第2章 犬と鼠 第6話 「Confrontation」
二〇一三年の春、上海である。外灘にある和平飯店の薄暗いオールドジャズバー。井村と智明がテーブルを挟んで龍一と向かい合っている。ジャズバンドの演奏はまだ始まっていない。壁際の井村がドラフトビールとミックスナッツを三人分注文した。ひとしきり、どうでもいい会話を交わした後、井村が切り出した。
「それでなんですが、葛城さん、今、上の方で、といっても東アジア各国外務省高官レベルの話としてですが、来年或いは再来年をめどに東アジア連邦の構想について合意できるんじゃないかという見込みがでてきました」
「ここにきて動きが活発化しているようですね」龍一も状況はわかっている。
「背景としては、北方のロシアの動きが過激化していまして、まぁ、そう呑気なことが言っていられなくなってきたってことです。ただ、連邦構想と言っても、各国の主権は相当温存されるので、私たちの目指すところからは、まだまだなんですが。それでも、域内の結束の強化とか、通貨統合とか、連邦議会の設立とか、そういう方向に一気に動き出すことも考えられます。やらなきゃいけないことは山ほどですが、とにかくロシアをなんとかしないことには、アジアの主権自体がやがて大きなダメージを受けます。各国の利害がばらばらだと、ほんとに対抗できませんから」
「ロシアの後ろにはヨーロッパ列強がいるしね」
智明の補足があるが、井村の弁は続く。
「合意ができるってことは、連邦設立に向けたイベントが日程上で明らかになるっていうことですから、それで、じゃぁ連邦政府の組織をどうするかっていうところが、最後の問題でして、各国の承認、といっても後づけ批准でいいんですが、まぁ、先にことを進めるためには不満の出ないところで破たんなくやりたいわけです。それで、中立的なFEORがその部分の主導的な役割を担うことでどうかという話になっているわけでして。内実は、結局は財政的な、もうひとつは軍事的な日満両国と中国政府内の連邦派のサポートのある私たちがうまく新組織のかじ取りをしなければならないという、そういうストーリーです。まぁ、軌道に乗れば、またやり方もあるんでしょうが、最初のところは力仕事ですから。で、じゃぁ誰がその組織のリーダーシップをとっていくかということになるわけなんですが、官僚や選挙民への利益誘導型の世襲政治家じゃだめってことです」
あたりまえのような次元の違う話を織り交ぜながら、井村はいつものように冗長だ。が、そこまで言って、井村は智明の顔をみながら一度唾を飲み込んだ。
「つまり、葛城さん、あなたにその大任を引き受けてもらいたいってわけなんです。各国もそれでひとまず不満は出ない。勿論我々が前に後ろにあなたを支えるんですが。見識、信念、判断力、人を引き付ける魅力、どれをとっても申し分ない。しかも、血筋だ。承諾していただければ、次回の総会で決議してもいいんです」
なるほど、そういうことだ。だが最後に血筋といったところだけは、何を言っているのか聞いている方には飲み込めない。井村の言葉は誰かの受け売りなのだろう。
「わかっています。いずれ、どのような形にしても、アクションに結びつけなければと考えていましたから。FEATの最終目標も東アジアの国家連合と繁栄にあります」
だから引き受けるとは言わない龍一は肯定的に応えた。
「じゃぁ、そういうことになりますかね」
井村は、もちろん同意ととらえた。これでいいだろう。
龍一と智明はお互いの瞳の奥で頷き合った。井村は、ただほっとしていたが、二人の視線の交わり、そこまでは気がつかない。
