第4章 交錯 第2話 「一六二二号室」
滝田翔平は赤坂にある旅行会社アレックスファイブの企画部員である。近年増え始めている中国、韓国、欧米からの観光客を目当てに、人気の築地魚市場、温泉、富士山、銀座や大型アウトレットモールでのショッピングなどを組み合わせた外国人観光客向けのツアー企画を手がけている中堅国内旅行会社だ。
二〇〇八年の年の瀬のことである。この日、翔平は、ピギーバッグを曳きながら乗降客の人波をかき分け、品川駅で山ノ手線を下りたところだった。伊豆の群発地震の影響でキャンセルが相次いだツアーの立て直しを図るために、熱海に出張を命じられていた。
本屋を覘いた後、熱海行きの新幹線の自由席乗車券を買い、迷った挙句に定番の幕の内弁当とスポーツ新聞を買い込んだ。そして偶々二四番線に入ってきた十時十六分発のこだまに飛び乗った。新幹線と言っても各駅停車だ、それほど混むことはない。
翔平は空いていそうな座席を確認し荷物を棚にあげると、シートにどかっと腰を下ろした。ネクタイを緩め、ふぅっと一息ついてから、ペットボトルのお茶を一口飲みこんだ。熱海到着までにやることと言えば、簡単な書類のチェックと、あとは朝兼昼メシの弁当を食らうだけだ。既に列車は品川駅を滑り出している。すると、
「滝田くん」
突然、誰かが翔平に声を掛けた。
「えっ」手元の書類に目を落としていた翔平が、声がした通路の反対側の席に目を遣った。
「はっ?」
声の主の顔をまじまじと見た。ベージュのニットキャスケットをかぶっている若い女だった。誰だ?…。ん?
「元気そうだね」女は笑った。
「ああっ… だっ、だっ、未来予想図ぅ…」翔平はその顔を思い出し、そして固まった。
「ん、そうなの?」
翔平は思いついた言葉を捻り出したが、依然固まっている。目が泳ぐというのはこういうことをいうのか。なんでそこにいる訳? しかも今朝も彼女のことを考えていたばかりなのに。多分そう思いながら、翔平は息を大きく吐き出し眉を寄せた。
「ごめんね、こういう形であなたの前に現れて。確かに、驚く、かな」女はもう一度、にこっと微笑んだ。
「なんでぇ? どうなっているの」本当に、何がどうなるとこうなるのかわからない。
「でも、仕方ないの。ずっと一緒っていうわけにはいかないから。ちょっとお願いを聞いて、くれるかな」
女は脈絡のないことを一方的に言った。翔平の行動は常に監視でもされているのだろうか。彼はしばらく一人でブツブツ何かを言っていたが、あることを思い出して訊いた。
「えっ、ていうか、ねぇ、この前、香港で会った、よ…ねえ」
女はまた笑う。
「ん、そうだね、三日くらい前だった、かな」
そして、あっけなく認める。が、そんな最近の話じゃないだろ。
「あの時はわからなかったんだよ。おたくが誰かってこと。その前に会ったの、中学の時だし。でしょ?」
「うん、気にしなくていいよ、ちょっと女子高生みたいな恰好だったからね」
そういえば、今日は高校生には見えない。二十代後半のOLが休暇を取って一人旅といった雰囲気だ。翔平は肝心の彼女の名前を覚えていなかった。これはかなりバツが悪い。
「で、で、どうしたの?」
そう言って、あとは女が何かを言いだすのを待つしかない。
「うーん、マッカシーの件だけど、今度ゆっくり話したいから、ちょっと時間とってもらえるかなと思っている」
翔平の沈黙を切り取るように女は言った。否、はないでしょといった口調だ。翔平は「ま、マッカシーね」と返すのが一杯一杯だった。やっぱりマッカシーに関係があるんだな。こうなったら少女自身がそもそも誰なのかはっきりさせるべきだ。ふとそうも思った。
「来週の月曜日の夕方、ここまで来てくれるかな。東京駅の近くなんだけど、仕事終わってからでいいよ」
そう言いながら女は翔平にメモを差し出した。
「あっ、それから滝田君のお友達も一緒に誘ってね」
「えっ、お友達って、誰?」
「あの、フランス人の。彼にも話があるんだ」
「あっそうなの?」そう言ってはみたが、なんでそんなことまで知っているんだ?と思った。
「じゃぁ、待ってるから。よろしく」
翔平は、またえっと反応した。そして、違和感を口に出した。
「ちょっと、じゃなくて、なんか香港の時と、随分違うよね、雰囲気。全然疲れてないし」
女はくすっと笑った。そして黙ったまま翔平を見詰めている。
無機質な録音アナウンスが間もなく新横浜に到着しますと告げる。そして今度は生身の車掌が同じことを繰り返して言っている。
「じゃぁ、私はここで降りるから」
そう言ったかと思うと、女は立ち上がり、ふうっと優しい横顔を翔平に見せた。振り返りもせず減速中の不安定な通路を出口へと歩いてゆく。ここで降りるわけにはいかない翔平は、半ば嬉しいような戸惑いの表情をその背中に向けた。
翔平は今、気が付いた。彼女、全然歳をとっていない。同級生のはずなのにどうみても三十女には見えない。整形か、でなければ生来の若作りなのか。考えるほどに不思議だ。ぼうっとして置いてきぼりを食った翔平は、はっと何かを思い出すと、猫パンチのようなジャブを「しゅしゅっ」と目の前の背もたれに向かって繰り出した。見てはいけない白昼夢の余韻。それを振り払うかのように。
ニコラ・ソワイユというフランス人の青年は、オルレアン大学芸術学科在学中の一九九六年、夏休みを利用して初めて日本にやってきた。イギリスのアイドル系のロックバンドボーカルのような風貌である。ときどき眉間にシニカルな縦皺をよせる癖があった。最初は日本のアニメやサブカルチャーに興味があったが、北陸や東北を旅して巡るうちに日本の祭り文化や習俗・習わしの世界にはまり込んだ。日本の伝統と現代文化さらには工学系先端技術が、実は何処かで確実に繋がっているといった感覚を得た彼は、西洋人がハマりやすいその謎めいた命題を究明したいという衝動に駆られた。
大学卒業後、パリの日本語学校に通いながらしばらくは独学していたが、回転寿司レストランがパリの街角でもみられるようになると、ついに我慢ができなくなり日本に渡った。二〇〇二年のことである。そして、当分はこの国を住処にしようと決心した。学生時代の貧乏旅行のとき金沢で世話になった民宿の親父に再会した時には、実の親子のように涙を流しながら抱き合って喜んだ。家族も次男が長旅から戻ってきたような素朴なもてなしをしてくれたので、ニコラにとっても日本のわが家のような存在になっている。
以来、京都に住みつき語学教師のアルバイトをしながら食いつないでいたが、数年前に駅前留学をキャッチコピーにしていた雇い主の会社が潰れると、それを機に外国人仲間と映像配信ソフトウェア制作の会社を興した。東京へは月に二、三度出張でやってくる。滝田翔平には、彼が二度目に日本にやってきた時、ビザ更新や滞在先の手配などで世話になった。それ以来の付き合いとなる。二人とも、落語という共通の趣味がある。
ニコラはまた東洋哲学や日本仏教にも興味を持っていて、いずれインド北部やネパールを旅したいという夢がある。時々、自分は外人だから教えてくれと言っては、誰彼となく「色即是空」の意味を訊く。いまどきの日本人の大概は言葉としては知っていても意味までは知らない。それをわかっていてわざと訊くのだ。彼のこれまでの調査結果を元に多数決でこの意味を決めるとしたら「性欲を満たすために女を買った。しかしことが済むと途端にむなしい気持ちに襲われて、大枚をはたいたことを悔やむのである」となる。よって教訓は「一時的な快楽は所詮虚しい」というものだ。このような場合、この摂理が女性にも当てはまるのかどうかが定かでないことを指摘されると、あとは笑ってごまかす。それでも宴会ネタとしては十分いける。ガールフレンドの瑞恵に同じ質問をすると「さぁ、たぶんこの世界で一番きれいな色は、空の青、夕焼け、つまり自然の色が尊い、といいう意味じゃないかしら」という返事が返ってきた。聡明な瑞恵にしてこれだから、後は推して知るべし。
「ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」
