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(4)

 落ちていく太陽の光が山の裏から差し込んでいる。夕方よりも少し早いその時になって、それまで魔研の自分のデスクで煙草を吹かしていた纓田が立ち上がった。徹夜だった能上は仮眠室に行っており、佐脇も能上の代わりに警察に事件の資料を返しに行っていて留守だった。自らのデスクで昨日の報告書を書きながら、聖は纓田の様子を秘かに窺っていたのだった。


 纓田は煙草を灰皿に押し付けると、換気するために開けていた窓を閉めた。まだ煙の残滓が空気中に漂っていた所為で部屋の中には苦い煙草の臭いが広がっていく。



「城戸」


「はい」


「その報告書は明日見るわ」



 言いながら、纓田は廊下に向かって歩き出していた。



「終わったら俺のデスクによろしく」


「はい」



 頷く聖の顔すら見ずに纓田は部屋を出ていった。聖は遠ざかる彼の足音を聞きながら、報告書をデスクの引き出しに仕舞う。


 既に咲哉は約束の場所にいるだろう。彼女は小町の姿で、彼女が殺された場所で纓田を待っているに違いない。そして纓田もきっと彼女の居場所へと向かったのだろう。彼女から送られた手紙を見た纓田の顔を聖は思い出しては、肌が粟立つのを感じていた。


 手紙を見た纓田は表情を変えなかった。いつもの気怠けな、やる気の失せた表情をしていた。そうだというのに、その瞳の、黒い瞳孔だけが勢いよく広がったところを聖は見てしまった。



(あいつだ)



 それだけで、充分だった。


 あの事件の犯人が誰か、なんて。確かめるまでもない。獰猛な鰐のような眼は人を殺したことがある人間のそれと同じだ。そう、聖の直感が叫んだ。


 聖は強く握り締めていた拳を開くと、携帯電話を取り出す。電話をかける相手はたった一人。咲哉の電話番号を履歴から選んで、発信する。繰り返される呼び出し音。留守番サービスを使用していない、彼女の電話は途切れることはない。だが彼女が出る気がないことを知ると、聖は電話を切った。


 彼女は、どうするだろう。


 そんな取り留めのないことを考えて、聖は立ち上がる。


 復讐するのかと訊いた聖に、彼女は、分からない、と言った。その返事は尤もだし、きっと聖も同じだ。犯人に対する強い憎悪と殺意はある。けれどそれが人を殺すことと直結するかと言えば、違う、と思った。


 聖は纓田を追って魔研を出た。既に外に纓田の姿は見付けられなかったが、彼の行先は分かっているのだから慌てる必要はないのだ。彼に追いつかない程度の速度で、同じ目的地へ向かう。その間に聖は考えていた。


 兄の死を信じて、それを報いるために生きた三年だった。けれど兄は生きていた。恋人を殺した相手を、自分を殺そうとした相手を見付け出すために三年間を捧げて、彼は生きていた。ずっと聖が犯人だと信じていた咲哉は自分を殺して、失った友の姿で友の死の真相を追っていた。そうして過ごした三年間は、きっと、友の死を悼むことだけに捧げられたのだろう。


 聖は何も失っていなかった。時間は失ったのかもしれない。今も心を削ぐような痛みは蘇る。けれど結果として、聖の兄は生きていた。複雑で、痛む胸はあっても、自分は報われたのだろう。だって、二度と逢えないと思えていた、一番大切な人が、生きている。


 罪を押し付けられて殺された志賀咲哉から、自らの無実を証明したい、という台詞を聖は結局聞くことはなかった。彼女が求めていたのは、友の死の理由、だけだった。家族でなければ、恋人ですらなかった。友達が多くない聖にはそこまで友のために魂を削ることができる咲哉の想いは分からない。


 咲哉は小町を大切だと言った。誰にも執着することのなかった彼女の、唯一、が小町だったとするならば、咲哉は家族を失うより、恋人を失うより、深く冷たい哀しみを覚えたのかもしれない。それはきっと、聖にはとても立ち入ることを許されない域の、心、だろうけれど。


 自らの心を砕いた、彼女の唯一、を殺した人物と向き合う。その時の彼女が、強くいようと生きる彼女が、壊れてしまいそうで。



(ああ、そうか)



