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(2)

 その町は不透明なガラスに覆われているようだった。半球体に包まれた町は外側からは全く中の様子を窺い知ることができない。


 まるで結界のようだ、と聖は思う。


 他人の立ち入りを拒むような半球体を見上げる聖の隣で能上が纓田と連絡を取っている。スピーカーから聞こえてくる纓田の声はいつもよりも随分と緊迫感に包まれていた。



『やはりそうか……中に入ったら連絡が取れなくなる可能性があるな』


「どうします? 一人だけでも外に残しますか?」



 能上の問い掛けに纓田の小さな唸り声が続いた。



『いや、三人で行って来い。犯人と鉢合わせる可能性もあるからな。二日経ってもお前らが戻って来なかった時には援護を回す』


「かしこまりました」



 スピーカーを切ると能上が聖と佐脇に振り返る。



「これから三人で中に入るわ」


「でもどうやって? この半球に拒絶されないとも限らないよ」



 佐脇の疑問は尤もだ。もしこの半球が外部からの侵入を拒むために作られたとするなら下手に触れるのは危険だ。まずはこの魔術を解析する必要がある。


 そう考える聖の前で能上は告げた。



「本当に私たちを拒むなら、こうして可視化なんてしないわよ」


「え?」


「よく考えてみなさい」



 能上は半球を見上げて続ける。



「この一週間、誰も見付けられなかった町が私たちの前に現れたのよ。それなのに、こんな『いかにも』な雰囲気を出しながら現れたってことは中に誘っている可能性だって考えられるわ」


「ですが一応解析してからの方が……」



 能上に聖が忠告すれば佐脇も頷く。だが能上は眉を顰めた。


 どうやら彼女はとても頑固だ。プライドと頑固さで凝り固まった彼女の考えは聖や佐脇の言葉では止められないようだった。



「え、ちょっと……!」



 能上は驚く聖と佐脇を置いて半球に近付いていく。彼女は一瞬だけ半球の前で躊躇する仕草を見せた。だがその直後には彼女の指先が半球に触れた。



「能上さんっ」


「……何ともないわ」



 慌てる聖の一方で、能上は平然と告げた。



「行くわよ」



 能上はさっさと半球の中に入っていってしまう。そんな彼女の様子に聖が呆気に取られていると佐脇に肩を叩かれる。



「僕たちも行こうか」


「は、はい」



 能上に続いて半球の中に入っていった佐脇を聖も追う。


 能上の言った通り半球に触れても何も刺激を感じることはなかった。どうやら半球の正体は白い霧のようだった。湿度の高いひんやりとした霧の中を進んでいくと、一分も経たないうちに辺りが晴れた。そして目前に現れたのは普通の住宅街だった。



「何も問題がないように見えますね」


「同じ日が繰り返されているなんて考えもしないでしょうからね」



 能上は聖に返しながら、探査機を取り出した。懐中時計に似た探査機の蓋を開けた彼女がスイッチを入れると魔法陣を探すための周波が放たれた。


 探査機の上部に距離を示す簡易的な地図と魔法陣の場所が浮かび上がる。どうやら現在、この近くで発動されている魔法陣はここから近い場所にあるらしい。


 率先して前を歩いていく能上に聖と佐脇は続く。佐脇は一人で魔法陣解析用のパソコンを持っている。少し重そうだ。


 魔法陣は直ぐ近くの公園にあった。長い藤棚があるその公園の中心で魔法陣が発動されていた。



「どうやら犯人の姿はないようですね」


「これほど複雑な魔法陣を遠隔で使うことができるなんて……」



 聖たちの目前に現れた魔法陣はいくつもの曲線や記号で描かれたものだった。それほど複雑なものは発動するだけでもとてつもない労力を使う。難しい魔術ならばそれと同等の強さの精神力と頭脳も必要だ。ましてや強力な魔法陣に離れた位置から自らの魔力を届けるなんて、限られた人物にしかできない芸当である。聖たちが見える範囲に発動した人物がいないとなると、どれほど優れた魔術師が犯人なのだろう。



