第2章 犬と鼠 第4話 「捕獲」
やはりその日は唐突にやってきた。
龍一のケータイがいつものように鳴った。ナオミだった。龍一は跳びあがった。例のネズミが欧州に現れたと言ったのである。黙っていると、ナオミはさらに予想外のことを言った。
「来週パリでクリスティーズのオークションがあり、そこにネズミが出品される。だからこれを競り落とすから」
龍一は思わず「えー、それってそんなことなの!」と叫んでしまった。ナオミは平然としていた。とりあえず龍一の協力が必要なので、オークションの日は家で待機していてほしいというのだ。そりゃあ龍一に選択肢はない。実際何をどうしてほしいのかもわからぬまま「了解」とだけ応えた。
それにしても、ネズミの現れ方が意外だった。これってマジなのか。それにイヌの方は一体どうなった? そんな無駄な思考が龍一の頭を一瞬かすめた。智明に連絡を取ると「どうやらそのようだ。頼む」という言葉が返ってきた。
朝はまだ早かった。龍一が丁度朝食の準備をしているとドアフォンのチャイムが鳴った。モニターで来訪者をチェックするとナオミだった。マンションのエントランス前にいる。龍一は「よく家がわかったな」といった表情で、自嘲気味のため息をつくとロックを解除した。そう、今日がオークションの当日なのである。
やがてドアをコンコンとノックする音が聞こえた。龍一は黙ってドアを開いた。ナオミが立っている。黄色いスニーカー、グレーのイージーパンツに赤チェックのシャツ。それにベージュのダッフルという服装だ。ヘアスタイルはボブとでもいうのか、ショートヘアだ。龍一には妹はいないが、こんな妹ならいてもいいかもしれないなどと妄想すると、茉莉の顔が頭に浮かんだ。
「おはよう」
ナオミは龍一の顔を見るなり、少女のような挨拶をした。龍一はナオミの全身を足元から上に向かってこっそり観察しながら「あっ、おはよう」と反応した。マインドをコントロールされているような気がする。説明はできないのだが、そんな妙な気分が心地よくもある。
「よくここがわかったね」
言わなくてもいいようなことが口を突いて出た。ナオミは、メモの紙片とコンビニ弁当の袋を龍一に手渡すと、ニコッと笑う。そして、すたすたと部屋の奥に進み、言った。
「私、昨日からあまり寝てないから。少し充電させてもらっていいかな?」
「充電?」
「あの、ちょっと横になりたい」
「あ、どうぞ。そうだなあ…」
龍一が何かを言い切る前に、ナオミは突き当りの寝室へと入り込み、ベッドに座った。
「えっ、そっちは汚いぞ」
そう言ってみたが、変なことを想像して、それ以上言葉が出ない。聞こえてないのか、ナオミは黙ったままごそごそと自分のバッグの中を漁り充電器を取りだすと、コンセントにそれを差し込んだ。目でナオミの動作を追っていた龍一が、ああそういうことかと思った途端、ナオミはベッドに足を投げ出すと横になって布団をかぶってしまった。えっ、それ俺のベッドだぜ。
「そこオヤジ臭いだろ」
龍一は頭をかくと、ばね仕掛けの人形のように首を左右に揺らした。
「そこで寝ちゃうの?」
「二時間」
ナオミが答える。それ以外何も言わない。ナオミもやっぱり眠るのか。龍一はほっとした。しばし部屋に沈黙が訪れる。コンビニ弁当と一緒にとり残された龍一は黙ってそれを食べるしかない。
そして時だけが進んでゆく。ナオミは一体何をしようと言うのか。茉莉にこんなところを見られたらただでは済まない。フライパンの目玉焼きが冷めはじめている。
クリスティーズとは、オークションハウスである。一七六六年にジェイムス・クリスティーズが最初のオークションを開催して以来、安定して成長を続けている、世界有数の老舗オークションブローカーだ。美術品やジュエリー、高級ワインなどを取り扱う。ヨーロッパを中心に世界の主要都市にセールスオフィスと呼ばれるオークション会場を有している。が、何故か東京にはない。
オークションの参加は自由である。会場に出向かずとも、事前登録でインターネットのオンラインや電話、書面での参加もできる。
龍一はナオミに渡された紙片に目を落とした。そこにはオークション参加のIDとパスワードが書いてあった。
