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(3)

『咲哉……?』



 雨に打たれながら耳に当てた携帯電話。そこから聞こえてきた友人の声はいつもよりもずっと不安そうで、咲哉はこんな最悪な状況だというのに思わず笑い出しそうになってしまう。


 早く携帯電話の電源を切らないといけない。そう思うのに彼女の声をもっと聞いていたいと思っている自分がいた。



『咲哉、聞こえる?』



 やわらかい彼女の声質がこの時はぼそぼそと呟くようだった。咲哉はその声に頷く。



「聞こえているわ。どうしたの?」


『……声が聞きたくなったの』



 そう答えた小町の声が泣き出しそうに歪んだ。そんな彼女の表情を想像して、咲哉は切なくなる。


 出会った頃からどうしようもない友人だった。彼女は小さいことですごく苦しんで、誰よりもいつも息をするのが大変そうだった。そのくせ何も考えていないような飄々とした人物を装う。だからいつも一番損をしているような子だった。それを見てしまって、彼女を独りにできるほど咲哉は冷酷にもなれなかった。そうして築き上げてきた関係が、きっと、今、壊れようとしている。咲哉はそのことを知っていた。



『ごめんね』


「どうして謝るの?」


『わたしがもっとしっかりしていたら……』



 そうしたら咲哉の無実を証明できるのに。


 なぜ自分が犯人に仕立てられているのか、咲哉には分からなかった。犯行現場にあった基礎魔法陣の陣紋が全て咲哉と一致しているのだという。きっと真犯人がそのように偽造したのだろう。そしてその魔法陣は完璧に真似られていたものだから、魔研では見分けられなかった。


 魔法陣の偽造は咲哉にだって簡単にできることだ。他にできる人物がいても不思議ではなかった。それに自分は気付かないうちに多方面から恨みを買っているだろう。何かをした自覚はなかったが、恨みとは本人の意思に関係なく抱かれるものだ。



「貴女が謝る必要はないわ」



 その言葉に嘘はない。小町は彼女にできる全てで咲哉の無実を証明しようとしてくれた。だが犯人は手ごわく、魔法陣の偽造の証拠を何一つ残していなかった。


 他人の魔法陣を偽造することは呪術魔術とされている。法律で禁止されている呪術魔術は、いつか自らに災いを齎すとされている。それでも偽造する者はいるだろう。そして今公式に認められている解析方法ではそれを見抜くのはとても難しい。



『咲哉の人生がめちゃくちゃになる』


「めちゃくちゃになるほど大した人生なんて送ってないわよ」


『でも大学の講師は楽しいって言ってた』


「大学の講師が私の人生だったわけじゃないわ」



 頼まれたから就いていた仕事に過ぎなかった。魔研への入社も拒んだ咲哉がとりあえず生きていくために選んだ仕事が大学の講師だったというだけの話だ。



「それよりも貴女が私を捕まえるのはどうかしら? 貴女になら掴まっても良いのよ」


『絶対に嫌!』



 咲哉の笑い声を小町は全力で拒絶する。冗談すら通じない今の小町に咲哉が苦笑していると、小町が静かに言った。



『ねえ、咲哉』


「なに?」


『わたしね、咲哉にはじめて声を掛けてもらった時、本当に嬉しかったんだあ』



 はじめての会話は高校の時。泣いている小町を咲哉が慰めたのが切っ掛けだった。本当はただ静かに本を読みたかっただけだったのだが、あの一件から咲哉と小町は少しずつ友人になっていった。



『咲哉はとっても綺麗で、いつも一人でいるのに全然惨めな感じがしなくて、わたし、ずっと咲哉に憧れてたんだよ』



 咲哉だって、同じだ。


 ずっと小町みたいになりたいと思っていた。独りで平然としているのはそれが咲哉にとって当たり前だったからだ。そんな自分よりも、苦しくても笑顔を浮かべられる、そんな小町みたいになりたいと、咲哉はずっと思っていた。