「さあ始めるわよ」



 能上の合図で佐脇がパソコンを開く。その間に能上が魔法陣の構造のコピーに入る。


 一見して混合魔法であることは明確だった。そうなれば、まず発動されている魔法陣のコピーを魔術で創り出すところから始めなくてはならない。今の技術では発動中の魔法陣は解析ができないのだ。


 魔法陣のコピーを作るための魔術を使うにも随分と時間を取られる作業だ。そのためその魔術の使用に慣れている能上が行っても二時間もかかってしまった。



「時間がないわ。急ぎましょう」


「はい」



 聖たちの仕事は今回の事件の犯人の特定と魔術を停止させることだ。発動魔法陣を解析するだけでも、どれだけ時間がかかる作業だろう。


 佐脇がパソコンを操作し、魔法陣をデータとして取り込むための準備を進める。その隣に立つ聖の頭には小町の姿が浮かんでいた。考えても意味がないのだと分かっていても、どうしても聖は考えずにはいられない。


 きっと小町ならば、既に発動魔法陣の解析まで終えているだろう。


 どうしても自分と彼女の差を感じてしまう。同時に彼女を失った魔研の不完全さに歯がゆさを感じずにはいられない。


 どれほど魔術を身に付けたとしても、努力した凡人と生まれながらの天才には天地の差があるのだ。



(今はそんなこと考えている場合じゃない)



 聖は頭を左右に振ると気持ちを切り替える。


 今は自分に与えられた仕事をがむしゃらに頑張るしかないのだ。


 陽が傾いた頃になって、ようやくデータ化できた魔法陣をコンピュータが解析を始める。複雑な魔法陣はデータ化してコンピュータに取り込むだけでもとても時間がかかってしまう。だがデータ化する時と比べてデータベース上で陣紋が一致されるまではそれほど時間はかからないはずだ。



「もう日が暮れるわ……」



 纓田に与えられた時間は二日だ。それを越えれば増援が来てしまう。その前に犯人の特定と発動魔法陣の解析をしたいと思うのは魔術師としてのプライドだ。


 佐脇は先ほどから携帯電話で外部との連絡を試みているが纓田と繋がらないらしい。それも魔術の所為だろうか。



「それにしても本当にこの町には人がいるのかな」


「どういうことですか?」



 佐脇の呟きに聖が反応すれば彼は答える。



「さっきから誰にも会わないからさ」


「でも田舎町ってこんなもんじゃないんですかね」



 佐脇の言う通り、この町に来てから一度も人と擦れ違っていない。建物の窓にも人影は見えなかった。


 パソコンの忙しない機械音が響く。その音を聞きながら聖はハッとして目を見開いた。



「まさか――」


「あれー?」



 被せるようにして聞き覚えのある声が聖の耳に届いた。どこか間の抜けたその声で集中力が途切れる。この場所にいるはずのない者の声に驚き、聖が声のした方へ振り返る。そこにいたのは見間違えるはずがない、安道小町だった。彼女は公園の敷地の外にある歩道で立ち止っている。



「安道、さん……?」



 なぜ安道小町がここにいるのだろう。困惑する聖に近付いてくる小町もまた不思議そうに首を傾げている。



「どうして魔研の皆さんがここにいるんですか?」


「仕事の依頼が来まして……」


「依頼ですか」



 佐脇と能上も驚いている様子だった。作業を中断した聖たちの耳にはパソコンの動く音と砂利の上を進む小町の足音だけが聞こえてくる。


 夕日は大分傾いている。橙色に輝く空を背にした小町の髪はいつもより明るく見えた。



「安道さんも依頼ですか?」


「――城戸君、」



 小町が答えるよりも早く、二人の会話を遮る声があった。


 能上だった。


 震えた彼女の声を怪訝に思いながら、聖は彼女を見遣る。能上はどこか怯えた様子で、まるで幽霊でも見たかのように、言った。



「その人は、誰?」



 その一言で小町の足が止まる。


 聖は眉を顰めてから、能上は首を左右に振った。



「何言ってるんですか? この人は安道さんですよ。能上さんだって知ってま――」


「そんなはずないわ」



 聖の声を一蹴した能上は小町を指差す。その爪先が示したのは、小町の左手。そこに怪しく輝く赤を見つめたまま、彼女は告げた。



「安道小町は右利きだわ」


「……え?」



 魔術師は利き手の人差し指。そのネイルベッドに自らの基礎魔法陣が描かれている。それは魔術師としての力を手に入れた時に、自然と浮かび上がるものだった。基礎魔法陣は魔術師としての強さを表す。それは魔力の強さ、同時に魔術師としての弱点をも表すものだ。魔術師たちは自らの弱さを隠すために、爪を色で覆う。それは聖も、そして能上や佐脇も同じだ。


