第1章 タイムトラベル 第2話 「マルガリータ」
立秋を幾日か過ぎたある日の昼下がり。ここは渋谷のとあるゲームセンターである。入り口には獲物を待つイソギンチャクのようにプリクラマシンが並ぶ。通り抜けて奥へ進むと、一見無造作に配置された何台ものUFOキャッチャーが更に別の獲物を待ち構えている。雑踏の喧騒とは対照的にその奥から聞こえてくるのは異質なシュンシュンという電子音、なにかが炸裂する音。或いは格闘の打撃音、エアホッケーが衝突する連続音、バスケットボールがリングに跳ね返る音。それらが時折あがる若者の歓声とともに間断なく続いている。以前ほどの賑わいはない。暇そうな格闘プレイのゲーム機が三台並び、同じキャラクターがそれぞれの画面のなかで敵との果てしない戦いを繰り広げている。殺されても、リセットして最初からやり直せばいい。コインを持っている限りいくらでも繰り返せる。隣のヒーローは新たな敵と戦うために、次なるステージへと向かってゆく。そうして毎日同じゲーム機の中で無限のパターンの戦闘が繰り返されている。
一番隅のゲーム機に座っているレッドという若者もここの常連のひとりだ。夜はボネットというバーでバーテンダーの見習いをやっている。ここは出勤前の時間つぶしだ。長野の高校を二年の夏休みを最後に中退し、東京に出てきた。自分のやることはなにか他にあるはずだという漠然とした衝動から、後先なく家を飛び出した。母親はレッドが生まれてまもなく失踪した。顔すら見た覚えがない。今、父親が真剣に自分を探しているとも思わない。いや、レッドが出てゆくのを待っていた。そんな気が今ではする。優しい物静かな親父だったが、もともとそりが合わなかったし、いつもどこか他人のような気がしていた。家を出て、もう三年が経っている。
レッドは時々考える。毎日自分の分身となり、スクリーンの中で戦闘を繰り返すヒーローには意思もなければ、人格もない。当たり前だ。が、ちょっと待て。果たして本当にそうなのだろうか。こいつら、ひょっとしたら自分と同じように、考え、悩み、痛みも悦びも感じながら、その二次元世界で人間のように生きているんじゃないのだろうか。時に意のままに動かない奴らにそう感じることがある。得体の知れぬなにかに操られているのは自分だって同じだ。そしてもがいている。そうだ、彼らは平面の中だが確実に生きている。どうして俺はこうして毎日ゲーム機に向かって、有りもしない仮想の世界にはまり込んでいるのだろう。明日もそうだし、明後日も多分そうだ。ゲームのキャラと何も変わらないじゃないか。そう考えると、気が狂いそうになるほど、自分の存在そのものがばかばかしくも思えてくる。
店の客の誰かが酒を飲みながら言ったことがある。
「人は今の瞬間にしか生きることができない。確かに生きていれば明日も明後日も、来年も再来年も来るさ。だが、その未来がやって来た瞬間に、それはすでに『今』なのだ。だから今お前がしていることだけが未来と連なり、次の瞬間それは過去になる」
ゲームにそれほど熱中しているわけではない。三度まで復活を許されたヒーローは、やがてすべてがヤられた。ジ・エンドだ。
ゲームの世界と同じようにレッドは今日もまた同じ場所にいる。だがこの日はなにかがいつもと違った。いつの間にか、何人かのゲーマーがレッドの後ろからスクリーンの中をのぞき込んでいる。そうだ、いつもより調子がいい。そうだ、いいぞ、そこだ!
すると突然、後ろにいた誰かがそうっと彼の肩に手をおいた。
(えっ? 何? 邪魔すんなよ、誰だよ? 今一番いいところだ、まったくもう、やめろって)ゲームに集中しながら、頭の中で文句を並べた。
肩にある手に力が入った。レッドの肩だけが「ぴくっ」と反応する。振り返ることもできない。何だって言うんだ。感触からして細くて弱い女か子供の手だ。レッドはタイミングを見てようやく後ろに視線を遣った。手を動かしたまま一瞬、次にどうするか迷った。そして、もう一度「えっ」と声をだすと今度はしっかり振り向いた。瞬時にゲームはどうでもよくなった。
「こんにちわ」
「…」
レッドの肩に手を置いたのは若い女だった。他の野次馬はいつの間にか消え失せている。レッドは混乱した。マジか…逆ナンじゃねえ、よな? そんなわけはない。見ればたぶん女子高生か、いっても大学一、二年。どうやら婦警ではない。そもそもお巡りに文句を言われる筋合いもない。ビビるなって。にしても、いきなり人の肩に手を置くかぁ? もしかしてニューハーフか。レッドは相手に気取られないふりをしては色々考えをめぐらしてみる。女の手はまだそこにあった。そしてヒーローはヤられた。
「今、お一人ですよね」
女は無表情に訊いてきた。ま、カマでもいいか。スレンダーで清楚で可愛い、そんなインプレッション。これで男だったらそれはそれで感心する。が、どう見ても女子だ。最近は派手な化粧のテクニックで誰でも可愛くなれるが、こいつはエクステンションもつけてなければ、そもそも化粧っけがない。それにつけても「お一人ですかっ」つー言い方はキモい。だいたい話し方が一般人じゃないかよ。レッドがようやく言葉を返した。
「うん、まぁ」
ふぅ、見れば分かるだろう。ここは冷静に。気を取り直してもう一つ言い返した。
「なにか用ですか?」
「ボネットのレッドさんですよね。私、ロクゴウナオミといいます。一度お店でお見かけしました」
「…」
今度はなんと返すべきか迷っている。
「あっ、どうも。ロクゴウさん、ですね。ボネットのお客さんですか」
それで俺の名前知っているわけね。でも、こんな若い子、店に来ないだろ。まー、でも昼と夜は見た目変わるからな。まあ、ありか。しかし、店ではレッドではない。
「ちょっと、お時間あったら、お話できませんか?」
「えっ、まあ、いいスけど」
それなら何もゲームやってる最中でなくてもイーんじゃね。が、そこまでは口に出ない。
「あっちに座っていいですか?」
ロクゴウが後ろの自販機の横のベンチを指差した。そっちで話そうというのかい。上等だ。カップルっぽく見えるから、まぁいいか。見た目悪くないし、何だったら彼女にしてやろうかね。ただ、リードされるのが少し気に食わない。しゃあない、ゲームはおわりだ。グダグダ考えながら、いとも簡単にロクゴウと名乗る女の後にノコノコと従った。