「クリスティーズか」
龍一は弁当を平らげると、ソファに座り直しパソコンを開いた。クリスティーズをググってみる。
「おっ、これか。クリスティーズのオークション。確かに今日やるみたいだ」
ネズミは中国の骨董品として出品されると言っていた。そう思い出しながら、それらしいものを探し当て、リストを確認する。
「あった、これか」
YuanMingYuanのブロンズ像という出品がある。そう、これだ。入札開始時間は現地時間の朝の十時となっている。それにしてもナオミはよくこれを見つけたものだ。感心しながら龍一は時計を見た。
「こっちの五時か。まだ随分時間はある」
龍一はブロンズ像の「詳細」をクリックした。降ってわいたような話だが、オークションという行為には興味がある。出品は、ブロンズ像が二点。ネズミとウサギの頭像だという。このうちのネズミの画像を開いてみる。正面と側面、そして背面の画像が現れた。黒光りしているネズミの頭部の写真だ。龍一はパソコンの画面を覗き込んだ。人間の頭より一周りは大きそうだ。耳ととがった鼻先の特徴からかろうじてネズミとわかる。
「これを落札するっていうことだな」
龍一は言ってはみたものの、オークションの手続きのことはわからない。仕方なく、円明園の噴水時計や清朝の歴史、アヘン戦争などのネット上の情報をランダムに調べ、十二支像の辿ったらしい運命を確認した。イヌはやはり行方不明となっている。
「もう十一時だ」
時計を見上げた龍一が独り言を言った。なにか準備しないと。時間はあるが気が急いている。が、何をどう準備したらいいのかもわからない。入札するにしたって、そもそも資金はどうなっているのか、十万、二十万のはずはない。智明はこのことを知っているのだろうか。知らないってことはないだろう。まぁナオミのやることだ、心配はない。そんなことをあれこれ龍一は考えるしかない。
「お金のことは心配しないでいい。そもそもそんなモノには何の価値もない」
後ろからナオミの声が突然聞こえた。いつの間にか、ナオミが起き上がってベッドに座っている。
「おっ、びっくりしたな。起きたの。結構寝たね」
ナオミは立ちあがって、龍一の横に座った。龍一は本当にびっくりしたような顔でナオミを見た。
「今日は、多分一騎打ちになると思う。取るか取られるか。勿論、取られるわけにはいかない」
「取るか取られるか? 一騎討ち?」
龍一はオウム返しに言葉を繰り返した。
「そうね、向こうはこっちのことは知らない、そこがつけ目。いや知っているかな。でも、億の単位になることは間違いない」
「オクって、億?」
眉が吊り上がった。競りといっても、たかが鋳物の骨董品。精々何千万円という金持ちの趣味の世界の話と思っていたから、流石に億と聞いて額から冷汗が流れ出る気がした。やはりネズミは只者ではないということか。裏を返せば、こちらと同じ目的をもった何者かがいる。それとも泰蔵を襲撃した一味か。さもなければ中国政府系の機関が純粋に文化財を取り戻そうとしているということだ。そのいずれかだろう。
「それから電話だけど、オークションハウスのスタッフが対応してくれるから、お願いしますね。あなたは、ただ金額を言えばいい」
ナオミが簡単に段取りのことを説明した。
「そうなのか、わかった。人の褌で相撲取るってのは、こういうことを言うんだな」
しかも幾らでもいいという。なら勝つまで淡々とやるだけだ。それでも億と聞いた龍一は、自分でも気がつかないうちに、軽い興奮状態に入りつつある。勝負師の血でも流れているのだろうか。いや、戸惑いもある。今はその時まで黙って待つしかない。龍一は恐る〱訊いてみた。
「お昼になるけど、少しお腹、空かない? よかったら何か食べに出ない?」
「そうだね、時間もあるし、じゃあ出かけましょうか」
「えっ、行く? そうか、じゃあそうしよう」
ナオミにしては珍しい反応だなと思いながらも、龍一は慌てて出る支度をした。近所にうまい蕎麦屋があるんだ。そんなセリフが頭の中を駆け巡った。
時計の針は午後五時五分前を指している。
「じゃぁ、電話しましょう。ログインしてください」