 爪先を鋭く整え、赤く塗られた彼女の左手の、それ。


 けれど、と聖は思う。もし能上の言葉が真実だとするならば、なぜ目の前の安道小町は、そんな見え透いた証拠を示すのだ。全ての爪を赤く染めれば済むのに。


 聖の心拍が加速する。夕日すら翳り始めた世界で小町の顔が見えた。その表情は怒っているようにも哀しんでいるようにも見える、無表情。それが聖の恐怖を煽った。


 その時だった。


 ピピピー、とパソコンが甲高い音を響かせた。自然と聖たらの目が画面へと移動する。魔術を発動した人物が特定されたのだ。


 その画面の中央、そこに赤く映し出される名前がある。


 その名は。



「――志賀、咲哉……?」



【一致】の文字と共に映し出された名前は三年前に死亡したはずの人物の名前だった。聖たちが硬直する中、フッと誰かが笑う音がした。静かに動いた空気の先へ目を移す、その先からため息交じりの声が聞こえた。



「さすがに全てが上手くはいかないわね」



 今では聖がすっかり聞き慣れた声で、聞き慣れない話し方をする。その人物は安道小町の姿をしていた。


 だが。


 次の瞬間、彼女が指を鳴らすと小町の姿が消えた。代わりにそれまで小町が立っていた位置に違う人物が姿を現す。


 艶やかな黒い長髪、無駄なものを全て省いたかのようにすらりとした細身の体躯。小町とは正反対の見た目をしたその人物が長い前髪をかき上げる。その下から現れたのは、触れたら切れそうなほどに鋭い双眸。その瞳を見て、聖は目を瞠った。



「志賀咲哉……?」



 写真で何度も見ていた。聖は自らの網膜が焼き切れるまで見つめ、記憶した。憎しみの全てを向けた相手。その彼女がそこにはいた。



「どうして、貴女が、生きて……」


「私は生きているわよ、ずっと」



 能上に答えた志賀咲哉の声で聖は思い出す。羽月を連れ戻しに行った絵本の中、聖が意識を失う直前に聞いた女の声は咲哉のそれと同一ではなかっただろうか。



「貴方たちが勝手に死んだと思っていただけだわ」



 吐き捨てた咲哉はどこからともなく四枚のカードを取り出した。そのカードに魔法陣が描かれていることを思い出した聖が口を開く、その前に咲哉が一枚のカードを宙に放った。


 ゆっくりとした速度でそのカードは咲哉が突き出した左手の爪先の目前で止まる。直後、赤い発光と共にカードの中から巨大なドラゴンが現れた。



「なっ……!」



 驚愕する聖にドラゴンの後方に立った咲哉が冷たく告げる。



「戦わないと死ぬわよ」



 突拍子もない咲哉の台詞に聖が呆気に取られている間に佐脇と能上が魔法陣を描いていく。


 ドラゴンが大きく息を吸い込んだ。その口から微かに零れる炎と焦げ臭さ。それに気付いた聖の呼吸が止まる。



(でも、まさか……)



 本当に彼女は自分たちを殺すつもりなのだろうか。


 ふとそう考えて、思い出す。――彼女は連続殺人事件の容疑者なのだ。



(でも)



 今まで聖が接してきた安道小町の正体は咲哉だったのかもしれない。聖は騙されていたのかもしれない。だが佐脇から聞いた、三年前に小町が咲哉の無実を証明しようとした話が頭を過る。小町が信じていた通り、咲哉が無実だと、するならば。それならば。



(もしそうなら――)