ナオミはベンチに腰掛けると、レモネードの缶を出して、ぼさっと立って見ているレッドにどうぞと勧めた。
「あっ、いいスよ」
なんか慣れてるな。びびるんじゃねーぞ。そう身構えるレッドは訊いた。
「それで、どんな、用スか? お店関係だったら、店のほうに言ってもらったほうがいいかもなんだけど」
意識するなと言い聞かせても、なんかキンチョーするぞ。何を切り出されるのか、気が気でない。
「ちょっと、お願いがあります」
「はぁ?」
ほら見ろ。しかしなぁ、唐突すぎるだろ。背中の一部が硬直する。しかし随分と、ストレートだなぁ。
「なんか、面倒なことはちょっとだけど…」
レッドはそう言いながらロクゴウの横に座った。
「もしかしたら、ちょっとは」
なんだよ、面倒な話かい。ふーん。
「実は、お店に来るお客さんのことでお願いなんです」
続けざまに女は言った。
「はぁ、お店に来る人っていっても…ねぇ」
「山本さんって人なんですけど」
「誰っスか?」
山本じゃわからない。ちぇ、つまんねえ方向だ。投げやりな態度がビミョーに顔に出た。
「山本佳奈さんっていう、インテリアデザイナーの人」
「あんまし、お客さんのことは…」
職業名のバッジを首からぶら下げて飲んでいる人はいないから。そりゃ分からないでしょ。第一偶に来る客のプライベートはわかりようもない。
「そうじゃなくて、これから来る人。お店には以前三度行ったことがある」
「ええっ、なんスかぁ?」
「明日の晩、来る。十二時過ぎに。それにひどく落ち込んで」
「じゃぁ君が、一緒に連れて来るってわけっスね。そうは見えないけどなぁ」
未成年じゃないのかい?と訊きたい。
「ひとりで行きます」
「負け負かんねー」
「え?」
「わけわかんねー、に似た言葉。俺が編み出したギャグ。結構だろ。おべっか幾ら使っても、勘定は負けねえっていう意味。よくね?」
ロクゴウが瞳の奥でクスっと笑う。面白いひと。少しは打ち解けたのだろうか。
「その人、オタクの知り合いってことでしょ」
キミはオタクという呼び方に変わり、レッドは少し調子に乗りはじめる。だが無関心を決めるタイミングでもある。が、ロクゴウは続ける。
「そうでもないんだけど、最近フィアンセを亡くしてしまって、めちゃくちゃ落ち込んでいるから、彼女」
「そんなん、白根ぇ山。ツーか、簡単じゃなくねーか。年増キョーミねえし」
その女の歳がわかっているわけではない。だいぶ普段の砕けたレッドになってきた。
「でも、フィアンセ死んだって思っているけど、確かにそれは事実なんだけど、実は死んでないの」
「なんだかなー。もっとマケマカンネーな」
死んだけど死んでない? 何だよそれ?
「そんなん、男は死んでないとか言って、フツーに教えてやりゃいいじゃん。本人に会わせりゃいいし。俺にカンケーなさそーってか」
たしかにそのとおりだ。
「レッドさん、長野の出身だったですよね。須坂。白根山も遠くないのかな」
急に話題がレッド自身のことに飛んだ。
「はぁ?」語尾が上がった。
何でそんなことまで知ってるんだ?
「ある意味、その人レッドさんの親戚なんです」
「ぷっ、そんなんより、近所の他人っていうんだ。違ったっけ?」
ふざける余裕はあった。頭の回転は悪くない。
「難しいこと知っていますね。でもレッドさんがいいの」
甘えたように言うが、目線は冷たい。
「俺がいいとか急に言われても、そりゃまぁ…あんまりうれしくないス」
レッドはそっぽを向いた。
「その人、ちゃんと誰かが見てあげないと、ちょっと危ないの。あなたの未来にかかわることだし」
「はぁ?」
レッドは何言ってんのという強い目線をふざけたことばかり言う女に飛ばした。
「真面目な話なんです」
「なんか大げさじゃない? それとも噛みつくんか、そのオバサン?」
俺なんか、チゲーよ。こいつサギ師じゃないのかとふと考える。俺、金振りこまねーし。もってねーし。
「じゃなくて、もうどうにでもなっちゃえっていう感じになっているから。元々気のしっかりした人だけに、何が起こるかわからないの」
「なんで、俺なわけっつーの」
「親戚だから」
「急に知らん人が、俺の親戚といわれても。無理っス。でしょ?」
やっぱり振り込めサギだ。でなければ新興宗教の勧誘に違いない。俺は迷ってないぞ、そう自分に言い聞かせる。
「レッドさんのお母さん筋」
「親捨ててきたし」そこは間髪入れず反応できる。
「一度捨てたなら、また拾えばいいし」ロクゴウも口調を合わせる。
「それに、お母さんはあなたのこと捨ててないと思う」
「とっくに捨ててんでしょ。母親なんてものは見たことねーつうの」
余計な母親の話になったのでレッドはなにかを思い出してムカついてくる。第一、おまえにかんけーねーだろ。
「…そうとも限らないよ。とにかく他にいないの、その人を助けられる人」
レッドの胸中を全く無視して女が畳みかける。
「うぇっ、なんでえ? それに、なんか、俺のことよく知ってるよね。やばくね。もしかして警察の人?」
警察も新興宗教も詐欺師もレッドにとっては同類だ。
「私、警察に見える? あなたがそこに居合わせる人だからっていえばいいですか?」
「うーん、でもなんか、そう決めつけんなって」
「レッドさん、そもそもなぜ高校を中退して、東京に出てきたの? 何かやるべきことがあるんじゃないの、ここで。これがそのきっかけ。いえ、もっと深いこと」
「ははぁ、うまいとこ突くなぁ。何でそんなことまでわかるの? 気持ちわるー。オタク、俺の腹違いの妹とかじゃないよね」
ふざけてみるが、確かに何かしなければならない。ただ何をしていいのか未だに分からないでいる。バーテンダーの仕事だって、正直言ってなんでやっているのか、明確な理由はない。「これがそのきっかけよ」と見ず知らずの女に言われると、そんなはず、あるわけねーと思いながらも、それが自然の成り行きと思えなくもない。何故だろう。しかも、頼まれていることがそれほど大げさではないことも確かだ。
「とにかく、明日の夜中の十二時に、その人が来るから、お願いします」
女は頭をぺこりと下げた。
「ちょっちょっとぉ、来るっていったって、会ったことないし、わかんないでしょ」
「あなたの目の前に一人でカウンターに座るから、その人」
「明日、俺十二時上がりなんスけど、第一、俺、フロアだし。給料前の土曜日って、常連以外にはあんまり客は入らないし。うちはそんな安酒場じゃないし。その後は海行くし…」