半年後、中国外交部の蕃部長から満洲国王室の溥禳親王宛に、翌年の東アジアサミットで連邦設立に向けて日・満両政府と踏み込んだ合意をする用意があることが伝えられた。この情報は直ぐに日本政府にも飛んだ。王室といっても政治上の権限があるわけではない。しかし、中国外交部は日本に対して非公式に重要情報を流すときには高確率でこの満洲王室ルートを利用する。他所に漏れる心配がないからである。中国は、合意に当たっては、連邦条約調印式の日程をその一年後の南京サミットで執り行うとすることを条件とした。他にもいくつか要求項目があったが、その中にどういう訳か、円明園の十二支像の返還運動に協力することという文言も含まれていたという。いづれにしても、主導権をとりたい、そうした意図の表れと言えた。
* * * * * * * * * * * * * *
井村が指摘するまでもなく、北からの脅威は日に日に高まっていた。そもそもロシアは六十年以上もの間、極東における軍事作戦能力を執拗にデモンストレーションしてきた。その脅威はいつもそこにあった。
二〇一四年のこの春もロシアは、後方支援部隊を含めた極東ロシア軍の一〇%に相当する総計五万余の兵力を動員し、東部満ロ国境のペレヤフラスカ周辺でこの夏以降大規模軍事演習を行うと満洲国に通告してきている。いつ実施するのかは未定という。それでも極東第四軍団を中心に、一個歩兵師団、一個機甲師団、さらに一個空挺師団を展開する計画だ。これは毎年行われる通常演習の三倍近い規模となる。名目は中央アジアの周辺国との紛争に対処する為の予防的行動となっているが、明らかに満洲国への示威行動と言えた。
通告を受けた側は、即座に満洲、日本並びに朝鮮政府がこれに懸念または憂慮の意を表明したが、東アジア統合の動きに対する牽制という政治的意図は素人目にも明らかだった。当然、ロシアは東アジア連邦結成の動きは察知している。
アジアではロシアは常に潜在的脅威の対象でしかない。しかも常に除け者扱いをされている。ロシアからすれば、極東に一大統合経済圏が出現しようというのに、その恩恵にあずかれないどころか、軍事的仮想敵国とみなされる。それでは面白いわけはない。が、一方では黄色人種とそこまで仲良くしたいとも思っていない。できれば、そうした連中を駆逐一掃して、そこをすべて美しいロシアの大地に変えたい。それが二百年にわたる究極の野望なのだ。だから東アジア連邦などというものが万が一出現すれば野望の実現の前に立ちはだかる障害でしかない。欧州連合と結託して、これを阻止するというのが国家戦略上の重要な要請であった。
直接的な脅威を受ける満洲国の議会は、一部でロシア系の議員からの抵抗はあったものの、親中派の強い意向でロシアの軍事演習に当たっては国軍を国境付近に展開することを決議した。一方政府は、一部鉱物資源の生産統制、ロシアへの農産物・産業機械輸出の管理強化を実施すると発表した。万が一つも可能性はないとしつつも、参謀本部は偶発的な軍事衝突を想定して作戦行動の検討に着手した。
そして皆が忘れかけていた頃、その日は突然にやってきた。
梅雨の合間の晴れた日の早朝、四時を少し回った頃だろう、突然龍一のケータイのワグナーがいつもよりけたたましく鳴り響いた。
「もしもし…」
龍一は枕に顔を伏せたままサイドテーブルのケータイを取った。
「龍一君、まだ寝ていただろ。朝早くから悪い」
智明だ。確かに起きている時間ではない。緊張した声の響きが一瞬にして龍一にも伝わった。
「あ、はい、大丈夫です。なにかありましたか?」
向き直りながら龍一は覚醒した。
「そう、大変なことになったみたいだ。ロシアだよ」
ロシアと聞いて龍一は飛び起きた。緊急事態が起きたことを直感した。が、そこまで重大なこととは想像していない。
「どうしたんですか」訊き直した。
「とうとう攻めてきた」
「え!」
智明は簡単に言ったが「攻めてきた」という言葉に龍一は驚いた。が、気を取り直す。
「軍事演習じゃないのですか?」
「詳しいことはまだ、わからない。演習は確か九月ということになっていたはずだ。私もさっき聞いたばかりで、情報収集中だ。今後の対応について少し話しておいた方がよさそうだから電話したんだけど、武井さんのところからこれから人が来ることになっている。君も今から私の家に来られないか」