 自分は一体、何を信じればいいのだろう。



「城戸君!」



 意識が混沌とし始めた聖の鼓膜を殴る声があった。同時に腕を引かれ、目前に能上の顔が近付く。



「しっかりしなさい!」


「能上さ――」


「ぼーっとしてたら本当に死ぬわよ!」



 能上の鬼気迫った表情を見て、聖の頭が冴えていく。自らの命の危機を知り、咲哉の創り出したドラゴンを見た。ドラゴンは現実にいるはずのない架空の生物だ。だとすれば。



「あれが幻覚の可能性は?」


「甘いわね」



 聖の疑問を否定して、能上は続けた。



「志賀咲哉は鬼才と呼ばれていた人物よ。架空の生物だって作り出せるわ」



 聖が対峙する咲哉を見る。彼女は薄く口元に浮かべた笑みを変えず、聖たちのことを見据えている。聖はその目に自分の考えなど全て見透かされている気がした。


 たった一瞬で彼女との差を思い知り、それは肌にピリピリとした細かい痛みを与えた。じっとりと皮膚を湿らせる汗はドラゴンの口から零れる熱の所為だけではないだろう。


 咲哉の出方を伺っていると、咲哉が呆れたようにため息を零した。



「そちらから来ないのなら私から行くわよ」



 聖たちの反応を待たずにドラゴンが炎を吹いた。炎よりも先に到達した熱風に息苦しさを覚える。風だけで気管が焼けそうだった。


 聖の前で能上と佐脇が魔法陣を発動させた。鋭い光が放たれると同時に目の前に巨大な壁が出現した。しかしドラゴンが吐き続ける炎の熱でそれも直ぐに解けて崩れてしまう。



(やばい!)



 恐怖を感じたのは佐脇と能上も同じだったようだ。聖たちは身構えたが、壁を溶かしたところで炎を吐き尽くしたのか、ドラゴンは口をパクパクと動かしているだけでそれ以上炎が出てくる様子はなかった。その口からは黒い煙が上がっていくばかりだ。



「っ……!」



 それを見た聖は咲哉に向かって駆け出した。


 咲哉には訊きたいことが山ほどある。本当に魔術師を殺し続けたのは彼女なのか。そうならばなぜ兄を殺したのか。――なぜ死んだはずの彼女が生きているのか。


 コンピュータが弾き出した陣紋の適合者は咲哉だった。つまり、咲哉は生きている。


 死んだと思っていたのだ。兄の恋人を殺し、兄を殺し、聖と七菜の時間を止めた殺人犯は死んだと信じて疑ったことなどなかった。彼女が本当に生きているのなら、――あの日死んだのは一体誰だと言うのだ。



「志賀咲哉!」



 彼女の名を叫ぶ聖の声はひどく濁っていた。その敵意にさえ咲哉は笑っていた。その作られた笑顔が余裕からなのだと気付いて、聖は何を信じていいのか分からなくなりそうになる。


 魔術で自分と彼女の周りに檻を作り出す。彼女が逃げられぬようにと魔術を使いながら聖が思い出すのは安道小町と過ごした時間だった。


 出会いは唐突だった。三年前の事件のことを口にした彼女の表情と声は嘘だったのだろうか。幼い少女を救うために手を貸してくれた彼女のやさしさも、少女に語りかけていた彼女の思いやりも、その全てが本当に偽りだったのだろうか。


 聖は唇を噛む。胸に込み上げる感情が何なのか、既に聖にも分からなかった。ただ痛いくらいの苦しさを抱えて、聖は走っていた足を止める。



「……教えてください」



 聖は檻の中で、数歩先に立つ咲哉を見る。その彼女の顔から笑みは消え、彼女の傍らに佇んでいたはずのドラゴンの姿も消えていた。



「貴女は、誰ですか?」



 ずっと恨んでいた相手だ。その相手を前にした時、きっと自分は彼女に罵倒を浴びせるものだと思っていた。恨みの言葉を吐き、彼女の心も体も傷付けてやりたいと思っていた。だが、彼女の目と目を合わせて聖が初めて彼女にかけた言葉は、そんなものだった。


 聖は見てしまったのだ。今、目前にいる彼女の瞳の奥に潜んだ哀しみを。それがいつか咲哉のことを語りたくないと頑なに拒絶していた、あの日の小町と同じだった。そしてその哀しみが、自分と同じものだと、気付いてしまった。


