第1章 タイムトラベル 第1話 「出会い」
「八紘一宇」(ハッコウイチウ)とは、「人類皆、力を合わせて幸せに生きよう=世界は一つ屋根の下にある」という意味だったが、第二次世界大戦中、日本の帝国・軍国主義においては、これが侵略戦争のスローガンとして用いられた。
今、何者かが「八紘一宇」の旗印を掲げ、この理念を具現すべく、既にそして静かに、誰にもわからない時空を超えたところで、「歴史を改変する」という計画が始まった。
第1章 タイムトラベル
第2章 犬と鼠
第3章 兵の夢
第4章 交錯
山本佳奈は、それまで勤務していた都内のインテリアデザイン事務所を辞めると、Ksプランニングを立ち上げた。四年ほど前のことである。デザイナーとしての独立は、傍から見れば向こう見ずな行動とも受け取られた。が、彼女には理由のない自信があった。三十を少し越えたばかりで、グレーのスーツが似合う「できる女」系の女子だ。あるいは、軟弱な男子に「お姉さんにイジメられたり、優しくされたりして甘えたい」とでも言われそうな女王様キャラである。何かにイライラしているときは、怒った牝鶏のように嘴を突き出し、ぐいぐいと前へ向かって歩く。当然部下にも厳しい。
今では三人のデザイナーと二名の総務・営業スタッフを使い、新しいクライアントからの信頼も得てそれなりに社長業をこなしている。毎日が忙しい。が、最近思うことがある。一々、人に指図をして業務を切り盛りするのはどうやら自分の性には合っていない。あれこれ面倒な指示を繰り返し出しては、あらぬ心配をするよりも、只々何かを命令されて「はいはい、わかりました」と言いなりになって、毎日退屈な仕事を無難にこなしているほうが余程楽にちがいない。
そうは言っても社員の前でそんな自分の弱い胸の内を曝け出す勇気は全くない。彼らが動揺するし、そもそも自己否定になる。故に我慢することが多くなり、ちょっとしたことでも追いつめられると、精神的にアンバランスになってしまう。が、そんな時でも、結局は一人でじっと耐えるしかないのである。
が、救いもあった。気の置けない仲間がいる。結衣は佳奈が起業した時に前の会社から一緒についてきてくれた後輩だ。今はチーフデザイナー格で佳奈の右腕に成長している。
佳奈は南信州出身である。父親がとても厳格な人で、子供の頃はとにかく厳しく育てられた。時に、子供の佳奈には理解できない理不尽なことも言った。だからそんな父親にいつも内心反発していた。こんなお父さんなら要らないといつも憎んでは、よく母と泣いた。そんな父だったが、佳奈が小学五年生のとき不慮の事故で他界した。ある意味、佳奈の望んだとおりのことが起こった。
しかし、ある時父の机の引き出しの中の遺品を整理していると、日記が出てきた。娘の日々の成長を記したものだった。その中に、将来娘が嫁ぐであろうときに伝えようと考えていた佳奈宛ての言葉があった。それを読んだ佳奈は子供ながらに母とともに号泣した。
今でもその時のことを忘れないでいる。大人になってこうやってがんばっている私の姿をみて欲しい、いつもそんな気持ちを心の内に隠している。だから頑張れる。母親は、その後姉の勧めで再婚した。今の父は、その再婚相手である。
二〇〇九年七月、ある暑い日の午後、Ksプランニングのオフィス。佳奈はパソコンに向かっていた結衣に言った。どこか弾んだ嬉しそうな声だった。
「今日はこれからちょっと外出するから、あとは頼んでいいかな。明日の午後には戻るよ」
「えっ、そうなんですか…」と結衣は言いかけたが、ぐっと息を飲み込むと「社長は最近、根を詰めすぎなんだし、偶には息抜きしてくださいね」と返した。佳奈も普通なら「そんなんじゃないよ」と反発するところだが、珍しく「うん、サンキュー」と頷いてみせた。スケジュール管理には厳格な社長が、数週間前からこの日だけは何かと予定を入れたがらなかった理由を今知った。仕事に支障が出るからと言って、私用ではめったに都内からも出ようともしない佳奈が、そういえば朝から、意味もなくイスから立ったり座ったり、そわそわしていたかもしれない。スタッフはその度に「びくっ」と反応するのだが、後から思えば滑稽だった。
「じゃあ、ちょっと出掛けてくる」
午後四時過ぎ、佳奈はそう結衣に伝えると西麻布のオフィスを抜けだした。地階駐車場の青いプジョーの運転席に微塵の隙も見せずに乗り込む。軽快なエンジン音が響き渡った。女性的な優しいハンドルさばきでクルマはゆっくりと滑り出す。やがて、渋滞しはじめた首都高を抜けると、佳奈は中央道を西へと向う。クルマまでもがどこか足取りは軽い。
前年の米国発の金融危機に端を発した世界同時不況で、佳奈の会社も一般企業向けの仕事の入りは以前に比べて落ち着いている。それでも、アパレル系の新店舗や結婚式場のリニューアルのインテリアコーディネートの仕事などを程よいペースで受注できていた。再来週も大口のプレゼンが軽井沢のホテルで予定されている。社長が出て行った後、結衣は佳奈の分もがんばろうと、残ったあとの四人と気合を入れなおした。