次の日は前からダチ四人とサーフィンに行くことになっている。有体にいえば、ナンパだ。三日は仕事を休む。
「大丈夫、その日は欠員で早退できなくなるから」
「そんなことあるはずないっしょ」
これから先に起こることをいちいち自信に満ちて言う女の話を聞いているうちに、バカみたいだけど面白いこと言う奴だなぁと思いはじめている。
「お礼はするので」
「えっ?」
良く聞こえないふりをした。しかし「お礼」の言葉でレッドは一気に釣られた。
「えっ、お礼あるの? なんだ、そー言ってよ、最初に。意味分かんないでしょ。へへ、だったら期待しようかな。で、何するんだっけ」
山育ちのレッドは実はサーフィンは気乗りしていなかった。断る口実があるならあったでなんとかなる。
「ありがとう。ただお話すればいいの、でもその人が一度帰るといったら、あなたの奢りでもう一杯カクテルを勧めてほしい。少しだけ引き止めて。それだけをお願いします。その後のことはまた連絡するから。このケータイ預けておきます」
ナオミは赤いケータイをレッドに手渡しながら、立ち上がったレッドの後ろへ回った。
「でも、オレ、あんまりやばいことにはキョーミないからね」
レッドが半分は聞こえないように呟いた。得体のしれない不安が気持ちに混じりはじめている。何こいつと思う。まぁ難しい頼みでもないし、ケータイ渡すくらいだ、俺を只からかっているとばかりもいえない。そう思いながら、はぁーっとレッドはため息をついた。で、そのあともあるのかよ。まぁ礼があるならそれに期待してもいい。
そして「もう少し訊きたいことがある」と言おうとして振り向いた。
「えっ」
気が付くと女はいなかった。あれ、何処行った? あたりを見回したが、女はもうどこにもいなかった。目を擦りながら仕方なく時計を見た。おっ、そろそろ出勤の時間じゃねえか。レッドはゆっくりとゲームセンターの外に出た。外はまだ明るい。今のマジ? うーん、それとも夢だったのかぁ? 手にした赤いケータイをマジマジと見つめた。
翌日の夕方、レッドは出勤するなりチーフに呼ばれた。肩を叩かれながら、チーフが囁く。
「聡史君が熱出しちまってさ、今晩出勤できないって、今連絡があったんだ。悪いんだけど、今晩は残業やってくれないか? どうせ帰ったって大した用はないんだろ」
普通なら、レッドは「いやー、今夜に限って用があるんで」とかなんとか、でたらめを言って丁重にお断りするところだ。が、昨日ロクゴウという女に聞いたばかりの展開に「うえー、まじっスか?」と叫んでしまった。こんなのマジでありかよと頭を抱えた途端、二の腕あたりに鳥肌が立った。
「なんだ、だめかい、じゃぁ斉藤に出てもらうよう電話するしかないか、それとも…」
「あー、いえっ、予想通りだったんで、ちょっと驚いただけです」
「おー、いい心がけしてるじゃない」
「あっ、はい、なんとか、大丈夫です、のつもりです」
支離滅裂になりながら「マジかよ~」と今度は三回心の中で叫んだ。
「そか、じゃぁわるいけど、頼むよ」
「あっ、はい、わかりました」
「どうせ聡史はデートかなにかだろ、知ってんか? あいつが急に熱出すなんて、ザけんなだろ。今日は十一時過ぎたら中に入って、カウンターに着くお客だけ粗相なくカバーしてくれればいいからさ」
「了解っス。だいたいそんな予定でしたから」
後半はチーフには聞こえないように呟きながら、心の中で雄叫びをあげた。カウンターに入れるってのは、毎度あることじゃないし、バーテンダーとしてある程度認められたということだ。いや、そうじゃないな。というか、周りがそういう目で見てくれるということが第一格好いい。でも、ホントにそうなんか? 少し考えて、ぶるっと首を横に振って、妙な考えを振り払った。
「面白いねー。友達思いはいいな。今度あいつには昼飯くらいおごらせないとな」
チーフは言いながら、欠員の問題が片付いたので軽く胸をなでおろした。レッドは「聡史さんと昼に飯食いに行くことなんかないっスよ」と言いかけて止めた。それより、ほんとにあの妙な女のいうとおりのことが起こったな。すげーほらこのとおり鳥肌が立っている。じゃ、オバサンも来るってことか。来たら、ホントにちびるぜ、俺。あいつ何者だよ。レッドの頭の中はそっちのほうに飛んでいる。
十時過ぎから店は少々混みはじめてきた。
一次会が終わったサラリーマン仲間やら睦まじいカップルが次はどこに行こうかと相談を始める時間帯だ。大体今時のサラリーマンのグループは、立ちテーブルに着く。肘付きながら、お互いの距離を縮めて、愚痴を言いあったり、年配者は週末の趣味の話に花を咲かせたりする。大人のカップルはカウンターを好む。正対するより、横向きになったほうが内緒話するときに都合よく、お互いの眼差しが重なりやすい。ひとりで来る中年の男客は大概風俗帰りか、さもなければ馬券が当たって気が大きくなっている連中だ。最近女子会も増えてきたが、女がひとりで来ることはまずない。有るとすれば、この上の階のパブのお姉さんたちが、店が開いた一時過ぎあたりにちょっとした待ち合わせで立ち寄るくらいだ。ふらっと来て飲みたい酒だけさっと飲み、さっと帰るスマートな客は稀だ。この街の色だろう。この晩もそんな典型的なお客らで店は賑わっている。週末、店は夕方六時に開き、朝の四時半に閉じる。給料日前といっても、やはりここは渋谷だ。
結衣と別れた後、タクシーを拾った佳奈は渋谷でクルマを降りた。そして、あてどなく、弱々しい足取りで歩き出した。龍一との思い出の街だ。もしかしたら、彼に会えるかもしれない。いや、きっと会える。また、堂々巡りの苦悩の思考が始まっていた。
なにか事情があって、一時的に私の前から姿を消しただけ。すぐに戻ってくる。道行く人の後姿に龍一の面影を追いかけた。いるはずもない。そんなことは分かっている。でも我慢ならない。
さもなければすべてが嘘。日本中の人間がグルになって、彼女をドッキリに引っ掛けている可能性が高い。彼は今でも、隠しカメラか物陰から私を見て、番組スタッフと一緒になってクスクス笑っているんだ。なんて意地悪。だから、こっちも不意に後ろを振り返る。むこうが油断したところで彼のトリックを見破ってやる。軟派のお兄さんが時々後ろから声をかけては、女の形相を確認して去ってゆく。もういい加減にして、出てきて! お願いだから! 結衣との食事で少し紛れかけていた気持ちがまた奈落のそこへと転がりはじめた。