 咲哉は何も言わない。だが聖と重ねた瞳を逸らすことはなかった。



「今まで俺が見てきた貴女は全て偽りですか?」



 そう問うて、聖は自分が彼女に、違う、と否定してほしいのだと悟った。


 今までのことは嘘ではない、と口にしてもらいたかった。そうすれば心の中の絡み合ったものが全て綺麗に片付く気がした。三年前の小町の主張も、人々から聞いた咲哉の人柄も、全て合点がいく。だが。



「私はただ知りたいだけよ」



 咲哉が吐き捨てたのは、どこまでも冷たい声だった。そして内側から強い力に弾かれたように聖の作り出した檻が壊れる。



「その目的のためだけに、ここまで来たんだわ」



 檻を壊したのは咲哉だ。魔法陣を発動させることすらなく、他人の魔術を無効化したのだ。咲哉はそれほど強力な魔力を宿している。彼女から放たれる威圧感に聖は一歩後ずさった。


 その彼の前で咲哉は手に持っていた残りの三枚のカードを見下ろした。そのどれにも同じ魔法陣が描かれている。それは聖が今まで見たことがないほどに複雑で、今まで見たことがないほどに美しかった。


 そのカードを咲哉が投げる。恐怖に動けずにいる聖の前でそのうちの一枚が止まった。残りの二枚はそれぞれ佐脇と能上の前で止まっている。



「何を――」



 能上が最後まで言い終わる前に咲哉の左手が空を切った。それを合図に三枚のカードが激しく発光した。その眩しさに聖は目を閉じる。


 燃えるような熱さはなかった。心地良いほどの温かさに包まれ、そして数秒後には瞼越しに光が去ったのを知る。


 目を開けた聖は先ほどと変わらない位置に佇んだままの咲哉を見付けた。逃走のための魔術ではなかったのだろうか。自分の身体に異変がないことを確認し、首を傾げる。その聖の目前で、首を傾げた咲哉が聖の背後を眺めていた。



「やっぱり外れね……」



 そう呟いた咲哉の表情は落胆というよりも納得といった様子だった。聖は彼女が何を見ているのかと後ろを振り返る。



「これ、は……」



 そこにあったのは細く長い一本の線だった。聖の身体を包み隠せそうなほどに長いその白く輝く糸の、ところどころが半透明に薄れている。これが一体何なのか、茫然と立ち尽くす聖の視線の先で、それぞれ同じような糸を背にした佐脇と能上が目を剥いていた。



「これって、安道さんの話していた複合解析法……?」


「そんな、まさか……」



 咲哉は興味を失くしたように指を弾いた。すると白く輝く糸はシャボン玉が弾けるようにして消えてしまう。状況が飲み込めない聖たちを放ったまま咲哉は取り出した携帯電話でどこかに電話をかけ始める。



「ああ、夏樹? やっぱり佐脇も杏奈も一致しなかったわ。一応城戸聖も解析したけど……ええ、そうね。分かったわ」



 電話の相手は夏樹だったらしい。


 短い会話で通話を終えると咲哉は左手の人差し指で地面に触れた。直後、彼女が触れた場所を中心に波紋が広がり、町が消える。代わりに森林の中にできた巨大な草原が出現した。



「どうなってるのよ……」



 能上がパニックを起こしていることにようやく気付いたらしい咲哉が口を開く。



「貴方たちが町にいくまでの道にここにトリップするように召喚魔術を仕掛けておいたの。ああ、今まで見ていた町は私が創造魔術で作って、科学魔術で外部と通話できないようにしただけよ。それから魔研に調査依頼したのも架空の町が存在するようにネットや魔研にある資料を弄ったのは夏樹の魔術だから、そこは私の所為じゃないわ」


「ちょっと待ちなさいよ!」



 すらすらと事実だけを伝える咲哉に声を上げたのは能上だった。彼女は怒りに狂ったように額に青筋を立てていた。これほどまでに取り乱す彼女を見るのは、聖は初めてだった。それは佐脇も同じようで、彼は目を白黒とさせている。


