第3章 兵の夢 (結) 「境地」
男は重い病の床に伏せている。
ある日東京から古い友人が見舞いに訪ねてきた。暫く四方山話をした後、世の中はこの先どうなるのか、或いはどうあるべきかという話題になった。あれこれ話すうちに、色々な過去の出来事が男の胸中に去来した。縁側の先の白い空を遠い目で見遣ると、男はその思い出を慈しむように、ゆっくりと丁寧に語り始めた。
「俺が四歳か五歳くらいの鼻たれ小僧だった時分のことだよ。後になって親兄弟から散々聞かされたから、記憶の一部になった。ある夏の暑い日に、近所の子供らと水遊びをしているうちに、谷地八幡の池に嵌って溺れ死にそうになった。その時、近所に住む若い女の人が、服を着たまま水の中に飛び込んで、俺を救い出してくれたんだ。でなきゃ俺の人生はそこではい一巻のおしまい、お陀仏よってところだった。命の恩人ってわけだ。よくある話かもしれない。が、話はこれでは終わらない。不思議なことがあるもんだよ。二十年近く経ったかな、その女となんと朝鮮で再会したんだ。勿論、こっちは覚えていないさ。身内でもなきゃ滅多に話題にもならないことだ。それをあっちからその昔話を言うものだから、仰天したよ。あれは真に不思議だった。しかも、随分年数がたっているのに、その人は若い女のままなんだよ。その上、他にも奇跡のようなことを色々やって俺に見せたんだ。ほんとうに不可思議だった。だからこれは狐だと思ったね」
ここでギアが一段上がった。
「キミ、浦島太郎の話、あれな、本当にあるな。なにしろ俺も、一度浦島太郎になった。だがな、俺の場合はちとストーリィが違う。迎えに来たのは亀じゃなくて、わかるだろ、その狐だったんだよ。いや待て、実は乙姫だったんだなあ、その狐」
男は嬉しそうに法螺を吹いている。友人は微笑みながら小首を傾げ「あれ、この人本当はこんな人だったのか」という目で男を見ている。が、そんな友人の視線にはお構いなく、当人の話は続く。
「それでだ、女狐に化けた乙姫さんがだ。こいつがなぁ、中々の洋風の美形で、コーンコーンと鳴きながら『石原さん、あれやってよ、今度はこれやってよ』って言うんだ。でな、言われるとおりにやってみたら、すべてが面白いように上手くゆく。長い年月の付き合いだった。それで最後にね、狐の乗り物に乗せられて竜宮城に連れていってもらったんだよ。それもな、そこは海の中なのか、よその星なのかわからんような不思議な場所だった」
男は、どうだい信じるかいといったふうに横目で満足そうに笑っている。が、まだまだこの話、終わる気配はない。
「それでだ、竜宮ではなあ、ヒラメや蛸じゃない。ちゃんと大勢の人間が住んでいた。不思議なことにそこの人間どもはみな不老不死だというんだ。人間は中々死なんようにできていると。科学技術もたいそう進歩していた。が、人々は享楽に耽り、なんでも欲しいものは物であろうが情報であろうがすぐに手に入った。大昔に大きな戦争があったというが、俺が行ったときはもう平和な世の中だった。でもなぁ、何故かはわからんが、人々はそれほど幸せそうには見えなかったんだなぁ。むしろいつもなにかに追われているか、または何もかも忘れて無為に人生を過ごしているかのように俺には見えた。死なんのだから、そりゃそうよ、なんか気の抜けたサイダーのような味がする、よくよく見てみると何のアクセントもない場所だった。そんな世の中がいいと思うかい? 翻って我らが世を見まわして御覧なさい。この世の中も、甲乙つけがたいほどあちこち病んではいるが、そんな無気力な竜宮城にだけはなっちゃいかん」
男はようやく話を本題に転じようとしている。
「ほら、東京とか上海やニューヨークを見てみなさい。過度に人口ばかりが集中してしまって、生活環境は悪くなる一方だ。おかしな犯罪も増えてきて昨今あたりまえの治安の維持も難しくなってきた。それみたことかっていう調子で、やっぱり人心は荒廃してしまっている。そのうち、国はそうした大都市から地方に向かって次第に機能不全になっていくと思うね」
男は冷めかけた緑茶を一口啜って咳払いした。
「じゃぁどうするかってことだ。難しいね。多分、皆がもっと天から授かったこの大自然にだよ、これによく親しんでさ、昔のような農村生活に帰ってみたらどうだって思う。とはいっても、室町や江戸の時代に戻れというんじゃないよ。今の農業とこれからの工業と、それから科学が一体となって、産業の一極集中みたいな馬鹿なことは金輪際やめて、もっと地方分散みたいなことをやってだな、都市生活のよい点と田舎のよい点を合体すれば、そりゃ都市と田舎の格差もなくなり、国全体がバランスよく発展することができるようになると思う」
友人は黙って聞いている。男の言葉はこの世界への遺言のようにも思えた。
「だからそれが、唯一日本が進むべき道だろうね。そうやって皆でシンプルに生活し、自然と調和しながら余分なものを排除し、高度の科学技術を駆使する高雅な生活を目指すべきだね。日本人がこれを率先して実践し世界にその範を示すことで、尊敬されるべき民族になることができるのさ。これ間違っているかな。できれば、同じ道をアジアに限らず人類の皆が歩んでほしい。今はそう願うばかりだ」
これがこの男が一生を掛けて到達した悟りの境地ともいえるのだろう。
「人が人を殺しあう争いももうなしだ。戦争や紛争の歴史は人類の欲望の歴史だ。しかし欲望って何だ。キリを知ることが大事だよ。空気や水に境目をつけて『ここからは先は俺の空気だ。他人は吸うな』などと言う者はいない。同様に、文明社会が発達し、助け合いという同じ価値観を誰もが共有し、物が空気や水のようにできてくれば『これは俺のものだ』という欲望による争いはなくなる。一方どこかで足りないものがあると、それがもとですぐ争いが始まる。でも、せっかく作りあげた文明物を戦争で悉く破壊してしまったら一体何が残るというのか。人間は腹一杯になったら、それ以上は食べられない。同様に物資が充足し、欲望が満たされれば、人間は利己から利他に向かう。自分だけよければいいのではなく、他人の為になることをする。それがほら、死ぬことのできる人間の本当の生き方であろう」
友人は静かにうなずいた。
「しかし、なんだな。俺が子供の時溺れ死んでいたら、こんな経験もできなかった。やっぱり人生ってものは可笑しなものだ。そこには、幽界からの導きとか、なにか目に見えない力が働いているってことだけは確かだな」
行く雲に 名残惜しきや 冬桜
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二〇〇〇年現在の満洲共和国(一九六八年に共和制に移行)は、人口一億一千八百万人、GDP世界第八位の経済大国へと成長を遂げている。日本と中華民国との貿易額がそれぞれ四分の一を占める。北は黒竜江すなわちアムール川でロシアと国境を接している。国交こそあるもののロシアは依然潜在的な脅威となっている。
二〇〇五年には、アジア高速鉄道が開通した。日本から対馬海底トンネルを通って朝鮮半島、満洲南部、中華民国を縦断し、さらにはヴェトナム、ラオス、タイ、ミャンマーと横断すると、インドのニューデリーに至る。二十五年後にはさらにイスタンブールまでの残り二千八百キロが完成の予定である。アジア一体化という視点からいえば、鉄道網は間違いなく一歩先を行っている。
第3章 完