競馬場を通り過ぎ、八王子を超えると次第に上り坂になる。少し雨模様を予感させる西の空は大きな南国風の雲を漂わせている。佳奈のクルマは相模湖インターを下りると、道志川沿いを縫うようにして走る国道四三〇号線を迷いなく進んだ。道志温泉郷を抜けてゆくルートは、ほとんど信号がなく、適度なワインディングが彼女のお気に入りのドライブコースだった。一人で運転していても眠くなることがないし、脳細胞が刺激されて空想に浸るには丁度いい。涼しそうな風が谷を通り抜けている。轢かれた生々しい狸か猫の死骸だけからは視線をそらしたが、それ以外の夕暮れ前の山間の景色は申し分ない。
いつの間にか雨が降りはじめた。山中湖畔のゲストハウス、サントマリに滑り込んだ時には七時を回っていた。あたりの景色は木立に当たる雨音と黒い空の闇に沈みかけている。林の合間から見える数少ない灯りは雨滴で滲んで時折湖面にきらきらと反射してみえた。ここの部屋の窓から望む朝焼けの富士は格別。明日の朝をどんな気持ちで迎えるのか佳奈には想像できない。それでも、一歩前に踏み出したことは確かだった。
車を降りると、すぐに顔見知りのオーナーが走り出てきて、佳奈の頭上に傘をかざしながら「ようこそいらっしゃいました」と言って出迎えてくれた。ロビーに入るとオーナー夫人が、同様に「いらっしゃいませ」と微笑みかけ、部屋のキーを佳奈に手渡した。
「お疲れでしょう、ご夕食はお連れ様がご到着されてから準備させていただいてよろしいでしょうか」
言わずもがなの質問だ。
「そうですね、すぐ着くと思うので、そうしてください。春に友達と来た時にいただいたフィレのステーキがとってもおいしくて、ワインとビネガーのソースの味が忘れられないっていつも話しているんです。今日も楽しみにしてきました」
佳奈は以前も泊まったことのあるお気に入りの二階の角部屋に入ると、窓のカーテンを思いっきり開いた。黒い窓ガラスに自分のシルエットが映る。それを確認すると、ベッドに倒れるように沈み込んだ。うーんといって腕をいっぱいに伸ばしてストレッチをした。そして、誰に盗み見られてもいい、演じるような動作で起き上がると、バスタブにお湯を注ぎ、入浴の準備にとりかかった。まもなく、二週間ぶりに彼と会う。それもいままでとは違った気持ちで。今夜彼のプロポーズを受け入れる。それが最高のシナリオ。
しばらくバスタブに浸かりながら、初めて箱根にドライブしたときのことを思い出していた。大涌谷で温泉卵を一緒に食べたこと、忍野で日が西に傾きかけて赤黒くなりはじめた富士を二人で眺めたこと。今でもはっきり目に浮かぶ。ただ、その日はお互い何を話していいのかも知らずに、助手席に座る佳奈はハンドルを握る彼の手をその距離の数倍も遠くに感じていた。手を伸ばせば必ず届くはずの距離なのに、絶対に届かないと思われた。それが今は手を伸ばせばいつでもそこには彼がいて私がいる。
こうしてなにかに期待するときに限って、お決まりのルーティンでこの思い出を辿った。すこし強くなった雨が部屋の窓を音もなく打ちつけている。
誰かが言った。
あなたが見ている黄色と私が見ている黄色とは果たして同じ黄色なのだろうか。知覚器官、神経経路、脳細胞・・・すべてが個々人で違うのだからまったく同じに見えていたらそれもおかしい。私が見ている向日葵の黄色は、あなたには私が言うところの水色に見えているのかもしれない。向日葵が水色に見えていれば、太陽も水色に光っている。ゆえにあなたにとって水色は暖かい色の代名詞になる。これはたぶん永久にわからないこと。視覚に限らず、五感、六感のすべてにいえる。すなわちこの世界はすべてが主観的にしか捉えることのできない幻のようなもの。
* * * * * * * * * * * * * *
葛城龍一は、元プロサッカー選手である。引退後事業家へと転身し、沖縄とホノルルでスポーツショップを経営している。そして今度三号店を東京青山に開く。場所柄、マリン系ではなくサイクルショップだ。近年脱自動車社会の波に乗って、都内でも自転車通勤を始める人が多い。悪くない選択だ。積極的な人生に意味を見出す、常に行動的な男である。
半年後の三号店開店にあわせて、インテリアのデザイン・施工を業者に依頼したのは二週間前だった。今日はデザイン会社の人間と、白金台で最初の打ち合わせをすることになっている。待ち合わせのホテルに着くと既にデザイナーと営業担当者がロビーラウンジの入り口で並んで待っていた。一人が男、もう一人が女。女の方が葛城に気づくなり軽く会釈をした。そして、どうぞこちらですという仕草をみせると、ラウンジのソファへと葛城を先導した。どうやら客のことは前もってチェック済みらしい。ホテルは結婚式の客で少し混み合っている。さて着席する前、まずはビジネスライクに名刺の交換である。