ナオミの指示が出た。龍一がログインすると、ナオミがオークション指定の番号に電話をかける。参加者が確認できると、担当者につながった。スタッフはフランス人のようだが英語での応対だ。龍一がインターネットでオンライン中継にアクセスした。臨場感あふれる会場が画面に映り出た。すでにオークションが始まろうとしていた。競売人が壇上に上がり、そして出品されたネズミがパソコン上のモニターに登場する。
「これだよ」
ナオミが龍一に視線を送りながら可愛らしく言った。画面では、出品されたネズミの来歴説明が始まった。一年前に亡くなったイヴ・サンローランの遺品整理の中から出てきたものだという。遺産を相続した娘が出品した。真贋はわからない。中国清朝時代の庭園の噴水時計に飾られていた装飾用の頭部銅像との説明が追加される。なるほどこういうことか、シュトッカーが言った「現れる」という意味は。土器時計がこのタイミングで出てきたこともシンクロニシティなのであろう。ナオミは瞬きもせずに画面を見つめている。
電話では会場の進行の詳細はわからない。スタッフが電話で龍一に競りは五万ユーロからのスタートだと告げた。いきなりこの金額からだ。
ナオミが頷いた。
「六万」と龍一。ごくりと息を呑む。簡単に落ちればそれに越したことはない。オークションは静かに始まった。さぁ、どうだ。手に汗握るわけでもないのに、電気的な緊張が首筋に走った。
スタッフが容赦なく十万が出ましたと言った。やはり誰か競合相手がいる。ある意味当たり前だ。ひとつためを置いて「二十万」と龍一。中々心得ているじゃないか。自画自賛する。
しばらくしてスタッフ、五十万が出ましたと言う。向こうも容易ならぬ相手がいることに気づいたのだろうか。龍一がナオミの顔を見上げる。あっという間に日本円で一億を超えようとしている。ナオミは次行けと無造作に合図を送る。まだ全然勝負どころではないという素振りだ。龍一は一気に「百万」とコールした。勝負の桁がまたひとつ上がった。競っている奴はいったい誰なのか。敵なのか。中国か。それともただの道楽金持ちなのか。緊張の度合いは否が応でも上昇する。こんな電話の一本一言で普段手にすることのない金額の個人取引をしているのだ。しかも、物理的価値としてはただの銅製の鋳物だ。間違って落札したら、その時は冗談でしたと開き直れば許してくれるのだろうか。
中継の画面は、少しだけ遅れてやってくる。壇上の競売人が一人で何やら会場にいるオーディエンスと視線のやり取りをしている。マイクに向かってなにかを言っているかと思えば、どこからか入ってくる応札の情報に反応する。どうやら、ビッド参加者は会場にはいないようだ。画面では龍一の百万が今コールされた。会場がざわついているのがわかる。なんでこんなものに百万という値段がつくのかといった驚きの顔だろうか。列をなす金持ちそうな赤ら顔の初老の男たちや寒くもないのにファーコートをまとう派手好きの醜い白人女の顔が映し出される。会場は戸惑いの熱気を帯びてくる。
スタッフ、二百万が出ましたと言った。
ナオミは指を五本立てる。龍一はナオミの顔を見ながら捨て身の「五百万」をコールした。これで一気に決着をつけよう。ナオミの指はそう言っている。一体、相手は誰だ。ネズミがタダものではないことをもう一度実感すると、改めて龍一の背中に戦慄が走った。
が、相手も負けていなかった。スタッフ、一千万ユーロ来ましたという。バカげたビッドだ。隣り合う客同士がひそひそ話をはじめている。口元を見るとオーマイゴッドと言っているようだ。そんな会場の雰囲気が電話からも伝わってくる。龍一もそう思う。オーマイゴッド! いやオーマイキャッシュ!だ。またナオミの顔を見る。指を二本立てて、次、行きなさいといった仕草をする。
龍一「二千万」のコール。マジですか。
反応が止まる。競売人が、ほかにないかといった声をあげている。勿論、会場にはいない。もう一人の応札者に投げかけた言葉だ。ハンマープライスか? いや、まだだ。
