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未來からのハッコウイチウ  作者: 檀D九郎
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第3章 兵の夢 第1話 「化身」

古来朝鮮半島にはおびただしい数の虎や豹が生息している。山村に住む人々は日が暮れて暗くなると、彼らを恐れて決して一人で戸外には出ない。自然は豊かで、山には熊やカモシカ、狐にイノシシ、さらにはアナグマ、ビーバーもいる。夏の数ヶ月以外は湿気も少なく、大気は安定し晴天の日が多い。

今、とある村はずれの小山を整然と掛け登ろうとする二十人ばかりの集団がある。よくよくみると丸腰の兵士たちだ。一人の将校が先頭を勢いよく走っている。

やがて、彼らは山の一番高いところにやってきた。そして将校が兵を整列させたかと思うと、彼らに向かってなにやら説教を始めた。右に行ったり左に歩いたりしながら、口から泡が飛ぶ。号令が掛かった。皆が日の沈む方角に向き直る。すると突然に万歳三唱が始まった。一瞬の沈黙の後、二度、三度と同じことをした。将校がまたなにかを言っている。兵隊たちは黙ったままだ。冗長に見えた話がようやく終わると、彼らは来た道を今度はゆっくりと下って行った。

山に静寂が戻ると、岩陰から一匹の白いテンが現れた。一陣の冷たい北風が小さい渦を地面に作りながら通り過ぎてゆく。


石原莞爾いしわらかんじは大日本帝国陸軍少尉である。朝鮮半島に駐留する第二師団若松歩兵第六十五連隊所属の連隊旗手として、本部のある龍山という村に赴任していた。一九一〇年の日韓併合以来、この連隊は京城けいじょうの北東に位置する交通の要地において、くすぶり続ける反日義兵闘争を鎮圧し治安を維持するという任にあたっている。

そんな時、支那大陸で大きな事件が起こった。一九一一年十月、孫文率いる革命同盟会が湖北省で武装蜂起したことをきっかけに、十四の省が次々と清朝からの独立を宣言したのである。後に言う辛亥革命だ。

この革命の急報に接した石原は、興奮のあまり、急いで若い兵隊らを集めると号令した。

「只今より、山へ登る」

そして兵舎の裏山の方を指差すと、彼らを引き連れ、その山の頂上まで駆け足行軍をおこなった。てっぺんまで来て小隊を整列させると、講釈が始まった。兵に向かって孫文革命の経緯やら日中連携の重要性、アジアの復興の必要性などをくどくど説いた。が、若い農村の次男坊らに難しいことはわかるはずもない。それでも石原はお構いなしだった。

「西向け西! では、支那革命万歳を三唱する!」 

若い石原は自らの言葉に酔い、軽い興奮状態にある。

「支那革命万歳、万歳、万歳!」 

次男坊らは待ったなしだった。支那だけでは済まないので「天皇陛下、万歳!」と続いた。

彼方に見える朝鮮半島の山並みは青く、空気はすがすがしかった。石原は、部下の気勢を背に少し冷静になると「どこまでわかったくれたことやら」と愚痴りながらも、また駆け足行軍で宿営まで引き返したのであった。

夜になった。漆黒の空に星が美しい。星雲の赤い輝きが見て取れるほど天は果てしなく澄んでいる。

「石原少尉殿、いったいこれから支那はいかがなことになるのでしょうか」 

昼間に革命万歳を一緒に唱和した伍長が、食堂を通りかかった石原に敬礼すると改めて訊いた。石原は嬉しそうに答える。

「いいか、これからの時代は東亜の日本、支那、そして朝鮮、蒙古などが協力して、新しい世の中を切り開かなければならない。孫文の革命は、支那をそれに足りうる強い国にする。革命はその道を拓くことのできる唯一の方法だよ。これを梃子に西欧帝国主義に対抗して、東亜の新しい繁栄を築くことが大事だ。たいへん結構なことだ。わが日本にとっても幸先がよい」

石原は、伍長にもわかるように簡潔に話してやったつもりだ。が、伍長や偶々周りにいた兵隊たちは、鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとして、只々聞き入るのみだった。東北人にしてみれば、ついこの間まで、いやいや今でも十分に、仇敵の長州人や薩摩人ですら外国人なのだ。皆わかったふりをする以外にない。


一人満足した石原は外に出た。底冷えがする。酒もタバコもやらない。理由は健康上のことがあってのことかもしれない。数日前に降った雨で兵営内の道はだいぶぬかるんでいる。朝には凍るだろう。白い息を吐きながら、本部を出て外の道を少し歩いた。頭の中は東亜の繁栄の未来のことでいっぱいだ。しかし、そこで不意打ちを食らった。

「石原さん、ですね」

気配のない背後から、突然誰かの声がした。

「んっ!」

鼻から声を出し、石原は思わず後ろを振り向いた。が、暗くてよく見えない。

「誰だい?」

石原は闇にむかって手をかざしながら鷹揚に言葉を返した。なにか違和感がある。

「石原さんですね」

同じことを言った。違和感の正体はすぐに判った。なんだ、子供じゃないか。

「おやおや、坊主かい、早く父ちゃん母ちゃんのところへ帰らないと、トラやヒョウに食われてしまうぞ」

石原は軽く脅したつもりだった。が、声の主は黙っている。

「母ちゃんはどうした。寒いだろう。とっとと家へ帰りなさい」

暗闇を覗き込みながら、もう一度同じようなことを言った。龍山の連隊本部は朝鮮人部落に隣接している。子供のひとりやふたりに行きあっても不思議ではない。若い兵隊たちとの交流もあるから、片言の日本語も喋る。誰だろう。影を闇に透かして見ると背丈がけっこうありそうだ。顔は見えない。石原が動かずにいるとその影が言った。

「石原さん、あなたに大切なお話があってやってきました」

柔らかい声の持ち主だ。石原はもう一度考える。こんな子供のような声で喋る奴は、部隊にはいない。そうか、小僧じゃない、女か。しかし何故だ。ありえないことに石原はすこし混乱する。しかし、女子供相手に先手を取られてたまるかと大人気ないことを思い身構えた。星灯りの下のシルエットの主は依然動かない。

「いったい、どなたですか?」

意に反して素っ頓狂な裏返った声が出てしまった。

「お話があります」

影はまたもや言った。度胸が据わっている。しかも声には知性が感じられる。待て待て、流暢な日本語じゃないか。石原は気がついた。これは朝鮮人ではない。

「私は石原です。あなたは誰です? このあたりは夜間の一般人の徘徊は禁止です」

反応はない。妙に落ち着いている。

「あなたのお考えを伺いたくて参りました」

えっ、何を言っているのか。影は石原が予想すらしない、あまりに突飛なことを言った。 

「なんですか、そんな、やぶから棒に…」 

そもそも、なんで俺の名前を知っているのだ、この野郎。一瞬息が止まる。お考えって? なんの? 本来なら「そんなことより、まずは名を名乗ったらどうだ」と返すべきところだ。ところが、迎合するように「何についての考えか?」とやってしまった。すると、影は即答した。