龍一はベッドに座り直し、頭を掻きながらケータイに耳を押し付けるようにして智明の話を聞いている。
「わかりました。一時間以内に伺います」
「じゃぁ詳しい話はこっちへ来てから話そう。ゆっくり来ればいい」
龍一は、落ち着けと自分に言い聞かせながら着替えをすますと、川崎から等々力の智明の家へと車を走らせた。国道一号線から環八を通るルートは、朝がまだ早く、車の流れは悪くない。いったい何があったと言うのか? 攻めてきたってことは戦闘があったということだろう。いったいどんな規模で? 事態収拾の可能性は? いくら考えても答えの出る話ではない。交差点の点滅赤信号を見つめながら、まずは状況を聞くしかないと思い直すと、あれこれ無駄に考えるのを止めた。都内に入ると次第に車の数が増えてきた。それでも時間はかからない。とにかく智明の家に急ぐしかない。
智明の家は、等々力渓谷と多摩川に挟まれた閑静な住宅街にあった。矩勾配の切り妻屋根が三方に飛び出している白壁が美しい洋風の屋敷である。庭はそれほど広くはないが、大きな欅の木があった。医師だった母方の祖父が医院として昭和初期に建てたもので、近所でも評判の古い建物である。二十年前に智明は妻を亡くした。子供はいない。今は住み込みの家政婦とこの家に住んでいる。
近所の森から油蝉の鳴き声が聞こえる。龍一は静かに家の前にクルマを停めた。もみ上げの汗を軽く手でぬぐうと門柱にあるモニター付きの呼び鈴を鳴らした。サンダル履きの智明が慌てた様子で玄関を飛び出してきた。龍一の顔をみるなり「まぁ入ってくれ」と手招きした。目が合って龍一はコクリと頭を下げた。背筋を伸ばし玄関に入ると、茶色のミニチュア・ダックスフントが龍一を出迎えた。
「ワンワン、ウーワン!」尻尾を振り、前後に小刻みにジャンプしたり、智明の足もとで半身を隠したりしながら、来訪者の素性を窺う。
「コラ、ダンディ! 朝からうるさいぞ、お父さんのお友達だから静かにしなさい」
「ゴメンゴメン、誰かが来ると遊んで欲しくって、いつもこうなんだ」
愛犬を抱き上げ頭を撫でながらそう言うと、智明は龍一を奥の部屋へと案内した。
かつての診察室が、今は応接間になっている。磨きあげられた濃茶の無垢チークの床が早朝の涼しさを誘っている。大きくて四角いアンティークのガラスケースの棚の上には個性的なティーカップが不揃いに並んでいた。智明が海外に出かける度に買い集めてくるコレクションだ。智明はモーニングティーを入れている最中だった。どこか慌てていたのはそのせいか。智明は深いソファに腰をおろすと深刻な表情で言った。
「満洲との国境線で軍事衝突が起こったってことだ。武内さんの秘書官が電話で知らせてきた。あっ、ダージリンでいいよね」
「面倒なことになりそうですね。紛争状態に突入、ですか」
龍一は、ダージリンでいいねの問いに目だけで応えると、この先起こりうる諸問題を想像しながら有り体の懸念を口にした。
「いや、まだわからない。そこまでロシアも馬鹿じゃないと思うし、どこの国境線でも偶発的な軍同士の小競り合いは起こりえる。その程度の話ならいいんだが。七時に武内さんの秘書官が来て、ブリーフィングしてくれることになっている。すぐにテレビでもニュースになるだろうな」
「しかし連邦のプランには影響が出ますね。ま、慌ててもしょうがないけど」
「そのとおり。ややこしい状況になることは間違いないな」
「下手に譲歩でもしてロシアの圧力に屈したとあっては、最初からケチがつくし。そうならないような善処が必要ですね」
「かと言って強行するには満洲や中国から待ったがかかる公算も大だ。それにロシアは中華民国内の少数民族独立派への資金援助もしているし、硬軟、色々揺さぶりをかられているそうだ。それに人口の五%がロシア系という満洲にとってはさらに深刻だ」
「でも、そのあたりは織り込み済みですよね」
「うん、平時なら問題ないんだが」
智明が龍一の前に香り立つ紅茶のカップを黙っておいた。平時という言葉の対比を想像して二人とも内心身震いした。