「私、山本と申します、どうぞ、よ、よろしくお願いいたします」
営業らしき女のほうが名刺を差し出しながら挨拶した。先に着いているのに、息を切らせながら今走ってきましたというふうに上気した声だ。
「葛城です。こちらこそよろしくお願いします」
名刺を受け取った。見ると、Ksプランニング代表取締役・山本佳奈とある。社長か。背筋のしっかり伸びた意志が強そうな、だが社長にしては若い女性だなというのが第一印象だ。するともう一方がデザイナーか。男の方は、小柴と名乗った。
佳奈は全く知らなかったが、小柴がJリーガーだった頃の葛城のことを知っていて、多少の予備知識があった。最初はそんな昔のサッカー談議で、場は自然に打ち解けた。実は今回の案件は佳奈が独立して以来三番目の仕事だった。前二つは以前勤めていた事務所の下請けだったから、これが最初の、社長としての佳奈の試金石とも言える仕事といってよかった。ただ社長らしい威厳はそう簡単には醸し出てはこない。そもそも零細企業である。だから失敗は出来ない。佳奈は顧客の満足度を常に最大にしなければならないといった強迫観念をみずから作り出していた。その為、緊張の度合いも尋常ではなかった。
「早速ですが、まずは弊社のサービスの内容をご説明させていただきましたら、葛城様のご希望を色々ヒアリングさせていただければと思います。どうぞ、よろしくお願いします」
佳奈はソファに座るなりそう言った。そこまではよかった。が、テーブルに運ばれてきたグラスを取りそこなって水を零してしまった。
「きゃっ」と声をあげた。
葛城には彼女のおっちょこちょいなところがなんとも羨ましく映った。これが、葛城龍一と山本佳奈の最初の出会いであった。
一ヶ月後、佳奈と小柴は再び白銀台のホテルで葛城と待ち合わせた。彼のリクエストと店舗物件の下見調査を元に作成したインテリアプランのプレゼンをおこなう為である。
「思わず友達や家族とサイクリングに飛び出したくなるような高原のコテージのイメージで、緑と青と太陽の黄色を基調としたデザインを考えてまいりました。地平線や稜線の広がりを見せるために横の線を多用します」そう言いながら、佳奈は三、四枚のデザイン案を提示した。
葛城も佳奈のセンスが気に入り「いいですね、プランAを元に黄色をもうすこし深みのある色に変更して、高原の匂いを感じられるような造形をエントランスに取り入れてもらえれば、それでいいんじゃないかな」と言った。佳奈はなるほどと思いながら「では、入り口の扉は靡く風をイメージした波のデザインをあしらうことでいかがでしょうか?」と応えた。
「結構です、そうしてください」
「では、そのプランAダッシュでやらせていただきます」
そう言うと佳奈は「ほうっ」と息を吐き出した。うまくいった。グラスの水も今度は無事である。なんとなく、二人の息はこのときから合っていた。プランAダッシュはのちに二人の秘密の合言葉になる。
二ヶ月後、開店を三日後に控えた休日、佳奈は施工の出来栄え、商品が並んだ跡のインテリアのバランスなどを最終チェックするために葛城の店を訪れた。引渡し後、二度目になる。「ちゃらん」と入り口の開き扉の鈴が鳴った。
「こんにちは」
佳奈が声を掛けると、葛城が振り返った。
「あ、どうも。いらっしゃいませ」
「すみません、おじゃまします」
葛城は、店の隅の白くて丸いテーブル―それもKsプランニングのデザインの一部―に腰掛け、店を任せることになっている年配の店長と、商品の入荷計画かなにかについて打ち合わせをしていた。不意に佳奈が現れたことに、葛城は喜びを感じた。
「今日はなんか、いつもと雰囲気が違いますね」
彼女がそれまでのスーツ姿ではなく、白いワンピースにグレーのブーツという服装で現れたことに葛城は軽い衝撃を受けた。一方の佳奈も、彼らがまさに自分がデザインしたインテリアの一部として機能していることに満足した。
「ええ、今日父が長野から出てくるんですけど、結構女らしい格好してないと、うるさいんです」
あなたにいつもと違う自分を見てほしかったから、とは口が裂けても言えない。
「へぇ、今時ですね」葛城は真に受けた。
「ええ、今時なんです。それよりずいぶん、かっこいい自転車がたくさん並んで、いつでも開店オーケーって感じになりましたね。一週間前に伺ったときは、まだ照明の高さを調整したりしていたので、やっぱり店舗は人が入って、商品が入って何ぼですね」佳奈は実感を込めてそう言った。
「山本さんのお陰です。自転車を本格的に扱うのはここが初めてなんで、ちょっと不安でしたがなんとかなりそうです。ありがとうございました」これも実感。
「そんな、それより何度もお客様が足を運んでくれるお店になったら、お手伝いできた私もうれしいです」