「人類の将来についてです」 

予想外のこの返答に、石原の思考が止まった。さすがに、そりゃこっちが知りたいとは反応しない。が、気を取り直して、

「人類の将来か。それは立派な心持ちである。人類の将来は重要なことである。でも娘さん、オナゴはそんなことを難しく考えなくてもいいでしょう。明日の自分のことも…」

と、そこまで言いかけたところで、石原は「はっ、そういうことか」と何かに気づいた。そして、その先を言うのを止めた。

影は、石原の次の言葉を待っている。が、石原は石原でうなった。そうか、こいつは…、狐だ。なんだそうか、この「物の怪」め、なんと小癪こしゃくな。

断定すると石原は得意になった。攻守逆転だ。それにしても朝鮮の狐に出くわすのは初めてである。そう思うと、山中で望外の獲物を捕捉した猟師のように、思わずウキウキしてきた。しかもメスだ。馬鹿な奴、選りによって俺を騙そうというのか。こやつのその化けの皮は剥いでやらねばなるまい。だが、殺気を気取られてはまずい。石原はじりっと間を詰めた。が、狐がまた言った。

「色々ご研究をされている由。ご協力させていただきたいと思います」 

うん? 何だと、ご研究? 俺を化かすにも一々言うことが生意気だ。だいたいこの狐、何を喋っているのかわかっているのか。俺の考えを聞きたいといっておきながら、今度は協力するとは。まあいい。狐の浅はかな知恵だ。もう少し付き合ってやろう。獲物を袋小路に追い詰めた狩人の気分になった。

「んー? で、その研究って、そりゃぁ一体なんのことだい?」

急に小馬鹿にした口調になった。山の獣にそう問われるような研究はしていない。まさか狐の分際で俺の学問のことを言っているわけでもあるまい。石原は士官学校時代から戦史戦術研究に没頭してきた。語らせれば右にも左にも出る者はいない。が、狐がそんなこと訊くわけがなかろう。

そうやって惑わされているうちに、いつ何が背後から飛び出してくるかもわからない。油断は禁物だ。狙いはなんだ。しかしターゲットは俺でなくてもよさそうなものだ。石原の思考は頭の中でクルクル回った。が、回るだけで出口は見えない。それを見透かしたように狐は続ける。

「この先、世界は大変なことになります。人類が生き延びるために、あなたのお力をお借りしたいのです」

「何ですと?」 

石原はまたもや突拍子もないことを狐が言うものだから咄嗟に聞き返した。すると狐は同じことをもう一度言った。「あなたの力をお借りしたい」と。

「ふうん」 

石原は鼻で笑ったのか相槌を打ったのか、自分でも分からない。が、口から出た反応とは別に、こいつが「日本が」とか「東亜が」とか言わなかったことに引っ掛かった。

「宜しかったら、お時間のあるときにこちらまでお越しください。ここから遠くはありません。これは日本の行く末をも左右する重要なことです」 

狐はそう言って石原の足元を指差したようだった。黒い地面に視線を落とした。いつの間にか、足元の小石の上に、白い紙片のようなものがある。どうやら狐は俺とは間合いを詰めたくないようだ。帝国陸軍士官に向かっていい度胸だ。石原は屈むと細心の注意を払いながら、それを拾い上げた。

「そちらに書いてある場所まで、お時間のある時、是非おいでください」

狐はしゃぁしゃぁと言った。いったいどこへ来いというのだ。用があるなら次もそっちが来い、そう言ってやるしかない。はっきり姿も見せず、失礼なやつだと思いながら紙切れに一度視線を落とした。そして顔を上げた。

なんと、狐の気配はもうなかった。野郎、消えやがったな。石原は悪態をついた。そして、もう一度紙片を調べた。中々の上質な紙である。目を凝らすとなにか書いてあるようだ。が、暗がりではわからない。上等だ、選りによって俺をからかうとは。紙きれを胸ポケットに仕舞い込んだ。次に取り出したときには間違いなく、木の葉になっているはずだ。折角の妄想のひと時にとんだ邪魔が入ったもんだと文句を言い、その拍子でくるりと回れ右すると、歩いて来た道をわざとらしくスタスタと大股で戻った。

兵舎の自室に戻ると、石原はすぐさま軍刀を取り出した。そしてもう一度外に出た。静かに刀を抜いて暗闇に一太刀、一閃を浴びせた。呼吸を整えながら、もう一度。力が入った。そうして邪気を祓った。やがて石原の顔に笑みが浮かんできた。中々面白い朝鮮土産話がこれでできた。尾ひれをつけて脚色して、愉快な話にでっち上げてやろう。いいじゃないか。

朝鮮でもやはり狐は出るか。だが本物は初めてである。女狐に抓まれた石原莞爾は弱冠二十二歳、まだ青い。仕方あるまい。自分も上官を常々コケにする。なにかを思い出すようにまた笑みがこぼれた。

秋の終りを惜しむ虫の声が闇の中から微かに聞こえている。


女真族の李氏朝鮮(李朝)による半島支配は、十四世紀末の李成桂りせいけいによる高麗王権簒奪さんだつに始まる。そしてその歴史は五世紀の長きに亘った。その間、仏教を迫害・禁止し、儒教思想を大いに発展させた。十六世紀から十七世紀にかけては日本や後金による侵略を受け、国土は荒廃する。更に、十九世紀になると王室の外戚が政治の実権を握り専横を極め、王権は弱体化した。その後、西欧帝国主義の脅威に晒されると、やがて列強の要求に屈し、それまで採り続けていた鎖国・攘夷政策を放棄し、国を開いた。

一八七六年、日本に強要され締結した江華島条約を皮切りに、相次いで西欧各国と通商条約を締結すると、怒涛の如く列強が朝鮮半島に進出してきたのである。特権を与えられた外国人らは居留地をつくり、商業活動を盛んにした。そして、さらなる改革開放を要求しては、我先にと利権を争った。その後、宗主国たる清が日本との戦争に敗れたことを契機に、李朝は大韓帝国として独立した。

この国には、紙と茣蓙ござすだれなどの手工業以外、産業と呼ばれるようなものはなかった。十四、十五世紀の中世から突如近代へとタイムスリップしてきたかのような国である。さながら、永い眠りから無理やり叩き起こされ、目脂めやにの眼をこすりながら呆然としている乞食の子のような様であった。

大韓帝国は立憲君主制を謳っているが、実際は李朝の体制を引き継ぐ絶対王政であった。日露戦争に勝利した日本が朝鮮の支配を強めると、一九一〇年にこれを併合し、日本の一部となった。それと同時に五世紀続いた李朝は完全消滅したのだった。以来、朝鮮総督府が京畿道京城府に置かれている。


