝鮮州というのがその実態と言える。唐津-釜山間が対馬海峡トンネルによって結ばれ、高速鉄道の開通によって東京からソウルまでは夜行に乗れば七時間程度で行くことができる。

そして、その朝鮮の北方に位置するのが満洲国である。親日反ロシアの国家である。首都は新京。通貨は日本円が広く流通している。日本の国債の利率が中国や満洲のそれに比べると高く、日本円ならどこの銀行に持っていってもドルやポンドなどの国際通貨にプライムレートで交換が可能である。

漢民族国家である中華民国の首都は南京である。建国の父、孫文が提唱した三民主義(民族・民権・民生)を国是とする。国家元首は中華民国総統であり、国民投票によって選ばれる。現職の鄭英ていえい総統は第十代目である。農業が主産業であるが、近年、半導体やIT産業が盛んで日本との人的・技術交流も多い。国境を多くの国と接しているため、ロシアやベトナム、ミャンマーなどと国境問題を抱える。春秋戦国時代からの中華思想は、今でもこの国とその民族の遺伝子に深く刻み込まれている。


二〇一五年の師走になった。

その晩、龍一のケータイに電話が入った。通話ボタンを押し「葛城です」と応えると、智明のいつもよりも早口で興奮した声が鼓膜を突き刺した。

「龍一君、明後日の午後八時に帝国ホテル、インペリアルラウンジ、予定通りだ」

開口一番そう言った。何の話かわかっているだろうが、とさえ言わない。

「愈々(いよいよ)ですね。明後日と言わず、明日でもかまいませんけど」

龍一も分かっていて、冗談めいた言葉を返した。

「ははぁ、気持ちはわかるけど、明日はだめだ。山本佳奈と桂木泰司が向こうからやってくる。明後日だ」

智明は龍一のジョークを軽くいなした。

「何と言ってもキミのファミリーだ。合流したらその足で上海へ飛ぶことになる。これも予定通りだ」

佳奈と康司。不思議な巡り合わせだが、龍一にとってこの二人は会ったこともないのに、特別な存在である。そのことは龍一が一番理解していた。ただ、実感がない。本来のファミリーは勝山家である。が、そういう問題ではないこともわかる。サミットまでは二週間もない。動くのは今、なのだ。

「FESAサミットで緊急声明が出ることになった」

「わかりました。実際まだ少し無理かと思いましたが、タイミングは申し分ない」

「うん、官邸が外務省と協力してかなり動いてくれたからね。用意は万端といってもいいだろう。共同声明の中に、連邦政府準備委員会を設立する趣旨が盛り込まれる。委員長は名誉職で満洲王室からでるが誰にするか最終調整中らしい。が、副委員長は君で決まりだ」

「私も覚悟ができています。よろしくお願いします」

「勿論だ。ただ高名の木登りって話もある。最後まで慎重にいこう。それから茉莉君もなるべく早く上海に来られるように段取りしてほしい」

「わかりました。茉莉の準備はできています。追っかけ南京に入れるよう話してあります」

「頼みます。それで、そのサミットの前に各国代表、関係者を招いてレセプションパーティが中国政府によって開催されることになっている。南京円明新園という王朝風の野外パーティ会場だ」

「円明新園?」

「そう、わかるだろ。二年ほど前に北京の円明園の一部を移築修復したヤツだ。当然そこには十二支の噴水時計がある。つまりだ、条件が揃うんだよ」

智明はまた興奮気味に言った。

「全然知りませんでした。ネズミを送ったのは僕たちですけど、着々と回収事業が進んでいたんですね」

「そうなんだよ、つまりは中国がお膳だてをしてくれたってわけだ」

「シュトッカーは、そのこともわかっていたのでしょうか」

「ということになるかもね。で、十二体ある動物のうち十一体はすでに回収したそうだ。勿論ネズミも今はそこにある。あとイヌがそろえば全てが整う。これをパーティの目玉イベントにするってことのようだ」

「なるほど、考えましたね」

「君とナオミが捕獲に成功したイヌはまだマシピンの元にあって、近日中に南京に移される。十二体全てが揃えば一世紀以上にわたって散逸していたものが完全に揃う。中国にとっては、威信の回復を宣言し、まさに東アジア統合の象徴ともなるっていう演出だろう」

「向こうは、イヌとネズミの秘密について、何か把握しているんでしょうか」

「いや、それはわからない。が、可能性は低い。それでだ、ここは出し抜く必要がある。ナオミ君の計画だ。イヌが到着次第、隠密裏に円明新園でその謎を解こうって言うわけだ」

「隠密裏?ですか。可能なんですか?」

「うん、予行演習用のダミーと偽って、本物を事前に用意する。で、本物と偽ってダミーを後から搬入するっていう手はずさ」

「ほう、またまたスリルのある計画ってわけですね」

「そう、だから王さんにも色々サポートをしてもらう予定だ…」

「分かりました。よろしくお願いします。それでは、明後日、帝国ホテルで」

電話を切った後、龍一は茉莉と連絡を取った。智明同様に興奮し、龍一は眠れぬ夜を過ごした。


さて、話はおよそ半年前に遡る。二〇一四年六月のある日曜日の朝だった。ナオミが龍一のマンションに突然やってきた。顔を見るなり、今から松本へ一緒に行こうと言った。何かがあると合点した龍一は「よしわかった」といって部屋を飛び出した。そして、納車されたばかりのM2クーペの助手席にナオミを乗せると自らハンドルを握った。調布インターから中央高速道に乗ると一路松本へと向かった。行先は、正麟寺。前回は何も手がかりの掴めなかった川島家の菩提寺である。