葛城を佳奈のお客に例えてのことだったかもしれない。彼が何度も佳奈のところに足を運ぶ、恥ずかしくて口に出せないそんな秘密の願い。それを言葉に込めている。
「ですね」葛城はもう一度真に受けた。
「開店は明々後日ですね、なんだか私も楽しみです」
「近いので是非見に来てください。コーヒーくらいは入れますから」
「お仕事の邪魔してしまいそう」
可愛いことを言うなあと葛城は思った。
三日後、サイクルショップにしては多くの開店祝いの花が届いたが、その中に山本佳奈の名前もあった。彼女のイメージらしくピンクと青の花で彩られていた。開店記念といっても、自転車の大安売りで朝から行列が出来るというわけではない。通りを行くサラリーマンやOLが物珍しそうに眺めながら通り過ぎてゆく。店自体が街のインテリアの一部なのである。
初日の今日も昼過ぎに近所の老人が近くに自転車屋ができてよかったと言いに来たのと、夕方帰宅途中のサラリーマンがスペアのチューブを三個買っていったくらいで特段の新規開店効果はない。あとは時々自転車乗りのような客が、無言で入ってきては、めぼしいイタリア製の自転車の値段をチェックし、そして黙って出てゆく。この辺りのお客は来店の目的がはっきりしているから、あまり店員が不用意に声を掛けると面倒がられる。だからある程度距離を置く。訊かれたときだけ問い合わせに素早く且つ的確に応える。出てゆくときには必ず「ありがとうございます」とだけ声をかける。葛城の目的はただ売り上げを上げることではない。店長の給料と家賃が出ればいいのだ。五十万円くらいのバイクが売れ筋で、月五台も出れば、あとは修理工賃と付属品やら消耗品の売れ上げでなんとかやっていける。実際には最初の十日で八十万円以上のバイクが二台売れた。それはそれでいい。
葛城はケータイの短縮キーを押した。
「はい、お電話ありがとうございます。Ksプランニングです」
「葛城と申します。お世話になっています。山本社長さんはいらっしゃいますか」
「お世話になります。少々お待ちください」
アシスタントが受話器越しに佳奈を呼んでいる。
「山本です、どうもお世話になります」なんとなく、声は弾んでいる。
「どうも、先日は素敵なお花をいただきまして、ありがとう。無事に開店の運びになりました」
「よかったです。私も一からお仕事させていただいて、色々勉強になりました。近いうちにまた伺います」「是非、また寄ってください」
「私も自転車で通勤してみようかなあ、なんて空想しちゃっています」
それがお世辞にしても、つぼを突いている。が、葛城は自転車はやらない。が、まさかそうとも言えない。だから代わりに、
「ですよ、バイクはこれからの季節気持ちいいし。是非一台どうぞ。じゃ今度あなたに似合う自転車を選んでおきます」
と、軽口をたたいた。
「青山のお店のほうにはいつまでいらっしゃるのですか?」
「今週いっぱいはいますけど」
「じゃぁ、明後日に伺っても、まだいらっしゃいますね」
「ですね。でもその後でもまたすぐ戻ってきますけど」
「そうですよね」
佳奈がクスっと笑ったように聞こえた。
「そうそう、それから御用の時は、私の個人ケータイに電話してくださいますか。そのほうが早いので」
そう言うと佳奈は番号を教えた。なにか秘密を共有したような気分になったのは佳奈だけではない。いまさらクライアントと頻繁にやり取りすることはないはずだ。葛城は、顔を赤らめながら話す佳奈の姿を想像した。
「ここで奇跡が起きないかなぁ…」とは誰もが一度や二度、ため息をつきながら言ったことがあるはずだ。九回裏ツーアウトランナーなしから、三連続ホームランで逆転サヨナラ勝利とか、そんな類の話でもいい。
だが、誰かが言った。
ちょっと待ってほしい。よく考えてみろ。ある日あるところの男と女の気まぐれな話だ。その二人の気まぐれの性交によって、やがて射出された何千万何億個の精子の中から、よりによって勝ち抜き選ばれし最後の一匹の精子が、やっとの思いで卵子に辿りつき、その卵子が受精しやがて胎児になった。どうだ、ここまで来るのは並大抵ではないだろう。さらにその事実を知らない女の無茶によって流れる危険の数ヶ月を乗り越えて、やがて人間のような形に変形成長し、それから何ヶ月もかかって、ほらお前がこの時この場所、この世に生まれた。祝福されようがされまいが関係ない。
つまりだ。お前がこの時代、この場所、そして今そうやって生きている。そのことがそもそも度重なる奇跡の連続なのだよ。だからもう一度言おう。不平不満を並べる前に、お前が今そうして存在していることこそが、奇跡のオンパレードなのだ。そのことに早く気づけ。ほかになんの不足があるというのだ。
すべての出会いもそして別れも同じように奇跡の一部である。