最後にこう呪文を唱えて周囲を驚かす。何のことかは彼の京都の友人の何人か以外は、誰も知らない。
* * * * * * * * * * * * * *
翔平はニコラを何とか説き伏せて、とにかく東京まで出てきてもらうことにした。何しろご指名なのだ。それに自分のマッカシーの話が法螺ではないという生き証人が欲しい。スペースミュージアムチケットのトリックの件もある。
年末の、慌ただしい忘年会明けの月曜の夜、東京駅八重洲中央口が待ち合わせ場所だった。ニコラは雑踏の中で壁に寄りかかる翔平を見つけた。両手を小さく横に広げながら小首を傾げ「いったい、何やってんの?」といったシニカルな表情をみせる。そして「でも来てあげたよ」と合図した。翔平もすぐにニコラに気付くと「悪い、悪い」と申し訳なさそうに手を挙げる。そして二人は軽く握手した。
「ふぐ刺しごちそうするって言うから、しょうがない、来たよ。で、その前にどこへ行くんだって?」
ここは恩をたっぷり売っておく。
「ファイブシーズンズの一六二二号室に来てってさ。時間は何時でもいいんだって」
翔平が、雑踏の中、声を張り上げて言った。
「そう、ホテルの部屋か、でもヤバくないの」ニコラが反応する。何がヤバいと言っているのか翔平にはわからない。
「まぁ、普段じゃ行かないような高級ホテルだし。後学の為にも、客の視点で接客レベルとかチェックできるし、ついでに部屋を覗こうよってね。でしょ」
そう翔平は言うしかない。企画旅行では対象外のホテルだ。ニコラにはそもそも全く関係ない。二人は混み合う八重洲口を抜け、歩き出した。霧のような雨が降り始めている。帰路につくビジネスマンらをよけながら有楽町方面へと向かうと、JRの線路沿いにひと際高く聳えるビルの中へと入った。外の喧騒から隔離された一階は吹き抜けのオープンスペースだった。レセプションは十階にあり、客室階はさらにその上だ。二人は誰もいないエレベーターに乗ると、とにかくレセプション階へと上がることにした。
エレベーターの扉が開いた。すると目の前はシックな開放ラウンジであった。いかにもITで儲けていますといった若い透かしたビジネスマンが女二人と気取ってカクテルを飲んでいる。空のグラスを持ったウェイターを横目でやり過ごすと、翔平が提案した。
「時間はあるんだから、なんか飲もうか。せっかくだし」
翔平はビールが好きだ。それに、なんとなく成功者の気分に浸りたい。
「いいね、わかった、景気をつけてから乗り込もうってわけだな。キミの奢りね」
二人は一番近いテーブルソファに腰掛けた。座り心地は悪くない。サイドテーブルに鮮やかな生花が活けてある。奥の方から中年女のグループの笑い声が聞こえる。
「じゃ僕は、ジントニックでいいよ」
ニコラもちょっとおしゃれでリラックスした気分になる。勘定は翔平持ちだし。しかし心の中では、京都を出るときからずっとあることを反芻していた。つまり、なんで僕なのか、だ。彼もどうぞと言ったという女の意図がなんなのか。それはそうだろう。何しろ、会ったこともないパンデミック少女からのご指名なのだから。瞬間、翔平の狂言かとも疑う。
「じゃぁ俺はドラフトビールにするよ」
翔平が言うと、ニコラがウェイターに手を挙げた。
「乾杯!」
やがて運ばれてきたグラスとグラスがカチッと音を合わせた。ビールの泡を口につけた翔平がふうと息を吐いた。ニコラもライムを絞りながらジントニックの香りを楽しんだ。暫しのささやかな安寧である。
一気に泡まで飲みほした翔平が、腕時計をみてニコラの顔を伺う。そして、むっくりと立ちあがった。「じゃぁ、行くかぁ」意を決し、裏腹に力なく宣言した。
やがて二人は、レセプションのにこやかなスタッフの目をどこか気にしながら、素知らぬふりをしてその前を通り抜けると、ラウンジとは反対側の客室階行き専用のエレベーター前へとやってきた。壁の三角ボタンを押す。二つあるうちのドアの一つがすっと開いた。二人はそそくさとエレベーターに乗り込む。僕たちは何をこそこそとやっているんだ。ニコラが自嘲する。と、翔平が小さくシャウトした。
「やべぇ、上がれない。キーがないと、上、行けないじゃないか」
フロアの番号を何度押しても反応しない。よく見れば「ルームカードをスロットに挿してください」と脇に書いてあるのだが、焦っているので気がつかない。(だめじゃんこれ)と翔平が無言でニコラを見る。外部からの不審者が客室階まで行けないようにロックが掛っている。考えてみれば、今時当たり前である。何だよ、来いと言うから来てやったんだぞ! もたもたしているうちに、エレベーターのドアが閉まりかけた。あれ、何。するとそこに、すうっと誰かが滑り込んで来た。そして二人を見ずに言った。
「来てくれてありがとう」
「えっ?」なんだ、彼女じゃないか。翔平は誰もいない後ろを意味なく振り返った。女はなぜか目を合わせようとしない。うつむき加減に、エレベーターの操作パネルに目を落としたまま二人にうなじを晒している。
「あっ、どうも」
翔平も気を取り直して言葉を返した。こういう場所でみると、やはり大人の女だ。一体この子、何歳なんだろうという矛盾した疑問がまた湧いてくる。何故黙っているのか。翔平はニコラを紹介しようとしたが、軽いGを感じたのもつかの間、静かにエレベーターのドアが開いた。
「こちらへどうぞ」
寡言の女はエレベーターをひゅっと飛び出すと、二人を先導するように足早に歩きはじめた。何度か迷路のようなコーナーを曲がると、三人は一六二二号室の前にやってきた。女は、ドアを開けると「入って」とだけ言い、二人を部屋に招き入れた。二人は入って驚いた。
「わお!」
凄い部屋だ。ここが彼女の住まいなのか? 右手が豪華なリビング。大型のテレビがある。左手には計算されつくしたダイニング。楕円テーブルは六人掛けだ。その奥には小さいキッチンも見える。大きな青い窓は総ガラスで美しい夜景が一枚の絵の様だ。将に、エグゼクティブ・スイートと言っていい。翔平とニコラは怪訝な表情を交換した。
「やっぱ、ファイブシーズンズの部屋はいいなぁ。匂いもロケーションも最高。ここ、一泊三十万はする」
翔平が商売根性を垣間見せながら独り言を言った。重厚でベージュとブラウンで統一された壁や調度がいかにも五つ星の風格を主張している。
「来てくれてありがとう」女はもう一度礼を言った。
「…おじゃまします」二人はそろうりと歩を前に進める。
「じゃあ、そこに腰かけていてくださいね。飲み物、作りますから」
女はリビングに二つ並んだ一人掛けのソファを指さした。なんかこの子、やっぱりこの間とも雰囲気が違う。と思いながらも、翔平は言われた通りソファの前に回った。そして「よいしょ」と深く腰を下ろすと「おっ、ファーストクラスだ。マッサージもついているぞ」などと照れ隠しの冗談を言った。なんか変だなと思いながら、ニコラもあとに続いて隣に腰掛けた。確かに座り心地がいい。女はキッチンで何かを用意している。その隙に翔平がニコラの紹介を済ませた。女は、ようやく「ナオミです」と言って名を名乗った。ニコラは愛想笑いする。そうか、ナオミって言うんだ。翔平は「今度は忘れないなこの名前」と思った。ナオミはそれ以上何も言わない。そして二人がソファに深く身を沈めたその瞬間、窓の外が紫色に光った。気のせいかもしれない。が、二人は何故か心地のいい、酔いが回るような睡魔に襲われた。
「何飲みますか?」ナオミの声が遠くに聞こえた。
「あっ、はいはい、このソファなんか気持ち良くなって、眠っちゃいそうだよ。さっきラウンジで少し飲んでいたんだ」
そう言うと翔平は身を起こし「じゃぁ、俺はルートビアで」と注文する。「僕は…コーヒーかな」とニコラは警戒して言った。
手早く二人のオーダーを処理したナオミは、グラス一つ、カップ一つを二人の手元に置いた。
「おっ、適当に言ったのに、ルートビア、あるんだ。てか、どんな味?」
翔平は自分で頼んでおきながら普通にルートビアが出てきたことに驚いてみせた。ナオミも向かいのソファに腰かけた。