スタッフが、二千百万入りましたが、いかがしますかと龍一に伝える。スタッフも、興奮している。十五分もしないうちに、五万が二千万を超えた。それもたった二人の応札者の間の応酬で。会場は静かなのに騒然としている。こんなメインイベントでもないビッドで、ここまで盛り上がるとは。誰もの顔にそんな表情が見て取れる。苦笑いしながら首を横に何度も振るさっきの初老の男の顔が画面に映る。
「二千二百万」と龍一。そろそろ終局が近づいているのだろうか。そうなら最後の詰めの勝負だ。龍一はこれまでにない緊張と興奮に襲われた。が、これが最初で最後だ。
二千二百五十万と相手。
「二千二百八十万」と龍一。
向こうは二千三百万と返してくる。こちらの出方を探っている。もう限界だろう。
「二千四百万」と龍一。「詰めろ」だ。
反応がない。緊張の頂点に今いる。All or Nothingの瀬戸際と言っていい。まだ反応はない。どうやら対局者は投了したようだ。次の瞬間、お客様が落札されました、とスタッフが龍一に伝えた。最後はあっけなかった。
一気に緊張が歓喜と変わる。よっし、やったぜ。龍一の額に汗がにじんでいる。次の瞬間、別の不安が頭をもたげた。ナオミは涼しい顔をして、パソコンの画面を見ている。電話より三十秒ほど遅れて、競売人がハンマープライスの宣言をした。
「思ったより、簡単だったね。向こうは生身だったかな」
ナオミはあっけらかんと言った。
「おいおい、それだけか?」
あまりにそっけない。どっちも生身だよ、と龍一は心の中で呟いた。
「請求書くるから。あ、そうそう、ご免ね。それであなたの名義と銀行口座情報使わせてもらっているから。二週間以内に支払よろしく、ね。あと、引き取りも」
「えぇ、ええー、二千四百万ユーロだぜ! えー、日本円で三十億とかそんなんだろ」
思わず龍一は我も忘れて子供じみた声を出して叫んだ。智明が何とかするというのはわかっている。それでも、万が一ってこともある。ナオミは笑っている。
「心配しなくていいよ、後は私が処理するから。それより、ネズミが到着してからが、また仕事だよ」
ナオミはもうその次のことを考えている。飛び上るほど大変なことをナオミは何気なくこそっと言っているのだ。相変わらず。
「マジで」
大概の事には動じない龍一も動揺したが、気を取り直した。まだナオミは笑っている。そして人差し指を唇に当てて「しっ」と言う。なにかまた仕掛けをしたようだ。何をしたかは言わない。悪魔だ、龍一はナオミの行動力に改めて恐れをなした。まぁ、後のことは智明がなんとかしてくれるだろう。もう一度自分に言い聞かせた。世の中はこうして動いている。龍一はそんなことも実感した。
すると、ナオミはひと月もしたら戻ると言って、龍一のマンションを出て行った。今夜は眠れそうにもない。とっておきのウイスキーでも出して余韻に浸るか。一人になった龍一は高揚の後の脱力感を味わうと、急に茉莉の声が聞きたくなった。
翌日、新聞の三面の片隅にこんな記事が載った。
『クリスティーズが主催するパリのオークションで清朝末期に英仏連合軍が清朝離宮「円明園」から略奪したとされる「十二支動物像」のうちのネズミとウサギの頭部像が競売にかけられた。これらは先年死去したフランスの有名デザイナー、イヴ・サンローラン氏の遺品となっていたものだ。会場からの応札はなく、電話で二名が応札したが、最後に予想価格を大幅に上回る二千万ユーロ以上でネズミが競り落とされた。
この銅製の像にそれだけの価値があるものなのか、落札価格が天井知らずに上昇し続けるさまを目の当たりにして会場には騒然とした空気が漂った。その価値を知るものが落札したには違いないが、誰が落札したのかその素性は明かにはされていない。さらに不思議だったのが、ネズミに二千四百万ユーロの落札価格がついたにもかかわらず、ウサギのほうはその二百分の一の十万ユーロで会場にいた北欧の貴族の老夫婦が落札した。
一方、中国の文物局は「競売は中国人の感情を著しく傷つけるもので、略奪した財宝の所有権は中国にあり、速やかに返還されるべきだ」との声明を出した。事前に中国政府はクリスティーズに競売の中止を求めていたが、クリスティーズはこれを無視し、強行した経緯がある』
