第四章 ニルヴァーナの夜に (1)
瞼に差す日差しの白さで聖は目を覚ました。
昨晩は安道魔術探偵事務所で咲哉に勧められるままに酒を飲んだのだ。そのまま終電を逃したところまでは覚えている。そしてかすかに、酔い潰れる聖と咲哉を呆れた様子で放置して事務所を出て行った夏樹の姿を思い出せるが、他は一切覚えていなかった。
聖は応接用のソファーで横になっていた。チューハイやビールの空き缶の散らばったテーブルの向こう側にあるソファーに咲哉の姿はない。身体を起こした聖は窓際に置かれたオフィスチェアに咲哉の姿を見付けた。
窓の外を眺める咲哉は重い頭痛に襲われる聖とは違っていつもと変わらない顔色をしている。だが彼女はどこか哀しげな瞳をしていた。その彼女の、朝日に照らされた横顔はどこか儚く、深緑の葉の上で輝く朝露のように美しかった。
「志賀さん、」
「あら、呼び方戻したのね」
聖の呼びかけに驚くことなく、咲哉が振り向く。聖が起きていることに気付いていたらしい。
「呼び方って……」
「昨日、これからは『咲哉さん』って呼びますって言っていたから」
「それは、きっと、たぶん、酔った勢いで……」
しどろもどろ言い紡ぐ聖を咲哉は笑って見ている。どうやら彼女も寝起きのようで、口元を覆った左手の下で欠伸を噛み殺していた。
「昨日はめずらしく飲み過ぎたみたいだわ」
「俺も途中から記憶がないんですが……」
「そうでしょうね」
「え」
「号泣したり爆笑したり、いろいろ忙しそうだったから」
自分の失態が恥ずかしくて、聖は身体が火照る。そんな彼に構うことなく、立ち上がった咲哉はすりガラスの衝立の奥へと向かう。
「珈琲でも飲むでしょう?」
「は、はい。いただきます」
応えながら立ち上がると、聖も咲哉の後を追った。
事務所の台所は簡易的なもので、コンロが一つしかなかった。流し台もとても小さい。二段の小さい冷蔵庫の上にオーブンが置かれている。咲哉は水を入れたヤカンをコンロに乗せると火をつける。
「珈琲はどこに置いたって言っていたかしら……」
「いつも夏樹さんが?」
「ええ。彼が全部やってくれるから」
辺りを見回していた咲哉は食器棚にインスタントコーヒーの瓶を見付けた。二つのマグカップにそれぞれインスタントコーヒーの粉末を入れる。量が多い。
その慣れない手つきに、彼女が台所に立たない人なのだと知る。イメージだけだが、全てが完璧にこなせそうな咲哉の意外な姿だと聖は感じる。
「お湯って意外と沸くのに時間かかるのね」
「こういうものですよ……」
魔術で沸かす人もいるが、咲哉はあまり魔術に頼らない生活をしているらしい。
(それもそうか)
どこで自分が生きていることがバレるか分からないのだから、自然と魔術を使わない生活になるのだろう。それともあの事件より以前からそういう生活をしていたのか。
そういえば昨日、ニルヴァーナの本部に現れた夏樹は咲哉の姿を見ても驚かなかった。もしかしたら彼は彼女の正体も、そして彼女の目的も全て知っているのだろうか。
「夏樹さんは、えっと、咲哉さんの……」
そこまで訊いたところでヤカンの湯が沸いた。咲哉はマグカップに湯を注ぐ。広がる湯気を見ながら咲哉は言った。
「夏樹は、特別なのよ」
「特別?」
「ええ」
曖昧に答えて咲哉は笑う。
「今度教えてあげる。お砂糖の数は?」
「あ、一つで」
「牛乳は入れる?」
「はい」
「あら、私と一緒」
角砂糖を一つずつ入れて、さらに牛乳を注ぐ。聖は咲哉からマグカップを片方受け取ると、彼女と共に応接室に戻った。そうしてソファーに腰掛けようとしたところで、事務所の扉が開く。
「起きていたんですか」
夏樹だった。彼はソファーに座る二人を見て、呆れたように息をつく。
「結局飲み明かしたんですね」
「途中でちゃんと寝たわよ。三時間くらいかしら」
「それをちゃんととは言いません」
そう言いながらも夏樹は当たり前のように台所へ向かう。その背に咲哉はすかさず声をかけた。
「オムレツがいいわ」
「いつも通り納豆入りで?」
「ええ。トロトロ卵よ」
「わかってますよ」
「貴方はどうする?」
突然自分に話が振られて聖は驚く。
「俺ですか?」
「オムレツ、嫌い?」
「い、いえ」
「納豆は?」
「平気、ですけど……」
「夏樹、全部で三人分作ってね」
はいはい、と既に夏樹の消えた台所から惰性的な返事が聞こえる。それだけでこの二人の関係がただの仕事仲間というだけのものではないと気付く。とても慣れ親しんだものだ。
「本当に仲が良いんですね」
「そうかしら? 私はたぶん嫌われていると思うのだけど」
「嫌っている人のところにこんな朝早くから来ませんよ」
時計を見れば、まだ六時だ。もし彼の自宅がこの近くにないのなら始発が走り出して間もなく電車に乗ってやって来たことになる。昨晩も決して早い時間に帰っていったわけではないのに。
台所から包丁の規則的な音が聞こえてくる。間もなくして焼く音と空腹を刺激する香りが漂ってきた。ここは探偵事務所だというのに、懐かしい幼い頃の記憶が蘇るようだった。随分と薄れた記憶の中で、母の朝食を用意する物音が心地好かったことを思い出す。
事件が解決すれば、また兄と暮らせる日々が戻ってくるのだろうか。
朝食を終えると聖はいつもより早かったが出勤することにした。昨日魔研に戻らなかった言い訳もしなければならない。
探偵事務所を出たところで、聖は扉を背に立つ咲哉に向き直った。
「すいません、朝食までいただいてしまって」
「またいつでも来ればいいわ」
微笑んだ彼女は二つ折りにした小さなメモ用紙を聖に差し出した。
「何かあったら電話して」
「何かあったら、ですか」
「別に何もなくてもいいわよ」
え、と声を上げれば咲哉は茶化すように笑う。だが直ぐに表情を引き締めると告げた。
「杏奈たちが昨日のことを素直に報告していたら、貴方は危ない目に遭うかもしれない」
犯人は魔研の人間の可能性があるからだ。もし能上と佐脇が昨日の出来事――咲哉が生きていたということを素直に報告していれば、それを聞き付けた犯人が何か行動を起こすだろう。この場合、彼女と共に消えた聖も、志賀咲哉の情報を聞き出そうと現れた犯人に襲われないとも限らないのだ。
「気をつけます」
「何かあったら電話していいのよ」
それはきっと電話をすれば直ぐに彼女が駆けつけてくれるということなのだろう。それはとても頼もしいが、それは同時に彼女も危険な目に遭うということだ。
「じゃあ、気が向いたら」
「ええ」
彼女からメモを受け取る。それをポケットに押し込むと聖は階段に足を乗せた。振り向けば手を振る咲哉と目が合う。それになんとなく気恥ずかしさを感じながら小さく手を振り返し、聖は一気に階段を駆け下りた。