その時。「あっ、龍一!」人ごみの中、横断歩道を渡る龍一がいる! どこ向いて歩いているのよ! 私はここ! どかんと誰かにぶつかる。あっと言ってヒールの片方が脱げた。しかし誰も佳奈に気を留めるものはいない。彼さえも駆け寄ってこない。とめどもない人の波はやはり絶望の未来へと続いている。
同じところをどのくらい歩きまわっただろうか。ふと気がつくと、以前龍一と何度か来たことのある思い出のバーの前に立っていた。雑居ビルの二階の階段を上がったところだ。何故最初にここを選んだのかわからない。紫色の看板にボネットとある。ゆっくりと階段を上り、入り口の扉を開けた。龍一がいるとしたらここかもしれない。外とは違う濃密な喧騒がある。タバコの煙で藍色の店内の奥がすこし霞んでいる。タバコは好きじゃない。「いらっしゃいませ、何名さまですか」と愛想笑いを浮かべた従業員の表情が佳奈の心を揺るがす。何人でもいいじゃない。
一人ですと伝えて、入り口近くのカウンター席に人を待つような仕草でゆっくりと座った。乾いたグラスがいくつもカウンターの上に釣り下がっている。ふと目をやると、以前龍一と座った奥のテーブルには何の悩みもないサラリーマンが三人暢気にウイスキーを飲んでいる。イギリス人かオーストラリア人のデブの標本のようなグループがこっちを窺っている。時計の針はいつの間にか十二時を指していた。みんな今夜はどこに帰るのだろうか…。
「なんか今日は気分がいいです」
佳奈はほんのり紅くなった頬を隣の龍一に向けた。グラスに沈んだサクランボが佳奈を見て笑う。
「大丈夫、ちゃんと送りますから」
龍一が微笑む。ポスターのダリの髭がピンと動いた。そして冷やかすように目を剥いて二人を一瞥する。
「そういう意味じゃないんですけど、最近ずっと仕事が忙しくって、今夜みたいな楽しい時間が世の中にあるってこと、ずっと忘れていました」
よそのテーブルの客のグラスが合わさる音が心地よい。龍一はここが決め所とアタックした。
「みたいだね、よかったらいつでもお付き合いしますから、声をかけてください」
ウェイターが龍一のペーサーを交換した。その作業を見つめていた佳奈が応酬する。
「本気にしちゃいますよ」
「あなたのなんていうか、普段は強そうに見えるけど、ふと見せる弱気なところが、なんていうか惹かれるんですよねぇ」
殺し文句じゃないか。龍一はどうだと言ったような眼差しを佳奈に向けた。
「私は葛城さんのいつも堂々として、自信に満ちているところが、すごく羨ましい」
佳奈も負けじと、身も心も龍一の前に投げ出しますみたいなことを言う。考えすぎか、いやそれでも二人はやはり相性がいい。
「僕たちはなんか仲良くなれそうですかね」
「仲良くしてください」
ちょっとした沈黙は同じことを考えていたからに違いない。勝負の行方は確認できたから、もう全力疾走はしなくてもいい。二人は流しにかかる。
「ほんとに仲良くしましょう。でもそれって、酔った勢いで言ってるんじゃないですよね。今度会ったとき、それって何かしらみたいな態度、止めてくださいよ」
「うーん、そうかも。今度確かめてください」
「だよな。えー、でもどうやって確かめるんだろう。来月こっちに戻ってきたとき、一度ドライブにでも誘ってもいいかな?」
わーぉ! 後ろで歓声が上がった。二人して振り返る。関係ないことで後ろの客らが盛り上がっていた。あっ、私たちのことじゃないよね。佳奈は勿体ぶって応える。
「都合が合えば」
「なんかはぐらかされている感じだなぁ」
それってOKっていう意味でしょという顔をしている龍一。すると二人の距離が縮まったのを祝福するかのように、さっきまで暗いお店だなぁと思っていた周りの雰囲気が急に華やいだ。今度はダリも笑っている。
あの時はそんな会話をして遊んだっけか。すでにお互いの気持ちは決まっていたような気がする。でも、もうあれは幻でしかない。佳奈はまたぐるぐると天井が回るようなめまいを感じながら、絶望の断崖から深い闇の底へと突き落とされてゆく自分を感じた。
「いらっしゃいませ、お飲み物は何になさいますか」
それまで、他の客のオーダーを取りながら、じっと佳奈の様子を横目で追いかけていたバーテンダーが声をかけた。女性の一人客は珍しい。チーフも何気なく客の様子を伺っている。酒乱女は始末に困るぞ。
「何でもいいです。ああ、でもさっぱりしたものください」
「カクテルでよろしいですか」
「そうね、じゃぁタイムマシンっていうカクテルありますか?」
「ちょっとカクテルブックを調べてみます」
バーテンダーは言ってみたが、そんなカクテル出てくるはずもない。あったとしても手には負えないだろう。
「ないみたいですね。今度調べておきます。代わりにマルガリータはいかがですか」
「じゃぁ、それでいいわ」声を出した分、佳奈は少し落ち着いた。
「かしこまりました」バーテンダーもほっとして、見えないところで一息吐き出す。
「今日はお待ち合わせですか?」
シェイカーからグラスにマルガリータを注ぎながらバーテンダーが訊いた。
「そんなんじゃ…」ないとまでは言わなかった。もうこの世にはそんな人いないし。肉体から魂だけ抜け出て、何処かに飛んでいってしまいたい。壁に掛かった斜め前のポスターを見たまま黙り込んだ。
唇をかんで髪を掻き上げながら見せる苦痛にゆがんだ女の表情がバーテンダーの視界に入る。店の中はまだ大勢の客がいて、笑い声やグラスのぶつかる音でざわついている。悲劇のヒロインが注目を浴びる隙はない。
「失礼しました。どうぞ」
バーテンダーは女が何を言ったかうまく聞き取れないまま、グラスを佳奈の前においた。
ひんやりしたレモン色のカクテルを手にすると、佳奈は二口でそれを飲み干してしまった。塩気とともに、一気にテキーラが佳奈の体の中を満たすように広がっていった。バーテンダーは唖然としながら「なにかおつまみはいかがですか」と訊いた。すると「もう一杯ください」と佳奈は応える。
あまり話しかけられたくないといった態度だが、バーテンダーは女がロクゴウの言っていた山本佳奈であることをまずは確認しなければならない。偶然の偶然ということだってある。何を話したらいい?