佳奈は夜の八時を回った頃、葛城龍一の店を訪ねた。彼と店長がこの間と同じように丸テーブルに腰掛けて書類に向かってなにか話をしている。ドアを開けると「ちゃらん」と電子的な鈴の音がした。葛城と店長は同時に入口に顔を向ける。そして佳奈を見た葛城がにこっと笑いかけた。
「こんばんわぁ、まだお忙しそうですね」
佳奈の言葉はその黒髪のようにつやつやしている。
「こんばんは。あ、いや、もう終わりです」
葛城は速攻で応じる。
「小腹がすいたかなぁなんて思って、そこでチーズケーキ買ってきました」
そう佳奈が言った。
「いいですね、丁度腹減ったなぁなんて話していたところです。じゃあコーヒー入れましょうか」
葛城が返した。
「あっ、じゃぁ私やります。店長さんもいかがですか。人数分買ってきましたから」
お愛想だろうか。佳奈は初老の店長にも声をかけた。
「ありがとうございます、折角ですが、今から税理士さんのところへ行きますので、また今度で」
店長のお二人のお邪魔はしませんよとの合図だろう。
「そうですか、大変ですね。お邪魔してすみません。じゃぁ冷蔵庫に入れておきましょうか」
「あ、ごめん、冷蔵庫ないんだ…。店長、今度小さいの買っときましょう」
咄嗟に店長をみながら葛城は言った。
「了解です。じゃぁ私はちょっと行ってきます。オーナー、後の戸締りをお願いします」
「分かりました。じゃ、お願いします」
葛城が応えると、店長は、ジャケットを抱え、無造作に出て行った。ドアがまた「ちゃらん」と鳴る。
「葛城さんって、あちこちにお店もっていて、すごいんですね」
佳奈が今更のように店内を見回して言う。
「いや、たいしたことはやってないです」
ありきたりの返事だ。
「私なんか会社ひとつで何から何まであっぷあっぷで、資金繰りだけでもう大変です」
佳奈の愚痴である。資金繰りには思った以上に気を使う。キャッシュフローマネジメントがどうとか、そんな高級な話ではない。売掛金の回収ってやつが面倒なのだ。期日通り入金がなかったときなんか、かなり焦る。
「僕の場合は道楽みたいなもので。あっ、すいません」
佳奈のそんな事情を察してか、道楽でやっているなんてお気楽なこと間違っても言っちゃいけない、そうすぐに気づいて舌を出した。
「あっ、そういう意味じゃないですけど。でも、やっぱり会社経営は大変ですよね」
佳奈も大人だ。自分で選んだ道に、後悔はないし、誰かを逆恨みすることもない。
「まぁ、いろいろサポートしてくれる人がいて、結構その辺は甘えちゃっているんです。それに、モノを売ることが最終目的じゃないし」
葛城は意味深なことを言った。が、佳奈には何のことやら、返答のしようがない。
「あっ、すみません。あれ、さっきからすみませんばかりだな。ケーキいただきます」
葛城は話題を転じた。
「どうぞ、召し上がってください」
佳奈は嬉しそうに言う。
「うまい! このチーズケーキ。結構甘いもの好きなんですか?」
ふぅ、話題には気をつけねば。
「甘いものでも、辛いものでも、何でもいけるほうかな」
「辛いほうもね。いいですね。僕も両方いけますよ」
「!」
佳奈の眼がハートマークになる。分かり易い女性だ。
「山本さんは、これからまだ仕事ですか?」
葛城は思い切って訊いてみた。
「うーん、どうしようかと思って、ちょっと面倒くさい仕事が残っているんで、戻らなくちゃとは思っているんですけどぉ」
佳奈は語尾を伸ばして少し甘えた声を出した。
「そりゃ、戻りたくないでしょ」
「結構、迷いどころですかね」今度はちょっと引いてみた。
「僕、これからご飯食べに行こうと思っているんですけど、よかったら一緒にどうですか。中華一人で食べるのも寂しいし」
葛城も引かれれば、押すしかない。一人で食べるのなら中華である必要はない。小学生でもわかる。
「えっ、でも金曜日の夜だし、お約束があるんじゃないですか」
成程と妥協して、じゃぁといった感じで、ちょっと脇を緩めてみる。小学生以下である。
「そんなのないです、なみだ…」
葛城も甘えて母性本能に訴える。
「あら、だって葛城さん彼女とかいらっしゃるでしょ。彼女さんに悪いです」
ちょっとくどいかなぁとは佳奈の後悔。
「彼女はいないんで、問題なし、ですけど」
千歳一遇のチャンスだ、プライベートなことを隠しておく必要はない。そう思っているのは葛城だけか。
「えー、そうは見えませんけど。私、だまされやすいから」
そう言いながら、イケるかもと思ったとたんに佳奈の顔が火照ってくる。
「そういう山本さんはどうなんですか」
また思い切って訊くしかない。
「わたしなんか全然。仕事ばっかりだし、デートの暇もないくらい。あ、お相手が居ればの話ですけど」
男いらないって言う意味? 違うだろ。心の中で佳奈は駆け引きしながら自問自答した。
「じゃ、大丈夫ですかね」よし、決まりだと葛城はキメに掛かる。
「え、何がですか?」