一九一一年晩秋、ここは依然朝鮮半島の中央部、龍山である。石原のポケットに入っていた狐の紙切れは紙切れのままだった。そこには「清平寺まで」とあった。

清平寺? 石原は首を傾げた。 

朝鮮では十六世紀に仏教が禁教とされて以来、道徳・宗教といえば儒教か民間の鬼神信仰しかなかった。キリスト教は十八世紀末に伝わり、今でこそアメリカなどの布教団体が学校や病院を造っては活動を盛んにしているが、仏教は影が薄い。仏教寺院といえば、金剛山の仏刹などの例外を除けば、大概は遺跡か廃墟である。

まだなにか書いてあった。


  「掩八紘而爲宇」


「あめのしたをおおひていえとなさむ」と読む。日本書紀の神武天皇の条にある一節だ。石原は小賢しいと思いつつも、これを見ると猛然と興味が湧いた。いったいこれが狐の仕業か。そうであろうがなかろうが、こいつが何者かははっきりさせねばならない。石原はそう思った。

隊の任務は警備行動が主である。とはいっても、大概は浮浪者や泥棒の取締りか公務出張者や旅行者の安全確保といった類だ。日韓併合以前より抗日義兵闘争は朝鮮各地で起きていたが、どれも小規模で、そもそも頻繁には起こらない。大隊・中隊単位の出動などはまずないといっていい。さらに連隊旗手とは連隊長の補佐役のようなもので、隊付きと違って案外時間がある。狐との化かし合いは石原の暇つぶしにはもってこいなのである。


二日後の朝、石原は春川村の北を流れる北漢江の上流に複数の死体が漂着したというデマを自ら流し、無理やり偵察訓練と称して兵二名を引き連れ、狐がおいでくださいという寺へと向かった。駐屯地は北漢江の南岸にある。寺に行くには河を渡る必要があった。しかし北漢江には橋が掛かっていない。石原らは、時折ジャンク船が行き交う大河を渡し舟で越えた。そこから寺までは、河に沿って続く街道を徒歩で遡上すること二時間の行程である。

兵二人は、石原さんがやることだから、何やら面白そうなことがあるのではないかと、これも暇つぶし気分で黙って後に続いた。道はわだちが深く、時にぬかるんでいて単調な歩行も楽ではなかった。しかもいつまで歩いても死体があがったらしき事件現場の河の瀬は見えてこない。水辺は次第に遠くなった。

さらに暫く行くと、やがて廃寺の前にやってきた。清平寺である。高麗時代の古刹だ。朽ちかけた外壁が歴史を語り掛ける。雑草に覆われた門から続く土塀には、色々な形の石が綺麗に並んで埋め込まれている。朝鮮では李朝の遠い昔から仏教は禁教。仏僧が都へ入れば死罪が待っていた。仏寺の栄えようなどはない。

数段ある石段を登り、門の奥を覗くと、木造で瓦葺き屋根の、御堂のような黒ずんで朽ちた小さな建物が見えた。なるほどこりゃぁ狐の住処にはもってこいだ。石原はすぐに合点した。すでに狐に抓まれたような顔をした兵が二人、石原の後ろで息を上げている。

ふと振り返ると、いつからそこにいたのか、土塀の先にこちらに向かって手招きをする男が立っていた。咄嗟とっさに「出たか!」と石原は反応したが、まあ落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせると、男を観察した。白いパジチョゴリを着ている。朝鮮人だろう。が、所詮は狐の仲間、ならばテンかなにかだ。石原と目が合った。付いて来いとまた手招きしている。こっちが思案しているうちに、テンはくるりときびすを返すと、あらぬ方へと歩きはじめた。

おい、と思いながらも、二人に「ここで暫く待っていろ」とだけ言い、石原は黙ってテンを追いかけた。背景には五峰山が林の間から垣間見える。付いてゆくと、崩れ落ちた外郭をぐるりと回ったところで、寺の背後へと出た。木立の中に藁葺わらぶき小屋がみえた。そしてその小屋の土間の入り口までやってくると、テンは石原に向き直った。

「どうぞ中へお入りください」

テンが初めて言葉を発した。なんだ喋るのか、このテンも。が、すぐに気づいた。そうだ、物の怪はおそらく念で語っている。こいつも人間のようには口が開かずに喋った。石原は、相手をじっくり観察することを怠らない。

さぁ中へといっても、あと数歩進めば外へ出てしまうような狭くて粗末なつくりの土間だ。集落は少し離れている。猟師か木こり小屋かもしれない。

すると反対側の奥の方からふわっと女狐が現れた。うわっ! 石原は、内心驚いて跳びあがった。

「石原さん、よくいらして下さいました」

狐がしゃあしゃあと言い放った。明るいところで初めて見る。こいつか。石原は確信した。が、耳も尻尾も出していない。石原はさらに注意深く辺りをうかがいながら思う。ここがアジトなのか。

事情を知らぬ者が見れば、まったくもって不釣合いな女と場所だ。それだけで十分な状況証拠となる。故に物の怪である。色白で、計算されたように目鼻立ちが整っている。表情は言葉ほどには読み取りにくい。笑ったら美形だろうと石原は想像する。が、その時は牙を剥き出しにするに違いない。さらに奇妙な身なりをしている。このあたりのチマチョゴリを着ている朝鮮人女とは全然違う。黒っぽいズボンを穿き、詰襟つめえりのような上着を身につけ、体の線を幾分強調している。これも計らいか。短い髪は汚くない。むしろ清潔だ。狐は妙な感じに化けるものだ。

「私が今日ここに来ることがよくわかりましたね」 

石原は腹の底を読まれないように、狐の真似をして平坦な喋り方をした。ケモノは嗅覚が鋭い。

「はい、紙片に仕掛けをしておきましたので、まもなく見えるだろうと思い、お待ちしておりました」

「…」

何をたわけたことを。言うに事欠いてとはこのことか。

「部下の方はしばらく向こうでお待ちいただいてよろしいですか。これから少し込み入ったお話をさせていただきます。どうぞこちらへお入りください」

そう言って狐は土間続きの奥の一室に石原を招いた。

「いいでしょう」 

応えた言葉の語尾が上がった。それに東北なまりのアクセントがどうしても出る。二人は粗末な椅子に腰を下ろした。

「遅れましたが、私はロクゴウナオミと申します。ナオミと呼んでください」

「石原です」

狐にも名前があるのかと、鼻で笑う。

「存じ上げています」

受け答えは、人のようである。

「ではナオミさん、あなたはユダヤ人ですか」

石原は突飛な質問を真顔で狐にぶつけた。狐の知恵を試している。ユダヤにナオミという名前がある。が、女狐は「いいえ」というと俯いた。そして、丁度手の平に入るくらいの見たこともないピカピカとした綺麗な緑色の缶を足下の箱の中から取り出した。それを石原に差し出す。石原は固まる。