「ふう、今日はお招きにあずかって、それでいったい、俺たち二人にどんなお話なのかな。マッカシーだったよね」翔平がようやく切り出した。
「そうだね、お二人に是非見てもらいたいものがあるので、来てもらったの。自分の目で確かめるのが一番だから」
「見てほしいもの?」そんなこと? 意外な用件に聞こえた。
「そうだよ、ちょっと窓の外を見てくれるかな」そう言うとナオミは翔平を窓際に誘った。
「ん、何?」と言いながら、ナオミのいる窓辺から空を見上げた。湿った夜の東京の空だ。別に面白くもなんともない。そして、東京駅のプラットフォームを見下ろした。じっと見ている。何が…と言おうとした途端、翔平は異変に気づいた。顔をさらに窓に近づける。
「あれぇ、新幹線の新型車両かなぁ? でも、こら、聞いたことないぞ」
誰に向かうでもなく文句を言った。見下ろした先、いつものように東京駅から発着する新幹線の車両がいくつか見える。だが、不思議なことに、カモノハシのN七〇〇系でもなければ、芋虫の八〇〇系でもない。形も違う。色だけ見ればブルートレインだ。先頭車両の形はナイフを逆さまにしたような鋭いエッジを持っている。それでいて丸みを帯びた連続する曲線が美しい、見るからに高速車両である。翔平は眼をこすった。そして、あれ、これホントに窓かなぁといったふうに、今度は窓の桟を確認した。ナオミの顔が翔平に近づく。
「あれは、NA五型という車両。ハルビンまで七時間。ソウルまでなら四時間ちょっとだね」
「はあ、そうなんだ」
翔平は気のない反応をすると、窓から離れてソファに座りなおした。すると今度はニコラがソファから立ち上がった。そして窓に近寄り、外を見て「おっ」と言った。確かに見たこともない形をした列車がプラットフォームに停まっている。間違いなく、そのように見える。ニコラも本物の窓かどうか桟を調べる。
「ちょっと待って、どんな仕掛け、これ、面白いね」
ニコラは窓枠を見回しながら訊いた。大型液晶画面がはめ込んである。変わったホテルだ。
「流行の薄型液晶画面かなにかだよね?」
翔平も熱帯魚が泳いでいる水槽型の液晶画面を思い出した。するとナオミは冗談を言った。
「さっき、タイムトラベルした」
「…」
「あっ、そうか、なんだ、タイムトラベルか。なら納得」
一テンポ置いて、ニコラが調子を合わせた。翔平がそんなニコラの顔を見遣る。
「タイムトラベルってか、だよな。あー、でもさ、マッカシーも面白いんだけど、タイムトラベルがそんな簡単だと、なんかね、申し訳なくない?」
翔平もニコラに同調したのかしないのか。あやふやな言葉を返した。
「でも、実際はこんな感じなんだよ」
ナオミが真顔で言った。二人は、オイオイどこまでだよ、といった表情を見せる。
「てか、なかなか面白いけど、いい仕掛けだねぇ」
タイムトラベルはさておき、一体何なの、これ。翔平はそんな顔をしている。しかし、ナオミは「だから、これがリアリティ」とさりげなく言い、何がそんなに不思議なのと悪戯っぽい視線を投げかけた。焦れてきた二人は「で、ホントは何、早く種明かししなよ」と言い、ナオミの横顔を窺った。まさかこれだけで俺たちを呼んだわけじゃないよね、という意味だ。
「だから、これが現実。タイムトラベルはさっきした」
「ぷっ」二人は吹き出しそうになった。
「『さっき』って言ったって、さっきだよ。数分前に僕たちはこの部屋にやってきた。で、コーヒー一口飲んだら『はい、今タイムトラベルしました』って言われても、そりゃ、どう考えたって、ありえんでしょ。同じするんだったら、ほら、大きな渦巻のトンネルを潜るとか…、なんかそういうの必要でしょ。演出っていうかさあ…」
世の中のどこかではありえても、自分たちの身の上に起こることとしてはありえない。マッカシーだの、未来予想図だのといくら言ってみても、それは所詮ファンタジーである。実際自分の身にそんなことが起こるというのは想定外だし、もしあったとしても、宇宙人が出そうな砂漠の秘密基地にでも行かなければ、簡単にタイムトラベルなんてできない。それが常識というもの。翔平もニコラも、人類みな同じ考えだ。
しかし、スペースミュージアムのチケットの説明はまだ出来ていない。それは今夜どうしても知りたい。いや、なにかの勘違いだってことを確認したい。
翔平はもう一度「ありえないっしょ」と、小さな声で言って腕時計を見た。この部屋に来てまだ十五分程度しか経っていない。が、何故か時計の針は一時間進んでいた。あれっと首を傾げる。それを見ていたナオミが言った。
「さっき、ソファに座ってもらっている間に、だからトラベルしたの。そういうこと」
「そういうことって、じゃぁ外へ行って確かめてもいいってか」
翔平が駆け引きする。第一そんなお手軽にマジックを使うかって。するとナオミは言う。
「だめだね、今外へ出るのは。不測の事態が生じる。今日は見るだけ、にしましょう」
「おや、やっぱりネタバレがあるから、それはまずいんだな。はは、見るだけだね。オーケー、オーケー」
二人は、もう一度液晶画面に寄って東京駅をよくよく覗きこんで観察した。何かケチでもつけたいところだが、列車以外、プラットフォームの大部分は屋根に遮蔽されていて、それ以上は見えない。あえて言えばときどき見え隠れする乗客の中に、和服を着ている人が何人か見える。近くでなにかイベントでもあったのだろうか。それ自体はそれほどおかしいことではない。丸の内側に見える赤レンガの東京駅は全く変わった様子もない。いや、少しイメージより大きく感じるか。そんな印象がなくはない。でも、普段から東京駅をマジマジ見ることはない。
「じゃぁ、テレビつけてみよう」ニコラが思いついて言った。
すると「テレビはないの、この部屋」とナオミが即座に拒否した。でも堂々とした九〇インチの液晶テレビがソファの横にあるではないか。
「どうして? そこのでかいやつテレビでしょ」翔平がここぞとばかりに指摘する。
「ちがう。この部屋は、すべてがタイムトラベルマシンになっている。だからテレビは映らない」
ナオミの口調が少し変わったように感じるのは気のせいか。しかもタイムトラベルとは言ったけれど、実際には違う歴史をたどったパラレルワールドの一つにスリップしたと言い直した。だから、翔平たちの世界とは異なる形のものが存在する、今それを見ているのだという。
そんなこと、誰が信じられるかってんだ。納得いかねーなぁといった顔の二人は、ナオミに促されるように、とりあえずソファに腰を下ろした。ルートビアに翔平の手が伸びる。ニコラはコーヒーカップを見つめている。すると気のせいか、窓の外が再び紫色に輝いたように感じた。そしてさっきと同じような眠気に襲われた…。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
「どう、少し落ち着いた?」ナオミが何気なく二人に話しかけた。
「えっ、そうだなぁ、でも、そんなわけないさ」
そう思い直すように言ってから、翔平は再び立ちあがり窓に近寄ると、外を見下ろした。
「あれっ、ほらやっぱり、やっぱり七〇〇系がいるじゃないか。いつもの東京駅だ。ほら」
そう言ったきり黙ってしまった。ニコラも黙っている。するとナオミが口を開いた。
「今夜はここまで」
「ここまでって何が?」
ニコラが何、僕らはただお茶をしにここに来ただけ? もっと何か重要な話とかがあったんじゃないのと言って、不満な顔を顕にした。
「でも明日の夜にもう一度ここに来てほしいの。そこですべてがわかるから」
ナオミはニコラのクレームを無視してそういうと、スペアのカードキーを翔平に渡した。一瞬、そういう意味?と翔平が目でナオミに訴える。ナオミは、クスッと目の奥で笑いながら、そういう意味じゃないとその目で返す。あちゃぁ、俺、何考えているんだ、翔平は赤面する。
気を取り直し、そして横のニコラと顔を見合わせた。ちょっと待って、そもそも今日の用って何だったの? 冗談ぽいトリック見せるため? ちょっとやめてよ。で、また来いってか?