「ここのところ、ジャイアンツは強いですね」
何言ってんだ俺。やっべぇ。
「…」
女は視線も上げす聞き流した。
「あの、ナオミさんという若いお客さんがよく来るんですけど、お知り合いですか?」
だいぶこっちがましか。佳奈はどうでもいいバーテンダーのどうでもいい質問にどう答えるか考えた。
「ナオミさん? 誰だろう、知らないと思う。知り合いでここに来る人はもういないから」
一瞬沈黙の表情を見せた女は、半ばふてくされたような言葉を返した。いちいち龍一に関連付けた表現になってしまう。が、相手にはわからないこと。
「そうですか、いつもお仕事は遅いんですか?」
こういうときプライベートな質問はあまり直接仕掛けないほうがいい。接客マナーだ。少しずついこう。俺もわかってきたな。
「遅いっていえば、遅いけど」
いちいち訊いてくれなくってもいいわよ。空のグラスを持つ仕草がそう言っている。
「テレビ局関係の方ですか? 時々お一人でこられる方はそちらの関係が多いんですけどね」
でたらめだ。どうでもいいことだろ。が、女は反応した。
「へー、そうなんだ。私は、インテリア関係」
バーテンダーはゴクリと唾をのんだ。なんてこったぁ、こりゃリーチだ。
二杯目のマルガリータをそっと佳奈の前に出しながら、
「マルガリータの由来をご存知ですか?」
と危険な質問をぶつけた。
「えっ、別に」と首を振る女に、
バーテンダーは、
「実は死んでしまった愛しい恋人を慕う為につくられたお酒といわれているんです」
と追い打ちをかけた。
死んだのは女のマルガリータの方だが本当である。あまりないカクテルの知識をひけらかした。もしかしたらビンゴだ。
「それって…」
今まさに龍一を失い、そして彼を偲んでいる。いや違う、偲んではいない。私は只待っているだけ。
「すみません、お客さんには合いませんでしたね」
「…」
「他のなにか如何ですか?」
少し話し方がくだけた。
「フィアンセ、死んだの」
「あっ、はい、マルガリータですね」
「ちがうよ」
「えっ、すみません、なにか余計なこと言ってしまいました」
バーテンダーは絶句する。が、すぐに気を取り直した。
「まぁいいの、誰かと話しているほうが、気分が紛れるかもだから。それに、いずれ現実は受け止めなくちゃならない」
「そうですか、お客さん、お強いんですね」
酒のことだろうか? 思いもしない言葉が口をついた。だが、これ以上何も話せない。佳奈は二杯目のマルガリータもまたもあっという間に飲み干してしまった。
「ありがとう。少し気分が晴れたから、お勘定、お願いします」
「えっ、あっ、ちょっと待ってください。お詫びに、僕のおごりでもう一杯ご馳走させてください」
佳奈はバーテンダーの顔を初めて見上げた。
「えっ、お詫びって、何も、そんな大丈夫です」
「いや、そんなこと言わずに、僕、友達からはレッドって呼ばれていますけど、本名は桂木っていいます」
佳奈の息が止まった。確かに名札をよく見ると「桂木」とある。
「いつからここで働いているんですか?」
「一年程前からです」
「…私のフィアンセもカツラギっていうの。死んじゃった人。でもこれもなんか縁があるのかな」
「お客さんのお名前訊いてもいいですか?」
「私は山本」
「えっ、もしかしてカナさんですか? 山本佳奈さん?」
「えっ、なんで?」
「僕、霊感あるんです」
「嘘?」
「はは、嘘です」
「だよね」
「実はついこの間、カツラギさんという人が結構遅い時間に来て、僕と同じ名前だったんで、いろいろ話していたら、その人の恋人の話になって、その人の名前がカナだったんで、覚えていたんです」
嘘だ。しかし、不思議の世界の入り口に立ったような気がして、レッドは興奮しはじめている。こんなことが、あるんかよ。
「記憶力がいいんですね」
なんだ、霊感なんて嘘よね。でも、龍一が来たっていつの話? そんなことを考えながら佳奈は話に釣り込まれた。とにかく龍一にかかわる話ならなんでも聞いて確かめたい。
「実はお袋の名前が同じカナなんです」
この際こじつけは何でもありだ。が、母の名前は本当だった。
「なんだかおもしろい。そんな偶然って重なるときは重なるね。じゃああなたのお母さんはカツラギカナっていうんだ。カツラギカナさんに乾杯しなくちゃ。じゃぁ、一杯ご馳走になろうかな。こういうの、シンクロニシティっていうんだよね」
「えっ? シンクロ? あ、いえ、是非、どうぞ。お願いします」
そう言いながら、レッドは、よしミッション達成だと小さくガッツポーズした。なんのミッションなのだろうか。それはこの際、どうでもよかった。
その時、チーフが「ちょっと」とレッドに手招きした。一人の客ばかり相手してないで、もっと周りをみろという小言だった。フロアからのつまみのオーダーを出していなかったのだ。
「あっちゃ、まじーな」
慌てて注文を処理したレッドが振り返ると、佳奈の姿は既にそこになかった。あれ、なんてこった、まだ俺の奢りの三杯目出してないぞと思いながら、頭を掻いた。仕方なくコップの水を口に含みながらあたりを見回した。するとなんと、いつの間にかカウンターの反対側に、ロクゴウが座っているではないか。思わず、口に入れた水をそのままゲボっと吐き出してしまった。女は、じゃぁこれ、と言って封筒をレッドの前に差し出した。謝礼だ、きっと。レッドは周りに気づかれることなく、そっと封筒をズボンのポケットに押し込もうとする。こんな簡単なことでいいんかい。世の中ちょろいもんだとレッドは悪びれて見せた。が、ナオミはしまう前にその中を見ろと合図した。レッドは恐る恐る封筒の中をチェックする。何だ、金一封ではないじゃないか。代わりに入っていたのは何かが書いてある紙片。次なるミッションである。
それを読んだレッドは呻った。
「えーマジか。そんなのできねーよ」
若い女を見返した。ロクゴウは、君なら出来る、といった視線をレッドの瞳の奥深くに送り続けている。そしてレッドの前に別の封筒を差し出した。
すでに夜中の二時を回っている。佳奈は自宅マンションの前でタクシーを降りた。少しお酒が入ったせいもあって、今なら龍一のそばに行けるかもしれないと考えていた。数日前、行きつけの内科で睡眠薬を処方してもらった。心の準備は出来ている。何故か佳奈は漠然とそう思った。傍から見たら、何を早まったことを、何を無意味なことを、と言われるかもしれない。そんなことはわかっている。選択肢の一つとして念頭に置いている。それだけのこと。そういえば聞こえはいいのだろうか。
カードキーを翳してエントランスのドアを解錠した。不安定な足取りで、ホールを通り抜けようとすると、いきなりどこから飛び出してきたのか一人の男が行く手を塞いだ。
えっ、龍一? やっと迎えに来てくれたのかな。いや違う。じゃあ、誰? ちょっと待って、そこに人、いたかしら。邪魔しないで。一瞬のうちに色々な感情が走り抜けた。
「さっきはどうも」男の声がした。
「はい?」
さっきはどうもって、佳奈は充血した目を少しむき出すように相手をみた。誰だっけ? 考えた。
「すこし話したいことがあるんスけど、いいスか」
あっ、何であなたがここにいるの?