 そのことが、きっと聖は怖かった。


 聖は咲哉を恨んでいた。殺してやると思っていた。


 きっと、自分よりも遥かに苦しんで、遥かに人を恨むべき彼女を。何も知らなかったとは言え、恨み、彼女の過去を漁った。どこかで察していたのに、それでも彼女が犯人だと疑わらなかった自らに抱いた罪悪感。


 だから聖は咲哉を見捨てられない。


 そんな彼女に犯人を伝えるのはせめてもの罪滅ぼしだと思った。それと同時に犯人を伝えることに躊躇した理由も、それもまた、罪の意識。


 充分過ぎるくらいに人に恨まれて、充分過ぎるくらいに傷付いた彼女が、犯人を前にした時に壊れてしまいそうだと思った。強い心が壊れる姿は、きっと血を吐くようだろう。その時に責任なんてちっとも取れないだろう、自分に科される罪を考えて。聖は素直に、怖い、と思う。


 山道は雑草が生い茂っていた。それもそうだ、ここは連続殺人犯が自殺した山なのだ。誰も立ち入ることもなければ、手入れなどしないのだろう。獣道を進みながら足元を見れば、雑草が踏み潰されている。土の色からして、まだ真新しい足跡だ。きっと纓田の物だろう。その足跡を追うように進んでいったところで、雑草がぷつりと消えた。


 驚いて顔を上げる。


 周りは木々に囲まれている。そうだというのに雑草は一つもなく、足元には水の匂いを湛えた土肌が見えていた。


 聖は咲哉の仕業だと思った。ここで彼女が何をしようとしているのか、聖は知らない。だがきっと彼女は何か考えがあって、こんなことをするのだろう。


 少し離れたところで纓田が呆然と立ち尽くしているのが見えた。聖は慌てて木の陰に隠れる。そうして冷静に周りを見て、ここは咲哉の魔術で創り出された空間でないことを確認する。小町が死んだこんな痛々しい場所で、彼女は纓田をどうしようというのだろう。


 そう思っていると、纓田が短く声を上げたのを聞いた。悲鳴よりも低く、息を飲むよりも確かな声。その声に驚いて、聖がそっと纓田の方を覗いた。


 纓田の視線の先。そこを見て、聖も息を飲む。声を出さないようにするだけで精一杯だった。奥歯を強く噛み締めて、襲う震えを殺す。


 人だった。


 長く黒い髪をした、人影が、木の枝に吊るされていた。ゆらりゆらりと揺れるその姿が咲哉の物だと聖は直ぐに気が付いた。



(あの日と、同じことを)



 三年前、小町が殺された日の光景を繰り返している。彼女が首を吊る、その場所は幻。そんなことは纓田だって知っているだろう。だが剥かれた彼の眼球は小刻みに震え、ひどく狼狽している。



「な、ぜだ」



 絞り出された纓田の声はしゃがれていた。



「あれは、終わった! 死んだんだ! 犯人は! 志賀咲哉だった! そうだろう!?」



 呼ぶかける纓田の声に返す者はない。


 そんな彼の絶叫を聞いた聖は腸が煮え狂うようだった。



(何も終わってなどいない)



 聖も、兄も、咲哉も。あの事件に関わった全ての人の中で、あの事件は終わらない。あの日のまま前に進めていないのだ。時間が止まったまま一歩も踏み出せずにいるというのに。



「――」



 聖は纓田に罵声を浴びせようと口を開く。だが声を出す直前に、吊るされていた咲哉の口がふっと笑った。



「何も終わってないわ」



 咲哉の首を吊るす縄が消え、彼女の身体が地面に落ちる。軽やかに地面に足を着いた咲哉が纓田の方を向いた。その顔がいつの間にか小町に変わり、そして咲哉に変わり、小町へと戻る。