ところが、そんな心の中とは裏腹に、催眠術にでもかかったように、二人は「ああ、そうだね」と言ってしまい、また明日来ることを約束した。
「じゃぁ、また明日ね」
見送るナオミに追い出されるように二人は部屋を後にした。下りのエレベーターに乗り込むと「一体なんだったの、これ。しかもまた明日も来いだなんてさ。あの子何様なの。まぁいいけど、その代わり今日のフグはフルコースだよ」
やっと声を出したニコラは翔平を半ば本気で責めた。
「わかったよ。でもキミだって明日来るって言っただろ」翔平は悪いのは自分だけではないと言い返した。
翌日の夕方、翔平とニコラは行きつけの恵比寿のカフェにいた。軽妙なジャズ調のクリスマスソングが耳に心地よい。二人の後ろではツリーの電飾が一定のリズムで赤や緑に明滅している。
「あれって、どんなトリック使ったんだろうなぁ」
翔平が天井を見上げながら独り言を言った。昨日のあの部屋の東京駅を見下ろす窓のことだ。
「うーん、わからないな。催眠術かもしれないし…」ニコラも考えている。
「あの窓、やっぱり液晶画面だよね」翔平はそう考えている。それが一番もっともらしい解だ。でなければ、確かに催眠術ってことはある。今日の約束だって、なんか知らないうちに嵌められたような気もする。
「ああ、どっちにしろ、うまくやられたな」ニコラも同調した。
「でもあれ、ちょっと面白い映像だったね。それにしても、態々何の為なんだろうか」
「で、本当に今夜また行くわけ?」ニコラが自嘲気味に訊いた。
「いや、行くでしょ。中途半端すぎる。部屋のカードも預かっているし」
約束だし仕方ない、もう一度行ってトリックを確かめるしかないだろう。そういうことだ。帰りがけに東京駅近くのうまいラーメン店で晩飯にしてもいい。それが今の二人の妥協点に違いない。
コーヒー一杯の勘定を済ませ外へ出た二人は、引き寄せられるようにJR恵比寿駅へと向かった。目に入るものを一々疑う。だが東京方面へと向かう山ノ手線の車内から見る風景に怪しい気配はない。
東京駅もいつもと変わらず、構内のコーヒーショップも土産物屋も相変わらずに忙しいし、気ままな旅人やビジネスマンらが脇目も振れずに自分の道を急いでいる。翔平とニコラは八重洲口を出ると、昨日と同じホテルへと向かった。
そして一六二二号室。昨日と同じ部屋の前までやってきた。スペアのカードキーのおかげで、すんなりここまで来られた。二人は申し合わせたかのように深呼吸をし、慎重にドアをノックする。返事はない。翔平がカードキーをセンサーに晒した。二人の来訪を知っていたかのようにドアが解錠した。俺たちだって勝手知ったるこの部屋だ。翔平とニコラは、わがもの顔でそろっと中に踏み込んだ。
「こんにちはぁ、居ますか?」
翔平が奥へ向かって声を掛けた。するとナオミの声が、奥のベッドルームのほうから聞こえた。
「こっちへ来て」
えっ、そっちはベッドルームじゃないのかい。翔平とニコラは同じことを考えた。緊張の歩を進めながら、二人は声のした部屋へと足を運ぶ。ランプは消えている。小ぶりのソファとカウチチェアを備えた三〇平米はあろうかという豪華なベッドルームだ。キングサイズのベッドを覆う花柄文様の羽毛カバーには皺ひとつない。ナオミはその横のカウチに座っている。
「あ、どうも」翔平はびくっとしながらも挨拶ついでの言葉を発した。しかし…えっ? どこか様子がおかしい。ナオミは椅子にしっかり腰かけてはいるが、肩のあたりが脱力し、顔は下を向いてショートの前髪で端正な目鼻立ちを半ば覆っている。視線もない。両腕も、アームレストに載ってはいるが、だらりとしていた。この瞬間椅子に座って昼寝しているようにも見える。「ん」と言ってニコラが身構える。隣の翔平も首を横にかしげた。
…こっちだ。
感情のない低い声が突然部屋に響いた。
「わぁっ!」
反射的に二人の両肩が小さく跳ねた。半身になり、右に左に声の出所を探した。が、どう見回してもナオミのほかには誰もいない。が、それは明らかに彼女の声ではない。腹話術か? いや、ちがう。そばにはランプがあって、あとは丸いサイドテーブルの上にサイコロキャラメルのようなシルバーの小箱があるだけだ。
「今、声したよね」翔平がニコラに確認した。ニコラが「ああ、したでしょ」と頷いた。
…そうだ、ここだ…。
「うおぉ」
ビックリして二人は顔を見合わせた。
「ここって、どこ?」
サイドテーブルと動かないナオミのほうを交互に見遣って、翔平が腰を引いたまま覗き込んだ。
…そうだ。ここだ。驚く必要はない。
「ふっ、いや、驚くでしょ、急にそんな声が出たら。で、どこにいるんですか」
ニコラが詰るように言い返した。
…私の名前はソゴウナオミ。君たちに話があって、また来てもらった。
「えっ、でも、彼女、気を失っているみたいですけど、どうしちゃったんですか」
ソゴウかぁ。翔平はその名前を心の中で呟きながら、声の正体をあれこれ考える。
…それが、私だ。
「私だっていっても、ねぇ。第一、あなた、男みたいだし」
翔平はニコラを見て小さく同意を求める。ニコラは、状況を判断しようとしているが、見立ては翔平と変わらない。どうやらテーブルの上の小箱は無線スピーカーの様である。
…難しく考えなくていい。私は、いわばナオミの潜在意識だ。そうだ、私は潜在意識から君たちに話しかけている。ボディは気にしなくてもいい。今夜はマッカシーの真実を君らに話そう。
気を失っているナオミのことをボディとスピーカーは言った。なるほど、あるいはこれは降霊術かなにかだ、とすればナオミは霊媒師か? ニコラは説明としてはそれが尤もらしいことに気づいた。要は占い師とかサイキックの類だ。まあ、いずれわかる。素早くそう判断した。それにしても、手が込んでいるなと思う。
一方、翔平は最初の緊張は解けたものの、まだポカンとしている。何者かがナオミを殴って気絶させ、その犯人がカーテンの裏かバスルームの中に隠れて、自分らに話しかけているのかもしれない。隙あらば、次の一手を打とうと身構えて潜んでいるはずだ…。成程、そういう解釈も一応ありだ。しかし、それならそれで、もう少し緊迫感を持ったらどうだ。
無線スピーカーのサイコロキャラメルは、翔平とニコラの頭の中の想定を完全に無視すると、やがて荒唐無稽なことを語り始めた。どうやら、聞くしかなさそうだ。
…タイムトラベルの研究は二〇〇九年から始まっていたが、二〇三九年になり実用的なタイムトラベルマシンが完成する。
「ほう、まずはそういう話から、なんですかね」ニコラが皮肉ってみる。
…シカゴ近郊のフェルミラボで副所長でありワームホール理論の大家である物理学者、ドクター泰司山井が率いるプロジェクトチームが開発に成功したものである。
「タイムトラベル。昨日もそれらしき話だったしねえ」
翔平は咄嗟に同調する。が、ニコラが怯まず訊き返した。
「確かに面白い話題だよね。今から三十年後に、タイムトラベルが実現するってことは、それなりに興味深い。あり得ないことじゃない。じゃあ、訊いてもいいかな。よく言う親殺しのパラドックスだけど、あれはどういうことになるの?」
マッカシーから入ってきているので話の流れは唐突ではない。タイムトラベルする以上、ハードウェアは必要だ。
「そう、それそれ」
翔平も動かないナオミを気遣いながらニコラに追随する。
「それにタイムトラベルの原理ってどうなの?」
「できる、できない」の話になれば、まずはどうやってタイムトラベルするのかということはとても興味がある。
…マイクロブラックホールを生成しホワイトホールによって時空を移動する。人類滅亡を回避するために残された究極のインヴェンションである。
「ん、人類滅亡を回避?」
