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第一章 罪の残響 (1)

 俺は人を護るために魔術を使うんだ、と幼い頃に熱に魘されたように兄が語っていたのを(あきら)は覚えている。兄はその言葉を体現するかのように、人を護るための刑事になり、世界中で限られた者しか使えない魔術を自由に操り、人を護って、――そして死んだ。


 十五歳で大学への飛び級が決まった聖が家に帰る道すがら、兄の(とおる)に持たされていた携帯電話が鳴った。電話をかけてきた相手は兄と同期の刑事だった。そうして耳に当てた携帯電話から聞こえてきた声は、徹の死を伝えたのだった。いつまでも鼓膜に張り付く死の宣告に眩暈を覚えながら、どうにかたどり着いた霊安室で聖は兄の死体と対面した。白さを通り越して青い顔には首筋から噴き出したのだろう血の跡がわずかに残り、人を護るために鍛えていたはずの兄の右腕はどこにもなかった。


 聖の両親が事故で亡くなった時、兄は聖の前で泣かなかった。ただ両手を握り締めて悲愴に耐える兄の姿を聖は今でも思い出すことができる。兄さんは泣かないの、と無知だった聖は言った。兄が言った、俺は大丈夫、という言葉を聖はきっと一生忘れない。その台詞に含まれた思いやりや苦しみの深さを聖が知ったのは、兄の死体を目の前にしたその時だった。


 兄さん、と聖は思う。


 頬に伝う涙はなかった。きっとあの日の兄は泣かないのではなく、泣けなかったのだろう。その体に背負った弟の命と未来を思って、泣かなかったのだ。だがそれならばなぜ自分は泣けないのだろう。

背負うものなど、何一つ、ない、のに。


 朝食を抜くことに決めた聖は着崩れたスーツを気にすることもなく一階へ続く階段を駆け下りていた。こんなに慌ただしい朝になったのは、前日にちっとも寝付けなかった所為だ。空が白ばんだところまでは覚えている。その直後から意識がないところを考えると結局眠れたのは三時間あるかないか、くらいだろうか。


 一階まで降りたところで、聖は自分が何も持っていないことに気付いた。寝室に鞄を忘れたことを思い出して、彼は階段を駆け上がる。



「あー、もう!」



 ベッドの傍らに倒れていた鞄を引っ手繰るように掴むと、聖は再び階段を駆け下りた。そうして革靴に足を突っ込む。だが下ろしたての安い合皮は上手く聖の靴を受け入れてくれなかった。それに苛立っていると、目の前のドアの鍵が、がちゃり、と音を立てて開錠される。驚いて顔を上げる、その聖の前でドアが勝手に開いた。



「おはよう、聖」



 そこから顔を出したのは幼馴染だった。彼女は靴を履くことに苦戦している聖を見ると苦く笑う。



「外まで階段を上り下りする足音が聞こえてたよ」



 そう笑った彼女から目を逸らして、聖は靴を履く作業を再開する。



七菜(なな)が何でここにいるんだよ」



 ぶっきら棒に言っている間に靴が履けた。慌てた様子を見せないように冷静を装う、その視界の隅で聖は腕時計を確認する。家を出る予定時刻を五分過ぎていた。


 そんなことなど露ほども知らない七菜は扉を背に立つと、にこりと笑う。



「今日が初出勤でしょ? 遅刻したら大変だからちゃんと起きてるか確認しに来たの」


「誰が遅刻するかよ。もう準備も完璧だっつーの」


「でもネクタイ曲がってるよ」



 そう告げた七菜の手が聖の首元に伸びる。


 彼女は私服姿だ。最近流行りらしいパステルカラーのカーデガンを羽織っている。


 高校生の彼女とは違い、同い年の聖は今日から社会人だ。小学校の入学までは一緒だったが、聖だけが一足先に中学高校大学を卒業してしまった。


 彼女の細い指先が丁寧に聖のネクタイを直す。その指先から視線を移し、聖はもう一度時計を確認した。予定時間を十分も過ぎた。


 さすがに聖も焦る。見栄を張っている場合ではなかった。



「なあ、七菜。俺そろそろ出ないと――」


「ねえ、聖」



 だが聖の声は遮られた。若干の苛立ちと焦燥を思いながら、聖は七菜の顔を見下ろす。その視線の先で七菜は泣き出しそうな顔をしていた。その切ない表情が意味するものを悟って、聖は息が詰まりそうになる。


 ネクタイは既に整い終えている。そうだというのに聖の服から離れることのない、その七菜の指先は縋るようだった。



「本当に魔研(まけん)に行くの?」



 魔研とは、魔術の研究や魔法陣の解析をする専門機関のことだ。そこに選抜されるのは選りすぐりの魔術師のみだった。世界で限られた者しか使えない魔術。それは時に犯罪に使用されることがある。それを主に調べるのが、【魔法陣紋捜査研究所(まほうじんもんそうさけんきゅうしょ)】――通称『魔研』の仕事だった。


 聖は逃れるように七菜から離れると上り框に置いたままの鞄を手に取る。



「ああ、行くよ」


「……まだあのこと調べているの?」



 あのこと――その一言で聖は思い出してしまう。決して消えることのない、眼球の裏に赤く刻まれた光景。三年前に見た兄の死に顔が頭を過った。同時に込み上げた感傷を殺して、聖は淡々と告げる。



「だってお前、兄さんのこと好きだっただろ? 気にならないのかよ」


「それは……」



 七菜が言いよどむ。


 聖は殺された兄の死の真相を調べるために魔研へ行く。それを七菜も知っているだろう。


 躊躇するような間があった。やがて七菜は苦しそうに、意を決したように口を開く。



「でも、このままじゃ聖は前に進めな――」


「じゃあ行ってくるよ」



 聖は七菜の台詞に自分の声を滑り込ませた。切ない七菜の声も自分の胸に込み上げる感情にも、彼は全てに蓋をする。



「何時に帰って来られるか分からないから。夕飯作っとかなくていいよ」



 合い鍵を持つ七菜はいつも聖の分の夕飯を作っておいてくれている。それは兄が生きていた時から変わらない、彼女の優しさだ。



「聖、」



 聖は七菜に背を向け、扉を開けた。その彼の背に七菜の声が触れる。



「わたし、徹のことは大好きだったよ」



 でも、と七菜が掠れた声で続ける。



「聖のことも、好きなんだよ」



 その声に、聖は振り返った。そこにはやはり七菜の泣き出しそうな顔があって。


 聖はただ小さく困ったように笑うと、家を出た。


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