「朝飯、まだだろ。トーストとハムエッグでいいかな。お手伝いさん、そろそろ起きてくるはずだけど」
頷くしかない。そう言うと智明はキッチンに立った。
テレビではまだこの軍事衝突のニュースは流れていない。六時を少し過ぎて、秘書官がやってきた。ダンディがまた吠えている。予定よりだいぶ早い到着だ。家政婦に案内されて応接間に入ってきた人物の顔をみて龍一は思わず「あっ、あなたは」と声をあげた。
「お久しぶりです。桜井です」
秘書官と言う女は、龍一の顔を見るなり、軽く会釈した。もう何年か前になるが、あの時のことは龍一も忘れてはいない。女としてはそこまで魅力的ではなかったが、身のこなし、話し方からして相当訓練された人物という印象が強かった。それだけに警戒心も増幅したのだ。秘書官とはその桜井だった。
「あれ、知り合いなのかい」知ってか知らずか智明はいかにも意外そうに訊いた。
「上海で、森泰蔵君がお世話になりました」
「へぇ、それは知らなかった。この人は桜井朋子さん。今は武内さんの秘書官だ」
一言でいきさつを察した智明が、改めて桜井を龍一に紹介した。
「そうですか。あの時はありがとうございました」
龍一がもう一度礼を言うと、桜井も「いえ、こちらこそ。それから、瀬上さん、私は秘書官じゃありません。外務秘書官の特命アシスタントです」と言って二人の顔を交互に見比べながら頭を下げた。
「それは失礼しました。でもあまり変わらんでしょ。君が外務省のエリートってことには違いない」
「いえいえ、そんなことはありませんから」
桜井は謙遜してみせた。そんなところが龍一には意外に映る。
「こっちから伺うべきところ、態々ご足労いただきまして、恐縮です。さて、それで、電話では満露国境で軍事衝突が発生したということはお聞きしました。一体何が起こったのか、詳しく状況をレクチャーしてくださいますか」
「はい、では昨夜に起こったことから順番にご説明します…」
桜井の説明によるとこうだ。
満洲国東南端に張鼓峰という丘陵地帯がある。ロシアと国境を接していて日本海に流れをそそぐ豆満江東岸に位置する。この一帯は、ロシアが十九世紀に極東に進出した時以来の頭痛の種で、国境線がはっきり確定していない、今でも主権範囲がグレーなゾーンである。近年は満洲国軍が、張鼓峰の稜線を国境ラインと認識し警備に当たってきた場所である。
そこで昨日小競り合いが起きた。警備中の満洲国境警備隊が、突然進出してきたロシア軍の斥候小隊と遭遇、警備隊の警告にロシア兵が引かず、そして偶発的な銃撃戦になった。最初に発砲したのはロシア側だった。その銃撃戦で満洲側の下士官が一名、銃弾を受けて斃れた。昨夜十時頃のことだ。警備隊が一旦後退すると、やがてロシア軍が張鼓峰の頂上に陣地を築きはじめているとの報告が飛び込んだ。
時を経ずしてこの報に接した外務省が、即座に駐モスクワ大使に情報収集の指示を出したのが、日本時間の零時を少し回った頃であった。日本と連携した満洲国駐露大使が即座にロシア政府に抗議をおこなった。が、ロシア側は「張鼓峰一帯は旧来よりロシア領であり、不法侵入者を排除した」との説明が返ってきたという。大使は食い下がったが、そもそも最初に発砲したのは満洲警備隊であり、断固とした措置を取らざるをえない状況が現出した責任は満洲国側にある、との主張を繰り返した。
すると払暁を待って今度はロシア軍が張鼓峰の稜線を超えて越境を開始しているという第二報が現地から入った…。
「ここまでが先ほどお電話した時点で判明していた内容です」と言いながら、桜井は話を一旦切った。
「それで、政府としては今回のロシアの動きをどう捉えているんですか」智明の質問だ。
「張鼓峰を確保すること自体に大きな軍事的意味はないとみています。それよりも東アジアに新秩序が確立する動きをけん制する為の警告ともいえるデモンストレーションであろうというのが一般的な評価です」