八王子を過ぎたあたり、登坂車線のレーンにゆっくり上り坂を登ってゆくコンテナ車の車列が目立ってくると、龍一は嫌な光景を思い出した。ナオミはそんな龍一の横顔を見ると「ないよ」と言って笑った。

正麟寺へは昼前に着いた。川島芳子の墓へと急ぐと、そこには以前ここで会ったあのボケ老人が立っていた。そして龍一を見るなりに言った。

「ようこそいらした」二人に向かって丁寧に頭を下げた。

「私のこと、覚えていますか?」

龍一は恐る恐る訊いた。すると、老人はこう答える。

「いや、しかしだ、君が来ることは、何十年も前からわかっていた」

問いには全く答えずに、そう言うと、封書一通を龍一の目の前に差し出した。

「これは芳子さんがお前さんに宛てた手紙だ。自分の死後四〇年したら遠い親戚の若い男女が自分の墓にやってくる。その時に渡して欲しいと儂が託されたものです」

「お前さん宛?」

龍一は訝った。老人はいつからここにいるのだろう。そもそも、この老人はこの間と同一の人物なのだろうか。まるで龍一たちがここに来ることは先刻承知といった風情である。明らかに前とは言うことが違う。龍一は差し出されたその手紙を手にした。開封すると、中から二つ折りの白い和紙が出てきた。驚くことに、それは確かに龍一宛ての手紙であった。


僕の実父の夢は、 支那と日本が一致団結して東洋の覇道を唱え、 西欧文明に対抗して、 アジアに繁栄と幸福を齎すことでした。 しかし、 時代はそれを許さなかった。 随分昔に石原将軍から言われたことがある。 百年待ちましょうと。 僕は笑ってしまいました。 でも、 彼はそれ以外にも面白いことを言ったのです。 イヌを未来に託しなさいと。 イヌですよ。 可笑しいでしょう。 でもそれ、 ただモノじゃない。 円明園のイヌなのです。

ある日僕は盗賊に奪われたそのイヌを奪い返したんです。 石原さんの強いご希望でね。 清朝復興の願いもあって僕はそれを引き受けたのです。 結果はごらんのとおり。 でも悪くないと思っているのよ。 だって、 愛新覚羅の血を引く君に、 父の夢を託すことができるのですから。 イヌは君にお預けします。 新京の西北郊外に八鹿屯という村があります。 そこに方永蒜という人物を訪ねなさい。

君の、 そして僕たちの志が成就することを心から祈っています。

葛城龍一殿

金璧輝


読み終わった龍一の顔色が変わった。

「イヌは八鹿という村にあるのか。鍵はそこの方何某という人物だ」

そう呟きながら「八鹿の方」と反芻してみる。「ん? これ、どこかで聞いたぞ…」龍一は老人の顔をまじまじと見た。そしてあれこれ考える。

「そうか、 そうだったのか、泰蔵、わかったぞ! 鹿の方なんだよ!」

龍一は思わず叫ぶと両拳を握りしめた。じわじわと感動がこみ上げてくる。やはり川島芳子が鍵を握っていたのだ。

すると封筒の中から、もう一つ紙片が出てきた。色褪せた白黒写真だった。洋風の、古い街並みのカフェテラスでチャイナドレスの小柄な女とその横にもう一人、和服姿の女が写っている。

「えっ! どうして?」

龍一がまた同じような驚きの声を発すると、写真の和服女とナオミを見比べた。

「どうやら新京に行く必要がありそうだね」

ナオミはクスッと笑むと、龍一の顔を面白がるように覗き込んでいる。


一人川崎の自宅に戻ると、龍一はすぐに方永蒜ほうえいさんという人物が一体何者なのかを調べた。しかし、皆目見当がつかなかった。川島が言及する人物と言うことは、昔の人間であろう。今日存命なのかすらわからない。仕方なく「鹿の方」の謎が解けた勢いで、森泰蔵にその先が何かわからないかとメールした。すると「方永蒜は安国軍司令時代の川島芳子の腹心だったようだ」という返信がすぐに戻って来た。そうか、そうやって繋がっているのか。龍一は納得し、改めて泰蔵に感謝した。

数日後、龍一は新京へと飛んだ。さらに泰蔵も同行した。八鹿屯へ行くことを伝えると、どうしても一緒に行きたいと言い出したのだった。彼の貢献度から言ったら、十分にその資格はあった。この時ばかりはビジネスクラスで飛んだ。