「はぁ?」強烈な警戒心が頭をもたげた。
「ちょっと話できますか?」
「ごめんなさい、こんな時間だし、急いでいるので、今度にしてください」
「あっ、そういうのじゃなくて、龍一さんのことでなんスけど」
佳奈は男の顔を不潔なものでも見るかのように睨みつけた。
「私の後つけてきたの? どうしてあなたがこんなところにいるの?」
佳奈の目の前にいるのはさっきの店のバーテンダーだった。
「お客さんが忘れ物したので、届けてくるっていって出てきました。店ももうお開きだし」
「…だって、そうじゃなくて、あなた、私がどうしてここに住んでいるって知っているわけ? それに龍一のことだとか言ったって、彼とは数回お店に行っただけ。全然関係ないでしょ」
「確かに俺も事情、そんなに知っているわけじゃないんです。ちょっと座ってもらってもいいですか」
お店で少し飲んだだけなのに、そこのバーテンダーが何故ここまで追いかけてくるわけ。私が心の弱みを見せたから? ふざけないで! ここはセキュリティもあるんだから。勝手は許さない。とにかく座る必要はないでしょ。佳奈は心の中で静かにまくし立てた。
「このままでいい。さっきはご馳走様でした。それで、あとは何の御用ですか」
完全な女の防御体勢をとる。
「実は、人に頼まれたことがあるんです」
「はあ? …でも意味が分かません」
「龍一さんの仲間があなたのこと探しているっていうか、助けを必要としているっていうか…、俺も頼まれたんです」
「えっ、もっと意味が分かりません。変な考えなら、警備の人呼びますけど、いいですか」
佳奈は一気にむかついてくる。言い回しが一々いやらしい。
「そんなんじゃないんです。もっと込み入った話なんスけど」
レッドは頭を掻き掻きしつつ(よわったなぁ)と思いながらも、ここは引き下がるわけにもかない。
「彼は死んじゃった。もう知ってますよね」
もう一回一から話さなければ分からないっていうの、このお馬鹿さんは。佳奈はさらに怒りがこみ上げてくる。そんな女を見ながら、なんで俺がこんなことまでしないといけないんだとレッドも思っている。
「さっき聞きましたけど、実は龍一さんは死んでないっていう人がいるんです」
レッドはまた頭を掻きながらおかしなことを言った。
「そうね、私もそう思う。さっきも街でみかけたし」
支離滅裂なのはわかっている。でも佳奈は自分以外の誰かにもそういって欲しかった。目に涙が浮かんでこぼれそうになる。
「会ってみるっていうのはどうですか?」
「何言ってるんですか。冗談はよしてください」
そう言わざるをえない自分が嫌いだ。
「マジです」
レッドはめんどーくせー、なんで俺がここまでとまた心の中で思いながら、ため息をついた。しかし説得しようとしている。成功報酬らしきものをさっきナオミから受け取ってしまっているのだ。うまくいけばさらに、と鼻っ先にニンジンをぶら下げられている。もう一押しでどうにかなるか。いや難しいだろう。自信は全くない。そこまでして目先の金が欲しいのか? が、佳奈は佳奈で暴走しはじめる。
「会えるものなら、あわせて頂戴」
レッドに食ってかかった。誰かが撮った過去のビデオの中に彼がいるのは分かっている。けど、つらくてそんなビデオすら観ることができない。そう、そんな残酷なこと、自分ではできっこない。
(いつかは天国で会えるよね)
無意識に何度もそう自分に言い聞かせているのだ。
「カナさんがその気になれば」
レッドは、おや、これはなんとかなるかも、と思いはじめた。
「まだ死なないわ、それに龍一でなくちゃ駄目」
さっきまで死のうと考えていた自分にはっとする。
「龍一だよ」
レッドの少し語気が強まった。駄目を押さねば。
「名前が同じでも、他の人じゃ駄目なの」
なんでこんな話をこの子にしなくちゃならないの。苗字が同じだって、あんたじゃないのよ。
「俺なら、てか、俺じゃないけど、会わせることが出来るっていう人知ってるんです」
「代わりじゃ駄目って言ってるでしょ。やめとくわ」
「本人でも?」
「私、そういうのダメなの」
当たり前だが佳奈にはそうだよねと信じる理由も根拠もない。こいつ、何が目的?としか見ていない。冗談やめて早く戻ってきてと願っていたのに、どれだけ自分に嘘をついていたのかを思い知る。
「いやー、そういうんじゃないっス」
女の意図を感じ取ったのか、レッドも態度が後ずさりした。
「…」
やっぱり、これ以上関わるべきじゃない。そんな考えが露骨に佳奈の表情に出た。
「なんか信用されてないスね。また今度にしまスか」
「そうね、私のほうからは次はないです。でも龍一に会いたくなったらお願いしに行くわ。お店にね」
こんな形で赤の他人のあんたが付きまとうのは止めて欲しいと言っているのだ。
「あー、でも、ほんとっス。いつでも龍一さんに会いにいく決心ができたら、ここに電話ください。あーってか、ある人からの伝言っス」
そう言うと、発信履歴を見せながらケータイを佳奈の目の前に差し出した。えっ!という佳奈の表情が目のふちに表れた。
「俺、レッドっス。あ、それから、これ証拠の写真です」
そう言いながらレッドはケータイの画面を佳奈に見せた。佳奈も思わず覗き込んだ。
「えっ?」
今度は声が出た。最初はよく分からなかったが、そこに確かに龍一らしき男が写っていた。でも服もヘアスタイルもいつもの彼じゃない。馬っ鹿じゃない、こんなトリックでは騙されない。知らない若い女が腕を組んで龍一らしき男性と仲良く写っている。龍一ってもしかしてホントは双子ってこと? そんな妄想に似た疑念が湧いた。佳奈には理性的な判断力はもう残っていない。だから一瞬本気でそう思った。夢の中なら何でもありなのだ。夢に不思議はない。そうだ彼には双子の兄か弟がいる。でも、それは兄弟であって、やっぱり龍一じゃない。そうか、こんな代物見せられたぐらいで私が慌てる必要はない。
また、別の考えが頭をもたげる。それとも、やっぱり死亡事故って偽装ってこと? それでも理屈はとおる。少なくとも佳奈には。じゃあ私を見捨てたってことか? でも、ご両親も妹さんだって。あの人たちもグル? いいえ、そんなこともっとありえない。なんてこと私は考えているの。目の前にいるレッドという若い男のほうが百倍怪しいっていうのに。
今、佳奈は夢と現実の狭間にいる。
「横に写っている人はフィアンセってことっス。あっちでは、の話ということっスけど」
そんな佳奈の神経を逆なでするように、レッドが追い討ちを掛けている。何言ってんのよ。「あっち」ってどこよ。フィリピンとかアルゼンチンとか言うんじゃないでしょうね。佳奈の目は泳いでいる。
「とにかくカナさんをお連れしろといわれているんス。お願いします」
一度はやめときますかと言ったレッドは頭を下げて再攻勢にでた。金の為とはいえ、年増相手に俺はなんでここまでするんだ、と思いながら、レッドはレッドでなにかと戦っているのだ。
「龍一さんをサポートできるのはカナさんだけだって言ってるんで。落ち着いたら、電話ください」
龍一をサポートするのは私に決まっている。何を馬鹿なことを言うの。佳奈はむっときた。
「もっと詳しいこと、ナオミという女の子が説明するって言ってるし。で、俺はただのパシリですから。じゃぁそろそろ行きます」
佳奈が黙っていると、ようやくレッドはすごすごと出て行った。
私の心の中を蹂躙するだけしておいてなんだって言うの! 取り残された佳奈は我に返ると考えた。しかしどうやってあいつマンションの中に侵入したんだろ。何が狙い? 写真の女の人は一体誰? 私以外に龍一に恋人がいたなんて考えられない。物理的に不可能だよ。「あっち」ってどこのこと? 写真は合成にしても、意図が分からない。龍一は誰かに軟禁されて意にそぐわないことを強要されているって言うの? それで、私の助けが必要? そうなの? じゃぁ、この間の通夜とお葬式は、あれは何? 遺体は彼じゃないっていうこと? 佳奈は混乱した。すべてが夢で、現実には生きていてほしいという妄想に似た強烈な願いがあるからこそ、間違っても考えがひとつに収束することはない。一人になるとまた涙が溢れてきた。私の気持ちを弄ぶのはやめてほしい。龍一は、葛城さんはもういないんだから、あんたらには関係ないでしょ! 誰か一ヶ月前に時間を戻して頂戴!