なーんて、とぼけちゃって。(なんかこの会話凄く楽しい)と佳奈は感じる。
「ご飯ですけど、付き合ってくださいね。クライアントとの食事ってことで。あっ、でも接待は僕がしますから」
ここは任せなさいといった男の態度でそう葛城が言ったところで、佳奈は斜めに頷きながらほかのことを想像して内心赤面した。
こうして葛城龍一と山本佳奈はこの日から二人だけの時間を持つようになった。その日が来るまでは…。
* * * * * * * * * * * * * *
その夏の日の夕暮れ、葛城龍一は中央道を山中湖に向かって愛車を走らせていた。大きな入道雲が行く手を阻むように西の空から湧き上がっている。八王子を過ぎた辺りから、低い雲から雨が落ちはじめた。高速で走るクルマのフロントシールドに雨滴が強く打ちつけてくる。等間隔で走る何台もの大型トラックの水しぶきがさらに前方の視界を狭くする。ゆっくり行けばいい。そう心の中で呟いた。雨が激しくなってきた。あたりは急に暗くなり、山並みも闇に溶けはじめる。時折商用バンが無駄な車線変更と無理な追越しをかけながら、嘲るように葛城を追い抜いて行く。彼も登坂車線に差し掛かかると前方を行くトラックを追い抜く。それでもコンテナトレーラーや大型トラックが何台も連なり、赤いテールランプだけが間隔を保って蛇行し、葛城の行く手を遮った。ゆっくり行けばいい。また同じことを呟いた。そんな何の危険の臭いもないその時だった。
中央車線をブロックしていた何台目かのトラックを一気に抜きにかかろうとした刹那だった。一台のトラックの前に出た。水しぶきが行く手を遮る。するとそれまで視界にはなかった赤茶けた色のダンプが、巨体を葛城のクルマに浴びせるような動きで急ハンドルを切ってきた。一二〇キロ超で瞬間的に加速したM3の進路をそのダンプはあっという間に塞ぎ、鼻っ面に接触しそうになった。思わず「うりゃあ」と葛城は声ともならない奇声を発しながら回避行動を取ってハンドルを右に切り、ブレーキを思い切り踏んだ。車体のどこかに衝撃が走った。エアバッグが作動しない。急制動の為に、前のめりになりながらも必死で体勢を立て直そうとする。が、チャレンジも虚しくクルマは中央分離帯の縁石を軽く突破し、その先のガードレールに軽く接触すると、反対側のレーンまで腰を振るようなスピンをしながら飛び込んでいった。このクルマはそんなにやわじゃないと次の瞬間には冷静に対処していた葛城の目に、急接近する後続車の眩しいヘッドライトが映った。
夕食の分厚いラムステーキはすっかり冷めてしまっていた。空のワイングラスが二つ。佳奈の沈んだ顔を映していた。
待ち合わせのゲストハウスにとうとう龍一は来なかった。一人待つ佳奈は眠れぬ夜を過ごした。何度ケータイに電話しても留守電に切り替わってしまう。忙しい彼のことだ、急な用件が入ればそれに対応しなければならない。それは自分も同じ。堂々巡りの思考が佳奈の心を締め付けた。既に東の空が白みかけていた。
それにしても、何も連絡がないのは余りにも異常であった。ゲストハウスのオーナー夫婦も、どのように客人と接するべきか、朝になっても視線すら合わせることが出来ず、掛ける言葉が見つからない。佳奈は一人、何の味もしない朝食を済ませると、早々にチェックアウトした。そして昨日来た道を戻るしかなかった。増すばかりの不安と闘いながら、平静を装い渋滞の中央道を東京方面へと走った。
運よく昼前には会社に戻ることができた。龍一からは未だに連絡がない。何かあったに違いない。でもどんな? 私に何か落ち度があったのだろうか。見当違いの不安が佳奈の心の中を駆け巡った。後から顧客のところを回ってから出勤してきた結衣が佳奈を見つけて「あれっ」という顔をしたが、普通に「おはようございます」と声をかけた。佳奈の青ざめた表情に気づいて、何も訊くことはできなかった。
佳奈が龍一の消息を知ったのは、昼過ぎだった。見慣れない電話番号から佳奈のケータイに着信があった。
「お電話ありがとうございます。Ksプランニングの山本です」いつもの元気な声ではなかった。
「もしもし、こちら高尾警察署ですが、山本佳奈さんでよろしいですか?」唐突な電話だった。
「はっ? ええ、そうですが、何か?」不安が頭をもたげた。
「葛城龍一さんとはお知合いですか」
「はいそうです、それが何か?」嫌な予感。
「昨日の夕方ですが、中央道で車の事故がありまして」
「はあ」それ以上、この話、聞きたくない。佳奈の心臓が急に大きく鼓動し始めた。
「葛城さんがその事故に巻き込まれまして…」
「はっ?」
「お亡くなりになりました」
「えっ」と言ったきり、佳奈の頭の中が真っ白になった。「なくなる」という言葉の意味を考える。「なくなる」だ。が、そこに別の意味はない。相手が何を言っているのか、聞こえなくなった。まだ何か言っている。が、何を言われても、只「はい?」としか声が出なかった。佳奈が彼のケータイに残しておいたメッセージを聞いて、連絡してきたらしい。何故か思わず笑みがこぼれた。