 能上は咲哉をキッと睨みつけて彼女に詰め寄る。



「どういうことなのか、ちゃんと説明しなさいよ!」


「今したじゃない」



 咲哉は至って冷静に応える。その彼女の様子がさらに能上の神経を逆撫でたらしい。



「そこじゃないのよ!」


「じゃあどこかしら?」


「とりあえずさっきのは何!?」


「さっきの?」


「あんたがさっき使ったのは複合解析でしょう! 小町が使っていたものでしょう!」



 そこまで言われて理解できたと言うように咲哉は、ああ、と頷いた。



「あれくらい使えて当然でしょう」


「は?」


「だってあの方法は大学の研究室で小町と一緒に考えたんだもの」



 咲哉は威張るでもなく、怒るでもなく、淡々と話す。



「でも『有り得ない』ってその論文は頭のお堅いお年寄りたちに否定されちゃったけど。代わりに一部分だけで時間の操作を可能にする魔法陣を論文にして提出したの。野菜とか家畜とかの生産に役立つかと思って。でもあんな論文で卒業できたのは意外だったけれど」



 どうやら佐脇が以前読んだ論文は咲哉の物だったらしい。


 驚愕して口を噤んだ能上を見ると咲哉は彼女に背を向けようとする。



「他に訊きたいことは? ないなら急いでいるからもう行かないと――」


「あるわ」



 言いながら能上は咲哉の腕を掴んだ。咲哉の歩みを無理やり止めると、彼女は真っ直ぐに咲哉を見上げた。躊躇するように口を閉じ、けれど彼女は言った。



「どうして貴女が生きているの?」



 それはきっとこの場にいる全員が最も訊きたかったことだった。


 なぜ志賀咲哉が生きているのか。あの日、彼女は自殺したのではなかったのか。



「あの死体は魔術で作られた物じゃなかった。本物の人間だったわ」


「……」


「答えて、咲哉」



 咲哉は能上から目を逸らした。姿は違っても、聖の三年前の事件の捜査協力を断った時と同じ顔だった。



「どうして私たちの基礎魔法陣を調べたの? どうして貴女が生きているの? 本物の小町は、どこにいるの?」


「……」



 咲哉は黙ったままだ。何も話したくない、何も教えたくないという無言の拒絶が彼女の全身から溢れ出している。


 だが能上はやめなかった。どこか泣きそうな声で彼女は言う。



「小町が魔研に入ってからの少しの間だったけど……私、これでも貴女たちの友達だったのよ?」



 咲哉は目を閉じた。何かを迷っているようだった。閉ざされた唇の奥で、言葉を探しているようだった。



「どうして何も言ってくれないの?」


「……小町は、」



 やがて口を開いた咲哉の声は、ひどく、かすれていた。



「もう、小町はいない」


「いない……?」


「あの日、」



 咲哉は閉じた瞼に力を込める。


 拒絶するように、現実から目を逸らすように目を閉じたまま、彼女は言った。



「あの日、私の姿で死んだのは、――小町よ」







「どういうことなのか、ちゃんと説明して」



 聖たちは草原の片隅に停められていた自分たちの車に乗り込んだ。運転席には佐脇、助手席には能上、そして後部座席には聖と咲哉が座っていた。車の中には重たい空気が流れている。


 聖は混乱した頭を上手く整理できずにいた。自分の隣に座っている咲哉は相変わらず苦しげで、口を頑なに閉じたままだ。だがこの場にいる誰もが咲哉を殺人犯として逮捕する気力を削がれていた。


 咲哉が口にした、小町が死んだ、という台詞。その意味を、理由を、誰もが知りたいと思っていた。


 黙ったままの咲哉を促す能上の声は少し掠れていた、能上は泣くことすらできないような、堪らなく疲れた様子だった。それは咲哉も同じようで、彼女は深い吐息と共に口を開く。



「……何から話せばいいのかしら」


「話せること、全てよ」


「……そうね」



 咲哉は思い出すように目を細め、一度言葉を区切った。そうして一つ息を落としてから続ける。



「小町が死んだ日は雨だった。私は殺人犯として指名手配され、警察に追われていた」



 咲哉は低い車の天井を見上げる。それよりもさらに高いところを眺めるような遠い目をした彼女が語り出す。



「たぶん、始まりはあの時。警察から逃げている途中で着信があった。非通知の電話に出ると、聞こえたのは小町の声だったわ――」

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