(5)
聖は周りの空気が変わったことを肌で感じる。
森の中の湿気た土のにおいは消え、制止した風のないひんやりと肌寒い空気。そして聞き覚えのある、氷同士のかすれる音。
瞼を刺す光が消えたことを確認して、聖は目を開ける。
「ここって……」
そうして見たのは、薄暗いバーのカウンターだった。そしていつものカウンター席に座っているシュウとカウンターの中でグラスを磨く悠花がいる。この場所がニルヴァーナの本部だと知り、聖はなぜ自分がここにいるのかを思い出そうとする。
(そう、確かお守りが……)
悠花から貰ったお守りが発光したのだ。魔法陣が描かれており、発動されたのは召喚魔術だった。
「始めから私をここに連れて来るつもりだったんでしょうね」
その声は聖の背後から。咲哉が不快そうな顔をして立っていた。その瞳はカウンター席に座るシュウへと向かっている。
バーには他に客の姿もない。静かな空間に咲哉のヒールの音が高らかに響く。彼女はシュウに近付くと彼の背後で足を止めた。そうして彼を睨み付けて言う。
「それで、私に何の用かしら?」
「君は前置きというものがないね」
「用がないなら私が訊くわ」
シュウの笑い声に被ることも構わず、咲哉は続ける。
「本当にあの日、小町が追っていた人を見ていないの?」
あの日、とは三年前のことだろう。小町が山に入るところを見たというシュウは咲哉にゆっくりと首を縦に振ってみせた。
「見ていないと言ったよ」
シュウは咲哉に振り返る。
「見ていたとして僕が君に嘘を吐く必要はないだろう? 僕はいつだって君の味方だよ」
「生憎私は味方なんて求めてないのよ」
それはあからさまな拒絶であったと言うのにシュウはどこか嬉しそうに笑う。それがさらに咲哉の心を逆撫でているようだった。
聖は二人の間に入ろうと足に力を込めた。咲哉の様子からしてシュウに敵意を持っていることは明らかだった。万が一、咲哉がシュウのことを攻撃しないとも限らない。シュウは魔術が使えないのだ。だからこそ万が一に備えなければならない。そう思って聖が一歩踏み出した。だが聖が進むよりも早く動く影があった。
悠花だった。
彼女はカウンターに手をついて飛び越えるとその勢いのまま咲哉に向かって駆け出す。そして綺麗にネイルが施された右手を素早く動かした。その場に光の筋となって浮かび上がるものが魔法陣であると聖が気付く。
「なんで……!」
悠花が魔術師だなんて聖は聞いたこともなかった。しかしシュウが平然としているところから彼は知っていたのだろう。
咲哉は悠花の動きにいち早く反応していた。悠花よりも早く魔法陣を描いた咲哉は悠花が発動させるより早く魔術を使う。透明な壁が咲哉を護るように包み、そこへ悠花が作り出した無数の銃が銃弾を撃ち込んだ。硝煙が辺りに舞い、聖からは何も見えなくなってしまう。
硝煙は咲哉が作り出した風で消えていく。嵐のような風で店内のグラスが派手な音を立てながら次々に床へ落ちていく。強風に目を細めた聖の視界が徐々に鮮明になり、彼が見たのは懐からカードを取り出す咲哉の姿。その彼女の視線の先は硝煙の塊に向かっている。その煙の中には悠花がいるのだ。
咲哉は今にも魔法陣を発動させようとしている。彼女の魔術の強さを聖は知っている。抗いたくとも敵わないほどの魔力だと知っているからこそ、聖は悠花を助けるために走り出した。そうして咲哉の前に立ちはだかる。
「……どういうつもりかしら?」
刃のような咲哉の眼光は痛いほどだ。自分の方が背が高いと言うのに彼女に見下ろされているような錯覚さえした。
「悠花さんに手を出さないでください」
「……はじめに手を出したのはあちらだわ。――それに、」
ぴしゃりと吐き捨てた咲哉は未だ消えない煙の塊を見つめる。
「そこにいると死ぬわよ」
え、と声を発するよりも先に聖の肌が粟立った。その感覚に驚き、背後を振り返る。そこには今も漂い続ける煙があり、中から獣の唸り声を聞いた気がした。
粟立つ肌は恐怖の所為だ。
濁った煙の奥から迫るものが殺気だと気付いた、その瞬間。
煙の中から飛び出してきた腕があった。