翔平とニコラはその部分に反応した。タイムトラベルとは、レジャーでするものじゃないのか、そんな無邪気な発想がある。
…地球規模の全面核戦争によって、人類は滅亡の危機に瀕したのである。
「全面核戦争?」
そんなことがこの先、実際に起こるのだろうか。近年ではノストラダムスの「火の玉大王が空から降ってくる」とかいうのがあったし、二〇一二年ならマヤ暦による世界の終末の予言だ。人類滅亡シナリオの最有力候補とはそんな類のものである。確かに巨大隕石が地球に衝突したら、人類はひとたまりもないだろう。氷河期の再来ということもある。しかしキャラメル箱の話では、それは核戦争だったと言う訳だ。人類は、学習したのではなかったのか。
…二十一世紀に全面核戦争が勃発しなければ人類滅亡の最悪の結末を回避できるはずだと考えた私たちは、タイムトラベルマシンを用いて、過去のある時点の歴史を書き換えることにした。
箱は「私たち」と表現した。
…だからターゲットを慎重に選択した。
いささか飛躍がある。二人はこの展開にはついていけない。最悪のシナリオ? 歴史の書き換え? だからターゲット? 故に過去に戻って歴史を変えるだって? ニコラは一つ一つのフレーズに尤もらしい解釈を試みる。
「ちょっと、その『私たち』って、一体誰のこと? 君はつまり、その仲間ってわけで、人類は神の領域にまたしても踏み込んでしまったってことなのか」
言っているニコラにも「またしても」の意味はよくわからない。「神の領域」はさらに難解だ。箱の中から喋っている奴は「俺は頭が少しおかしいぞ」と言っているだけにも聞こえる。
「でも、核戦争に結びつく歴史上の元凶って、一体何?」
そんなことがあるなら教えてほしいと、短絡的な翔平が割って入った。
「そうか、てかアインシュタイン!」
少し考えてから、わかったぞと叫ぶ。出てくる名前が他にないのだろうか。ニコラが遮った。
「そんな単純な話じゃないでしょ。彼を否定したら、タイムマシンだって出来てないって」
翔平は不満そうだ。そもそもアインシュタインが核爆弾を発明、或いは開発したのではないのかという勘違いがある。大きな正すべき誤解・思い込みだ。彼が発見した質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆるエネルギーについて成り立つ一般方程式である。アインシュタインは原子爆弾製造には一切関与していない。ニコラにはわかっているが、翔平は当たり前の知識が曖昧だった。二人の質問も疑問も無視された。
…マシンはプロトタイプとして合計三基が製造された。ネバダの実験場でおこなわれた初号機による無人テストでは数分間紫色の閃光を放つとマシンは消滅した。そして戻ることがなかった。改良を加えた二号機では動物テストを実施した。数秒間の発光後なにも起こらなかったように観察された。が、乗員の猿が変死した。そして、マシン内の原子時計が一時間進んでいたことが判明する。その後開発チームは何度も動物実験を繰り返した。猿は死なず時計だけが進み、タイムトラベルの時間に相応して胃の内容物の消化の進行や細胞レベルでの猿の老化が確認された。
ニコラは腕を組んだまま聞いている。一応筋道を立てて箱が説明しているからだ。でも何の為に?
…最初のテストから二十八ヶ月後に乗員の安全確保の設計改良を加えた三号機による有人テストがおこなわれた。テストパイロットにはヨハンソン・G・シュトッカーというスイス軍人が選ばれた。その後短時間のテストトラベルを重ね、さらに出力アップや操作性の改良を加えた。ショーン・マッカシーはこの時の改良技術者の一人である。ある時、このマッカシーが無許可でタイムトラベル実験を強行した。そして行方不明となった。
「マッカシーって、そういう人だったのか。てか実在するのか」ニコラがバカにするように言った。
「え? じゃぁマッカシーは君等とは仲間じゃないってこと?」
翔平の頓珍漢な質問がとんだ。確かナオミは香港でマッカシーは現れたかって俺に訊いたよね。翔平は訳が分からなくなっている。が、マッカシーは一応彼らの仲間のようである。
「つまり、親戚ってことでしょ」
言いながらニコラが翔平の顔を見る。箱は指摘を無視した。
…タイムトラベルマシンは完成した。そして作戦実行の為、シュトッカーを一九三九年の世界に送った。
「一九三九年って?」
…マンハッタン計画を頓挫させるためである。
「マンハッタン計画! それなら聞いたことあるぞ」
翔平が唸った。確かに歴史に少し詳しい人間なら一度や二度は聞いたことがあるはずだ。
…ところが、予測しないことが起こった。
「何なに?」
思わず、身を乗り出す。翔平は箱が喋るストーリーにはまり始めている。一方ニコラは眉をひそめて、一歩引いて考えている。
…シュトッカーは作戦通りタイムトラベルすると、マンハッタン計画に参画する予定だった科学者二名を不能化した。それが私たちの選択した最有力なオプションだったからだ。そして同じことをドイツへも行って実行した。少なくとも核開発を数十年遅らせることができる。それによって歴史を修正する。これがミッションだった。シュトッカーは期待通りに任務を遂行した。
「だから要するにどういうこと?」
ニコラが結局は何が言いたいのと訊いた。
…シュトッカーは任務を完遂すると二〇三九年の世界に帰還した。が、ストッカーが帰還したその世界は、旅立つ前の世界、つまり元の世界とは全く異なる世界となっていたのだ。
「そう、それだよ。それこそ親殺しのパラドックスってやつでしょ」
的は得ていないが、翔平もそのくらいは連想した。いや、さっきニコラが言ったばかりだ。過去に戻って自分の親を殺したら今いる自分は存在しないはずである。そこに致命的な矛盾が生じる。つまり過去を弄れば、未来も変わる。やはり、翔平でもこの話には無理があると気づいた。
ニコラは仏教の基本思想である「縁起」という言葉を思い出した。「縁起」とは「己がまずありきではなく、無量無数の因縁というものによって、その結果として初めて己がある」という因果法則である。
箱の話は続く。
…彼はフェルミラボの仲間もいない、タイムトラベルの実験場も何もない、荒涼としたネバダ砂漠の真ん中に帰還した。彼は計画が失敗に終わったことをそこで悟った。
「ふう、それは困ったものだね。じゃあどうしたんだ?」ニコラの口調は皮肉たっぷりだ。
…全面核戦争は回避できていたものの、予期せぬ別の世界が彼を待っていた。そこではウィルス兵器の開発が飛躍的に進んでおり、人類の歴史は核戦争とはまた異なる別の滅亡シナリオの上を辿っていた。
「うわぁ、ウィルスか。放射能もいやだけど、ウィルスもヤダなぁ。で、どうなるの?」
翔平は戯言を真に受けたかのように反応する。
…変わっていないのは人類が滅亡への道に突き進んでいるということだけだった。その世界ではタイムマシンは開発されておらず、関連技術もそこにはない。シュトッカーは自分が時空の放浪者になったことに気づいた。
「そりゃ、問題だね、しゅとかぁさん」またニコラが揶揄する。
…そこで、私たちは、未来の人間が過去に遡り選択された事象に微細な変更を与えても、歴史の結末は大きく変化せず、一定の結果に収束するものであるという仮説をたてた。そして、アプローチを変える必要があると判断した。
「あれ、ちょっと待って、変じゃない? しゅとかぁさんは元の世界に戻れなかったわけでしょ、どうやってその話をアナタは知ったわけ?」
ここまでじっくり話の整合性を検証していたニコラが矛盾を突いた。これはかなり有力だ。
「そ、そりゃそうだ、だよね」
翔平もわかったような、わからないような、単純に同調してみせた。つくり話としては結構面白いのは認める。それ見たことかと思いながらも、二人とも少しずつ箱のペースに釣られているのは間違いない。箱はこの矛盾しているという指摘にも動揺はない。
