(5)
丑三つ時も過ぎた頃、聖は安道魔術探偵事務所の前にいた。事務所の明かりがまだ点いていたことを先ほどビルの前で確認済みである。聖は二度のノックの後、扉を開けた。
「すみません」
いつもの窓際の椅子にも応接用のソファーにも咲哉の姿はなかった。部屋の中は人がいるとは思えないほど静かで、もしや電気を消し忘れたまま帰ったのでは、と聖は思い始める。そうして焦っていると、台所の方から夏樹が姿を見せた。
「城戸さん、お疲れ様です」
彼は扉の傍で突っ立ったままの聖に近付いてくる。
「仕事は終わったんですか?」
「はい。とりあえず今日は帰されて。明日、というか今日ですね。朝一で出勤です」
魔研と警察に通報したのは聖だった。
なぜ纓田が山にいるのかということを聖は警察にも魔研にも話さなかった。ただ纓田の様子がおかしかったので追いかけてきたら遺体を発見したとだけ告げた。纓田の遺体の傍に置かれたニルヴァーナのメッセージカードを見ると魔研も警察もそれ以上深く訊ねてくることはなかった。
ニルヴァーナのメッセージカードには、こう書かれていた。
【魔術師連続殺人事件の真犯人をここに処刑する】
そこには咲哉が無実であること、そして三年前に自殺されたとされる咲哉の死体は安道小町であることが書かれていた。同時に纓田が自らの魔法陣を咲哉の魔法陣に偽造したことも、そしてその証明方法まで書かれていた。
その所為で警察と魔研はメッセージカードの内容の事実確認に追われていたのだ。咲哉の遺体として処理されていた小町の墓はあばかれ、彼女の一部がDNA鑑定に回されていた。魔術で姿を変えられても、DNAまでは偽ることができない。きっとその遺体は小町であることが明らかにされるだろう。魔研も三年前の事件の現場から発見された魔法陣の再鑑定に追われていたが、ようやく一時的に解放されたのだ。
「咲哉さんは?」
聖の目的は咲哉の様子を見ることだった。あのあと彼女とは別れてしまったが、その後どうしているのかが気になっていた。
事件は解決に向かっている。
だが。
咲哉の大切な友は帰ってこないのだ。
「咲哉なら」
夏樹は天井を指差した。
「屋上にいますよ」
「屋上?」
「ええ」
頷いた夏樹が台所へと戻っていく。その彼に礼を述べて聖は屋上を目指した。高い音を立てる階段を聖は駆け足で上っていく。夜が深い所為で車の音もない。薄闇の中に聖が階段を上る音がやけに大きく響いていた。
屋上に到着すると、直ぐに咲哉の姿を見付けた。屋上を囲む柵に両腕を乗せた咲哉の後姿がぽつんと闇の中にあった。夜空を見上げる、その表情は聖には見えない。けれどそのまま溶けて消えてしまいそうだ、聖がそんなことを思ったところで咲哉が振り向いた。
「あら」
それはいつもの調子の、凛とした声で。まるで何事もなかったように、彼女は笑う。
「お仕事は良いのかしら?」
「朝には戻ります」
言いながら近付いて、彼女の隣に並んだ。そうして彼女が眺めていた夜空を見上げる。街の明かりが目映い所為で、星の光は随分と遠くに感じた。
「よくここだって分かったわね」
「夏樹さんが教えてくれました」
「まだ帰ってないのね」
ふっと咲哉は笑う。呆れのような、嬉しさのような、曖昧な吐息だった。
「咲哉さんは帰らないんですか?」
「私はここが家みたいなものだから」
帰る家がない、とは彼女は言わなかった。だが本当の家にはとても帰れないような、そんな切ない声で答えた彼女の横顔を聖は見る。
咲哉は空を見ている。星の光の薄い、紫色の夜空だ。白い月は少し欠けて歪な形をしている。
「……寝なくていいんですか?」
「そうね」
柵の上で腕を組んで、咲哉はそこに頬を寄せた。
吐息に色はない。そうだというのに、随分と寒い夜だった。
聖が口を閉ざせば、とても静かだった。互いの呼吸の音すら聞こえそうな夜の中で、ただ傍に寄り添うことしか聖にはできない。彼女と同じように柵の上で腕を組む。距離が近い所為で、彼女のいる右側から彼女の体温が伝わってくるようだった。
「――小町は、」
「え?」
不意に咲哉の声が聖の耳を撫でた。それはあまりにもか細く、きっと昼の雑踏の中では聞き逃してしまうほど。
吐息のような声で、呟くように咲哉は言う。
「小町は、笑うかしら……」
それはきっと咲哉がずっと抱えてきた言葉だ。咲哉は聖を見ない。ただ真っ直ぐに夜に向けられた瞳が揺れているように見えた。瞬きをする、その長い睫毛が濡れたのも、見てしまった。
彼女の脆いところを曝け出されて、聖は何も言えなくなってしまう。こんな時に気の利いた言葉一つかけられない自分を恨んだ。
「私ね、」
咲哉の声は震えている。
耐えるように、彼女は声を飲んで、一息に。
「あの子が笑っている顔が大好きだったわ。あたたかくて、もう、本当に、」
願うように、彼女は言葉を重ねた。
「大好きだったの」
瞬く、その睫毛の隙間から涙が伝う。作り物のように美しい、その横顔に聖は手を伸ばしていた。指先で掬うように涙を拭うと咲哉が驚いたように聖を見た。ただでさえ大きな瞳がさらに大きく開かれて、その目に映った聖は自分でも知らないくらいに優しく笑っていた。
「大丈夫ですよ」
彼女の頬に触れた手で、彼女の左手を取った。
鬼才だと言われた魔術師の手だというのに、その手はあまりに細くて、あまりに冷たくて。
護らなくてはならない、なんて思ってしまう。
「小町さんは、咲哉さんの友達ですから」
だから貴女がそれ以上傷付く必要は、ない、のだ。
「きっと笑っていますから」
そんな、今にも消えてしまいそうな顔をしないでほしい。
聖の使える言葉は多くない。咄嗟に彼女の手を握ってしまったことを自覚したが、今さら引き返せずに彼女の手を包む手に少しだけ力を込めた。
そこで彼女はハッとしたように右手でごしごしと涙を拭った。鼻をずずっと吸って、いつもの凛とした声音で早口に言う。
「そうね。小町は、きっと笑ってくれるわ」
その台詞が消えると再び静寂が流れる。彼女から手を離す機会を逃してしまった聖が内心戸惑っていると、咲哉が聖を見上げた。
心まで射抜くようなその瞳の強さに聖は思わず少し仰け反ってしまう。そんな聖に咲哉は告げた。
「あのね」
「な、何ですか?」
「今から泣くわ」
「え」
だから、と咲哉は言った。
「こっち、見ないで」
何をいまさら、と思ったが聖は黙って彼女から顔を背けた。そういえば、と彼女から手を離そうとしたが、その手は咲哉の手が握り締めて離さなかった。遠慮がちに握る、その指の細さに聖が息を飲む、その後ろで。
声はなかった。
それでも彼女が唇の隙間から零す吐息は、震えている。
彼女がどれほどの痛みを背負い、どんな想いでこの三年間を生きてきたのだろう。自分のために死んでしまった友に報いるためだけに生きてきたのなら、これから先の未来は彼女は自分のために生きることができるのだろうか。
彼女が流す涙は彼女の心を救うだろうか。声にすることない、彼女の嘆きは彼女の心を解放してくれるのだろうか。
聖は黙って、彼女の手を握り締める。




