(5)
「起きてよ、聖!」
鼓膜を殴るような声で、聖の意識は一気に上昇した。目を開ければ心配そうに顔を覗き込む七菜の顔があった。
「七菜……?」
「大丈夫? 怪我したって小町さんに聞いたけど」
七菜の後ろに白い天井が見える。辺りを見回すと、ここは斐川羽月の家だということが分かった。意識を失う前にいたリビングの床に、聖は寝かされていたようである。
聖はゆっくりと上体を起こしながら、母に抱き締められている羽月を見付けた。どうやら聖が意識を失っている間に小町が全て解決したようである。
「さて、と。そろそろ帰りましょうかねえ」
その声は小町のものだ。声の方向へ目を向けると、夏樹とソファーに並んで座っている小町がゆるりと茶を飲んでいる姿が見えた。
「いつの間に帰って……」
「城戸さんが気絶してから直ぐですよぅ。羽月ちゃんとお話をして、戻って来ました」
小町は聖に返してから、どっこいしょ、と腰を上げた。
「依頼は以上ということで、よろしいですか?」
そう言って自分を見下ろす小町に頷きながら、聖は立ち上がる。
「はい。……どうやら無事全て解決したようですし」
母に抱き締められている羽月は笑顔を浮かべている。その表情だけで、彼女の家族がどのような結論に至ったのかは容易に分かった。
最後に明日また訪ねるという旨を斐川夫妻に伝えると、聖は小町たちと共に羽月の家を後にした。エレベータで一階に下りながら、聖は小町に話しかける。
「すみません。俺、全く役に立たなかったようで」
「でも一人で行くより二人で行った方が楽しかったでしょうから。問題ありませんよ」
励ましになっているのか、なっていないのか、判断のつきにくい返答を聞きながら聖は苦笑する。暢気な声調はなぜか聖の罪悪感を薄れさせる。
(そういえば)
聖が意識を失う直前に見た女性は誰だったのだろうか。小町は茶髪をしているが、あの時の彼女は黒い髪をしていなかっただろうか。女性らしい体型の今に比べ、あの時はすらりとした体躯をしていたように見えた。
(気の所為か?)
意識を失うほどの衝撃を受けたのだ。もしかしたらあの時の聖の意識は夢半分だったのかもしれない。
そう考えている間にエレベータは一階へ辿り着いた。マンションの外へ出た聖が、別れの挨拶を小町と夏樹にしようと向き直った。その時だった。
「安道さん……?」
聞き覚えのある声が、道路の方から聞こえた。驚いて振り返る。その聖の視線の先にいたのは、佐脇陽平だった。仕事帰りなのだろう、スーツ姿のままの彼を見た聖が硬直する。彼は未だ解決しない斐川羽月の事件を調べに来たのだろう。彼のことだから、彼女の家族のことを案じて、様子を見に来た可能性もある。
だが事件は既に解決している。聖が依頼した安道小町の手によって。
佐脇は聖と小町を交互に見ると、全てを察したように三度首を縦に振った。そして真剣な表情で小町に目を向けると尋ねる。
「安道さんは魔研に戻る気はない?」
「……わたしは魔研には戻りません」
「でも力を貸してくれたんだろう?」
やはり彼には全てお見通しのようだった。優しく気弱そうに見える彼の勘の鋭さに、聖の背筋が冷たく凍る。
だがちっとも怒っていない様子で、佐脇は小町に言った。
「君は魔研にとっての『最後の砦』だった。君がいて初めて、魔研は完全な組織になったんだ。悔しいけど、僕も、纓田さんも、そして能上さんもそう思っている」
「……」
「今回の事件だって僕らの力では、まだ解けていない。……僕も君に依頼しようか悩んでいたんだ」
そこまで話した佐脇の目が聖に向く。だがその目は決して鋭いものではなく、いつもの彼のやさしい笑みが浮かべられていた。
「僕たちにはやはり、君の力が必要なんだ」
小町に視線を戻した佐脇が告げる。
「戻って来てくれる気はないかな?」
「お断りです」
小町の返答は早かった。
以前に聖が志賀咲哉の件を口にした時と同じように冷たく厳しい声で、淡々と彼女は続ける。
「あの日、貴方たちの知っている安道小町は死んだんです。死人に頼ろうとしないでください」
「でも――」
「殺したのは、貴方たちです」
あの日、とは三年前の事件のことだろう。
佐脇の声を遮った小町の目尻が、痛々しげに歪む。両手をぎゅっと強く握り締める、彼女の拳が小刻みに震えていた。