「緑茶です。どうぞ」

なんだこれは? これが茶のわけがないだろう。

「これはメリケンのコーラとかいうヤツかなにかですか」

面喰った石原は、思わずそう訊いてしまった。くそっ、俺を試しているな。ふざけるな、試すのは俺の方だ。石原は股間のあたりに力を込めた。狐はコーラなんてハイカラなものは知らんはずだ。ざまぁみろ。狐に舐められるわけにはいかない。偶々雑誌「太陽」にアメリカのコーラという新しい飲み物の記事が載っていたのを見たことがあった。それで咄嗟に知ったかぶりをした。

「樺太産の緑茶です」

「ほうほう、ならば、いただきましょうか」

樺太で茶は産しない。ぷっ、ばかな狐だ。石原は吹き出しそうになるのを我慢して堪えた。すると狐は缶を手に取るなり、その上方にある妙な円形のツマミを指先でカチャと引き上げた。石原は反射的に上体を反らした。チャだとは言っているが、本当にそうか。見たことのない小銃擲弾てきだんか爆弾のように見えなくもない。くそっ、猪口才な。動揺を悟られてはいかん。そんなはずはない。水筒だ。いちいち変わったものを出してきやがる。

「どうぞ」

ナオミは茶なるものを石原に差し出す。缶の上部に少しだけ穴があいている。ここからこれを飲むのか。

「…」

食らわば毒までか、ええい。開いた缶の口から少しだけすすって、すぐ止める。なんだ、これは。冷え切っているじゃないか。茶は適度に熱いに限る。こんな冷えた茶を勧められても、迷惑千万。それに狐の味がする。これ以上はやめておこう。手に持った缶をテーブルではなく、足元の地面に置いた。すると狐の目に動揺が走った。よし、今度はこっちの番だ。


「それで、話というのは何ですか。古書かなにかの一節が書いてありましたが、どんな意味でしょうか」

茶の後味に舌舐めずりしながら、石原はとぼけて訊いた。

「日本やアジアの将来に係わる最も重要な言葉です。しかも石原さんにとって特にご興味があると存じましてあのように書きました」

「なるほど、それは聞きました」

だまって頷いたつもりだが、自然と言葉が出た。結構ケモノの割には知っている。いや、読心術をつかうのか。

「ただ、その高潔な精神とは裏腹に、その理念は捻じ曲げられ、その言葉は日本を破滅の底へ突き落とすことになります」

「あらあら、ずいぶん、その、わかったような、なにかを見てきたようなことを言うんですねぇ」

石原はわざと言葉を町人風に崩した。だが、どうもただの狐ではない。そんな気がしてくる。するとまたその心の隙を突いて狐が反撃に出た。

「世界の平和・アジアの繁栄とは、そもそも、石原さんにとってはどういうことなのでしょうか。あなたはここで何をなさっているのですか」

何をなさっているって、治安維持だよ。心の中で主張するが、石原は少し先走ってしまった。

「大韓帝国と大日本帝国がひとつになったのはその高邁こうまいな理想の為の第一歩です。尤も、朝鮮半島の現状は十五世紀くらいから何も変わっていませんがね。そもそも田中智学先生の…」ここまで言って「あっ」と思い、石原は止めた。狐に講釈するまでもない。

田中智学とは宗教家で「日本国はまさしく宇内を霊的に統一すべき天職を有す」と言い、後に八紘一宇という言葉でその思想を表現したまさにその人である。が、ナオミは違った視点から切り込んでくる。

「朝鮮併合は結構ですが、後々取り返しのつかない事態を惹起じゃっきします」

ここでナオミは併合と言った。が、石原は併合とは捉えていない。まずはそこのところに反応した。

「併合? いやいや、というよりすでにひとつの国と考えてもらってよろしいでしょう。会津も薩摩も今は日本という一つの国です。それを併合とは言わない。台湾だって朝鮮だって同じことでしょう、未来永劫に。それに、そもそもこれは朝鮮が望んだことだ…」

急に論争口調になりはじめる。落ち着け、何も狐相手にムキになる必要はない。


「近い将来日本は支那北東部に大々的に進出することになります」

狐はまたも突拍子もないことを言い出した。満洲についていえば、この時すでにポーツマス条約でロシアの利権を日本が引き継いでいたし、その後の清国との条約でさらに地歩を固めている。これ以上のことがあるというのか。が、本格的な満洲進出はロシアの脅威を考えればなんらかの手を打たねばならないと石原もみていた。成程、この狐、五百年は生きている…かもしれない。妙な見直し方である。

「ロシアの再南下政策は依然最大の脅威です。吾方が朝鮮半島を安定化して押さえるだけでは十分とはいえない。露助は必ず、またやってきます。確かに、そのような選択肢もあるでしょう」

と、そこまで言って石原は、支那北東部への積極的な進出というアイディアはたしかに悪くはないと改めて思う。目の前の女の姿をした狐を見ながら、(このくらいのことは狐でもわかる、あっ、いやいや、獣にはそこまではわからんだろう…)などと考えを巡らすと、あらぬ方向をみた。そして「なんだか、つまらん話になってきたようです」と付け加えた。進出といっても、それが具体的に何を意味するのかは定かでない。


「お気に障ったらすみません。ところで、実は…」

ナオミは潮時と思ったのか話題を転じようとしている。そして、とんでもなく滑稽なことを言い放った。

「…私は、百年以上先の未来から、あなたにお会いする為に、ここにやってきました」

堂々としかも馬鹿にしたようなゆっくりとした口調だった。狐があまりにも唐突なことを言うので、石原はその意図を測りかねて、

「ふっ、なるほど…未来、ですか…なるほど…」

と調子を合わせた。こいつは千年モノかもしらん。どうやら一筋縄ではいきそうもない。これは場合によっては、しょっ引く。いや捕獲だ。売り飛ばせば見世物小屋のスタアになる。狐というケモノは、古来よりそういうものだ。が、石原の思惑とは別に、ナオミはふざける様子もなく言葉を継いだ。

「私たちが遠い未来からこの時代にやって来たということには重要な意味があります。百年先の世界では科学の進歩があって、時間旅行はそれ程特別なことではなくなっています」

「ほほう、まあ悪くはない」

釣られて少々感心してしまった石原はなにかを思い出した。子供の頃、喧嘩して金槌で殴られた主人公がアーサー王の時代にタイムスリップするといったマーク・トゥエインの小説を読んだことがあった。時間旅行ほど妄想的好奇心を引き付ける面白い話はない。子供心にロマンを感じ興奮したものだった。狐は中々言うわい。今一度、まじまじ狐の顔を見た。

「これがどのような意味を持つか容易にお察しいただけると思います」

「いや…」待て待て、そんなばかげた誘導尋問には答えたくもない。そう思うとこの物の怪を相手するのが少しく面倒になってきたが、ここまで手間を掛けて来たんだ、もう少しの我慢だ。尻尾が見えはじめているのだ。石原は堪えた。するとナオミはさらに石原の神経を逆なでする。