新京空港ではマシピンの王が二人を出迎えた。彼も八鹿へ同行すると言った。そして次の日の朝、マシピンの手配した車で芳子の手紙にあった村へと向かった。

新京の市街地を抜けると八〇年前と変わらない麦畑がしばらく続いた。一時間ほど農道のような道を走った。八鹿は高粱畑に囲まれた寂れた村だった。何人かの村人に方氏の家の所在を尋ねながら進んだ。ようやく辿り着くと、その目指した家は灌漑用水路脇の赤煉瓦造りの農家で、村のはずれにあった。

方永蒜は既に亡くなっていた。が、マシピンから事前に連絡を受けていた当主の志雄しゆうが出迎えた。近所の子供たちがもの珍しそうに家の前に集まってきた。簡単な挨拶を庭先で取り交わすと、早速龍一は川島の手紙を志雄に見せた。それを王が翻訳して聞かせる。すると彼は合点した様子で、三人を土蔵へと案内した。そこで彼らが目にしたものは、君子のような眼差しで客人を出迎える、黒光りしたイヌの頭像であった。どうやらこのお犬様はこういう場所に身を隠すのがお好きな質のようであった。

志雄は七〇歳を超えている老人であった。永蒜の実子ではなく、遠い親類からきた養子だという。イヌは養父が金璧輝将軍から託されたもので、満洲帝国存亡の危機がやってくるとき、これを求める人たちが我が家を訪ねてくる。その時まで大切に保管するように、と遺言されたのだという。お国に存亡の危機などがやって来るのですかと養父に尋ねたことがあった。すると永蒜は言ったという。

「それはお前が私のように白髪の老人になった時、明らかになるであろう」

それでも半信半疑であった。まさか今日こうしてそのような客人を迎えるとは夢想だにしていなかったと、志雄はイヌの顔を雑巾で拭いながら言った。龍一らは老人に深々と頭を下げた。


* * * * * * * * * * * * * *


誰かが若い友人に言った。

「この辺の話になると、大概の人はチンプンカンプンだが、君がこの宇宙の摂理を理解できないのは『過去があり、現在があり、未来があり、そのように時が刻まれている』というオブセッションがあるからだ。しかしだ、ちょっとアプローチを変えてみよう。すべてが同時に起きて同時に終結している、そう考えたらどうだ?」

 友人は言い返すしかない。

「アプローチって。そういう問題ですか? 現在、過去、未来がある。それってオブセッションなのですか」

「そう『思い込み』と呼んでもいい。『呪縛』といったほうがいいかもしれない。だいたい時計の針が動いているのを見て、だから時が刻まれているなんて思うのは変だと思わないか。過去と現在と未来は同時に存在している。タイムトラベルといっているのは呪縛に囚われた人間から見た表現だ」

 不毛の問答だ。友人はそう感じながら苦笑いを浮かべる。

「呪縛ですか」

「そう、それから人類は時間のほかにもうひとつ、呪縛に囚われているものがある」

「というと?」

「空間だよ。呪縛によって、苦しみが生じる」

「ふふ、じゃぁ、生死についてはどうなるんですか。人は生まれたり、死んだりしている。どう説明すればいいのですか」

「だから、それも呪縛だ」

「そうきますか」

「死んだ人間と二度と相まみえることはないと錯覚することから、生きている、死んでいるという呪縛が生まれる。何故、君はそう自分、自分なんだ? 失礼、いや誰もがそうなのだから仕方ない。でもそんなものあると思ってはいけない」

「それも錯覚ですか。確かに過去も未来も現在もないということになればそうともいえますが。所詮、詭弁に聞こえてしまいます」

「時間も空間も存在しない。君が見ている世界は無限に存在する世界の只のひとつでしかない。だがよく考えてみてほしい。無限の本当の意味を。それはゼロに限りなく近いということ。限りがないということは、最初から何もないことと変わらない。それが宇宙の根本原理である」

「心頭滅却すれば、なんとかというやつですね。東洋哲学的なアプローチですか」

「何が起こっているか、これでわかっただろう」

「…私には、何も起こっていないということがわかったような気がします」


* * * * * * * * * * * * * *


佳奈とレッドを乗せたSUVはストレスなく下落合の高速ジャンクションへと進入すると、渋谷方面へ向かう左側のレーンへと合流した。

ピンク色のイルミネーションに飾られた師走の東京タワーが、流れるビルの谷間から垣間見える。多少の渋滞にあったが、須坂を出発して約三時間、今、霞が関料金所を出た。官庁街を抜けると日比谷公園を左折する。帝国ホテルはもうすぐそこだ。

さっきまで睡魔と闘っていた佳奈の緊張が都内に入ってから高まり始めた。相反するようにほろ酔いでジャズの生演奏を何時間も聴いたあとのような疲労感が襲ってくる。耳を塞ぐと、バクバクと心臓の鼓動が聞こえそうだ。レッドやナオミにも聞こえているかもしれない。本当に龍一に会えるのだろうか。あれ、そういえばうちの会社はどうなっているんだろう。そんなことも少し頭をかすめたが、今はそれほど重要なこととも思えなかった。

