(3)
安道魔術探偵事務所へ続くビルの階段を上りながら、聖は自分の心に迷いがあることを感じていた。それは自分の辿り着いた答えに対してでもあったし、その考えを彼女に伝えることに対してでもあった。不確かなはずだというのに聖は自分の出した答えに自信がある。だからこそ、その答えを口に出すことに恐怖を感じていた。
聖が一歩上ることに鉄性の階段が高い音を鳴らす。その音が一つ鳴るごとに周囲の温度が一度ずつ下がっていくようだった。不自由に握りしめた指先は硬く、冷たい。緊張すると血管が収縮して身体の末端が冷えるのだと以前にどこかで聞いたことを思い出す。だから今、自分の手は冷たいのだろう、なんてことを考えているうちに、聖は安道魔術探偵事務所の扉の前に立っていた。
(……良いのか)
彼女に自分の考えを告げて、良いのだろうか。
犯人は聖のただの推理だ。違うかもしれない。だが合っているという自信がある。だからこそ、聖は戸惑うのだ。
咲哉に容疑者を伝えたら、彼女はどうするだろう。もしかしたら。
(――復讐)
能上が話していた通り、咲哉の目的は犯人への復讐かもしれない。そう考えたら、尻込みしてしまう。
そうして聖が逡巡していると、内側から扉が開いた。
「そこで何しているの」
顔を出した咲哉は困った顔で聖を見ている。心の準備が不充分だった聖は狼狽えてしまう。
「あ、えっと」
「……中に入ったら?」
扉が大きく開かれ、聖は中に招き入れられる。聖がおずおずと中に入るとテーブルの上に三人分の珈琲を用意する夏樹の姿があった。彼は聖の姿を見るとソファーを勧めてくれる。言われるがままにソファーに座って、向かいに咲哉たちが座ったところで、ようやく聖は珈琲の匂いを感じた。ふっと心がやわらかくなる香ばしさに自然と肩の力が抜ける。
咲哉は聖に話を促すようなことはしなかった。ただ静かに向かいに座って、夏樹が用意した珈琲に口をつけている。そんな彼女の伏し目がちな、黒く長い睫毛を見つめながら、聖はゆっくりと口を開いた。
「魔研に行ってきました。そこで、能上さんがあの事件の資料を見ていたんです」
「……そう」
「昨日はいろいろなことが一度に起こった所為で、気付きませんでした」
確かに聖の脳は疲弊していた。上手く回らない頭が、心が、突然暴かれた現実を理解して受け入れるには時間がかかる。
それでも全てを受け入れた今では、その答えを、導き出せてしまった。
「兄さんは言いましたよね? 『被害者は全員魔研からのスカウトを受け、それを断っていた』って」
「ええ」
「そのことは捜査資料には残されていませんでした」
咲哉の目が鋭くなる。殺意すら感じる瞳に気圧されそうになりながら、聖は続けた。
「データベースに侵入した俺が知らなかったんだから、その時点で気付くべきでした……でも気付かなくって、今朝魔研で能上さんがそのことを知らないってことを知ったんです」
「……」
「おかしいですよね? だって魔研が捜査に関わっていたんだから、その情報は現場まで落ちるはずです。でも捜査に関わっていた能上さんが知らなかった。資料も残っていない。それはつまり――」
「上から伝えられたその情報を、現場に落とさなかった人物がいるってこと?」
「はい。その上で捜査にはその情報が組み込まれていたって、上手く上には伝えられる人物でもあります」
咲哉が指先で自分の唇に触れる。思案するように視線を足元に落とす、その横顔を聖は眺めて告げた。
「咲哉さんは昨日、俺と佐脇さんと能上さんの魔法陣を調べました。犯人のものとは違ったって言いましたよね?」
「……ええ」
頷く彼女の黒い長髪が揺れる。その横顔が髪で隠され、彼女の表情が見えなくなる。その途端、聖は自分の言おうとしていることの恐ろしさを思った。
間違っているかもしれない。
それでも、もう、後戻りはできないのだと、そう思った。
「あの時捜査に関わっていた魔研の人物で、安道さんの知り合いって言うのは、俺が知る限り一人です」
自分の言葉を噛み締めるように言い終えると、聖は口を閉ざした。それ以上、何を話せばいいのか、何も話すべきではないのかもしれないと思った。目前の咲哉の反応を待つしかないのだ。
夏樹は感情の読めない無表情で、珈琲を喉へ通す。彼がカップをソーサーに戻す、その軽やかな金属音が消えた頃になって、咲哉が深いため息をついた。
「――そう」
それは声というよりも吐息に近い。
「それなら徹の目撃した人物とも合うわね」
「黒いスニーカーの男、ですか」
「ええ」