…シュトッカーは全く別の人生を歩んでいた山井を苦労の末に探し出すと、彼の協力を得てその新しい世界が辿った人類の歴史を詳細に調べ上げた。そして、膨大なデータを収集・解析した。その後、自分がやって来た一九三九年までもう一度戻ったのだ。そこからさらに数ケ月過去に遡り、これから計画を実行するために二〇三九年から任務遂行にやってくる最初の自分が現れるのを待った。
「ふうん、なるほど。自分で自分を待ち伏せしちゃったのね」ニコラもその着想は気に入る。
「へえ、そういうこと、できるんだ。過去の生身の自分に会うってどんな気持ちだろ? でも、それ、微妙だなあ。でも、俺だったら、中学の時の自分に会ってみたいかもしれない」
いや、ちょっとそれとは違うだろう。が、翔平は豆鉄砲を食らったような顔をしながら妄想して、そしてニタニタしている。
「そうか、それで、何が起こったかをその後から来た自分に伝えたのか」
冷静なニコラはそういう理屈かと一応は納得し、先を読みながら箱に確かめた。
…そのとおりだ。後からやって来たシュトッカーは、待っていた自分からすべてを聞いた後、それを記録したレポートを受け取るとそのまま何もせず、二〇三九年に戻った。そしてこれをプロジェクトチームに報告したのだ。山井から見れば、シュトッカーが一九三九年から帰還して最初に言ったことが『自分に会った』だから、仰天した。当初はシュトッカーの狂言かとも考えられた。だが、彼が持ち帰ったレポートと膨大な資料は狂言のレベルを超えた信憑性のあるものであった。
「でも、シュトッカーが二人になっちゃったってこと?」
翔平は「それはさすがにまずいでしょ」とまた想像を膨らまして面白がっている。
…最初のシュトッカーは時空のかなたに消え去った。
「なんだか無限ループに嵌ったような。つまりは最初の世界もどっかに飛んで行っちゃったってことだね」
ニコラが哲学者のようなため息をついた。考えをまとめる気力が失せ始めていたが、同時に考えれば考えるほど、背中にぞくっという感覚が走った。
…作戦が失敗に終わった後、フェルミラボは新たなプロジェクト、コードネームNを始動した。シュトッカーが持ち帰った膨大な技術情報の中に生体サイボーグの製造技術があった。山井はこれに着目した。そして五年程の歳月を費やし『ロクゴウ・ナオミ』を造った。
「ナオミ…まじで…」
翔平が、目の前でじっといているナオミはやはりサイボーグなのかと、なんだか納得する。いや、そんなはずはあるまい…。
「プロジェクトN…。てか、 君の名前はソゴウナオミじゃなかったっけ?」
ニコラが、ちょっとした齟齬に突っ込む。が、喋っているのは箱だ、ナオミじゃない。
…プロジェクトNの目的は三つあった。消えたシュトッカーの消息の確認、核戦争によって滅びゆく世界の修復である。
「なんだ、要は問題解決の為に打った手が、別の酷い問題を起こしているってことだ」
ニコラが、どうだそこが致命的だよ、何の意味もないと言い切ってみせた。が、箱は無視する。
…鍵の多くは消えたシュトッカーが握っていると考えた山井は、ロクゴウをタイムトラベルの限界に近い一九九〇年へと送り込んだ。シュトッカーの痕跡を調査する為だ。そして、中国で彼の足跡を確認した。が、シュトッカーも追手の迫る気配を感じていたようだ。結果、彼を取り逃がした。
「あれ、それじゃダメじゃない」
翔平はそう言ってみて、何故か残念がる自分を面白く感じた。
…しかし、ロクゴウはその過程において世界線の修復についての有力仮説を発見した。これによって彼女は一九一〇年から二〇一〇年の百年間の人類の歴史に修正を加えるプログラム・イオを創造し、実行した。
「なんだ、結局は、最初と同じアプローチを取るわけか」
ニコラが批判的な語調で今度は箱を責める。
…何度でも、必要があれば繰り返す。それが基本的な考え方だ。が、イオも失敗に終った。二〇一五年に核戦争が勃発し、結果はより悪いものとなった。それが帰還したロクゴウナオミの山井への最終報告である。
「何度やっても、ダメって言うことだね。それならもう成行きの運命に任せたらどうなの」
やはり堂々巡りのような話ではないかと、翔平も感じた。
…イオの成果を踏まえて再出発したのが今回のプログラム・エウロパだ。即ち、今この世界で進んでいる計画である。
「うわ。それって、僕たち現代人は実は未来人に操られているっていう、そういう世界の住人ってことなのかい?」
ニコラが嘆息する。が、どこまで真に受けているかは本人しかわからない。
…今の私の存在が、即ちその証拠である。全ては一からのリスタートだ。
「ん、ロクゴウがここでソゴウになるのかな。ややこしいなあ」
ニコラが今度は文句を言う。
「えー、それじゃあ、そうだとして、どういうふうにこの世界を変えるっていうわけ?」翔平が訊いた。
…まずは、核兵器による全面戦争を回避する。それは変わらない。そして反動として発生するウィルス戦争の世界を抑制する。そしてその帰結として核戦争で既に破滅した二〇四九年の未来世界を再生する。
「三つもあるんだ。なんか欲張りだ」
翔平は何をどうするという部分には興味がない。
「具体的に言ってもらわないとわからない」
ニコラがもっと分かり易く言えと言う。
…今のこの世界は、核戦争で滅亡する世界線上に存在している。これを回避しながら、ウィルス兵器の開発を抑制しなければならない。この先、アジア地域内の経済発展と人口問題が加速すると、環境悪化、食糧問題が深刻化する。すでにその兆候は顕著だ。大量の中国人や日本人、朝鮮人やヴェトナム人が職や安住の地を求めてアメリカやヨーロッパ、アフリカ、南米、オーストラリアを目指すことになる。三千万人以上が動く。このことが、欧米各国の国民、特にアメリカやドイツ、フランスで大きな反感を招くだろう。仕事を奪われ、あるいは土地を奪われ、家畜を奪われたと主張する彼らは、アジア人の排斥運動を始める。資本家や大規模農場経営者は安いアジア人の労働力を利用し膨大な利益を上げる為、時として彼らも攻撃対象になる。こうして世界の争いの中心は白色人種対有色人種へと変貌する。これが核戦争を回避することによって生起する大きな障害なのだ。
「確かに今でも人類増えすぎでしょ。で、ウィルス戦争っていうのはどういうふうに起こるわけ」
この質問に箱は答えない。
…この人種間ともいえる対立は後々ウィルス兵器の開発へと発展する。特殊なウィルスをアジアのある国が開発する。
「ちょっと待って、ところで、細菌とウィルスって何が違うんだっけ?」
無視された翔平がまたここで無知を晒す。
「ゴジラとエイリアンくらいの違いだね」
ニコラも詳しいわけではないが、確かにそんなところだ。そのくらい知っていろよといった視線を翔平に投げた。
「えっ、そんなに違うの?」
翔平も反応したが、なにがそんなになのかがわからない。
「でしょ」とはニコラ。もういい加減にしろよというサインだ。
…人間対ウィルスの戦いの歴史は新しいものではない。十六世紀スペイン人によって中南米に持ち込まれた天然痘で先住民文明は滅んだ。また一九一八年に世界的に大流行したスペイン風邪では四千万人が死んだ。第一次大戦のドイツの敗北の原因もこれだ。ウィルスは細胞の千分の一ほどの大きさで人の細胞内に容易に侵入し、DNAの複製機構を利用して増殖を繰り返す。エイズやエボラ出血熱は二十世紀後半になって発見された新手のウィルスだが、毎年流行するインフルエンザも年々毒性が強まっている、つまり進化する。
「へぇ、ドイツ軍が壊滅したの、天然痘のせいだったんだ。海軍のサボタージュが原因だったと本では読んだんだけどなぁ」
ニコラの知識もその辺は曖昧だった。