「つまり、この先何が起こるかを私は知っている、ということになります」

「なるほど、そうか。そうなりますね。つまり全てを見通しているということだ。でも、この世にいるすべての人間が、実は百年後から今ここに来ているとしたら、どうなるのでしょうな。それでも構わんでしょう」

石原も負けじと小手捻りを狙う。つまらん話もただでは転べない。


「確かにおっしゃることは分かります。ただ、二十年位先になりますが、あなたが作戦参謀として主導し、満洲事変という事件を起こします」

「何だって? 事件って、何を言う。軍隊は、軍事行動は起こすが、事件は起こさないですよ」

石原はむっとした。

「日露戦争でロシアから引き継いだ南満洲鉄道の租借権は、あと十年もすれば清国政府に返還しなければなりません。その前に日本は満洲における権益を保持・増進する為に、強硬な動きにでることになるでしょう。そして最後は満洲をごっそりと押さえてしまおうとするのです」

そうなのか? 石原は感心する。小癪なことを抜かしやがる。いいだろう、もう少しだけ聞いてやろう。

「それで日本陸軍は、一度は廃帝となった清の皇帝を担ぎ出して傀儡かいらい政権を樹立させます。これを満洲帝国といいます」

「えっ、ほうほう、そんなこともありですか。参考になります。それでどうなりますか、その先は?」

かなりの飛躍だが、まぁ妄想としても実際の話としても悪くはない。その着眼点に面白味を感じた分、石原は狐の尻尾のことを忘れかけている。

「そのあと内地の疲弊した農村部から大量の殖民をしますが、日本は孫文の跡を継いだ蒋介石率いる国民党と支那大陸で泥沼の戦争を始めてしまいます。さらに軍部は資源確保の目的で南方に進出を企て、太平洋でアメリカに挑み、ついには一敗地にまみれるのです。その機に乗じて満洲に攻め込んできたロシア軍にも散々にやられてしまいます」

うーん、ずいぶん先のことまで決めつけたもの言いをするなぁ。物語としては、そんな展開もあるだろう。しかし、我大日本帝国がそんな奇想天外、がっかりな結末を迎える可能性は限りなく少ない。

「日本はそんなことにはなりませんでしょう。第一、世界を相手に暴れまわる国力がどこにありますか? まぁ、夜伽よとぎ話としてはワクワクしますが、千の仮定の上にしか成り立たない戯言ざれごとですかねえ」

石原は、じっと黙って考えていたが、結局そう言い返した。


「三十年も先の話ですし、紆余曲折もありますが、残念ながら私の知る未来ではこれは史実となりました」

史実と言われてもとわらったが、石原はそれ以上言葉がなかった。もう一度気を取り直してみせたが、

「つまり、それがすべて私のせいというわけですか。なるほど、卓見を聞かせていただきました」

と皮肉を言うのが精いっぱいだった。石原にとって非常に興味深い話題だが、同時にショックでもある。どんなに想像力を逞しくしても、そこまで先々を見通したシナリオを描くことは容易でない。それは一つの才能でもある。第一、孫文万歳を叫んだ数日後に、その孫文率いる国民党を相手に日本が泥沼の戦争をやる話を聞かされるとは、しかも狐から。

しばし沈黙する。いや待て、こいつはどうもただの狐じゃない。相当霊性の高いやつかもしれん。いや、龍とかそういうものの化身かもしれん。いったいこの狐、何者なんだ。石原はそう考え直して、そういう目で女に化けている物の怪のかたちを見破ろうとした。が、やはり簡単には正体は顕さない。

「このまま行くとそういうことになってしまうのです」

ナオミは石原の態度を無視して、彼に最後通牒のような言葉をぶつけた。

「なるほど、あなたは占い師というわけですね。ようやく分かりました」

と、別の視点が頭をもたげてきたので石原は言い返した。百年後から来たというのは嘘にしても、こいつが何かとんでもない能力をもっていることは認めざるを得ない。ならば敵か味方か見極める必要がある。

わかってはいることだが、石原莞爾といえどもこの時代の人間に短兵急にこの説明を理解し納得せよというのは無理な話だ。ナオミは同情している。

「いや、なかなか面白い話です。時空を越えるという話も面白い。日蓮大菩薩ですらそこまではなさらなかった」

少し茶化して話を続ける。後年熱烈な日蓮信者になる男である。すると、ナオミはまたおかしなことを言った。

「…あなたも東条という人物にはこの先ご注意ください」

「ん、東条? 俺も?」

何のことかと戸惑う。いや考えてもわかろうはずもない。 


十二世紀か十三世紀頃の話だ。日蓮が清澄せいちょう寺という寺で初めて説教をおこなったときのことである。上人はそこで各所から集まってきた信者の人々に、金や地位への執着、欲望に生きる人々、或いはそういった世相を、痛烈に批判した。するとこれを聞いていたその地の権力者である地頭が自分のことを言われたと思い、日蓮は彼の大いなる怒りを買ってしまう。日蓮はこれが為に、そののち幾多の法難に遭遇する。その時の地頭の名が東条であった。日蓮宗にとって、この東条こそは天敵である。石原が後年いちいち東条につっ掛かったのは、その名、故か。「軍曹殿」ではなく「地頭殿」とでも呼んで揶揄やゆするのであろうか。石原の性癖として、嫌いなやつは徹底して嫌う。東条もその一人だ。しかし、今の石原にそんな先の東条との関係を知る術はない。


ナオミの話は続いている。

「先ほども言いましたが、このままいくと今から三十年後に日本はアメリカを中心とした連合国と全面戦争に突入します。そしてその四年後に完膚なき敗北を喫するのです」

石原は考える。

「なるほど。しかしそんな法螺ほら話を帝国軍人の私にして、はいそうですかでは済みませんよ。第一帝国が仮想敵とみているのは、ロシアですから。アメリカとの関係は良好です」

「私は、ひとつの歴史上で実際に起きたことを申し上げているのです。これは予言ではありません」 

ナオミは「ひとつの歴史」という奇妙な言葉を使った。そしてそれは予言ではないと言いきる。確かに当然この先の戦争のあり方がどうなっていくかは石原にとっても興味のある研究課題である。見識のある同好の研究者がいるのであれば、意見交換はやぶさかではない。しかし、こいつは得体が知れない。それでも、話は聞きたい。石原は葛藤している。そして半分妥協した。