* * * * * * * * * * * * * *
資金はやはり三宝ストラテジの口座から振り込まれた。あとから龍一が聞いたところでは、ナオミのアドバイスを元に智明が投資していたケミカル関連の会社が株式上場した時に得たキャピタルゲインを充当したらしい。資金手当てはできていたのだ。ともかく支払いを済ませると二ヶ月ほどで、落札したモノが三宝の芝浦倉庫に届いた。そして智明の指示でネズミはセキュリティを強化した倉庫に慎重に保管された。
それから二週間が経った。夕方、オークションの日と同じようにナオミが龍一のマンションへとやってきた。小娘は部屋へ入るなり「ちょっと一時間」と言い、又もや龍一のベッドに向かうと、躊躇なくその中にもぐりこんだ。
「やれやれ。まったく最近の若い子は…」
龍一はそんな独り言とともに苦笑した。あ、いや、三十年後の若い奴はってことかと心の中で言い直す。
「お父さんの匂いがする」
ナオミは毛布の臭いを嗅ぎながら無邪気なことを言った。まさか加齢臭か? そこまで歳行ってないぞ。なんてこった、これで俺に襲われたらどうするつもりなんだろう。龍一はどこから見ても普通の女の子のナオミを横斜め下に見ながらいけない妄想をしてみる。いや、待て…あの力は若い女のそれではなかった。雨の事故現場を離れる時に自分を引っ張った彼女の妥協のない腕力を思い出した。やはり、この子は普通の人間ではない。
ナオミは一時間後きっかりに目を覚ました。起き上がるなり「じゃぁ今からネズミのところに行きましょうか」と、龍一をデートに誘うかのように言った。
「えっ、そうなの?」
「そう、そうなの」
ナオミを乗せた龍一のクルマは、夜の渋滞が解消した首都高を都内に向かって走った。マンションから芝浦までは三十分も掛らない。三宝の倉庫はレインボーブリッジを見上げる場所にあった。夜八時、周辺の産業道路を走る車両は多くはない。倉庫のセキュリティゲートの前までやってくると龍一はクルマを停めた。間もなく後ろに一台の車がやってきて、同じように停まった。智明だった。
広い倉庫の中の鍵のかかったオフィスに、それは木枠のパレットに入ったまま安置されていた。こうしてみると三十億の代物の扱いとは思えない。そんな龍一の感想を見透かしたように「ここに置いてある分には安全だ」と智明が言い訳をした。
「あまりあちこちに動かすと、人目につく。じっとしている方がいい」
ナオミも探偵かそれともブツの密売人のようなことを言った。
「ちょっと、開けるから手伝ってくれるかな」
智明は二人に向かって言った。木枠はすぐに持ち上げるようにして外れた。さっそくネズミとご対面か、と思いきや、ビニールのラッピングがこれでもかと言うくらいぐるぐると何重にも巻かれていた。取り除くのに十分掛った。
「扱いは慎重にね。四十億だから」
いつの間にか十億上乗せしている。智明が時々声を掛けながら、三人は黙々と作業をした。そして、最後の一皮をむいた。するともう一つ箱が現れた。それを龍一がゆっくり持ち上げた。ほらどうだ、三人の、いや二人だけだろうか、その興奮は否が応でも高まった。写真通りのネズミが期待通りの姿で現れた。マホガニー調の四角い台座の上に支柱があり、ネズミの頭はその中央に超然として存在し、その眼はあらぬ方を見通している。
「うーん」
龍一は感嘆の声を上げた。目の前のネズミにどうこうというより、先日のオークションの競りの場面を思い出している。
「こう見ると黒というより黄金色にみえる。馬みたいだな」
智明が実物を見た感想を言ったが、馬にしては耳が鼠すぎる。長旅の不平を言っているようにも、見つけてくれた礼を言っているようにも、その半開きの口元が語りかけている。この先ネズミにどんな運命が待っているのか、それは誰にもわからない。いや、あるべきところに帰る。ただそれだけかもしれない。
ナオミがネズミを丹念に調べはじめた。そして、シュトッカーの腕時計のときと同じように自分の腕時計をネズミにかざす。ネズミは一体成型の鋳物でできていた。表面的には細工や仕掛けがしてあるようには見えない。ナオミの時計は反応しなかった。
「どうしたんだ」