「どう、いう……?」



 纓田が動揺に言葉を失う。


 ころころと交互に入れ替わる小町と咲哉の姿はどちらも歪なところなど一つもない。とても魔術で作り出したとは思えないその姿に纓田が動揺する。



「お前は死んだ!」


「死んだのは、」



 その声は小町。



「どっちかしら?」



 その声は咲哉。


 纓田に近付きながら、彼女は小町の顔で咲哉の悪戯な笑みを浮かべる。



「貴方が殺したのは、どっちかしら?」


「俺は――!」


「殺したのね」



 切り捨てるように告げた姿は咲哉だった。声を失った纓田の目前で、咲哉は彼を指差す。



「私を殺したのは、貴方だわ」


「違う!」



 纓田が右手を上げた。指先が素早く魔法陣を描く。



「お前が生きているはずがない!」



 こんなのは魔術だ。そう叫んだ纓田の魔術が咲哉の身体を包み、爆発させた。


 爆風と、熱。逃れるために聖が木の陰に隠れると、そんな彼の目前に立つ人物がいた。



「え?」


「手を貸してください」



 肌を焼く熱風に臆することなく、凛と立つ夏樹が聖に乞うた。



「護るために」



 誰を、なんて言わなくても分かった。


 夏樹は苦痛に耐えるように口を強く結んでいる。その彼の顔を見て、聖は頷いた。



「咲哉さんを、纓田からですね」


「いえ」



 否定は短く。次に続く言葉に聖は言葉を失う。



「咲哉に殺させないために」



 熱風が去ると、咲哉を包む黒煙だけが残る。彼女の前にいた纓田は自らを魔術で護っていたようで、何の傷も負っていない。その彼が安堵したように息をついた、その時。



「貴方だったのね」



 黒煙の中から、咲哉が告げた。


 驚いた纓田がハッと気付き、自らの頭上を見る。そこに輝く糸。複合解析で暴かれた、纓田の基礎魔法陣があった。


 聖にはその解析法を読み取ることはできない。だが咲哉の言葉で分かってしまう。


 小町を、殺したのは、彼だ。



「ようやくたどり着いたわ」



 声の直後、黒煙が内側から消し飛ばされた。そこに立っていた咲哉は傷一つなく、冷たく細めた双眸で纓田を見ていた。



「貴方が、小町を殺したのね」


「安道、って……死んだのは、お前――」



 言葉は遮ったのは、咲哉の左手。彼女は纓田の襟を掴むと、思いっ切り手前へ振り下ろした。受け身を取る暇もなかった。纓田は顔面を咲哉の膝に打ち付ける。



「ガッ!」



 反動で跳ね上がる、その顔は鼻から血を吹き出していた。顔を手で覆おうとする、その両手が顔に触れるよりも早く、彼の頭に咲哉の回し蹴りが食い込んだ。抗うことなく彼は左側へ倒れていく。その彼に馬乗りになった咲哉が、彼の顔面を力の限り殴りつける、その段に至って。


 聖は夏樹と共に彼女の許へ走り出した。



(どうして)



 彼女は魔術を使わないのだろう。


 彼女の魔術なら、一瞬で纓田を火炙りにできるだろう。溺死にだって、刺し殺すことだって、撃ち殺すことだって。何だって、彼が苦しむ殺し方を選べるはずなのに。



「咲哉!」



 夏樹が咲哉の脇から腕を入れ、彼女を纓田から離す。それでも尚も暴れる咲哉の、血に塗れた両手を一つずつ包んで、聖は気付いた。



「離し、てっ」



 咲哉は顔を歪ませて涙を堪えていた。暴れる、その手を包む手に聖は力を込める。


 細い指だ。


 簡単に折れてしまいそうな、その手が人を傷付けるにはあまりにも不釣り合いで、聖は泣いてしまいたくなる。


 振るい上げた拳は相手を傷付けるためだ。だから何もしないままには下ろすことができない。でも相手を傷付けるたびにその手はひどく痛むだろう。その手を、心を、どうすればこれ以上傷めないで済むのか。聖には分からなかった。ただ冷え切ったその手を温めるように包むことしかできない。