「そうだよね、地図でも確認したけど、ウラジオストックからは近いが、そこを取ったからどうという軍略的な意味は素人から見てもあまり想像できない」
「で、それからの状況は何かわかっているんですか?」今度は龍一が訊いた。
「そのロシアの越境部隊は、朝鮮軍師団の支援を受けた満洲国境警備隊が撃退しました。外務省が満洲政府から支援要請を受けたのが一時を回った頃で、急遽閣僚会議が招集され、ロシア軍の通常の示威行動を逸脱しているとみて、首相は、満洲との安保条約の規定に則って、国防大臣に対して後方支援命令の承認を与えました」
「そうですか。準備しておくに越したことはない。で、ロシアの狙いはいったい何だって? いくらデモとはいえ、越境してきたとなると只事ではないでしょう」
智明は急に興奮して、独り言のようにすぐに答えのでない質問を二人に投げかけた。
「これはやはり東アジアの連携に対する挑戦と見ていいでしょうね」
龍一はそのように見た。誰も異論はない。問題は軍事衝突となると、この先何が起きるかわからないという見通しの危うさである。不安は増幅される。ロシアからすればそれだけでもこの作戦は成功なのだろう。
「もう少し情報が必要だ。ロシア国内の動きも知りたいところだしね」
智明は、政府がどのように対処しようとしているのか、そこも気になって桜井に視線を向けた。
「総理も全く同じことを言っていました。軽々に事を拡散してはならないと。今、外務省と国防省は情報収集に全力を挙げています」
「ですね、軍部の暴走って言う線もある。政府の抑えがきかない状況…。なくもない」
龍一も一方的な見方は避けなければいけないと思う。
「おっしゃる通りです。武内さんは当然ですが、外務省もあまり事態を悪化させたくないという姿勢です。閣議でも確認されました。それでも外交ルートではロシアは依然強硬な姿勢を取っているようなので、今モスクワで親日派の政治家を通して、背景を探っています」
「彼らが宣戦布告したっていうわけじゃないんですから、今のところ、我々の計画に変更はないという判断でいいね」
智明にも、とにかくロシアに邪魔されたくないという気持ちが大きく働いている。
「僕もそれがいいと思います」
龍一も同調するしかないが、楽観はできない。つけっぱなしのテレビ画面にニュース速報のテロップが流れ始めた。今日は日本中が、いや世界中が大騒ぎになる。株式市場にも影響が出る。それは火を見るより明らかだった。
二人の希望的観測を裏切る新たな局面が現出するのに時間はかからなかった。
桜井の説明のとおり、最初の衝突は七月十二日の夜半だった。それから五日後の十七日未明、今度は張鼓峰の北方にある沙草峰周辺に、ロシア軍の精鋭部隊のT九九戦車大隊、ロケット砲大隊、自動車化狙撃大隊を中心とした大部隊が進出してきた。極東独立戦車旅団の一部とみられる。その動きを偵察衛星で事前に把握していた満洲軍も、果たして演習なのか、軍事侵攻の前触れなのか、判断がつきかねていた。しかし、同日午後、ロシア軍に備えていた朝鮮軍の九〇K戦車部隊が、擬装して平原を進んでくるロシア戦車部隊を目視で確認。とうとう遭遇戦が始まった。九〇K戦車は五十五口径百二十ミリ滑腔砲を装備しているが、一方の敵T九九戦車はそれ以上強力な砲力を持っている。両者引かずの消耗戦となったが、対戦車砲を携帯した歩兵部隊の支援を受けた朝鮮軍が、夕方までに敵部隊を撃退すると、国境防衛線まで押し返し陣地を確保した。
それでもロシア軍は諦めることなく兵力を増強すると、二日後には態勢を立て直し、朝から朝鮮国内の陣地に対し地対地ミサイル攻撃をおこなった。同時に航空機による偵察・示威行動も盛んになり、時には爆撃も敢行した。この為、満洲軍と朝鮮軍は師団規模の増援部隊を紛争地に派遣することを決めた。この間、満洲軍はスクランブルしたJ115M戦闘機が国籍不明の領空侵犯機を一機撃墜したとの発表をおこなっている。そして局地戦は拡大の様相を見せ始めていた。