やがてL字型に折れ曲がったグレーの重厚な外観の建物が見えてくると、クルマは誰の意思にも関係なくその帝国ホテルの地下駐車場へと吸い込まれていった。

SUVは地下をゆっくりと進むと一番奥の仄暗い場所に停まった。四人は車を降りた。すうっと足元に冷気が触れる。ナオミに先導されて佳奈とレッドは地階の寒々とした駐車場からエレベーターに乗ると、駅の雑踏のようなホテルのアーケード階へと出た。初めて現代文明に接した南の島からやってきた未開部族の親子のように佳奈とレッドは周囲を窺った。そこを往来する人々は緑色の宇宙人ではなかった。ひと安心すると、佳奈は行き交う人を避けながら、速足でナオミの後を追った。レッドも遅れまいと佳奈にぴったりついた。しかし、人影と交錯する度に、佳奈の足の震えが止まらなくなっている。寒さからではない。一方、安心して少し気が大きくなったレッドは、ここが帝国ホテルかぁといった顔ですれ違う金持ちそうな人たちの足元やら天井やら、時には壁際の置物を眺めながら二人の後を追いかける。運転手もついてきている。

佳奈が「どこへ行くの」とナオミの背に向かって訊いた。

「そこのラウンジです」

それは目の前だった。ナオミはラウンジの客を見渡すと、一点へ向かって動き出した。佳奈の緊張が極点に達する。本当にあり得るのだろうか。死んだ龍一が蘇る瞬間。いや違うかもしれない。期待と不安が入り混じって、心臓の鼓動が高鳴る。ナオミが向かうその先へと恐る〱視線を遣った。やっぱりいる! 確かに。後ろ姿だが、佳奈にはわかる。昨日まで泣きながら願い続けていたことが、今十数歩先に現実として存在する。間違いない。

智明と龍一はランデブーラウンジにいた。丁度三杯目のホットコーヒーをオーダーしたところだった。智明が最初にナオミに気づいた。中腰になってこっちだよと左手を挙げながら、もう一人の男に向かって体を傾けてなにかを囁いている。と、ふたりが立ち上がった。あと数歩の処まで近づいた。男が振り向いた。その途端、佳奈の目から一筋の涙が静かに頬を伝った。

「お待たせしました」

ナオミが二人に向かって事務的に言った。どうやら普段から気心の知れた仲間のようだ。

「僕たちもさっき来たばかりだ。初めまして、瀬上です。よくおいでくださいました。心から感謝します」

智明は、後ろにいた佳奈とレッドに丁寧に挨拶すると、手を差し出した。佳奈は足を半歩進めて軽く握手した。が、レッドはぺこぺこするだけだ。畏まって握手なんて誰ともしたことがない。

「葛城です」

今度は龍一がほほ笑みながら手を差し出した。

「えっ」

佳奈はその反応に動揺した。何、そのよそよそしい挨拶は。顔が一気に紅潮した。怒りたいのか、泣きたいのか、今にも龍一に跳びかかりそうな顔で固まった。そして、更に涙が幾筋も佳奈の頬を伝う。龍一は佳奈の心中をわかってかわからずしてか、そんな女の手を軽く握って「どうぞよろしく」と言った。

何それ。新しい涙がひと筋頬をつたった。期待していたのは、そんなジョークみたいな挨拶じゃない。二人だけでゆっくり話そうよ、そう佳奈の眼は訴えている。でも彼は暗黙に言っている。「私は別人」と。

「私は勝山です」

長野からずっと一緒に来たドライバーの男が、佳奈の感情に容赦なく割り込み、ここで初めて名乗った。

「あれ、まだ挨拶してなかったんだ。幸次郎さん、本当にご苦労様です」

智明が何か意味ありげな言い方をしながら深々と頭を下げた。そして、この人は龍一君の義理のお父さんになる人だと佳奈とレッドに向って紹介した。この言葉を聞いた佳奈は、うっすら嗤う。龍一に会えるというからここまで来たのに。この人は私の龍一じゃない。どうやら歳も違う。分かっていたけどやっぱり無理。

一方の龍一は、こういう形で幸次郎に再会できたことに驚き、そして喜んだ。そのまま黙って勝山の手を握りしめた。しかし、それ以上のことは考えてはいけない。そう、自分に言い聞かせた。智明も同じ気持ちに違いない。

「さて、挨拶はこのぐらいにして、本題に入ろう。プライベートなことは後だ」

プライベートって何のこと? 瀬上という男が佳奈にとっては無意味なことに話を転じた。

「サミットはあと一週間後だ。アジア連邦条約調印の最大のネックは最後まで中国政府の意向だったんだが、官邸からの情報によればこの問題はクリアできそうだということだ。サミットでは共同宣言という形で結実する。この先我々は連邦政府樹立へ向けた実行部隊という役割を負うことになるだろう。そうなればレールは敷かれたと言っていい。あとは粛々とやるだけだ」