落胆気味に智明が覗き込む。そしてぐるりとネズミを一周して、何か目に見える手掛かりはないか探した。
「反応がありません。複雑なトリックがあるのだと思います」
「バラしてみるかな?」
ナオミが微笑みながらふざけた。珍しい。
「おいおい、一応四十億だから、慎重に頼みます」智明が真に受ける。
「冗談です」
「謎を解き明かしたら、中国に返還する必要があるでしょ」龍一も慌てた。
「そうそう」
そういうのは冗談でもやめてくれという表情の智明だ。
「シュトッカーがあとから仕掛けをしているとしたら、何かしらの痕跡があるはず」
ナオミが真顔にもどって言った。
「これは何でしょう?」
ネズミの左耳の後ろ側が微妙に右よりも盛り上がっているように見える。龍一が気付いた。しかしあってもミリ単位だ。
「なるほど、ここは後から肉盛りしているかもしれない」
智明はその部分を撫でながら左右を比較した。ナオミがじっとネズミの耳を見ている。
「シュトッカーが言っているように、イヌの入手が同時に必要なのでしょう」
「そうそう、ナオミさん、そっちの方はどんな具合ですか?」
龍一が思い出したように訊いた。
「イヌの手がかりは九〇年ほど前の欧州に遡る必要がありました。石原さんに会って、イヌの探索をお願いしたところです。彼は成し遂げると信じています。明日もう一度会って、その後の状況を確認します」
百年も前の人物に、ついさっき会ってきたみたいな言い方が相変わらずナオミだなと思いながら、龍一は智明に視線を送った。
「あの、ちょっといいかな、質問なんだけど。そのイヌの所在がわかっている時代に遡って、そこからそのイヌをこっちに連れてくるってわけにはいかないんだろうか」
龍一が、前からずっと思っていた疑問を初めて口に出した。ナオミは考えている。そして言った。
「タイムトラベルで一番危険なのは、その世界の物質、エネルギーの総和を変えてしまうことです。ある時代にタイムトラベルすると、その時代のエネルギーの総和がタイムトラベルした質量分だけ増加する。それは許されないから、その質量分の何かが別の世界に飛ばされる。或いは波エネルギーに変異する。それが玉突き状態になって半永久的にその現象が続くということです。これは仮説ですが、そのような理論に基づいてタイムトラベルはコントロールされているのです。それで、これを避けるために、タイムトラベルマシンは、等価の物質あるいはエネルギーをトラベル元の世界に飛ばすのです。さもなければ、影響を最小限に抑える為トラベルしたその瞬間に戻るしかない。別の言い方をすると、過去のあるモノを現在に持ってきて代用することはできない。そして元の世界に戻る時は、トラベルした時刻に戻る」
「えっ、だって、俺も一度タイムトラベルしているじゃないか。あの時は同じようなことが起こったってことなのか?」
「ですから、向こうにいたあなたが消滅したのです」
ナオミはとんでもないことを言った。本末転倒だ。龍一は頭の中がリセットされる感覚を味わう。
「消滅っていうか、事故で死んだっていうことでしょ?」
自分が死んだことを他人が死んだみたいに言うのはやっぱり気持ちが悪い。
「厳密にいえば、そうではありません。あなたがタイムトラベルしたことが引き金になって彼は消滅したとも言えるのです。それが因果の法則」
念押しするようにナオミは恐ろしいことを口にした。いや、レトリックか? あるいは禅問答か。それにしてもひどい。じゃぁ行かなければよかっただけのことじゃないか。いや、やっぱりそれはあり得ない。そもそも人間が死んだって質量やエネルギーの総和が変化することにはならない。それにタイムマシンやナオミの質量は計算されていない。やはりレトリックだ。
とにかく、今すでにどこかにあるはずのイヌを過去から持ってくるわけにはいかない。ナオミも現物を見ているわけではない。さらに彼女は決定的なことを言った。
「そもそもイヌは熟成したものでなければならないのです。それだけの時を経た本物のイヌが必要。つまり、イヌは今もこの世界のどこかにある。裏を返せばそれを探し当てればいいだけの話」
「?」