「では、最後まで聞いてからどうするか決めましょう」

「この歴史上の大敗北の原因は、あなたにあります」

一瞬石原の視線が宙に躍った。そして、くっくっ、言うに事欠いて何を言いやがると腹の中で嗤った。

「さっきも、同じようなことを言いましたね。そんなに私を買いかぶらないでください」

「いえ…」


そのとき、外に残しておいた兵の一人が息を切らして走り込んできた。敬礼もろくにせず「少尉殿大変です! 木村が野犬に咬まれて大変です」と血相を変えて報告した。「なんだと!」そう言うと、石原は狐のアジトを飛び出し、一目散で呼びに来た兵の後を走った。すると木村が左手を押さえながら、路上でうずくまっている。包帯が血に染まっている。低い崖の下に痩せこけた茶色の大きな犬の死骸が横たわっており、どこから現れたか同じように痩せこけたボロを着た乞食のような子供がそれを棒で突いていた。犬を銃剣で刺したようだ。

「どうした」石原が声をかける。

「申し訳ありません。野犬に、指を咬まれました」

「馬鹿野郎!」

怒鳴ってみたが始まらない。朝鮮の犬は、人をみると向ってきてはやたらと吠えまくるが、実は臆病なため実際人を襲うことはあまりない。それにただの犬に咬まれたくらいならどうということはない。問題は狂犬病だ。

「見せてみろ」

出血がひどい。中指の先端を食いちぎられて骨も露出している。よほどの勢いで噛みつかれたと見える。止血の応急処置は自分でしたようだ。

「すまん、屯所に戻るぞ」

新撰組気取りか。ならば犬は差し詰め長州だ。東北人にとって長州人は永遠にじい様ばあ様の仇である。

「ちょっとお待ちください」

様子を見に一緒についてきたナオミが声をかけた。

「なんですか」

「こちらで簡単な応急措置が出来ます」

石原は「えっ」と思いながらも、咄嗟に「すまないです」と応じてしまった。


処置は早いに越したことはない。水も確かかもしれない。こうなっては狐の手も借りたほうがいい。危険は承知だが瞬時にそう判断し、木村を連れて急いでナオミのアジトに戻った。裏からテンが、救急医療具らしき小箱を持って入ってきた。

ナオミは茶道の師範のように無駄のない動きで手際よく準備を始めた。やはり、人間の動きのようにしかみえない。物の怪ならもう少し肩の関節とか手首が不自然に動くはずだなどと思いながら、石原はナオミを横目で観察する。

「消毒して、止血したら、痛み止めの注射をします。狂犬病のワクチンも投与しておきます」

ナオミは衛生士の資格もあるのか、と石原は感心したが、おっとこいつは人間じゃないと思い直す。人間ではない物の怪に一兵士の命運を託すのはどうかとも思うのだが、不思議とその矛盾は感じなかった。注射をするまでは手際がよいと思ってみていたが、ナオミの持っている技術が、飛びぬけていた。

ナオミはおもむろにカッターを取り出すと、傷口からさらに一センチくらい、第二関節まで指を一気に切除した。血はすでに出ない。こやつ、何をする!

「ぎゃっ」と木村が驚いて声をあげたが、痛みはなかった。さらにゴム状のキャップのようなものを傷口にかぶせるようにして嵌めながら言った。

「このほうが治癒は早いのです。三週間くらいで元に戻ると思います。熱が出ると思いますが、麻酔が切れて痛くなったら、この薬を飲んでください。解熱鎮痛剤です」

薬といっても、小豆より小さい。それにまあ大した傷でもない。兵隊としてはもうおしまいだが、測量警備や所有者不明の土地の軍用接収以外、通常任務は主に乞食と不審者の取り締まりだ。下手をすれば住民と呪術師の間の喧嘩の仲裁もする。やむをえまい。

それより、偵察行動中に道草食って、その間に部下が野良犬と格闘して、指を一本食われたというぶざまな戦闘結果の方が問題だ。上官への報告をどうするかが石原の思案のしどころである。いつものあれしかない。

「どうもありがとう。木村も感謝しています」石原は向き直ってナオミに礼を述べた。

「いいえ、私に出来ることをしたまでです。問題はないでしょう。二日後にもう一度ワクチンを打つ必要はありますが、指は元通りに復元します」

ちぎれた指は元には戻らんだろうがとは思ったが、それにしても手際がよかった。医療の備えも充実している。一体全体、ナオミとは何者なのか。もしかしたら上層部しか知らない秘匿の精鋭部隊の作戦が近傍にて展開中で、この者たちは高度に訓練を受けた素破すっぱなのかもしれないと石原は妄想した。素破とは忍びのことだ。作戦の意図が露呈しないように、こうして暗号めいたことを言いながら、情報収集している。ひょっとしたら、俺は試されているのかもしれない。それ以外説明のしようがないじゃないか。帝国にそこまでの余裕や今ナオミがみせたような技術があると考えたら、石原はなんだか嬉しくなってきた。樺太の茶もまんざら嘘ではないかもしれないぞ。いつもの石原なら、今日の科学技術では、いわんや今の日本ではそんな芸当は逆立ちしてもできやしないと一笑に付すところだが、少しく冷静さを欠いていた。その現実を目の当たりにしたのだから、石原を責めることはできない。

一方の木村はずっと措置を受けている間、痛いのも忘れて妙な手当てだと見入っていた。重曹を傷口に塗られたときはさすがビビッたが、味噌を塗られるよりはましだと諦めた。これでどこかの最前線へ引っ張り出されて弾に当たってイチコロということもないだろうという打算が働いているのかもしれない。しかも責任は石原にある。自分ではない。

「今日は、この辺で失礼します」

「では、また明後日においでいただけますか」

ナオミはまた妙なことを言う。何故明後日なのだ。

「そんな先のことは分かりません」

こちらの意図は易々読まれるわけにはいかない。

「ですが、兵隊さんの二度目のワクチンがあります」

しまった、うっかりした。さっきもそう言っていたな。借りも作ったし、やむを得まい。納得して、石原は小さく頷いて狐に向かって敬礼した。木村上等兵も、もう一人の兵隊と一緒になって何度も頭を下げた。怪我はしたものの、思いもかけず日本の女性に介護されたことが嬉しかったのだろうか。地獄に弁天様とでも思ったか。甘いぞ、木村。

「それから一日二回、消毒後この粉末を傷口に塗布してください。指は元に戻ります」

ナオミが最後に木村に言った。三人はキョトンとしている。慰めの言葉にしては、気が利いているとでも言おうか。


宿営への帰路、暫く三人は黙ったまま歩いた。渡し船に乗って対岸へ渡ると、木村がボソッと石原に訊いた。

「少尉殿、あの人たちは一体何者なんですか? 何故あんな場所にいるのですか?」

「あれはな、朝鮮半島に千年は生きていると言われる、狐神だよ。まあお稲荷さんだ。川向こうには、色々な魔物が住んでいる。いいか決して一人で行くんじゃないぞ」

相当な出鱈目を言って、石原は木村をはぐらかした。


翌日、石原はひとりでやって来た。もう一日も待てなかった。どうせ、向こうはいつ俺が来るかは分かっているのだ。いつ行っても文句はないだろう。果たして、あの男が待ち構えていた。案内を必要とするまでもなく、石原はスタスタとアジトへと押し入った。ナオミは部屋の隅で背を向けてなにかを覗き込んでいるふうであったが、向き直るとお茶はいかがですかと訊いた。