やっぱり、奇跡を望むべきじゃない。現実と向き合わなければ。潜在意識のどこかから、そんな声が聞こえる。そしてまた長い一日が終わろうとしている。いや、また新しい一日が既に始まろうとしている。でも、一度眠りについたらもう二度と目覚めなくてもいい、もしそうだったらどんなに幸せか。朝起きて再びこの現実を再確認するプロセスを繰り返すなんて残酷すぎる。佳奈は呆然とし、よろけては壁にもたれ、壁にもたれてはよろけながら、どうにかして暗い自分の部屋まで辿りついた。
夢を見た。
色彩の判別がつかない。そこは地獄だったかもしれない。暗闇の中に、巨大な蜘蛛のような眼だけが光るどす黒い化け物がおり、そいつが吐き出す粘膜で佳奈はみるみる簀巻きにされてゆく。そして有無もなく針の山に突き落とされた。針が刺さったと思った瞬間、手足にぐっと力が入り、気がつくとそこは下水道の中のような汚泥の沼だ。悪臭が鼻を突く気がした。そして頭から沈んでゆく。息ができない。見知らぬ誰かが同じように沈んでゆく。汚泥を飲んだ。苦しい。すると死んだ父が佳奈の両足を持って逆さまに引きずり上げた。頭に血が上る。が、次の瞬間気がつくと夕闇の空を飛んでいた。そんな、飛べるわけないと思った瞬間、みるみる失速して、真っさかさまに落ちてゆく。知らない男があざ笑ってこっちを見ている。硬いコンクリートの地面に衝突しそうになったその瞬間、両足を思い切り突っ張った。
その勢いで佳奈は目覚めた。
肩が冷たい。エアコンの風でカーテンがゆらゆら揺れている。だらしなく涎で口元が湿っている。空はすでに明るい。頭が痛い。恐怖の余韻が全身に残っている。手を伸ばして時間を確認することすら出来ない。いやな夢だった。あれ、龍一はどこ? いるはずはない現実。しばらく瞬きもせず天井の一点を見つめていた。そして決心した。嘘でもいい。確かめたいこともある。龍一に会わせてくれると言ったあいつに電話してみよう。なにか私の知らない龍一のことがわかるかもしれない。それだけでもいい。何かにすがりたい。そうすると、少しだけ、生きている意味ができたような気がした。小さすぎる目標、でも今はそれ以外、この世界で彼に関わる術はない。
誰かが言った。
そもそも、三千世界とかパラレルワールドとか、そういうふうに宇宙の数が無限にあるのなら、そのうちの一つや二つどうなったって構いやしないじゃないか。そう、無数なら、そのうちの半分くらいはどうなったって、誰も困りはしない。
誰かが反論する。
えっ、ホントにそうなのか? いや、そうはなかなかいかない。何故かって? 第一、その別世界にだってお前がいれば、お前の親もいる。子供もいれば友達もいる。彼らにとってそこだけが唯一自分の存在を実感できる世界じゃないか。それを、無限のうちの一つや二つといって、簡単に他人事と考えていいのか。切り捨てられる連中とは、実は今ここにいるお前たちのことだ。つまり消えるのはお前だ。
だから、そうなる前に、一度想像してみるといい、或る時人類が死滅して奇形の植物とゴキブリだけしか棲まなくなった地球を…。ゴキブリは夏の夕暮れの情熱も、冬の凍てつく朝の侘しさも感じることはない。月も星も存在しない、そんな世界の、無限に広がる宇宙に果たしてどんな意味があるのか。人類がこの世から消えていなくなったとき、宇宙が宇宙である意味はなくなる。ゴキブリが無限の宇宙を認識すると思うか。あってもなくても同じと言うことは、それはないに等しい。
広大な宇宙に知的生命体は人類しかいない。何故ならそれを創造しているのはお前たち自身なのだから。創造主は人間の心の中にこそ存在する。すべてはお前の頭の中で生起し、そして消滅している。お前がいなくなれば、宇宙も消える。
佳奈はレッドが置いていったケータイをバッグから取り出すと手に取った。躊躇なく一つしかない短縮キーを押す。呼び出し音が三回鳴った。
「もしもし」誰かが出た。
「あれ?」
女の声だ。もしかして写真の? 一瞬そんな思いがよぎる。いや、違う。そうか。レッドの言ったことを少しだけ思い出した。
「…佳奈さんですね」声はそう言った。
「そうです。あの、レッドさんは、いらっしゃいますか」
「いいえ、彼はいません。ですが用件は分かっています」
声は若い。そして清涼な感じがする。佳奈の警戒心が少しだけ解ける。
「失礼ですが?」
「ロクゴウといいます。電話ありがとうございます」
「…」
聞いたことのない名前だ。いや、レッドが言っていたかもしれない。女は続ける。
「レッドさんには、私からお願いして昨日はあなたのところへ行ってもらいました。あれでも怪しい男の子ではありませんので、安心ください」
「え? ああ、そうなんですか」
「あれでも」という表現が佳奈のツボにはまり、クスッと笑った。
「葛城龍一のことを聞かせて貰えるって伺ったものですから、どういうことなのかなって、もう少し分かるように話を伺おうと思ってお電話したんですけど…」
「はい、わかっています。あなたにとって、少し衝撃的なことになるかもしれませんが、きっと知って後悔はないと思います。それから、お願いもあります。今から、またレッドさんに迎えに行ってもらいますから、少し待っていてくださいませんか。二時間後です。追って詳しくお話しします」
「そんな急ですか」
また少し不安が頭をもたげる。が、今の佳奈に失うものは何もない。
「そうです。大丈夫ですか。すでに、いろいろ進んでいますので、早いほうがいいのです」
すでに何かが仕組まれている。
「はぁ、おっしゃることの意味がちょっとわかりませんが、何が進んでいるのでしょう?」
「未来が、といったら分かりにくいでしょうか。レッドさんが伺いますので、出かける支度をしておいてください」
ロクゴウがそう言うと電話は切れた。
レッドは丁度二時間後に佳奈のマンションにやってきた。マンションの玄関のロックを解除してやると、やがて佳奈の部屋のベルが鳴った。何の迷いもなくやってきた。ドアを開けるとレッドがいる。一体この子は何なんだろうと、改めてマジマジと若い男の顔を見つめた。レッドは悪びれる様子もなく、決心ついたんですね、じゃあ行きましょうか、心配しないでなどと慣れないセリフを佳奈の前に並べた。佳奈は彼の後ろに従った。外に出ると路上に停めてあったクルマまで佳奈をエスコートする。ロクゴウにどう佳奈を扱うか言い含められてきたようだった。