大体の話は既に聞いていた龍一が頷いた。そして瀬上が続ける。

「で、それはそれでいいんだが、サミットの前が勝負だ。イヌとネズミの正体を明らかにする。最初で最後のチャンスかもしれない」

「具体的にはどのような計画になりますか?」

龍一が訊いた。するとナオミが応じる。

「長春から予定より一日早く本物のイヌが到着します。これを円明新園の噴水時計に設置し、イベント機器の最終チェックを装いながら仕掛けの謎を明らかにします」

「つまり、本物とダミーをすり替えるってわけか。手が込んでいるな」龍一がまた感心した。

「レセプションパーティの会場となれば警備が厳重なのではないですか?」勝山が珍しく口を挟んだ。

「ネズミ、イヌ単独では何もはっきりしませんでした。やはりこの二体を元の鞘に戻すことが謎を解く唯一の方法だと思います。少なくとも手掛かりになる何かが判明するでしょう。そして、そこに必要なのが、パスコード。これは今、ここに、私たちの手中にある」

ナオミがそう言うと、皆が佳奈とレッドをちらっと見た。

「それから警備の方は問題ありません。イベントの業者に扮して入り込みます」

ナオミが龍一の顔を見ながらそこまで言うと、瀬上が咳払いを一つしてまた話を転じた。

「オーケー。じゃぁナオミ君、段取りの指示はまたお願いします。それで、連邦政府設立委員会の件で中国外交部日本科の劉科長からですが、龍一君の素性についてFEORに照会がありました。茉莉さんのことも含めて説明したら、びっくりしたらしい。あの反応なら大丈夫だろうということだ。懸念の表明は今のところ一切ないし、むしろ歓迎でしょう。マスコミにもこの情報は外務省がリークするようです」

「それから茉莉ですが、五日後に南京で合流の段取りです」

龍一が補足した。それを聞いた勝山が胸を撫で下した。「うまくいっている」そう思ったに違いない。

「さて、じゃぁ佳奈さんと桂木くんには、すこし事情の説明がいるでしょう。色々混乱していると思うので、ちゃんとそこのところを話さないといけませんね」

龍一が二人に正対すると言った。なんと他人行儀なもの言いか。しかし斟酌はなかった。

龍一の話の内容は、即ち、ここは佳奈らの世界とは別の世界であるということ、今龍一たちがアジア連邦の設立に向けて活動しているということ、その為には佳奈とレッド二人の協力が必要であること、そしてナオミは未来人で同志であることなどであった。二人が今知るべきことのすべてを龍一は説明したつもりだった。しかも感情を交えず、分かりやすく。唯一つ、最も大事なことを除いては。

佳奈とレッドにとって、ナオミのこと以外は全部初めて聞く話だった。やはり異次元の世界の話なのだ。自分が本来ここにやってきたことの理由を差し挟む余地も異議を申し立てる隙も無かった。だがそれ以外には、説明に大きな矛盾点は見当たらなかった。協力が必要だと言われた佳奈が反発した。

「私たちが協力するって言っても、そんな力、私たちにはありません」

その通りだ。そもそもそんな動機でここまでやってきたわけではない。これでは詐欺だ。佳奈はナオミを睨んだ。それに気がついた龍一が躊躇していると、ここは僕が説明しようと瀬上が割って入った。

「我々は、この先人類の未来がどうなるのかを知っている。というか知らされてしまったと言ったほうがいい。この点はいいですね。ところが、どう見てもその未来が良くない。だから、その未来をいい方向に変えようと戦っている。まぁ乱暴に言ってしまえばそういうことで、変えるための第一段階がアジア連邦の礎を作り、それを強固にするってことなんです。でも、それだけではまだ足りない。その先の未来をコントロールする手段が必要なんです」

瀬上の説明は説明になっていなように感じた佳奈には不快だった。

「やっぱり、わかりません」

それはそうだろう。

「実は、必要としているのは、君と桂木君の遺伝子情報とかなんだ」

龍一が佳奈に向かって事の核心を言った。これははっきりさせないといけない、そう思ったからだ。

「えっ、それって、どういうことですか」

そう言ったきり佳奈が黙った。レッドにはわかっていない。すると瀬上が事務的なことに話題を替えた。

「まぁ、そういうことです。テクニカルなことは後々わかるように説明しましょう。さてさて、飛行機の時間もあるから。今はここまでにしてくれないか。この後の段取りだが、クルマは二台だ。君達のパスポートはこっちに用意してある。虹橋空港には日付が変わる前には着く予定だ。そこからは外務省から派遣されたセキュリティガードが付く。続きの話は向こうについてからゆっくりして欲しい」

それだけ言うと瀬上は佳奈とレッドに二人分のパスポートを渡した。

「ちょっと待ってください。協力って、私たちの遺伝子情報なの? そんな情報だけが必要なら、髪の毛一本あげるから、それでいいんじゃないの。態々あっちこっちに引き回される意味がわかりません」

佳奈が尤もな主張をした。遺伝子情報なら髪の毛一本は無理だとしても、丸々人一人は必要ないだろう。

「簡単に遺伝子情報と言っても、それを読み取るにはそれなりの装置がいる。だからお二人にはどうしても中国まで付き合ってもらわないといけないんです。それに、レセプションパーティの招待状もお二人に届いている。だから君たちをここで放り出すわけにはいかない」