「退いて」
咲哉に腕を掴まれ、聖は左壁へと追いやられる。そうして飛ばされながら聖が見た、煙から飛び出す右腕。それは女性のものにしては太く、シュウのものよりも遥かに筋肉質なもの。
見覚えがある、と思った。
そして煙の中から現れた顔は忘れるはずがない。――自らの兄と瓜二つの顔、姿だった。
「咲哉ァアア!」
吠える兄の声は狂気に満ちていた。彼はただ静かに佇む咲哉しか捉えていない。血走った眼は殺人鬼のようにも亡霊のようにも見え、聖の思考と身体を硬直させる。
(どういうことだ)
兄は死んだはずだ。三年前の、あの日、あの場所で。聖は片腕を失った兄の死体を見ている。
そうだというのに兄の姿と声をした人物が今、あの事件の容疑者である咲哉を今にも殺さんばかりに狙っていた。
「兄さん……?」
咲哉は繰り出される徹の魔術も体術も全て交わしている。自ら攻撃しない彼女の行動が、さらに聖の頭を混乱させていく。
徹は咲哉に向けて拳を振り下ろす。その拳は見事に咲哉の頬に当たった。鈍い音だった。痛みはあったはずだ。そうだというのに咲哉は悲鳴一つ上げなかった。続けて繰り出された徹の蹴りを腹に受けて、咲哉はテーブルを倒しながら後方に飛ばされた。
硝煙は既に消えた。バーの中は薄明かりで照らされている。カウンター席には変わらずシュウの姿があるというのに悠花の姿はどこにもなかった。聖の視界には倒れたテーブルに崩れて寄りかかっている咲哉の姿と、その前に立つ徹の姿しかない。
咲哉は指一つ動かない。彼女の足元には魔法陣の描かれたカードが散らばり、俯く彼女の顔はその長い黒髪に隠れて見えなかった。その彼女の傍へ一歩徹が近付く。
「咲哉、」
彼女との距離を詰めた徹は咲哉を見下ろしている。静かに呼びかける兄の声はどこか呆れていて、聖は声を発することもできないほどに状況が飲み込めていなかった。
徹は咲哉を見つめ、深いため息を落とす。
「いつまでそうしているつもりだ?」
その一言で咲哉の指先がぴくりと動いた。そうして顔を上げた彼女の左頬は赤く腫れていると言うのに、彼女は平然とした表情で首を傾げる。
「気が済むまで殴らせてあげようと思ったのよ?」
「……相変わらずだな」
咲哉は顔を歪める徹に微笑む。その二人を包む空気が慣れ親しんだ間柄のようで、聖は何か言おうと口を開き、だが何も言えずに閉じてしまう。そんな聖の反応を見た咲哉は聖を指差して徹へ言う。
「貴方の弟が説明を求めているみたいよ」
咲哉はそう告げて指を鳴らす。すると彼女の顔にできていた傷跡が消える。どうやら彼女の足元に落ちたカードの魔法陣はしっかり発動されていたらしい。幻術か何かの魔術だろう。
徹が聖に振り向く。その顔も姿も、聖の知っている兄よりも少し大人びていたが、それでも彼の知っている兄そのものだった。
咲哉は徹に聖のことを『貴方の弟』と話していた。彼女の言葉を信じるのなら、今彼女の前に立つ男は間違いなく聖の兄だ。
「どういう、こと、だよ……」
言いたいことはたくさんあった。訊きたいこともたくさんあるというのに、聖の口から零れた台詞はそんなものだった。
なぜ兄が生きているのか、なぜ生きているのなら教えてくれなかったのか。なぜ自分を騙していたのか。
徹は何も言わない。聖のことを真っ直ぐに見る顔からは感情が読めない。
「兄さん!」
堪らず聖が怒鳴れば徹は瞼を下ろす。
そしてたった一言。
「ごめん」
そう言った。
「全部話す」
「全部って?」
間髪入れずに訊いた聖の声は自分が思っていたよりも随分と刺々しかった。
「全部って何だよ。何が全部なんだよ!」
悲しみと怒りが入り混じり、聖は泣き出したくなる。そんな弟の姿を見た徹も傷付いたような表情になった。なぜお前がそんな顔をするんだと聖が叫び出しそうになった直前、咲哉が立ち上がった。
「私も訊きたいことがある」
その視線は未だカウンター席に腰掛けるシュウに向けられている。
「そのためにわざわざ貴方たちの罠にかかってあげたのよ」
そして彼女は冷たく言った。
「あの事件のこと、全部話しなさい」