「いえ、今日は人参チャを水筒に入れて持参しましたので、結構です」

ただの井戸水だ。昨日のチャだけは飲みたくない。

「それより、昨日の続きをお話しましょうか」

あたりを見回しながら石原は言った。ナオミは「では、お座りください」と言い、昨日と同じ椅子を石原に勧めると、正確に昨日の続きから話し始めた。


「あなたは後年『最終戦争論』なるものを唱えます。東洋文明と西洋文明との対決の末に来るべき世界平和について説いたのですが、この論は時期尚早でした。しかも一部に大きな誤りがあった。ですからこれに修正を加える必要があるのです」

石原には、ナオミが何を言っているのかわからない。そこでナオミが同じことをもう一度言った。二度聞いて、(ふうん、そうか、俺だってそのうち戦争と文明についての論文の一つも書くだろうよ)と内心うそぶいた。今没頭している戦史・戦術研究がなんらかの形で結実するのは、当たり前のことだ。が、なんでそんなことがこの女の口から飛び出るのか。しかも百発百中の自信のもとに。そのことに、素直に不思議を感じる。相手が何者であるか突き止めるといった初志とは違うところに興味が飛びはじめた。そして決めた。こういう論題なら、この際相手は誰でもいい、まともに話せる奴ならば。何時間だって語ってやり合える。いや待て、しかし「誤り」があるとは、すこし失敬な奴だ。が、今は問わねばならん。「誤り」とはなんなのか。そしてこの女のその自信の根拠を。

ナオミは石原の心の中をすべて見透かしたように続けた。

「あなたの説いた理念を軍が戦争遂行の道具にしたからです。歴史上あなたの評価は二分されています。侵略戦争の総権化のように言われることもあります」

「私のような若輩者には、想像を超えていますね」

それが俺の誤りだったと言うのは、少しおかしいだろうと思う。と同時に、そのせいで侵略者と言われるのは全く面白くない。

「ところが二十一世紀になって、世界が混乱すると、あなたの理念を再構築して具現化しようとする者が現れます」

ここから話がもう一歩飛躍する。なるほど、また百年後の話か。

「それで何をしろというのですか」

「あなたにその者の協力者になっていただきたいのです」

「は? 百年後ですか。無茶です。そんなに長生きは出来ない。酒もやらんし」

長生きと下戸の関連性は分からない。すると石原はなにかに気がついた。

「そうか、ちょっと待て、未来がわかるということは、自分はいつ死ぬんだ?」

ナオミにわざと聞こえるように地面に向かって独り言を言った。どうやら明日明後日に死ぬことはなさそうだ。つまりはそういうことだ。

「二十一世紀の医療技術は今より進んでいます。あなたの持病も治療が可能です」

「そうですか。悪くない」

俺の持病もお見通しというわけか。知らず知らずのうちに、ナオミの話のペースにはまっている。が、最後に笑うのは俺だという根拠のない自信が石原にもある。

「それで、何をすればいいのでしょう」もう一度問うた。

「ご理解いただけましたら、あとはそのときがきたらお話します」

「今伺っても差し支えありません」

ここまで言っておきながら、残りは後で話すだと? なんとふざけた奴だ。が、あからさまに物ほしそうな態度はみせたくない。

「あなたがやったこと、やらなかったことに少しずつ、修正を加えていただければいいのです。やるべきことはその時がきたらお話します。今はどうすることも出来ませんし、今これ以上知ってしまったら、不測の事態が生じます」

「そういうことですか。じゃぁ何故今こんなお話を私にするのですか。それに協力する側としたら、誰を助ければいいのか位は伺いたい」

「今この時点でお話したことを十分に認識しておいていただきたいということです。そして協働するのは葛城龍一という人です」

「わかりました。じゃあ、その人物は陸軍ですか海軍ですか、政治家ですか、華族ですか?」

「あなたの支援によって、百年後にアジア連邦の総裁になる人です。百年後に彼が主導する第二の辛亥革命を支援していただきたいのです。辛亥革命の意義はあなたの考えるとおりです」

「カツラギリュウイチですか。なるほど第二の辛亥革命ですか。ということは、一番目のやつは失敗ですか。しかし、私はそんな先まで生きてはいないでしょう」


「今のままでは、そのようなこと自体が起こりません。それに革命とは言いましたが、二十一世紀の革命は、今日のように、武力によるものではありません。もっと静かに進行するのです。そこで、あなたには歴史を変える働きをお願いしたいのです。来月、あなたと葛城氏を繋ぐ人物が日本で生まれます。その人物を仮にRと呼ぶことにします。Rは後に軍人となり、陸軍の参謀にもなる人ですが、その後実業界で活躍し、政財界を動かすフィクサーになる予定の人物です」

「なかなか遠大な計画です。でもなんだか回りくどい。そもそも私は必要ないでしょう」

「歴史を変えるといっても、生まれてくる人の親や順番を変えることまでは出来ません。あなたには新しい土台を作っていただきたいのです。しかも極めて重要な土台。歴史の重要な部分は、政治の表舞台や戦争によってではなく、日常の何気ない巡り合わせ、偶然にも似た些細な個人の意思決定によって大きく変わるものなのです。目に見えないところで歴史は確定してゆくのです」

「なるほど、そうですか。歴史はそのようにして回る。それはわからなくもない。私が何をできるかは別にしても、そこは同感です。ところで、百年後のアジア連邦とは、いかなる連邦国家でしょうか。アジアの国々がメリケンさんのように連邦国家を築くに至るのですか。アジアの諸国は言葉も文化も歴史も違う。日本が西欧列強を相手に十二分に持てる力を発揮して、まずはロシアの脅威を除く必要があることだけは明白ですがね」

「世界情勢はもっと複雑化します。アジアでは支那と日本が中心ですが、東南アジアの諸国が加わります。そして最も重要なのが満洲です」

「なるほど、ではこの朝鮮も今よりましになりますか。満洲は北の守りを固めるには戦略的な要地です」

「しかし、それも日米戦争を回避し、アジアの繁栄を正しく具現化する後継者が将来現れての話なのです。そこがうまくいかないと、人類の未来には破滅が待っている」

「…」

驚くべき発想である、未来の人類の破滅まではわからなかったが、石原は「これだ」と思った。これぞまさしく「アジア主義」を具現する道標ではないのか。しかし百年後では、先が長すぎる。自分はそのときもういない。それでも、その実現に自分の行動・理念がかかわることができるのであれば、それはそれで男子の本懐ともいうべきものか。石原は心の底でなにか奮い立つものを感じた。