龍一も智明も熟成の意味を量りかねたが、話の後段はもっともなことだと思った。今は手がかりがつかめなくとも、石原の算段具合ではっきりする、ということなのかもしれない。なにも焦るようなことではないのだ。
その時。智明が何気なく手にしていたシュトッカーの土器時計に変化が現れた。
「あっ、時計が反応している!」
気がついた龍一が驚いた。文字盤が薄赤い点滅をはじめたのだ。
ナオミは自分の時計を見た。すると同じようにLEDが点滅している。
「シュトッカーの腕時計を経由してデータ交換をはじめました」
ナオミが言った。すると数秒でデータの読み込みに成功した。
「人間の遺伝子情報の一部です。しかも二人分」
「遺伝子情報?」
龍一と智明は同時に反応した。ナオミはしばらく考えている。そして口を開いた。
「二〇三〇年頃から、重要機密情報のパスコードに個人の遺伝子情報が用いられるようになりました。特に軍事または外交関係において。シュトッカーは軍人です。ですからこれはシュトッカーが言っていた情報へアクセスするための鍵、つまりパスコード」
「そうか、手掛りとしては充分だな」
手が込んでいるなと思いながらも、智明は一縷の望みをみつけたかのように言った。
「待って。イヌはどうなりますか」
「セットで考えるべきでしょう。シュトッカーはイヌとネズミがあるべき場所に戻って初めてことが成就すると言った。遺伝子情報がパスコードとして用いられる場合、生体認証とセットになることが多く、とくに眼底血管文様が用いられる」
龍一は面倒だなと智明と同じようなことを思った。
「遺伝子情報に、眼底血管か」
智明も気の遠くなるようなこの先の道程を思いやると、大きく息を吐いた。
「その可能性はあります、いえ、その可能性が高い」
ナオミも認める。悲観する必要はない。
「じゃぁ、次なる疑問は、その二人分の情報ってところだ。一体誰と誰のか?って話だ」
もう一度智明は息を吐く。思案気に腕組みしてみても、なんのアイディアも浮かばない。が、龍一がこの上のない着眼点を提示する。
「シュトッカーの言葉の中に何かヒントがあるんじゃないでしょうか。もう一度聴いてみませんか」
「おっ、そういうことか。いいところに気がつくね。じゃあもう一度シュトッカー時計にお伺いを立てるか」
智明がシュトッカー時計をナオミの電波時計に近づけてみた。暫く反応を待った。しかし、待てども暮らせども、二度とシュトッカー時計は喋らなかった。
「ダメだ」智明が落胆する。
「何を言ったか録音しておけばよかった」龍一も後悔だ。が、実際にはそれは無理だった。
「ナオミ君、君なら覚えているだろう」
一縷の望みをナオミに掛ける。すると黙っていたナオミが微笑みながら応えた。
「これは自ずと明らかです」
「おっ!」やっぱり頼りになる。
「シュトッカーのメッセージの中で、個人名が二人出てきました。遺伝子情報は二人分。そう考えれば、山井康司とその母親の佳奈」
「なるほど。そういうことか」
智明と龍一はすんなり合点して興奮した。さすがはナオミ、としか賞賛のしようがない。
「シュトッカーは、メッセージの中で脈絡もなくこの二人の名前を出しました。話の主旨から外れるこの二人に態々触れたのには訳がある」
「うんうん。じゃあこの二人で決まりだ。だけど山井康司っていう人物はいったい何者なんだ」
「私を作った人」
「いや、そういうことじゃなくて、生い立ちとかさ」
「日本人で長野生まれ。本名は桂木康司。三〇歳で京都大学大学院を卒業後、アメリカに渡ってシカゴ宇宙工科大学で研究員としてワームホールを研究。その後フェルミラボに招聘されて、タイムマシンの開発をおこなった。三十五歳の時に同僚の山井奈緒美と結婚。改名はこのとき。世界核戦争が起きる前の話です。奈緒美とは康司が四十歳のとき死別。母親の名前は山本佳奈、父親は…葛城龍一」
智明は最後の一言を聞いて跳びあがった。そして龍一の顔を見た。
「なんだ! それじゃあ全部繋がっていたのか」
「そういうことです。今ここに葛城龍一がいることには必然性があるのです」
当の本人はなんのことかわからず「えっ! どういうこと?」と言った顔を見せた。いや、内心では相当当惑している。