日本政府が事態収拾へ向けた外交努力をロシア政府に対して要求すると、ロシアは朝鮮国内の軍事施設に対するミサイル攻撃は満洲・朝鮮各軍の我が国領土への侵犯に対する報復措置であるとの声明を出した。これに対し、満洲と朝鮮が反発したのはいうまでもない。小競り合いはするものの、どちらも全面対決を望んでいるわけではなかった。それが唯一の救いである。
それから三日後の夜だった。龍一のケータイに智明からメールが入った。これからテレコンフェレンスをやるという。電話会議の招集だった。桜井の他、マシピンの王ともう一人、見知らぬアドレスの誰かにメールが送られていることに龍一は気付いた。
龍一は夜十時、指定の番号に電話を掛けた。音声案内に従ってパスコードを入れる。するとピッというビープが聴こえコールインが完了する。すでに会話が聞こえる。智明が王となにか私的なことを話している。どうやら王の子供の話らしい。長男が来年日本に留学するとかいう話題のようだった。
「あっ、今誰か入りましたか?」龍一のコールインの信号音を聞いた智明が言った。
「はい、葛城です」
「葛城さん、こんばんは」王が挨拶する。
「こんばんは、王さん、久しぶりです。大変なことになりました…」
別のビープが聞こえる。
「こんばんは、桜井です」「こんばんは」
「皆さん、お揃いですか?」智明が訊いた。
「アイデカーがまだです」
桜井が知らない名前を口にした。アイデカー? 誰だろう。龍一は勿論知らない。そこでピッと音がして誰かがコールインした。
「ジョン・アイデカー。遅れました」
名前からして外国人のようだ。が、普通に日本人のような日本語を喋る男だ。
「皆さん、今夜はお忙しいところ、ありがとうございます」
どうやら桜井が進行役である。
「ではお揃いになったところで、始めさせていただきます。その前に、お断りですが、任務の秘匿性からジョン・アイデカーの素性はここでは伏せさせていただきます。ロシア内部の事情に詳しい、とだけ申し上げておきます」
「はい、了解」ジョンが答えた。どうやら桜井以外は男の素性を知らないようだ。
「じゃぁ始めよう。桜井さん、最新の国境紛争関連の状況を教えてください」
智明が電話会議の開催を宣言する。
「わかりました。まずは状況報告をさせていただきます。一部メディアで報道されているように、張鼓峰一帯の紛争地の状況に大きな変化はありません。これまで、ロシア側の損害程度は定かではありませんが、満洲・朝鮮側は戦闘車両十以上、航空機一が破壊あるいは撃墜。戦車の搭乗員を含む兵士十五名が戦死、五十人以上が戦傷。後方の基地にも軽微ですがミサイルによる被害がでています。戦果としてはロシアの戦車隊を撃退したほか、航空機五機を撃墜しています。但し三日前の朝鮮領土内の洪儀、慶興への空爆以来小康状態を保っています。が、双方、現地軍の増強を図っているのが現状です」
「結構な損害だな」
智明は予想以上の人的損害に戦闘規模の大きさを改めて知った。巷間のマスコミ情報より損害が大きい。
「それで、この後の見通しはどうなんでしょうか」
龍一が訊いた。今度のサミットでの連邦体制設立の合意にどんな影響が出るのか、そこが一番の関心事だ。が、今はそういう懸念もバカバカしくなるくらい事態は悪化の一方である。それでもこれが全面的な戦争になるとは誰も予想していない。テレビや新聞でも連日戦況のレポートやこの先の見通し、外交努力の必要性などを騒がしく報じているが、いずれも局地的な紛争という見立てが一般的だ。本気でやればどちらも失うものが大きすぎる。
「今モスクワで常呂駐露大使がマクノス外相と停戦斡旋交渉をおこなっていますが、今のところなんら合意には至っていません」桜井が答えた。
「アイデカーさん、そちらからなにか情報はありませんか?」今度は智明がジョンに尋ねる。