「レセプションって何ですか?」

佳奈はムッときた。いや、それを通り越して呆れはてた。なんなのこの展開は。

「歓迎レセプションです」

頭を掻きながら龍一が応えた。ナオミがそうそうと頷いている。妙なとり合わせだ。まだなにか秘密があるといった表情が龍一とナオミの口元に浮かんだ。怒ってはみたものの、まぁ、確かにここでおいてきぼりにされてもどこにも行けない。やはりついて行くしかないのか。何を主張しても事ここに至っては無駄なことなのだ。佳奈はなんとか自分を説き伏せると観念した。

「それから、皆さんにお話ししておかなければならないことがあります」

ナオミが急に言った。えっ何? 皆が彼女の顔に注目した。端正な、じっと黙っていたらデパートのマネキンのような顔立ちのナオミである。

「こちらに来る前ですが、Mに襲われました」

「そうなの!」

智明が驚いて龍一の顔を見た。Mと聞いてわかるのは智明と龍一だけかもしれない。

「はい、毒グモでやられました。私の動きを封じ込めようとしたと思われます。このようなクモを操れるのはMしかありません。ターゲットは私、いや、或いは龍一さんかもしれませんが、注意が必要です」

龍一がやはり自分の線もあるのかとごくりと息を呑んだ。すると智明が意味のないフォローをする。

「そうか、だいぶ切迫してきたということか。裏を返せば機が熟したともいえるのかもしれない。よし、十分に注意しましょう。不必要な行動は慎むように。また、なにかが変だと思ったら、ナオミ君にきちんと報告しよう。いいね。とにかく惑わされないことだ」

智明の言うことに龍一と勝山だけが頷いた。


誰かが言った。

「君、オリジナルだと思っているこの世界だが、実は何だかわかるか。そう…派生だよ。分岐した派生のまたその派生の世界だ。だから、ある日突然ぱっと消滅しても、誰も文句は言わない。違うか?」

「いやー、そうは言ったって、僕たちの生きている世界はここにしかないですよ。消滅って言ったって、太陽が爆発でもしない限り、この世界は消滅なんてしませんよ。何十億年か先の話です。仮に派生でも、僕たちはここで生きて食って、面白くやっていければ、それでいいじゃないですか。これがオリジナルって可能性もあるし、オリジナルが例えどこか別にあったって、行ったり来たりするわけじゃない訳で、全然関係ないですから」


その日の深夜。龍一達は、上海近郊の昆山市のシェラトンホテルにチェックインした。

五人はホテルの中華レストランでかなり遅い夜食を軽くすませると早々に各自の部屋に引き上げた。が、龍一は少し話をしましょうと言って佳奈を最上階のバーにと誘った。展望ラウンジから南方を望めば、遠く上海の夜の灯りが墨色の空を白々と染めている。テーブルに着くと何にしますかと龍一が佳奈に訊いた。大きな窓ガラスの眼下、道路の向かい側に連なるビルの赤や緑のネオンが妖しげに瞬いている。

「じゃぁ、フローズンマルガリータ」

涙が出た。佳奈は渋谷のバーを思い出している。龍一は涙の意味もわからず、乾いた声でウェイターにオーダーの声を掛けた。

「すみません、フローズンマルガリータとジントニック」

そして佳奈に向って切り出した。

「ナオミから貴女のこと、色々聞いています。そちらの世界では僕とどういう関係だったかとか。それに、実は一度だけそちらの世界へも行きました。その時、渋谷で貴女を見たこともあります」

「見たことがある」といういい方に引っかかった。が、佳奈はその意味がわからず黙っている。

「そちらでは僕と貴女は結婚することになっていたという。どういうわけでしょうね。でもここでは僕は全く違う人生を歩んでいる。でも今日佳奈さんに会って、ちょっとそちらの世界がうらやましいな、なんてこと思いました」

はっ? バカ、何を言ってんのよ、どういうわけも、こういうわけもないでしょ。佳奈は本当に声を出して泣きたくなった。そんな佳奈の表情をみて、龍一は余計なこと言ったなと感じ、自分の前髪をばつが悪そうに撫でた。佳奈は訴えた。

「私の死んだはずのフィアンセに会えると言われて、のこのことやってきたんです。こんなことなら来なければよかった」

確かにそうだ。いや、違うでしょ、これ以外の選択肢はなかった。だから余計に腹が立つのだ。

「いや、そんなことはないと思います。必然性がある」

龍一も抵抗を試みる。しかし何が必然性だというのか。問い質されれば説明はできない。

「でも、別人でも、生きているあなたには会えてよかった、そうとも思っているんです。たとえ一緒にいられなくても、あの龍一が生きて戻ってきたように私は感じたんです。年齢は六歳も違うんですけど…」

交通事故で死んだとき、龍一は三十四歳だった。目の前の龍一は今四十一だという。確かに歳を重ねた風格が感じられる。

「それでも、本人であることには間違いないのですから。ただ、ただ生きていてくれればいいと。私、こんな別の世界があるとは夢にも思っていなかったから。最初、あなたを見た時、気が動転して変になりそうでした。でも、髪型とか、服の好みとか、喋り方とか、やっぱりどこか違う、別の人だなと思って。お兄さんみたいな感じで…」

口には出さなかったが、それでもふと見せる顔の表情、眉間のしわ、なにか考えて喋りだすときの仕草などは、やっぱり佳奈の知っている龍一その人と変らなかった。

「そうですか、よくわかります。ところで、貴女のフィアンセ、まぁ僕のことですが、死んだ理由、ご存知ですか? 自分が死んだ理由を語るっていうのも妙な感じですけど」

「えっ、ええ、雨の高速道路で運転を誤っての交通事故です…」

「うん、確かにあれは交通事故だった。僕もそう思います。でもそのように見せかけて、実は僕は殺されたとしたら、どうです」

「はっ?」

佳奈は黙った。窓外のネオンが二人の会話をあざ笑うかのように何の脈絡もなく点滅している。佳奈はナオミが同じようなことを言ったのを思い出した。ホントに、そういうことって、あるわけ?