「やめてください」



 そう静かに宥めたのは夏樹だった。



「もう、充分だから」



 その一言で抵抗していた咲哉がぴたりと止まった。そこでようやく呼吸を思い出したように、大きく息を吸う。その瞳がいつもの光を取り戻していくのを、聖は見た。


 きっと咲哉は纓田を殺さない。例え、犯人を目前にしても咲哉は人を殺めることはない。


 そのことを夏樹は知っていたのだろう。



 ――咲哉に殺させないために。



 夏樹のそれは、纓田を殺させないため、ではないのだろう。一つ暴力を振るうごとに咲哉の心は片隅から殺されていく。



「魔術を使えば良いだろうよ」



 そう言ったのは纓田だった。顔中を滴る血を腕で拭いながら、彼は身体を起こす。



「俺を殺したいんじゃねえのか」



 血を唾と共に吐き捨てる纓田を咲哉は静かな瞳で見下ろしていた。



「殺してやりたい」



 その声は震えていなかった。恐ろしいほどいつもの調子の声で、でも、と彼女は続ける。



「小町は、きっと泣くわ」



 装飾のない短い言葉だった。それでも咲哉の想いを充分に汲んでいた。その答えが彼女の全てであることを聖は知っているから、心が抉られるようだった。


 纓田はそれ以上咲哉に問わなかった。上体だけを起こした彼が自分の爪先に視線を向ける。その焦点の合わない双眸で、彼はぽつりと呟いた。



「本当に、俺は安道を殺したのか」


「ああ」



 纓田の独白に返したのは夏樹だった。



「咲哉の姿をした小町さんを。あの日、あんたが自殺に見せかけて殺したのは彼女だ」



 低い声は少し震えていたかもしれない。


 咲哉から手を離した夏樹は彼女よりもずっと憎しみの籠った目で纓田を見ていた。その瞳が意味する感情の深くを聖は知らない。だが彼もまた、小町の死に胸を痛めたことだけは確かだ。



「そうか」



 纓田が背後に倒れた。受け身を取らなかった彼の後頭部が地面へ叩き付けられる。その痛みにさえ表情を変えず、彼は太陽の残光だけが残る空に視線を投げた。



「俺は間違えたのか」



 それは懺悔の言葉かと、聖は思った。


 だが違った。



「俺は失敗したのか」



 続けられた台詞に聖は自分の耳を疑った。



「失敗……?」



 何を、どう、失敗したというのだろう。


 それまで見てきた気怠そうな纓田の顔と、目の前の纓田は同じ表情をしている。そうだというのに瞳の奥が暗く、どんよりと濁っていた。


 失敗、と聖は咽喉の奥で反芻する。そうしながら纓田の瞳を見た聖は、彼の、失敗、の意味に気付いて、叫んだ。



「人を殺すことに、失敗も何もないだろ!」


「失敗だった」



 聖の怒声に怯むことなく纓田は繰り返す。



「俺の計画は失敗していたんだな」



 纓田の身勝手な声に咲哉も夏樹も何も言わない。顔を歪める夏樹の隣で、咲哉は傷付いた顔一つしない。一文字に口を閉ざした彼女の顔を一瞥してから、聖は纓田に尋ねた。



「なぜ人を殺したんですか?」



 聖はずっとその理由を知りたかった。


 なぜ犯人は魔術師を殺したのだろう。人を殺したのだろう。たくさんの人の人生を奪い去ることができたのだろう。



「全員魔研のスカウトを断った人だって聞きました。それが何か関係して?」


「……魔研は全てだ」



 纓田は深い吐息を一つ。そうして瞼を下ろして、口を開いた。



「魔術師は人間を超越した存在だ。その中で魔研に選ばれるのは魔術師の中でも上の存在、真の魔術師と言っても良い。それに認められるには努力で賄えるものじゃねえ」



 魔研に選ばれることは決して容易いことではないだろう。文字通り血の滲む努力を重ねても、魔研に入社できない人物が大半を占めている。魔法陣一つ覚えることだって簡単なことではないのだ。その曲線、記号が意味するところまで理解できて初めて魔術を使うことができる。その全てを感覚として身に着けて初めて魔研からスカウトされる可能性を掴むことができる。



「俺のダチは努力した。魔術師になる努力をして、魔研に入る努力をした。だが自分の力で魔術を身に付けた奴には到底入れるわけがなかった」



 魔術師のごく一部は魔術師になる努力をしてなった者がいる。生まれながらに魔力を身に付けていても、上手く魔術が使えない者もいるのだ。そんな人物が魔術を使えるようになるにはきっと並大抵の努力ではないだろう。


 謂わば纓田の友人は人間から魔術師になった。そして彼の友人は魔研に入ることを夢見ていたのだ。だが彼の友人は魔研から声をかけられることはなかった。



「あいつは死んだ。自分を殺したんだ」



 自分の全てを懸けて夢見て生きていた者がその夢を掴むことができなかった時、それは自分の命すら投げ出せてしまうのだろうか。たった一つ、唯一だと信じていた、その未来が閉ざされた時、自分の命すら必要なくなるのだろうか。