「はい、ロシアの外相は停戦を模索しているのですが、国内右派の強硬派から圧力を受けています。マクノスは元々欧州とは一線を画し、親アジア路線でこれまで来ている人ですが、強硬派のモロトフ内務相の一派と対立しています。彼らは満洲、日本と敵対する姿勢を明確にすると同時に、マクノスの外相辞任を要求しています。プルーシン大統領は態度を明らかにしていませんが、情報筋によると、ドイツで二ヶ月後におこなわれる総選挙で親ロシアの政権を誕生させるために、しばらくは対満、対日では強硬姿勢を貫く模様です。それからモスクワやペテルブルグでは街中でアジア人排斥のデモや、アジア人経営の商店略奪事件が多発しています。治安部隊が出動しても、遠巻きに傍観しているだけです。世論は政府のこうした対応を支持しているようです」
「成程ね。かなり深刻な状況だ。まぁ感心している場合じゃないが、そういう事情だとするとすぐにはシャンシャンと収まる可能性は少ない」
智明は悲観的な見通しを立てた。しかし、ロシアというハードルはいずれ超えて行かなければならない。そのことは誰もがわかっていた。
「王さん、満洲の国内の状況はどうですか」
「そうですね。竺首相側近の話によると、内閣は勿論戦争は反対ですが、今はこれをなんとか早く終わらせたいと考えています。現在朝鮮軍の支援を受けていますが、なるべく満洲国軍が自力で対処できるように軍隊を豆満江西岸に集めています。でも、戦争はあまりしたくないの気持ちです。ひとつの考えですが、今度のサミットでの連邦設立合意の件は少し先に延ばすことを、日本政府と中華民国政府に提案したいと思っています」
王の発言を聞いた智明はうーんというため息とも言葉ともつかない声を発して黙った。まあ十分予想のつく展開ではある。
「それからウラジオストックの太平洋艦隊の活動も活発化しています。昨夜ミサイル駆逐艦二隻が出港しました。そのあと南下して紛争地域へ向かっていることがわかっています」
桜井の言葉が皆の不安を掻きたてる。
「そうか、ウラジオとは目と鼻の先だからな。まぁ向こうからすれば順当な動きだろう」
「国防省では、舞鶴のイージス護衛艦を秋田沖に派遣することを今夕決定しましたが、ロシア軍機の領空侵犯もこの二十四時間で八回を数えています。その都度三沢からJ115Xがスクランブルをかけていますが、いつ偶発的な航空戦が始まってもおかしくない状況という観測も流れています」
「なんか、対応が後手に回っている気がしませんか」
龍一が感じたままを口に出した。
「そのとおりだ。もう少し早く対応しないと、駄目だ」
しかしどんな手を打てばそれが先手となるのか、それが誰にもわからない。
翌朝、満洲国外務省から日本と中国の外務省に一ヶ月後に控えた東アジアサミットの延期・或いは欠席の申し入れがあった。満洲がダメと言うなら、サミットはもうどうしようもない。この際、紛争の解決が先決であることは誰の目にも明らかであり、この申し入れは両政府とも飲む以外になかった。こうしてサミットは中止になった。
それから一ヶ月後、ロシアと満洲との間に和平協定が結ばれ、二〇一四年一月時点に遡及し原状回復することが合意された。目的を達したロシア側の勝利である。
誰かが言った。
なぜ、人と人は肩が当たったくらいでそんなにいがみ合うんだ。人間はみな一本の木に連なる渋柿のようなもの。お前のすぐ横に仏頂面してぶら下がっている青い柿は、赤の他人のように見えるが、よく地面を見てみろ、奴もお前と同じ一本の木から生っている。お互いを労われ。木の反対側にだって多くの見知らぬやつらがぶら下がっているぞ。見たことも話したこともない連中だが、そいつらだってお前と無関係ではない。木が切り倒されればお前も奴らも同時に同じように死ぬ。
何が言いたいかって? だから、赤の他人全員が、実はお前の一部であり全部だってことだ。賢いお前ならわかるはずだ。隣の高いほうの枝の奴が少しくらいお前より日当たりがいいからといって、一々不平を喚き散らす必要はない。実り熟して地上に落ちるまで、お前はお前のやるべきことを淡々と全うすればいい。
第2章 犬と鼠 完