「ちょっと待ってくださいよ。その葛城龍一って本当に俺のこと? 山井っていう人物が息子だなんていわれても。というか、ちょっと待って、子供、まだいないし」
山井の話はあの夢の中にも出てきた。それを思い出している。それにこの先子供が出来るとしたら、それは茉莉との間だ…。智明もすぐに気がついた。
「そりゃそうだな。山井氏が二〇四〇年でだいたい五十歳くらいだとしたら、今もう二十歳にはなっている。龍一君、二十歳の隠し子がいるのか?」
冗談めかして智明は言った。明らかに、それは矛盾点だ。
「山本佳奈のほうはどうなんでしょう?」龍一はそっちの方も気になる。
「実在しません」ナオミは断言した。
「何だ、やっぱり。それじゃぁ話にならないじゃないの」
智明も拍子抜けした。が、ナオミが意外な言い方をする。
「この世界線では、という意味です」
「どういうこと?」
「むこうの世界線には存在しています」
「もうちょっと分かり易く」
「彼女らが存在する世界線では戸籍情報が整っている二十世紀以降の日本人のすべての血縁がデータベース化されています。誰が誰の子供であるか、親であるかは容易にわかるのです」
「そんなことまで簡単にわかるのか。というかそれがデータベースになっているというところがすごいな」
龍一も感嘆するしかない。
「血縁とかならこっちでも一緒じゃないのか?」
智明の疑問はそういうところにもある。が、ナオミは否定した。
「それは異なります。実際向こうでは葛城龍一は既に死んでいるし、こちらでは生きている」
そう言ってナオミは龍一の横顔を窺った。
「確かに、そういうことだな。怖い話だがそれが現実なんだろう」
「変わらないのは、誰が誰の子として生まれてくるかという部分だけです。よって、山井康司は葛城龍一と山本佳奈の実子であることは、間違いありません」
「ようし、わかった。そういう前提でいいだろう。で、どうする。年齢差の矛盾は依然存在する。しかも山本佳奈は実在しないという致命的な問題もある」
なにかに納得した智明は多少の矛盾には目をつぶり勢いづいてみせた。
「別の世界線から彼らを連れてくるしかないでしょう」
智明と龍一は「えっ!」という表情を見せた。
「何、そんなことができるの?」
出来ない話ではない。「この世界では存在しない妻と息子を向こうから連れてくる」という奇天烈な発想に、龍一は俄然と興味が湧いてくるのを感じた。知らぬ間に妻子持ちか。いや、俺には茉莉がいる。
「やってみるしかありません。向こうには間違いなく山井は存在する。そして彼の母も存在する」
「あれ、ちょっと待って。僕は殺されたよね?」
龍一は苦笑いしながら、それで子供が作れるの?という疑問を呈したつもりだ。
「今ここで問題なのは、康司と佳奈の遺伝子と生体認証情報です。この二人を確保するのが当面の問題となります。そこに絞りましょう」
龍一ならここにいるじゃないかとはナオミも言わなかった。
「そうだな、僕のことはまあいいか。しかし、年齢差もどうしてなのか、不思議だ」
「親子年齢の矛盾の原因としてはタイムトラベルに起因する可能性があります。今は深く考えなくていい」
「じゃあ、そのミッションはナオミ君に任せていいね」
その「タイムトラベルに起因」の意味はわからなかったが、智明はナオミに確認した。
「二人を確保します。ただし、必ず元の世界に返すことが条件になります」
そうしなければ向こうの世界線が破たんすることになるだろう。それもあってはならないことなのだ。すると「そりゃそうだろうな」と智明も龍一も頷きながら口を揃えた。
「あれ、それでそもそもの目的はなんでしたっけ?」
思い出したように、何故こんなことをするのかわからなくなった龍一がナオミに向かって訊いた。
「山井の存在する世界を救う為です」
そうか、一義的にこれはナオミの問題であるが、突き詰めてゆけばナオミに依存している自分たちの問題ということ。これが因縁というものなのだ…。
一ヶ月後、ネズミは厳重に梱包され直し、FEORの名前で南京の文物局へと送られた。いずれネズミは収まるところに収まらなければならない。