 纓田は哀しい表情をしていなかった。淡々と、仕事の報告をするような口ぶりで言う。



「俺は魔研に入った。努力して、時には人を騙して、俺はここまで来た」



 だがどうだろう、と彼は嘲るように鼻で笑う。



「魔研に入ってみれば分かる。世の中には魔研に入る資格を持ちながら、それを拒絶する奴がいる」



 咲哉がそうであったように。


 徹がそうであったように。


 世の中には天賦の才がありながら、それよりも優先させたいものを持つ者もいる。



「『医者になりたいから』『美容師になりたいから』……中には『魔研なんて興味もない』って奴もいた」



 目を開いた纓田は深いため息を落とす。首を左右に振る彼は、堪らない、という表情をする。



「信じられなかった」


「……なにが?」


「そんな奴らが、あいつよりも認められるなんて」



 纓田は見てきた。


 人間から魔術師になり、夢のために血を吐くほどの努力をしてきた友を。そしてその死を。その全てを目にして、纓田は狂ってしまったのだろうか。



「だから俺は試したんだ。断った奴らを見付け出しては魔術を使った。本当に魔研に相応しかったのか、俺が見極めてやろうと思った」



 友の死の意味を、彼も求めたのだろうか。その死は無駄ではなかった、と信じたかったのだろうか。


 そんな感傷的なことを思う聖の頭に浮かんだのは、兄の言葉。


 兄は不意を突かれて攻撃されたのだと言っていた。そうして命を落としかけた彼の痛みや怒りを思って聖は纓田を責める。



「後ろから急に攻撃を仕掛けることで見極められるんですか?」


「それでも反応できるのが真の魔術師だ」



 身勝手な理屈に聖が言葉を失う。その視線の先で纓田は両手で顔を覆った。



「だが俺は失敗した」



 消え入りそうな声で。吐息のような細い声で、纓田は言った。



「安道は殺す対象じゃない……殺したんなら、俺は失敗したんだ」



 辺りが暗闇に包まれていく。月の存在が目映く感じる、その闇の中に浮かんだのは、咲哉の吐息の音。ふっと笑うように、呆れたような息を吐いて、咲哉は唇を開いた。



「ええ、本当に」



 頷く声は、凛と響く。



「貴方は失敗したわ」



 嘲るでもなく、肯定するわけでもなかった。彼女は真っ直ぐに纓田を見下ろして、諭すように言った。



「だから人を殺すことでしか自分の虚しさを表現できないのよ」



 纓田の肩がびくりと揺れた。憐れむような彼女の台詞が彼の弱い部分を傷付けたのかもしれない。それでも咲哉は言葉を止めず、重ねた。



「貴方の犯した罪も、貴方の人生も、貴方の魔術も。本当に不出来だったと、いつか、気付ける日がくればいいわね」



 纓田が顔を覆っていた手を退ける。その目がてらてらと月の光で濡れているように、聖には見えた。彼女の言葉は暴力よりも確かな強さで纓田を殺したのかもしれない。


 生きたまま死んでいるような、表情のない顔を纓田はしていた。血塗れの顔を咲哉に向けたまま彼が上半身を再び起こす、そうして彼が口を開きかけた、その時。



「聖!」


「え――」



 名を呼んだのは、咲哉だった。聖には反応できないほどの素早さで聖の手を掴んで、咲哉は自分の方へ引き寄せた。


 何が起こったのか、分からなかった。


 ただ鼓膜を殴りつけるような音を、聞いた。それが銃声だと気付いたのは、後方へ仰け反る纓田の身体を見てようやくのこと。胸から血を吹き出しながら纓田が倒れていく。聖は音のした方角へと視線を滑らせた。そこにあった怪しい光は魔法陣発動の証。


 距離は遠い。木々の奥、ここからは相手の姿が確認できないほどの位置で誰かが魔術を使った。そして、纓田の胸を撃ち抜いたのだ。



「シュウ……?」



 咲哉はその光へ目を細める。



(違う)



 だが聖は違うのだと気付く。


 幼い頃から何度も見た、あの光を覚えている。



(あれは――兄さん!)