「何の話をしているの? だれか友達の悪いジョークですか?」
友達って誰? そんな愚問を律儀にかわすと、警察の担当者は抑揚もなく、淡々と時系列を追って何が起きたのかを事務的に説明するだけだった。それを聞いているうちに、得体のしれない恐怖の入り混じった怒りが佳奈の全身を襲った。そして言った。
「そんなこと、あり得ません!」
そう言われた相手は、佳奈の心中を察し「ご親族が明日ご遺体を引き取りに来られるそうなので連絡してみてください」と丁寧に応えた。そして、電話は申し訳なさそうに切れた。
「あのね、私は彼のフィアンセなの! だって、そうでしょ。あり得ない!」
佳奈は叫んだ。部下らは一斉に反応して、こっちを見た。いったい誰に向かって発した言葉なのか、本人すらもわからない。しかしそれ以外の言葉も見つからない。佳奈は、その突然の報せの中身を受け入れることができなかった。
なにかの間違いに決まっている。一番確からしいストーリーは、そうだ、趣味の悪い誰か、いや未知の恋敵が仕組んだ悪戯にちがいない。電話をしてきた警察がそもそも怪しい、絶対グルだ。
いや、龍一本人の悪戯だとすればもっと話は簡単だ。だよね。でも何故? 「ごめん、ジョーク、きつかったかな」という龍一からの電話を待つべきである。それが、今するべきこと。そう、待つしかない。
しかし、そうして積み重なる時を刻む時計の音が、佳奈の心を容赦なく圧し潰してゆく。
「これってホント? これってホントなの?」
「いいえ、ウソでしょ、ウソ。そりゃそうだ、ウソに決まっているよ」
声ともならない声を出し、何度もそう繰り返した。
「誰か早く舞台の裏から出てきて『うそだよーん、全部』ってどうして言えないの? 簡単なことでしょ」
しかし、舞台に裏はなく、誰もそれが嘘だとは言い出さなかった。
この日の夕刊各紙の社会面に、小さく葛城龍一の死亡事故に関する記事が略歴と共に載った。
『雨の中スピードの出し過ぎでハンドル操作を誤り、中央分離帯に接触、停止したところを後続のトラックと正面衝突した。さらにその後ろを走っていた乗用車も事故に巻き込まれた。救急隊員がその場で葛城龍一氏の心肺停止を確認。トラックの運転手と乗用車の乗員二人も腰の骨などを折って、八王子康生会病院に救急搬送された。この事故により中央道は深夜まで交通規制となり渋滞となった。葛城龍一氏略歴―会社経営者、元Jリーガーでサッカー選手としてドイツでも活躍。享年三四歳、独身。愛知県出身』
佳奈は動転した。事の次第が現実として補強され、具体的且つ事務的になるに従い、全身が押し潰されそうなやり場のない悲しみがこみ上げてきては増幅した。息すら容易にできない。苦しい。佳奈の心は深い絶望の海の底に沈んでゆくようだった。
これからずっと、未来永劫、龍一のいない悲しみの毎日が続いてゆくのだろうか。その現実に一縷の妥協もないこの非情。この気持ちが癒えることがあるのだろうか。それとも…自分も死んでみようか。心に質してみる。それ以外、自分が生きる道はない。でも、この世の中への責任もある。家族、会社の仲間、友人、取引先…。そんな簡単なことじゃない。いつもは小うるさいだけと思っている継父の顔も浮かんだ。縋りたい。でもどうやって…。
二日近くも病院の霊安室に安置されていた龍一はすでに家族に引き取られ、通夜と葬式の日取りが決められていた。佳奈は名古屋に向かった。まだ彼の親や家族に一度も会ったことがなかった。名古屋の名家の、長男ではなく次男ということも初めて知った。父親は既に他界しているらしい。逆に言えばそんなことも知らなかったのだ。一体どうしちゃっていたんだろう。悔やんでも仕方のないことだ。私は何だったの? 本当に彼のフィアンセ? そう自問自答しては自分を責めた。龍一の家族は佳奈を一切認めなかった。止めようもない残酷な儀式が淡々と進んでゆく。それを黙って受け入れる外になかった。事故の三日後、親族と近しい友人だけで通夜が、同様にその翌日にささやかな告別式が、彼の故郷の刈谷市郊外の自宅で執り行われた。
「これは現実じゃない、でなければ時間を五日前に戻して! 私が彼を助けるからっ!」
「私に会うために彼が死んだ? そんなことがあってたまるか!」
佳奈は心の中で叫んだ。龍一の告別式は一切が佳奈を埒外に置いたまま通り過ぎていった。龍一の家族親戚に佳奈を知る者もなく、佳奈は誰とも交流がないまま、ただの知人の一人として彼を見送った。彼の身内も突然襲った悲しみに対し、黙ってその運命を受け入れるしかなかったのだろう。今改めて考えれば、龍一のことは何も知らなかったのだ。それが情けなく、そして悔しい。佳奈は唇をかんだ。結衣が名古屋まで迎えに来て東京に戻った。涙を浮かべ手を握りながら、結衣には起こったことの全てを話した。