 なぜ今さら、そんな話をするのだろう。嫌な予感が咲哉の頭を過る。



「小町、何を考えているの?」


『……わたしが咲哉になる』



 何を突拍子もないことを言い出すのだろう。驚きで言葉を失う咲哉に小町は言った。



『咲哉になって、わたしが逃げるから。その間に、どこか遠くに』


「自分が何を言っているのか分かっているの?」



 咲哉の声が焦りと恐怖で震えた。


 自分以外の者に姿を変えることは呪術魔術だ。魔研に務める小町がそんなことをすれば、彼女は二度と魔研に戻ることができなくなる。それは彼女が今まで積み上げてきた物を全て無駄にするということだ。



「馬鹿なことを考えないで」


『馬鹿じゃない!』



 小町の声は悲鳴だった。キンと痛んだ咲哉の耳と心に小町の嘆きが流れ込んでいく。



『わたしの所為で咲哉が殺人犯にされちゃう』


「貴女の所為じゃないわ。悪いのは犯人でしょう」


『でも、もっとわたしがちゃんと証明できれば咲哉はこんな目に遭ってない』



 違う、と咲哉は思う。彼女は何も悪くなどない。だが咲哉が否定するよりも早く小町が告げた。



『咲哉はわたしが護るから』


「小町――」


『だって、』



 小町の唇が震えている。それを知って、咲哉の声は咽喉に絡まった。



『今までずっと護ってもらってた。今度はわたしが咲哉を護るの』



 その台詞の最後の方は、いつもの小町の声ではなかった。


 その声が自分の声だと咲哉は気付く。



「小町、待ちなさ――」


『大丈夫』



 咲哉の制止を遮った小町は自信に満ちている。



『わたしが、咲哉を護る』



 だから、と小町は言った。



『咲哉は幸せになって』



 通話が切られる。


 小町の声が消えた途端、咲哉は自分に降り注ぐ雨の冷たさを思い出した。肌に貼りつく服や髪の不快さを感じながら、咲哉はゆっくりと顔を夜空に上げた。



(急がないと)



 まだきっと間に合う。


 そう思いながら咲哉は左手で濡れたアスファルトに触れた。迷ってなどいられなかった。咲哉は魔術で小町の居場所を特定すると決めていた。


 小町の電話越しにはかすかに車が雨と風を切る音があった。小町の声の背後にあったエンジン音や街の喧騒の記憶を探り、彼女の居場所を探し出すための魔法陣を描いていく。



(それに)



 小町が電話を切る直前に聞こえてきた声があった。忘れたくとも忘れられない、憎たらしい人物の声だった。


 咲哉は描いた魔法陣を発動させる。素早く周りへ広がる波紋が小町の居場所を探す。その波紋が小町に触れた瞬間、咲哉は立ち上がった。そのまま迷うことなく、彼女の許へと走り出す。


 息を切らし、眩暈を覚えながらも咲哉は走り続けた。魔術に頼ってばかりで、ちっとも身体を鍛えていなかったことを後悔する。吐き出される自分の息で喉が傷付くようにひりつく。雨が体温を奪い、肌が痛かった。それでも走り続け、咲哉は街の傍らに聳え立つ山のふもとへと辿り着いた。魔術が示した小町の居場所はここだ。先ほどまで小町はこの山のふもとにいたはずだ。ここまで来る間に一度も彼女とは擦れ違わなかった。もしかしたら山の中に入ってしまったのだろうか。



「小町……」



 友の名を呟き、咲哉が山の中へと足を踏み入れようとした、その時。左の視界の隅に人影を見た。


 顔を向ける。その咲哉の視界の先に見覚えのある人物がいた。



「久しぶりだね」



 少年の面影を残す、けれど色香も漂わせた独特な声だ。その声を持った人物を真っ直ぐに見据えて、咲哉は顔を歪めた。


『犯罪者には死を』――そう掲げて活動を続けるニルヴァーナのボスであるシュウだった。彼の本名を知っている人物は咲哉の知る限り一人もいない。年齢も不明であるこの人物はすらりとした細身をしている。中世的な顔立ちは美しく、やさしくやわらかな微笑みを浮かべた彼は聖人君子のようにも見える。だがその瞳の奥がいつだって暗く淀んでいることを咲哉は知っている。咲哉はわざとらしく笑顔を彼に向けた。