「でも、毒持って増殖するウィルスって、花粉並みにイヤな奴だな」
翔平はウィルスを花粉と一緒にした。スギもそうだが、翔平はブタクサが嫌いだ。十年来の花粉症持ちである。が、人類にとってはやはり花粉よりウィルスが問題だろう。
…二〇〇〇年にウィスコンシン大学の研究チームがウィルスを人工的に作ることに成功している。機械的に合成したDNAから生命体であるウィルスを再生することに成功した。この研究グループの中に一人の日本人がいた。川倉嘉信という東大医科学研究所の教授も務めた男だ。二〇〇五年に日本に戻っているがその後行方不明になった。この男がのちにウィルス兵器の開発に関わる可能性が強い。危険人物だ。
「カワクラ?」
翔平が何かを思い出したかのように首を捻った。
…消えたシュトッカーが見たウィルス世界線では、大規模な国家間のウィルス戦争は二十一世紀初頭から少なくとも四回起こったという。それが戦争ということは仕掛けた当事者にしか認識されない。その意味で戦争であって戦争ではない。半ば一方的な実験といってもよい。鳥や豚など家畜が媒体だ。一説には昆虫とも言われる。全面核戦争は起こらなくとも、大量の人間が訳も分からず死ぬことになる。
翔平は思わず口を両手で覆ってみる。無駄なのはわかっている。それを見ていたニコラが目で笑う。すぐにマスクをする日本人を想像したからだ。
…やがて世界は終末思想で満たされるだろう。ウィルス戦争になれば世界人口は二〇二五年には四十億にまで激減することも考えられる。そうなれば、各国の人口統計も国勢調査も機能しなくなり、実際の世界人口は把握することすら困難となる。経済活動は停滞し、農業生産も大幅に落ち込むだろう。穀物も食肉も野菜もバターもチーズも、さらには飲用水も一切流通しなくなる。大勢の人間が餓死し、世界各地が小規模単位のコミュニティでブロック化し、コミュニティ間の無秩序な食料争奪戦が始まる。
「核戦争なき世界が、そのように変質するって言うのは、すこし煽りすぎだよね」
ニコラが独り言を言った。あり得るといえばあり得る。人類の争いの種は無尽蔵にあるのだから。自然落ちてゆくところへ落ちてゆくものなのかもしれない。
「食料争奪戦ね、厭だね、食べるものないなんて、ちょっと想像できない。原始時代に逆戻りだ。コンビに行っても、おにぎりひとつ買えないなんて、あり得ないし」
翔平はぶるっと肩を震わせながら、稚拙な意見を言った。
…このようなウィルス戦争を回避する為の計画が即ちエウロパだ。この戦争を主導するのはアジアの諸国においてはアジア連邦となる。それからこれに敵対するロシアと欧州である。
「アジア連邦?」
…ウィルス世界へと偏向するときに出現するであろう国家連合だ。八紘一宇のスローガンで東アジア地域を統合し一方のブロック化を目指す欧米生存圏と対峙する。従って、このアジア連邦の出現を阻止することがエウロパの戦術的目標の一つである。
「確かに地域のブロック化というのは世界秩序に波乱をもたらす要因にはなるだろうね」
ニコラはグローバル化した今日の世界が閉鎖的な近世前の時代に逆行することは好まない。
「で、そのアジア連邦というのは、今影も形もないけど、一体どこから湧いて出てくるの?」
翔平は、そんな兆候どこにもないじゃないかと言いたい。アジアの文化は多様だ。EUだって簡単にできたわけじゃない。
…これを指導したのが葛城龍一という男である。アジア連邦の総裁あるいは副総裁となる人物と言われる。
「へっ、日本人結構登場するんだね」
さっきからそう感じていた翔平が嬉しそうに言う。
…この連邦が出現する兆候として、二〇一二年頃から、鳥ウィルスが高確率で人に感染するようになり、世界各地で大量の死者が出る。ワクチンが開発されて二〇一五年頃には一度沈静化すると考えられるが、そうなると二〇一八年頃からまた新種のウィルスが流行する。ところが、これはアジア地域だけで流行し、黄色人種と一部の黒色人種やヒスパニックだけに大量に死者が出るものとなる。特に中国では衛生状況が悪いのでまたたく間に一億人程度の死者が出て、さらに東アジア全域で死者が増え続けることになるだろう。
「そういえば、SARSはアジア人にしか感染しないと聞いたことがある」
どこかで聞いたことを翔平が思い出した。パンデミックは着実にやってくるのかもしれない。
「たしかセルゲイ・コレスニコフとかいうロシアの学者がそんなこと言ったことがあるな」
ニコラも知っている。国際線の飛行機に乗る時などは、間違いなく気を使う。
…その結果、アジア連邦は大きな存亡の危機にたつ。その危機を救うため連邦議会が新総裁に葛城龍一を選任し、対策に乗り出すという構図だ。そして、それが世界ウィルス戦争の引き金になる。
「そうなのかあ。じゃあ仮にそうだとして、で、そのカツラギとかいう奴、こいつを殺したほうがいいとかいう話なの?」
ニコラがまさかねといったふうに問い質した。
…その手法は人類滅亡のシナリオを増やす。が、選択肢は限られている。それも一つのオプションだ。
箱は言い切る。
…二〇一八年頃あるいはそれ以前に大規模なウィルス戦をロシアが仕掛けるだろう。失業問題と反政府運動を沈静化させるためにロシア国内のアジア系移民を排除したい軍内部の過激派グループと、非白色人種の域内殲滅を叫ぶイギリスとアメリカの地下組織の利害が一致し結託するとき、それは現実化する。アジア連邦はこれに対抗する。
「詰まるところ結局は人種戦争というわけか。恐ろしい未来だなあ。ニコラどうよ」
翔平はまたニコラを窺った。
「未来というより、どこか別の世界の空想でしょうが」
我に返ったニコラがこれは空想だと言った。
…根本を突き詰めてゆくとキリスト・ユダヤ教連合対反キリスト連合という図式になる。人種というものは実に曖昧、あってないようなものだが、宗教や主義、信条は見えにくいときもあるが、結局ははっきりしている。
「イスラムはどっちかな。キリスト一派か? だよね。それに、アジアにだってクリスチャンはいるぞ」
翔平はイスラムもキリストも同じとみている。ニコラには大いに異論があるが、まぁここはどっちでもいい。だが、あとでこいつにはゆっくり叩き込んでやらねばと思う。
「でも、空想ではそうなったとしても、こっちの現実世界ではそういうことにはならないってことでいい?」
ニコラは箱に言った。
…確かにそうはならないだろう。その代わりに用意されているのが、全面核戦争による破滅だ。どちらの結末を選ぶかは君ら次第である。ゆえに方向転換が必要なのだ。私が今ここに存在するのもその為なのである。
「でも核戦争の危険は去りつつあるっていうのが今の認識なんじゃないの? で、だから人類がウィルスで滅亡するとか、別にそんな方向には進んでないような気がするけどなぁ」
そう言う翔平の感覚は間違っていない。ベルリンの壁崩壊後、全面核戦争の脅威は薄れている。インターネットが発達して、誰とでもどのような情報交換も可能だ。誤解による憎しみは生まれても、それが奔流になって誰にも制御できないような怒涛の怒りに発展することはない。世界が一つになる方向に向かっているのだ。むしろ、局地的なテロリズムのほうが怖いといったほうが今日的常識である。
「方向転換って言われても、この先起きることなんだから、そういう言い方もどうだかね」
ニコラが付け加えた。
…核戦争が回避できたとしても、人類滅亡のシナリオはいくらでもある。ここからが本題だ。この不可避な人類の悲劇を回避するため、君たちそして君たちの家族と子孫が生き延びるために、やってほしいことがある。この世界を破滅の方向から救うことができるのは君たちなのだ。
どうやら、箱が二人に言いたいことはこの辺にあるらしい。しかし、説得力には相当欠ける。