心ここにあらずの日が続く。朝、目が覚めるとそれが唯一無二の厳然たる事実であることを改めて思い知り、また絶望の深淵に落ちる。涙が枯れることはないのだろうか。「今は何もできない」という佳奈は、結衣の勧めでしばらく休養をとることにした。会社のほうは佳奈が戻るまでほかの社員が切り盛りする。普通ならあれやこれやと一々指示をするところだが、そんな気力は今の佳奈の体の中にはない。社員らは、社長がそのまま尼さんにでもなってしまったらどうしようか、などと心配したが、今はどうすることもできない。普段は溌剌としているだけに、掛ける言葉もみつからなかった。
一週間後の週末、結衣が東品川の佳奈のマンションにやってきた。業務報告が目的だったが、それ以上に佳奈のことを心配していた。部屋はそれほど散らかっていない。目についたのはテーブルの上に整然とおいてあるワインのボトルとグラスだった。結衣はこの一週間の仕事の進捗と業者の部材の値上げ要求の話と、銀行の融資担当が来てこの先六ヶ月の予定資金繰り表を出して欲しいと言われたことを報告した。佳奈は黙って聞いている。たぶん何も頭に入っていないだろうなと思った結衣は言った。
「みんなも心配しています。早く元気になってくださいよ」
「そんなわかりきったこと言わないで」
言ってからはっとした佳奈は言い直した。
「ごめん、そうだよね、みんなに心配かけちゃってごめん。一昨日から実家に帰ってたんだ。来週からは普通に出るから」
「それから社長、ちゃんと食事してますか? お酒も飲み過ぎないようにしないと。お肌に悪いですよ」
「うん、大丈夫、コンビニでおにぎり買って食べてるよ。でも夜眠れないから」
お酒は止められない。
「じゃ、飲みすぎには注意してくださいね、それに、もうすこし元気の出るものも食べないと駄目ですよ」
「わかった」
「社長になにかあったりしたら、私たち路頭に迷っちゃいますから」
「うん、わかってるよ。でもみんな私が居なくなったって、うまく仕事はまわしていける力はあるよ」
「あるわけないですよ。それに居なくなるなんて、そんなこと言わないでください」
「代表印と銀行口座の管理、よろしくね」
「はい、でもあと二、三日だけですからね」
結衣は翌日も夕方になって佳奈のマンションへやってきた。彼女は開口一番、佳奈を食事に誘った。外の空気に触れて、気分を変えたほうがいい。世界はまだほかにもあるんだってこと、早く思い出してほしい。そういう思いからだ。
「近くにいいインド料理のお店見つけたんですけど、今から行ってみませんか。オーナーも面白いし、そこのバスー何とかって言う揚げパンがいけるんですよ。マトンカレーもおいしかったし。それと私ラッシが好きなんです。インド料理ってヘルシーでいいですよね」
「あらあら、私の知らないうちに、この辺り荒らしているのね」
キッチンに立ってコーヒーを入れている佳奈も結衣の気遣いに感謝した。
「いやー、まだまだ」
察した結衣も少し元気の出てきた佳奈にほっとする。
「じゃぁ、支度しようか。シャワー浴びるからちょっと待ってちょうだい」
言ってはみたものの、いざ意志を持って何かをしようとすると関節に力が入らない。操り手のいない操り人形のように、だらしなく全身が弛緩する。不思議なことに、まだ龍一が死んだことを百パーセント認めているわけではない。でも、このままでは認めたことになる。佳奈はそう考えた。
一方の結衣はなんとか佳奈を夕食に誘い出すことに成功し、思わず「やったぁ」と心の中で叫んだ。そしてこっそり、会社の仲間にガッツポーズのメールを送った。そして二人は仲のいい姉妹のようにして部屋を出た。
「ご馳走様でした! ありがとうございます」店を出るなり、結衣は佳奈に礼を言った。
「とんでもない、私の方こそありがとう。羊のカバーブがおいしかったね」
「また、みんなで来ましょうよ」
「そうだね、心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから。結衣は一人で帰れるかな」
「いやいや、それより佳奈先輩一人で大丈夫ですか?」
社長ではなく、わざと先輩と言った。気分をリセットしてほしいのだ。佳奈にも伝わった。
「うん、子供じゃないからね。結衣こそ大丈夫?」
待つまでもなく、狭い通りに空車マークのタクシーが入ってきた。
「丁度タクシー来たよ」そう言って佳奈が手を上げてタクシーを停めた。
「結衣はこれに乗って。私はすぐそこだから、歩いてくよ」
一緒に乗っていきませんかという結衣を佳奈は笑顔で見送る。じゃ、来週ね。佳奈がそう言ったように見えた。タクシーが遠ざかるのを確認した後、佳奈は歩きはじめた。そしてマンションとは反対方向の広い通りに出ると、別のタクシーを拾った。