「あら。こんなところで何をしているのかしら?」


「それはお互い様だろう?」



 その一言で咲哉の顔から笑みが消える。


 先ほど小町の電話の最後にかすかに聞こえた声はこの男のものだった。幼い頃から幾度となく聞いてきた声だ。聞き間違えるはずがない。



「小町はどこ?」


「小町と喧嘩でもしたのかな?」


「くだらないお喋りに付き合えるほど暇じゃないの。ふざけるのなら貴方とは喋りたくないわ」



 そう言って咲哉が背を向けるとシュウは肩を竦めた。



「君は冗談も通じないね。小町とは大違いだよ」


「小町の居場所を知っているでしょう?」



 咲哉が単刀直入に訊けばシュウは首を傾げる。



「どうしてそう思う?」


「小町との電話の最後に貴方の声が聞こえたわ。……小町に何かしたの?」



 先ほどまで彼女はここにいた。そしてここにシュウが現れたとなれば、彼を疑わない理由はないのだ。



「僕がどうして小町に何かしないといけないの?」


「貴方ならやりそうだわ」


「失礼だな」



 シュウは苦く笑ってから山を指差した。



「君に化けた小町ならこの山に入っていったよ」


「どうして……」


「僕が小町を見付けた時には君の姿に化けていたよ。それから知り合いを見付けたみたいだったな。その人の後を追って山に入っていった」



 知り合い、という単語に咲哉は眉を顰める。


 なぜ小町は咲哉の姿で見付けた人物を追う必要があったのだろう。



「僕は声をかけたけど、小町は僕に気付かなかったみたいだ」



 電話越しの咲哉にもシュウの声は聞こえた。小町に彼の声が聞こえなかったはずがない。なぜ彼女は彼の声を無視してまで山の中に入ったのか。


 咲哉は嫌な予感がした。腹の奥が、胸の奥が、押し潰れそうなくらいに重い。



(小町)



 咲哉はシュウから目を逸らすと山に向き直る。



「行くの?」


「……小町の様子がおかしかったわ」



 シュウに返しながら咲哉は自分の足元へ視線を落とした。



「私が殺人犯にされたことが自分の所為だと話していた」



 あの時の、小町の声を思い出す。


 いつも陽気に見える彼女の本当の弱さを咲哉は知っている。小さなことで傷付いては人から隠れて泣いている彼女の姿を咲哉は今まで何度も見てきた。他人に興味を持つことすらない自分とは違い、相手の気持ちを尊重しようとするやさしい彼女の弱さを知っているからこそ、咲哉の中で嫌な予感が恐怖となって込み上げてくるのだ。


 咲哉は山道に足を踏み入れた。山の中は雨で湿った土のにおいが充満していた。雨雲に月も星も覆われているため、視界は闇の中だった。こんな山中から小町を探し出すのはどれほど時間がかかるのだろう。


 鳥や虫の鳴き声はなかった。静寂と暗闇の中で湿っていく足が重い。



「小町?」



 名前を呼んでみるが、返事はない。暗闇に目が慣れ始めたが、それでも視界は悪かった。


 山道で乱れていく自分の呼吸を聞きながら、小町の気配を探った。そうして思う。



(小町の所為じゃないわ)



 貴女の所為じゃないのだ、と咲哉は伝えたかった。咲哉がいつも彼女の傍にいた理由も、彼女のためだけではなかった。良くころころと表情を変える、その彼女の笑う顔はいつも独りきりだった咲哉の心を温めてくれた。


 事故死だと聞かされた両親の死が不自然だった事実は幼くして賢かった咲哉の勘を働かせ、引き取られて間もなく叔父の家に度々人が訪ねてきていたことがその咲哉の考えを確信に変えた。そうして一人で生きることを決めた咲哉の心に温かくやすらぐ時間をくれる小町の存在に依存したのは咲哉自身だった。互いが互いを必要としているならば、小町の罪悪感は必要のないものだ。それなのに、また、両親の時と同じように彼女を失ってしまったのなら、咲哉はもう、どうしていいのか分からなくなってしまう。


 どれほど山を登っただろう。ふと空を見上げれば月が見えた。雨が止んでいることに気付かなかったのは、木々に茂った葉から変わらず滴る雨粒があった所為だ。


 先ほどよりも視界が鮮明だった。その明るさに少し安堵した咲哉が視界の端に何かを見た。


 目を向ける。


 月光に照らされた、白い光の中にあった。


 それは木から吊るされた、自分の姿だった。



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