「いやぁ、不可避を回避って、言葉の遊びに聞こえるよ。まぁ、言いたいことはわかる。つまりだ、どんなシナリオを書いてみても、今から二十年後の二〇三〇年頃には人類が滅亡の危機に瀕するという結末だけはどうしても変わらないと言いたいんだな」
ニコラは相手の言わんとしていることの核心を親切に突いてやった。
…そのとおりだ。核かウィルスかが問題なのではない。あるいは隕石衝突だ。信じる信じないは君たちの自由だ。しかし、この宇宙法則は誰にも変えられない。
「なるほどね、そんなもんかぁ。でも、隕石はどうにもならんでしょ」翔平は枝葉末節にこだわる。
「だから、そうならない方法を彼らは模索しているってことだよ」とニコラも言ってみるが「やっぱり隕石は無理でしょ」と翔平に返される。
…問題は葛城だ。核を回避できたとしても、あるいはいずれに転んだとしても、この先の人類滅亡を回避する鍵はこの男が握っている。これが私たちの見解である。
「ふーん、やっぱりそれで、そのカツラギって話になるんだ」
ニコラは、どういうロジックでそういう結論を導き出しているのか、納得はしていない。
「カツラギ、うーんどっかにいたような、名前聞いたことがあるような気がする。検索してみようか」
翔平は、葛城という名前に微妙に反応している。
…この世界での葛城龍一はまもなく死ぬ。抹殺されるといってもいい。我々が標的とするのは世界線が交錯或いは分岐するところに存在する葛城だ。彼の行動を修正、統制し、破滅する世界の出現を阻止する。それが君たちの生き残る唯一の方法なのだ。それ故協力が必要となる。わかってもらえただろう。
「わかってもらってないけど、世界線が交錯・分岐? それも意味分かんないな」ニコラは柔らかく反発する。
「自分でやったら?」
翔平が最も手っ取り早い方法を箱に提案した。
…私たちの経験則では、未来人が過去において、直接的な関与をすると、結果はシュトッカーのケースのようになる。だから、その時代、その場所に生きている当事者が、自らの意志に基づいて行動しなければならない。
「成程、都合のいい話でも、一理はあるか。じゃぁ何をしろと?」
ここまできたら箱が何をしろと言いだすのか興味があるのはニコラだ。
「それにどうして俺たちなわけ?」
翔平は、俺らでなくてもいいだろうと言っている。
「ところで、君? えっとソゴウさんはどこから来たんだっけ?」
箱が黙っているので、ニコラが答えやすそうな質問に切り替えた。
…M一〇二四。二〇四九年。
「M一〇・・? 記号で言われてもねえ」混乱して考え込むのは翔平だ。
「それじゃぁ、とにかく今まで君が話したことが嘘ではない証拠を見せてほしいといったらどうする?」
ニコラが詰め寄る。フランス人にしては傲慢さがなく、むしろ実務的だ。学生時代の専門の哲学や形而上的な価値観の世界に逃げ込むつもりはない。
…君らが昨日そこの窓から見た世界は、二〇〇九年の東京駅、別の世界の景色だ。不十分なら、もう一度見せてやろう。
「あっ、いや、あれはもういいです」翔平は即座に遠慮する。変な催眠術かなにかは正直もういい。あれは気が変になる。するとニコラが別のことを訊いた。
「それから、えーっと、マッカシーは結局何したの?」
…ウィルス戦争の世界に何らかの関与をした形跡がみられる。シュトッカーが体験した世界線にこの男が存在した痕跡があった。つまりマッカシーの存在しない、存在の痕跡のない世界で歴史を修正する。マッカシーは、アジア連邦と連携した可能性もある。要素としては抹消するべき存在である。
「じゃぁ、もう一度訊くけど、僕たちに何をしろっていうの?」
ニコラがもう一度同じ質問をした。わけのわからない犯罪に加担しろなどと言い出したら、その場でジ・エンドだ。
…実は我々にもまだわからないことがある。それを明らかにする。この世界において人類滅亡を阻止するために、必要なことだ。まずは手始めにネズミを捕える。
「はぁ?」
あっけにとられて、思考が停まった。眉間に眉を寄せて、翔平とニコラはお互いの顔を見合わせている。そして「ねずみぃですか?」と同時に声が出た。今まで「真剣」を大上段に構えて将に斬りかからんとしていた箱侍が、急に「真剣」を「中華鍋」に持ち替えて「じゃぁ今からチャーハン作るアルヨ」と言っているくらい滑稽に聞こえた。
「今、ねずみって言ったよね。ぷっ、で、どこでねずみを捕えろって?」
ニコラは、笑いを堪えながら何を言わんとしているのかを掴もうとした。大げさなことではなさそうだと少しほっとする。
…近いうち、パリで開かれるクリスティーズのオークションにネズミが出品される。それを競り落とす。君らにやってほしい。
「おー、そういうこと。でも、なんで俺たちがやんないといけないの。それに、オークションでねずみを競ることと人類滅亡との関係がわからないなぁ」
翔平の素直な疑問だ。お金さえちゃんとあるのなら、比較的お安い御用だ。多分。
…中国清朝の遺物だ。それ自体には大した価値はない。だが、重大な秘密をそのネズミが咥えこんでいる。それを入手する。消えたシュトッカーの秘密を明らかにするためだ。
「ふーん、競り落とせばいいのね。で、予算は?」
安堵したニコラが手続き的なことで協力できるのなら、まぁしてもいいかくらいに考える。
…糸目はつけない。が、百万ユーロまでは行かないだろう。詳細はまた連絡する。
「なにぃ。ちょっと待って」ニコラは即座に反応した。
驚愕の金額だ。ニコラには百万ユーロがどのくらいの金額かすぐわかる。が、翔平は一、十、百、千、万と指を折って数えるが、わからない。仕方なく「結構な金額みたいだけど、どれ位なの日本円で?」とニコラに耳打ちした。
「一億と二億の中間だろ、今のレートで」
「えっ、そうなの?」
しばらく訊いた方も答えた方もあっけにとられていたが、このあと箱は沈黙した。
「あれぇ、黙っちゃったみたいだけど」
何度かそう誘ってみても反応はない。翔平がどうするっ?とニコラに訊いた。もしもし!と話しかけてみても箱は黙秘したままだった。
「何、あれだけしゃべっていて、ホントに黙っちゃったね」
ニコラも腹立たしげに文句を言った。ボディの方もまったく動きだす気配はない。
「あのー、ナオミさん」
翔平の呼びかけにボディの返事はない。「彼女、死んじゃってないよね」と言いながら、今度はナオミの顔の前で手を振った。
「生きているでしょ、微妙に呼吸しているし。それより、あることないこと吹き込まれて、なんだか洗脳された感じだ」
ニコラがそんな気分を漏らす。翔平も嫌なことに巻き込まれたと思った。そしてだんだん気味が悪くなってくる。そもそも俺たちでなきゃいけない理由がわからない。暫くしてようやく、これ以上ここにいても何もやることはないことに気づいた。用があればまた何か言ってくるだろう。眠ったままのボディをそこに残したまま、二人は部屋を後にすることにした。
箱はまた連絡すると言ったから、きっと連絡がくる。この年末の忙しいときに、なんだってんだ。ニコラの声がエレベーターのほうから聞こえてきた。
「だよね、じゃあラーメン、食べに行こうか」翔平が提案する。
「いや、こうなったら焼肉だな」ニコラの大きな声がフロアに響いた。
部屋に静寂が戻った時、それまで微塵も動くことのなかったナオミの肩がぴくりと動いた。どこからはい出てきたのか、大きな黒い蜘蛛が彼女の二の腕を這って項に達しようとして止まった。ナオミの目が開いた。するとそのままの姿勢で手だけを伸ばし、傍らのキャラメル箱を手に取るとそれをゆっくり飲み込んだ。いやそのように見えただけかもしれない。蜘蛛は糸を吐き出すと天井へと逃げた。立ちあがったナオミの瞳に新大阪行き最終、のぞみ二六五号が滑り出てゆく姿が映った。