「分かりました、出来ることなら、ご協力しましょう」

思わず口には出たが、(とは言ってみたところで)と考え込む。なんかいい具合に乗せられてきたな。狐をすべて信用したわけでもない。そう自らに言いきかすもう一人の莞爾が頭の中にいる。取りあえず、軍の秘密機関の線はないだろう。


「ありがとうございます。そのような事情なのであなた以外の人は、いないのです。今日のお話は、口外せぬようにお願いします」

これはお願いではなく、実は命令に近いものなのだが、ナオミは敢えてお願いした。

「石原は気が狂ったかと思われたくないので、誰にも話しませんよ」

石原は表面では興味半分で聞くよという風情で返事をした。はしゃぎすぎて狐の法螺話に踊って大恥を掻く無様な己の姿を想像している。そして、少しだけ突っかかってみた。

「ところで、あなたはどこから来たのでしょうか。本当のことをお聞かせください。朝鮮人でも支那人でもないのはわかります。百年後からとおっしゃっても石原の頭ではちょっと理解できかねます。なにか重要な軍の機密情報もお持ちのようだが。もしやあなたは龍神の化身ではないでしょうか」

「…」ナオミは思わず噴き出しそうになった。が、堪えた。これが石原節か。

「私は、普通の人間です。二十一世紀からきたということも本当です」

透明な声で言った。但し「普通」かどうかはかなり怪しい。

「それから、石原さんにお会いするのは今回が初めてではありません」

「へぇ」

「二十年くらい前、あなたが古池で溺れかかったことがありました」

おう、そういえばガキの頃近くの八幡様の池に嵌ったことがある。石原はすぐに思い出した。

「よくご存じで。危うく死ぬところだったとあとで何度も母さまから言われました」

「本当にそうでしたね」

「それにしてもよくそんなことまで調べていますねぇ」

「私もそこにいましたから」

「まさか、そりゃないでしょう」

そう言ったきりその話は終わった。


一週間ほど経ったある日、木村が首をかしげながら石原のもとにやってきた。

「少尉殿…」小声でそう言った木村は、怪訝けげんな顔をしている。

「どうした」それを見た石原は、面白そうに返事した。

「あれであります」

「あれかぁ」石原はニタニタしているが、何を言いたいのかは分かっていない。

「生えてきているみたいです」

「何? しかしそれは当たり前というものだ。お前はいくつになる」

「はい、二十一です」

「ならば、陰毛も生えるのが当たり前だ。むしろ遅きに失してはいないか?」

「いえ、あれであります」

「普通はあれには生えない。周りに生えるもんだ。ばかもの」

「ですから、こっちなんです」

木村は恐る恐る左手の中指を石原の目の前に突き出し、包帯を取ってみせた。

「ん? どうなったんだ?」

石原は覗き込むように木村の指先をマジマジと眺めた。

「なんだか、いい具合に直ってきました。でも、おかしくないですか?」

確かに十日ほど前に犬に食いちぎられた傷口と比べると、だいぶ落ち着いている。しかも依然としてジュクジュクしている。

「指が生えきているようなんです」

切断した指というのは、縫合部分で収束するのが普通だ。ところが、木村の指は、まさに指が伸びはじめているという形容でも不思議ではないありさまだ。

「あまり指の切れた痕をまじまじと見たことはないが、不思議だなあ。少なくともこうはならんはずだ」

石原も呑気に言葉を返した。普通は無理やり傷口を縫うか、消毒し止血だけしてほったらかしにするのでその痕はもっと醜くなる。が、そういえばナオミは切断面を縫合すらしなかった。縫合せず重曹を掛けると、こうなるのか。だとすれば、これは医学的大発見だ。

「誰かに言ったか?」

「いえ、まだです」

木村は文字通り狐に抓まれたと考えている。もしかしたら犬に咬まれたところからして騙されているのだ。石原の頭の中でナオミ=未来人論と女狐論が行ったり来たりする。

「もしこれ以上指が生えてくるような気配だったら、このことはしばらく誰にも言うな。もし元通りにでもなってしまったら、それで誰かに問い詰められたら、最初から狂言だったというんだ、わかったかい」

「ですが…」

「ですが、じゃない。命令だよ。鹿沼にも言っておけ」

指は最初から付いていたと言えというのだ。鹿沼とは一緒に廃寺まで行ったもう一人の兵隊である。

「はい」

木村は気のない返事をした。どうやってごまかせと言うのか。二人とも顔は笑っている。狐は、否、ナオミはいったいどんな術を使ったというのだ。


十日前の帰隊時、木村の怪我を上官に問われた石原は「偵察行動中、木村がどうしても腹が減ったというので、丁度路傍におった犬の団子屋で団子を買って食わせた。犬がまさか金をくれというとは思わなかったので、代金を踏み倒そうとしたところ、犬が怒って木村の中指を質とせり。後日支払いとともに指は回収予定である」と報告した。それにしても、もう少し言い方がありそうなものだ。上官から危うく鉄拳制裁をもらうところだったが、上官をコケにした石原の狂言に半ば呆れ「ならば、早く金を持って支払いを済ませ、木村の指を持って帰れ。朝鮮人との不要の悶着もんちゃくならば許さん」と叱責されていた。

団子の代金は、犬にではなくナオミに支払われるべきだろう。あの女はやはり只者ではない。ひょっとするとひょっとする。翌日、そんなことを思い出しながら、礼を言うために石原は木村とナオミのところへ向った。勿論、礼だけでなく、木村の指の治癒方法はどのような技術なのか確かめる為だ。これは軍にとっても画期的な医療技術となる。放っておく手はない。

しかし、寺に着いて落胆した。もうそこにはナオミの痕跡は何ひとつ残っていなかったのだ。消えうせたのである。空を見上げると朽ち果てた廃屋の屋根の上を冷たい風が渡ってゆく。

「やっぱり、下等な毛唐の覇道ではなく、東洋の王道だな」

一片の雲を見上げると、石原はそう独り言ちた。


それから二ヶ月後、予想通り木村の指は元通りになった。叱責の上司は、転勤でもうこの時部隊にはいなかった。木村の指の回収の報告をしそびれたことを石原は残念がった。


どこかの誰かが言った。

「時間」という概念は人類にとって文明史上最高にして最悪の発明である。

時計の秒針が刻んでいるのは「時」ではない。カチ、カチと動く針の音は時間の存在を証明するものではない。日沈み月出でて、春が来て夏が去り、秋が色づき冬に巡る。そのことをもって時が流れるといった人の感覚はいつから芽生えたのだろうか。流れる時間、そんなものは最初からない。

それが有ると思い始めたときから、人は生と死を怖れ、その呪縛から逃れられなくなった。動物ではなくなり人間になったその時から、己の恐怖と欲望の為の殺し合いが始まった。

過去が生まれ、現在があり、未来が来る。だが本当にそんな順番で万物が存在しているのだろうか。それは「時」という魔物に囚われた人間の錯覚に過ぎない。


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