エンジンが掛かるとクルマは急発進した。そして芝公園から首都高に乗った。右へ左へと車線変更しながら混みあう環状線を走り抜ける。どうやら北へと向うようだ。
「キミ、いいクルマ持っているんだ」
車窓に映る都会の景色をみながらしばらく黙っていた佳奈が最初に口を開いた。
「いえ、これは先輩ので、借りてきました」
新型のフェアレディZ。確かに若い割にいいクルマに乗っている。が、とりあえず納得する。
「電話貰えて、よかったっス」
レッドが付け加えた。成り行き上、何故かほっとしている。佳奈にもそれは伝わった。
「電話に出たロクゴウっていう人、あなたとどういう関係なの?」
クルマが北池袋を過ぎた頃、佳奈は事態が勝手に動いていることの不安を隠すようにレッドに尋ねた。
「俺もつい最近知りあったんス。山本さんこそ知り合いじゃないんスか」
「知らないよ。さっき電話ではじめて話したんだから。キミの彼女とか、お姉さんとかじゃないの」
「いやいや、違うっス、でもちょっと変わってるんスよ。俺より若いし、たぶん」
「キミも変わってるよ。大体さっきのあれは何? あり得ないでしょ」
「すみません、全部ナオミの言うとおりにしているんです。あっ、ナオミっていうんです、あいつ。で、山本さんが昨日うちの店に来ること、最初からわかってたんスよ」
「えっ、何それ。どういう意味なの?」
「いやぁ、わかりません。しかも、来る時間と、座る場所までっスよ。マジで、超能力ですよ」
「どうしてそうなるの。私のことつけ回してでもいるってこと? それに、昨日あそこへ行ったのは偶々だから、それはありえない」
「けっこう、色々知ってるみたいスよ。俺のこともよく知ってるし」
「なんか不気味ね、やだなぁ」
「かなりぶきみっス」
「キミも相当不気味だよね…。で、なんでその人に拘わっているわけ?」
バイトかな?とはさすがに言いにくい。
「…俺、時々考えるんスけど、一番の、最初の人類って誰だったんスかね」
突然レッドは話題を変えた。ただ頭の中では繋がっているようだ。
「えっ何、急に。やっぱり変」
「あー、すいません」
「それ、アフリカの洞窟か何処かで骨が見つかった類人猿で、確かスージーとかルーシーとかいったんじゃないかな」
しばらく考えた後、佳奈がフォローした。
「やっぱ、さすがだね。知ってんだ。類人猿って人間なんスか?」
「いい質問だね。たぶん答えはノーだ」
「結構いい加減スね」
何がいい加減なのかはよくわからない。すると「ぶぅ」とわけの分からない吐息を吐きながら、佳奈がクスっと笑った。
「あっ、今笑ったでしょ」
「全然」と言いながら、また、クスっと笑った。
「ぉばっ、おっ山本さん、そうやって『にこっ』としてたほうがいいっスよ」
ああ、この人笑えるんだ、と思う。
「あー、今オバサンって言おうとしたでしょ。佳奈でいいわよ」
佳奈のことをそう呼ぶ龍一はもういない。
「ちっ、違うっス。おばけって言おうとしたんです」
「なにー、もっとひどいじゃない」
「お化け見たことありますかって訊こうとしたんです」
「な、わけねーだろ」
ばかばかしい会話は佳奈の心の底の動揺をあざ笑うように上っ面だけを滑ってゆく。
「俺、会社の社長さんっていうから、もっとなんかすげー人なのかと思ったけど、普通の女のひとですね。安心した」
「そりゃそうよ、四六時中社長やってたら、死んじゃうよ。普段はこうよ。気分は二十四歳ってとこだな。後学の為に覚えておきなさい」
「ほっ、わかりました。で、コウガクってなんスか?」
レッドのたわいもない話題で、佳奈の心の深い霧が少し晴れたかもしれない。もしかしたら龍一にかかわる何かをこれから知ることができるかもしれない。希望の欠片を求めて行動することが今はできる。少なくとも、あの悲しみのどん底に戻っちゃいけない、無意識にそう言い聞かせているのかもしれない。くだらないことでも、こうしてなにか喋っていたほうがいいに決まっている。
「で、類人猿の話はどうなったの、もうお化けの話になったわけ?」
「じゃないっス。それで、人類第一号ってやつは、やっぱり絶対いたわけですよね、一万年とか前に。でなきゃ、変だ。でぇ、そうしたら、俺は数えて人類第何号なのかって考えたんス」
「へえー、キミ面白いこと考えてるんだね。でも、一万年じゃ利かないと思うよ」
「だから、三百五十億六千百九十万七千八百十一番目とか、絶対生まれた順で数えたら、そういう順番ってあんでしょ」
「何その何百何十億とかっていう数字?」
「適当っス。でもそういう順番あんでしょ。そしたら、俺何番だろとかって気になって、夜寝る前なんか、真剣に大体でいいから何番目くらいかなーなんて考えちゃったりするんス」
「それじゃ、いつまでも眠れないでしょ、結局変な人。アダムとイヴじゃダメなわけ?」
たしかに面白いことを考える子だ。発想がいい。神様が人類番号制を最初から布いていたら、私はいったい何番目の人類だろう。そして龍一は?
「でも、ありじゃないスか?」
しばらく経って、まだ同じことを考えているレッド。
「なしよ。流産や早世しちゃった人はどうカウントするの?」
しかたなく話題につきやってやる。
「受精したらカウントっス。ソーセーってなんスか。とにかく、なんか、彼女その答えを知ってるんじゃないかって、思えるんス」
「無理でしょ」
さすがに無理だ。
「…」
レッドはまだなにかを言いたげだった。
「飯まだっスよね。腹、減ってきた」
「だね」
クルマは、いつの間にか信越道に入っていた。山間を縫うようにアップダウンする道で大型トラックを何台も抜きながら進むと妙義山が見えてきた。その先には紫雲にかすむ浅間山も見える。佳奈はため息をついた。やがて急坂を上りきると、横川サービスエリアへと車は引き込まれていった。青々とした深い緑が目にしみる。遠くの切り立った山々が紫色に霞んでいる。いったいどこまで行こうとしているの? 佳奈は敢えてそれを訊くことはしなかった。しばしのドライブを楽しむしかない。だって他に行くところはないのだから。