「つまり、仕組まれて殺されたんです。そちらでは僕は邪魔な存在として、早々に始末された。最初は何を馬鹿なとは思ったんですが、今ではそう思っています」

「始末って、何ですか? そう思うって、誰が、どんな理由で? もうすぐ結婚しようとして、二人で幸せになる直前だったのに恨みを買うようなこと、彼、何かいけないことをしていたっていうんでしょうか」

佳奈は邪魔な存在で始末されたというフレーズで気分が悪くなる。

「つまり、今ここで僕たちが為そうとしていること、アジア連邦のことですけど、それが許せないと考えている何者かが、そうしたってことです。未来人の仕業かもしれない。貴女のフィアンセである僕は、僕の代わりに殺されたっていう可能性だってある」

それって、どういうこと? 第一、龍一からアジアがどうの、レンポウがどうのなんて話は一度も聞いたことはない。誰の仕業であろうが、ただの事故ではないなんて。警察だってそんなこと言わなかった。佳奈は、あの時、山中湖なんかで待ち合わせしなければ、彼は死なずに済んだのにと何度も後悔していた。それが、そういうことじゃなくて、仕組まれた殺人だなんて、信じられない。でも、もっと信じられないことが次々と起こっているのも事実。そしてはっと気づいた。

「じゃぁ、あなたもだれかに狙われているってことですか?」

「うん、まぁ。友人も僕と間違われて襲われ怪我をしました。でもそちらとはすこし状況は違うのかもしれない」

「ええ、微妙に街の景色や高速道路や、人々の雰囲気が違うのは私にもわかります」

「ですね。それに例えばですが、当たり前に存在する満洲や朝鮮っていう国、そちらの世界じゃ存在しないんですよね。つまり、二十世紀以降の歴史がだいぶ違う」

「そのように世界を作り替えているってことですか」

「いや、本来はどちらが先でどちらが後というものではないと思います。もしかしたらこっちが先で、それを嫌う誰かがそちらの世界を創造しているのかもしれない。だから相互に影響し合っていると見た方がいいんじゃないかな」

「でも、そんなに簡単に、世界が色々創造されてしまうなんて言っても…わけがわからない」

「不思議ですよね。僕も最初は信じられませんでした。ナオミや瀬上さんに会うまでは。だから、君たちに来てもらったのはそういうことなんです。僕たちに協力してください。同じ過ちをここでは起こしてはならない。そして貴女の世界の過ちも正していかないと。自分の為というより、人類みんなの為に」

「人類っていう話になると私に何ができるってなっちゃいますが、あなたが彼と同じ目には遭って欲しくはない。あなたがそうして無事でいて、幸せになってくれれば、そうですね、私にとってはそういうこと」

自分で発した支離滅裂な言葉に佳奈はまた涙ぐんだ。

「今回のことが終わったら、ナオミが元の世界にお二人を送り届けてくれます」

佳奈とレッドはこの世界の人間ではない。そのことはさっきから話題にしている。わかっているが、目の前にいる龍一にはっきりと、君はよそ者だと宣言されたようで悲しい。この世界からは身を引かなければならない。そうなんだよ。しかもそんな先の話じゃない。他人となってしまった龍一を陰ながら見守ることさえ許されない。あなたは別人。もう一度だけでも一目会いたかった龍一。その龍一は今、目の前にいるのに、なんて切ないのだろう。また、あの私の世界に戻らなければならないなんて。佳奈は自分でも明らかに矛盾した感情で右往左往していることに悶絶した。

「僕たちは、Mというコードネームで呼んでいるのですが、ナオミとは違うグループがどこからかやってきて、僕たちの行動を妨害していることが分かっているんです。ナオミが言っていた連中です。そいつらが、この世界に干渉して、それでここでも僕の命を奪おうと画策していると考えています。想像ですが、Mにとって、やはり僕らは排除、あるいは修正されるべき歴史要因なのだと思う」

「タイムトラベルをしている人たちが他にもいるってことですか」

「そうです。ただ、タイムトラベルマシンを実現した世界は、一つしかないと言われています。しかもその世界には人類が滅亡の危機に瀕する未来しかない」

「どういうことですか」

「つまり、タイムトラベル、異次元トラベルと言いましょうか、これができるのは私たちと恐らくMだけだろうということなのです。でも、タイムマシンって所詮機械だから半永久的に使えるというものじゃないんです。メンテナンスも必要だしいつかは故障する。しかも、好きな時に好きなだけタイムトラベルができるわけでもないっていうことです。だから、しっかり計画して、手遅れになる前に何とかしようということ、そういうことだそうです」

