重戦車連隊 ベーケ
1月21日、ベルディチェフ西部にソ連5個戦車軍団が確認され、これらソ連軍部隊がヴィンニツァを越えジメリンカに向かうと予想され、これを阻止するため、第XXXXVI戦車軍団正面の6~8個のソ連歩兵師団(第38軍)の包囲と第III戦車軍団に向かっているソ連第1戦車軍の5個戦車軍団の撃破を目的とした作戦ヴァトゥーチンが計画された。
そしてこの任務に第11戦車連隊指揮官のベーケ中佐に対し第503重戦車大隊と第23戦車連隊第II大隊での編成を命令された。
重戦車連隊 ベーケ Schwere Panzerregiment Bäke
第11戦車連隊本部
第503重戦車大隊(ティーガー34輌)
第23戦車連隊第II大隊(パンター46輌)
第88砲兵連隊第I大隊
工兵大隊
山岳猟兵大隊
24日
0600時にヴァトゥーチン作戦発動。
連隊はプルィルカから北東に前進、第503大隊第1中隊長アダメク中尉が戦死しフォン・ケアバー少尉が指揮を執る。
防御陣地を突破し正午にビラを占領、グニロイ・ティキチ川で停止し川に沿って攻撃を続けブルィツクエに到達。激しい砲撃を受けるが4輌のT-34と1輌の突撃砲を破壊し占領。
この村を巡る戦闘でフォン・ケアバー少尉が頭部を撃たれて負傷し、クビン中尉が戦死した。
25日
0200時にグニロイ・ティキチを渡河、すぐに弾幕射撃を受けるが損害なし。
夜間にソ連軍は防御陣地を構築、3輌のT-34と1輌のシャーマンを撃破しソ連歩兵部隊を壊滅させる。
正午にオチェレトニヤを攻撃。地雷原と対戦車砲及び戦車からの激しい弾幕射撃で損害を出しながらも対戦車砲8門と戦車、突撃砲20輌を破壊し陣地を制圧、ソ連軍は撤退した。この戦闘でパンター2輌全損。
連隊は北に追撃し隣接する村を占領。
第23連隊第4中隊(註)をオチェレトニヤに残し、南西のゾゾフに向け攻撃。1600時に村東部に戦車が侵入、北から歩兵が到着しソ連軍を村から掃討した。殆どの戦車の燃料弾薬が尽きた。
(註)本来、第4中隊は第I大隊所属でIV号戦車を装備なのだが、パンターを配備され第II大隊の指揮下に入っていた。
26日
連隊はソ連の重砲火の下、昼頃までゾゾフに留まった。
第23連隊第5中隊は、ロトミストロヴカでブルィツクエへの道路を塞ぐソ連軍の攻撃支援を命令され移動。
第5中隊は15門の対戦車砲を破壊しソ連軍を排除、補給路が開通した。
第23連隊第4中隊の守るオチェレトニヤをソ連軍が攻撃、中隊の損害なしで戦車10輌破壊し撃退した。
補給を受けて正午頃に連隊(第23連隊第4、第5中隊欠)は南東に向け前進。
夜、ガイシンの北でハリネズミ陣を敷いた。
パンター1輌全損。
27日
連隊の陣地を包囲するソ連軍部隊の戦車37輌撃破し排除、ベーケは停滞している歩兵師団の支援に第23連隊II大隊をゾゾフ東部の高地に派遣した。大隊は抵抗を粉砕し歩兵部隊の道を開いた。
第XXXXVI戦車軍団は、ベーケにLSSAHの補給部隊の防護を命令。そして補給部隊へのソ連軍の戦車攻撃は運良く到着したベーケの戦車部隊に阻止された。
LSSAHに誤射されティーガー1輌全損。
28日
連隊は激しい吹雪の中、強力な対戦車砲陣地を制圧し第23連隊II大隊と砲兵大隊は包囲から脱出するソ連軍部隊を粉砕。
第503大隊はオラティフに進出し第2戦車連隊(第III戦車軍団)と提携した。
29日
第23連隊II大隊は西に補給路を開くため攻撃、イメリンカ農場で攻撃を受けパンター1輌全損した。
夕暮れにソ連軍は北からオラティフを攻撃したが、戦車4輌撃破し後退。
第23連隊第7中隊は4輌のティーガーと、新しく作られたオラティフ北の防御陣地を攻撃、戦車、突撃砲11輌、対戦車砲1門破壊しソ連軍はイメリンカ農場に撤退したがティーガー1輌全損。
夜、ティーガー2輌、突撃砲数輌で、ソ連軍地域で放棄されていた2輌のティーガーの回収を行うが対戦車砲火に拒まれ近づけず回収を断念した。
30日
第503大隊指揮官フォン・カゲネク少佐が負傷し、ブアメスター大尉が指揮を執る。
31日
連隊はイメリンカ農場を攻撃し占領した。その後フロンティヴカへ移動し、ウーマニの北に鉄道輸送された。
連隊は、稼働戦車数:パンター15輌、ティーガー18輌と報告。
ドイツ国防軍は24~30日のポグレビシュチェ地区南部の作戦で、10以上のソ連狙撃兵師団と幾つかの戦車軍団を粉砕し、戦車、突撃砲700輌、野砲680門、対戦車ライフル340丁、数百の車とその他多数の兵器と装備を破壊又は捕獲し、死者8000名以上、捕虜6500名の損耗を与えたと発表。
因みにソ連第1ウクライナ戦線は1月21~31日で戦車513輌、突撃砲146輌損耗と報告している。