自分を襲撃した相手は男物のスニーカーを履いていたと兄は話していた。確かにそれなら合致している。
顔を上げた咲哉はソファーに背を預けた。そしてゆったりと、その苦痛を味わうように、彼女は言う。
「まさか、――纓田が、犯人かもしれない、だなんて」
当時捜査を担当していた魔研の人物で、残されたのは纓田慧だけだ。そして彼ならば魔研の上部から直接伝えられるだろう情報を現場に落ちる前に遮断することもできるだろう。
あくまで聖の想像だ。推理だ。纓田が人を殺す姿など、とても聖には想像などできないが、彼が犯人だと言うならば全ての点が繋がる。
「纓田さんに会いますか?」
「そうね」
「複合解析で?」
「……それしかないでしょう」
「でも……」
もし本当に纓田が犯人ならば。
「どうする、んですか?」
「どうするって?」
犯人は自らの魔法陣を他の者の物に偽造することができる。それは誰にでもできることはない。聖にはきっとできない。それほどの魔術師を相手にした時、咲哉はただでは済まないだろう。
「復讐、とかするんですか?」
「……みんなそのことばかり気にするのね」
みんな、とは誰のことを差すのだろう。聖がそれを尋ねるよりも早く、咲哉のかすかな笑い声が聞こえた。
「分からないわよ」
「分からない?」
「いくら今、復讐なんてしない、って言っても、その時にならないと分からないわ。自分がどうするかなんて」
少なくとも彼女は今の段階では犯人に復讐する気はないのだろう。そのことを知れただけで、聖は幾分かほっとする。
「安心しなさい」
「え?」
「私は誰かに殺されるほど拙い魔術は使わないから」
どうやら聖の考えは見透かされていたようだ。笑顔で告げた咲哉に聖が苦笑していると、咲哉が立ち上がる。
「確かめるなら早い方がいいわね」
「いつにします?」
「時間を止めたらさすがに捕まるかしら?」
しれっと何を言い出すのだと聖は目を瞬かせる。咲哉の隣にいる夏樹はまたかと言った顔で珈琲を啜っている。彼女の突拍子もない言動にはすっかり慣れているらしい。
聖は首を左右に振った。
「それは呪術ですね」
「だめ?」
「時間を止めるのは俺が黙っていれば済む話じゃないので」
それもそうね、と咲哉は頬を膨らます。
「とりあえず今日にしましょう」
「今日ですか?」
「そう、夕方。陽の落ちる前に。小町の名前で纓田に手紙を出すから」
「呼び出すってこと?」
「ええ」
咲哉は口の端に笑みを浮かべている。悪戯っ子のような表情で、彼女は言った。
「小町の名前で。でも文字を紙に焼き付ける魔術……その魔法陣は私のもの」
「でも、それって……!」
とても危険な行為だ、と聖は思った。
「纓田さんが誰かに貴女の魔法陣であることを告げたら……」
「犯人だったら言わないわ」
咲哉は自信に満ちた表情をしている。
「自分が殺した相手よ? 生きていたら……それは相手にとって絶体絶命のピンチだわ」
犯人ではなかったら、という疑問を聖は飲み込む。もしそうだったとしても、彼女ならばどうにでもできるのだろう、と思った。彼女の顔を見ていると、自分の不安が馬鹿馬鹿しく感じてくる。
「手紙は俺が届けます」
「ありがとう」
咲哉は窓際のデスクから白い便箋を取り出すと、そこに魔術で文字を焼きつけた。とても短い文章。
【日暮れ時、あの山で待つ。 安道小町】
それだけだが、本当に小町を殺した犯人にならそれで充分だろう。咲哉は魔術を使ったということを分かりやすくするために文字を焼印のように綴ったのだ。この手紙を不審に思って解析しないほど纓田は抜けてはいないだろう。
聖は咲哉から手紙を受け取る。その彼女の細く美しい指先を眺めながら、聖は遣る瀬無い気持ちになる。
きっと明日には一つの終止符が打たれるだろう。
それがどんな結果であれ、きっと彼女は傷付く。
「咲哉さん」
「なに?」
「必要ないかもしれないですけど、」
手紙から咲哉の手が離れる。その指先から彼女の瞳を見た。
「何かあったら、俺が貴女を護りますから」
「……あら、頼もしい」
そう言った咲哉は、なぜか切なく笑った。
「期待だけしておくわ」
「はい」
受け取った手紙を手に、聖は事務所を出た。
魔研に行くと、能上と佐脇が心配そうに聖を見ていた。纓田は相変わらず気怠そうに自分の席で新聞を眺めながら煙草を吹かしていた。何に対しても興味の薄そうな、その彼が本当に人など殺すのだろうか。疑問には思ったが、聖は言葉少なく手紙を纓田に渡した。
中を見た、纓田の目を聖はきっと忘れない。