「ていうか、その滅亡前の世界に戻れば、そこにはタイムトラベルの技術があるんじゃないんですか? その発想変ですかね?」

「いや、僕も同じことを考えましたが、そこに戻るっていうのがそんな簡単じゃないみたいで、その世界自体がタイムトラベルをしたことによって、なんらかの干渉を受け、全くの同じようには存在していないらしいんです。確実に最初の世界に戻るには、辿ってきた道をその足跡をなぞるように引き返さないと戻れないって。もっともこれはナオミの受け売りですが」

「そうなんですか。わけわからないですね。ナオミさんの帰る場所はないってことなんでしょうか」

佳奈は悲しい顔をしながらも笑みをこぼした。

「サミットの後ですが、一ケ月後に南京でアジア連邦の設立宣言式のような大イベントがあります。ネックは南京中央政府だったんですが、ようやく反対派を説得して実現に前向きになったんです。その段階で、僕がアジア連邦の準備委員会の執行上席委員という訳の分からない役職に任命されます。加盟各国が条約調印そして批准したのちに、その役職に就任の予定なんです。まあ、時間は掛かるんですけど」

「そうなんですか、難しいことはわからないけど、大変なお役目を担うのですね。おめでとうございます」

「ありがとう。まぁ金も力もないパシリみたいなものですけど。でもそこからがスタートです。それに、アジアだけが世界から取り残されるわけにはいきませんから。それに問題はその先です。ロシアや欧州、イスラム諸国とどうやって諸問題を解決して世界平和を実現するかってことが、そもそも重要なんです」

「ご謙遜ですね。でもはっきりした目標をもっている。素敵です」

「まぁ、もうひとつは僕が、中国の建国の父と言われる人の子孫と結婚して、なお且つ連邦政府が所在する予定の上海に居住するという条件が付いています。近いうちに彼女も合流するので、そのときは紹介します」

そう言うと、龍一は自分の顎をなでた。佳奈の瞳の奥が曇る。そうか、あのレッドが見せた龍一と一緒に写っていたケータイ写真の女性がそうだったんだ。ほんの数日前のことだが、随分昔の記憶を辿っているような気がする。佳奈は、納得はしていないが、合点はいった。その現実はあまりに辛いものだ。

が、佳奈はそこである重大なことに気がついた。嫌な予感と共に龍一に訊いた。

「あのぅ、私とレッドクンですけど、わざわざ別のその、世界線っていうんですか、レイヤーって言うんですか、そんなところから呼んでこなくても、こちらの世界に同じように私やレッドクンがいるんじゃないのですか?」

成程、尤もな疑問であり発見だ。グッドクエスチョンといって返したいところだ。が、龍一は悲しそうな顔をすると言った。

「僕が調べたわけじゃないですが、ナオミによれば、貴女は、母親のお腹にいる間に亡くなったとのことです。だからレッド君は、さらに存在しない」

佳奈の表情が困惑の色を見せる。もう一度訊き返さずにはいられない。

「私は生まれていないのですか…、それに『だから』っていうのは…」

「つまり彼は君の息子だから、生まれなかったというより、生まれようがなかった。そういうことです」

佳奈はすーっと鼻から大きく息を吐いた。こんな矛盾する話はそもそもない。

「ありえない。でも、仮にそうだとして、じゃぁ父親は誰なんですか?」

そう抵抗するしかない。

「ですから…僕です」

龍一の言葉にはおどけた色も躊躇もなかった。そして暫く黙った後に言った。

「もしよかったら、これから僕の部屋に来ませんか」

佳奈は、龍一の顔を見ると目を見開いて動けなくなった。男は女のその瞳の奥の色を覗き込んでいる。


誰もが、生きている以上長生きはしたいであろう。だが、これが不老不死となるとは話は違う。そもそも「死なない」ということが何を意味するのか。真剣に考えてみるがいい。それはつまり、無間地獄である。未来永劫、絶えることなく生きる苦しみを味わい続けることに他ならない。

さぁ君は永遠に死なない。だが、もし本当にそうなったらどうだ。君はおそらく生きている意味を見いだせなくなるのではないか。何もやる気がなくなるだろう。健康に気を使う必要もない。悩みは多いが老いもなければ死の恐怖もない。君にとって、それはそんなに幸せなことだろうか?

四苦八苦という言葉がある。四苦とは生・老・病・死のことを言う。これに、別れ・憎しみ・満たされないという不満(無限の物欲)・意のままにならないという嘆き(エゴ)が合わさって八苦となる。

人間は、老いて死すからこそ、夢や希望を持ちたいと願い、或いは挫折し望みを失い、愛する人との別れに悲しみ、己の死に畏れをいだく。それ故に人間は美しいものを生み出すこともできるのだろう。だからこそ子孫を残そうと思う。そして喜びを分かち合う。いずれ時が来たときに旅立つことのできる有難さを思い知るがいい。君が為すべきことは、命を繋ぐことなのである。


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