 徹の魔術だと聖は思った。あの距離から、兄は纓田の命を狙ったのだ。



「どうして……」



 兄の憎悪は知っていたつもりだ。だがまさか、正義に憧れて刑事になった兄が、人を殺すなんて考えたこともなかった。


 茫然と立ち尽くす聖から手を離して、咲哉は纓田の傍に駆け寄った。徹の魔術は銃弾のように纓田の心臓を撃ち抜いたようだった。暗闇の中でも分かるほど濃い血の色が纓田の服を染めていく。その傷口を咲哉はぐっと強く押さえつける。そうして既に目が虚ろな纓田に彼女は声をかけた。



「しっかりしなさい」


「咲哉さん?」



 まさか纓田を助けようと言うのか。聖は自分の目を疑う。


 纓田は咲哉の友を殺したのだ。唯一無二の、大切な友を。


 そんな相手を、彼女は助けると言うのか。



「そんな、咲哉さん――」


「貴方だって嫌でしょう」



 助ける必要なんてない、そんな非情な言葉を続けようとした聖の声に自らの声を被せて、咲哉は告げた。


 何が、と問う前に纓田の傷口を見下ろす咲哉が早口に告げた。



「人殺しの家族になるのは」



 咲哉にだって家族がいたはずだった。早くに亡くなった両親の代わりに育ててくれた叔父夫婦と本当の兄弟のように育った彼らの子供がいた。その家族は咲哉が殺人犯とされたことでどんな仕打ちを受けたのだろう。きっと咲哉はそれを知っていて、聖にそんなことを言うのだ。



「やめろ」



 そう言ったのは纓田だった。


 呂律の回らない舌で言葉を手繰り寄せながら、彼は苦しげに息を吐いている。



「俺は、失敗、したんだ」


「知っているわ」


「ちがう」



 纓田は自分の傷口を抑える咲哉の左手を握り締める。その彼の手に咲哉は右手で触れる。



「私は貴方を許さない。貴方のことはきっと理解できないでしょう」



 けれど、と彼女は纓田の瞳を真っ直ぐに見た。



「友だちを失う、その哀しみくらいは分かるわ」



 纓田が目を剥く。


 その瞳がガラス玉のように光を映したのは、一瞬。彼の震えた唇は血を吐き、見開かれた眼球の隅で涙が膨れた。そうして開かれた口で大きく息を、一度吸い込み、吐くように。



「――ぜ……ん、ぶ、」 



 そこで声は途絶えた。激しく上下していた胸も静止している。


 咲哉はそっと纓田の胸から手を離した。その彼の血で黒くなった手で彼の頬に触れる。慈しむわけではなく、別れの儀式のような、咲哉の行動に聖は見入ってしまう。


 半眼のままの彼の眼球はやはり淀んだままで、先ほど彼の瞳に映った煌めきは見間違いなのではないかと思う。



(あれは、)



 だが確かに聖は見た。咲哉の、言葉を聞いた纓田の瞳が光を受け入れて開かれたのを。



(何だったのだろう)



 最後に後悔でもしたのだろうか。全てに目覚めたようにも見えた、その一瞬が何を意味するのか聖には分からない。



(『ぜんぶ』って言ってた、な)



 ぜんぶ――全部。その言葉の続きは、一体何だったのだろう。


 それを問い質すことも、答えを知る者もいない。



「杏奈と佐脇さんを呼びましょう」



 纓田から手を離した咲哉が立ち上がる。



「警察も一緒に、と」



 咲哉が足元に視線を落とす。そこには纓田の血に浮かぶ、二つ折りのメッセージカードが一枚あった。


 そこに書かれた『ニルヴァーナ』の文字。



「纓田はニルヴァーナに処刑された」


「……ニルヴァーナ、に」


「ええ。ニルヴァーナに殺されたのよ」



 ニルヴァーナは被害者の関係者からの依頼で犯罪者を処刑するためだけに作られた組織だ。現場に残されるメッセージカードの表紙にはいつもシュウの字で、『ニルヴァーナ』と書かれている。



「『犯罪者には死を』」



 ニルヴァーナの誓い。


 それを口にして、咲哉はゆっくりと瞬きを一度。


 纓田の遺体から顔を背けるようにして歩き出した咲哉は呟いた。



「……死は、何も救わないのに」



 聖は纓田の死体へと目を向ける。長く恨み続けてきた犯人だった。そうだというのにその死を目にして、聖はただ虚しさばかりを思う。


 咲哉の言う通り、死は何も救わないのだろう。


 だが、聖はどちらの意見も否定できない、と思ってしまう。


 大切な者を失う哀しみをどうにかして消し去りたい、と願う気持ちも分かってしまう。奪われた未来を悼み、その犯人に命で償えと訴える気持ちも分かってしまう。だから。


 ニルヴァーナのことも、シュウのことも、兄のことも。


 きっと聖は責めることができない。


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