「自分が殺した人になんて、頼らないで」
その声は感情を押し殺したように、掠れている。
彼女から溢れる感情が哀しみなのか、怒りなのか。聖には分からなかった。それでも彼女の身体を包み込む空気がひどく痛みを帯びていて、聖は胸を裂かれるようだった。
「帰りましょう、小町さん」
その空気を解いたのは、夏樹の声だった。いつもの冷たい物言いだというのに、どこか温かさのある声だった。
「今晩の夕飯は餃子でいいですか?」
「……はい」
小さな声で頷いた小町の右手を夏樹が掴んだ。その手に引っ張られるようにして、小町は歩き出す。そうして遠ざかっていく小町の背を見ていると、近付いてきた佐脇が聖の隣で立ち止った。
「城戸君」
「すみませんでした」
「いや、僕は怒っていないよ」
間髪なく謝った聖に苦笑いをして、佐脇は言う。
「君の判断は正しかった。どうやって安道さんが解決したのかも解析したのかも分からないけれど……今回は混合魔術だったんだろうね」
「はい。混合魔術でした。それも異世界への移動する」
「そうだったんだね。能上さんが徹夜で解析するって張り切っていたから、早く解決したことを教えてあげないと」
「……すみません」
再び謝った聖に佐脇は首を傾げた。
「どうして謝るの?」
「勝手なことをしました」
やはり誰にも相談せずに小町に依頼をしたことは軽率な行動だっただろう。能上だって徹夜覚悟で魔法陣の解析を進めていたのだ。誰もが必死に事件解決を目指す中で、まるでズルをしてしまったような罪悪感がある。
聖の後ろにいる七菜にもその感情が伝わったのだろう。先ほどから黙りこくって、一言も口を利かなかった。
そんな二人の様子に佐脇は困ったように頭を掻く。そして諭すような声音で言った。
「安道さんにさっきも言ったけれど、魔研は今も不完全なんだ。安道さんほどにみんながみんな上手く解析魔術を使えるわけじゃないしね。それに魔法陣の解析方法も開発途中だ。いくら優れた魔術師を推薦採用しているといってもね、全員が魔研に就職してくれるわけでもないから……だから魔研の人間でなくとも、頼れる人がいるのならば頼るべきだと僕は考えているよ。実際僕も安道さんに頼ろうかと思っていたしね」
その佐脇の話を聞きながら、聖は先ほどの小町を思い出す。魔研に戻ってきてほしいと口にした佐脇に小町は強い拒絶を示した。あの時の彼女は今まで見たどの彼女とも違った。その様子を思い出した聖の頭に、彼女の口にしていた台詞が過った。
「……あの、」
それ以上の言葉に躊躇する。だが優しげに首を傾げた佐脇を見ると、聖は思い切って尋ねた。
「安道さんが言っていた『殺したのは貴方たち』って……どういうことですか?」
「……あれは的確だったね」
痛いところを突かれたように、佐脇は何とも言えない表情をする。そして言った。
「志賀咲哉の事件を覚えてる?」
「はい」
「……あの時、安道さんは志賀咲哉の犯行じゃないって言ったんだ」
え、という声は聖の口から自然と零れ落ちていた。それは七菜も同じようで、彼女が息を飲んだのが空気から伝わってくる。
「でも解析された陣紋は志賀咲哉の物ですよね?」
「もちろん。……データベース上で調べても、彼女が犯人だと示していた。でも安道さんは最終的にそれを否定したんだよ」
「それは、どういう……?」
小町自身が解析しただけならまだしも、データベース上でも一致したのならその結果が全てだろう。彼の台詞の意味を分かりかねて、聖が眉を顰める。そんな彼から視線を逸らすように、佐脇は自分の爪先に目を落とした。
「安道さんは新しい解析法を見付けていた。それは今までの解析法とは違う方法だ」
未だ解析方法は研究されている。それは既存の解析方法が完全ではないからだ。
「今までの解析法だと指紋と同じで、陣紋をコンピュータ上で登録されたものと一致させたり、その魔法陣のくせから人物像を見付け出したりする方法だろう?」
「はい」
「でも、安道さんが新しく見付けた解析法は違う。――彼女は『基礎魔法陣はDNA』だと言ったよ」
「DNA?」
それは新たな考え方だ。どういうことなのか、聖は佐脇の話に耳を傾ける。
「彼女の見付けた新しい解析法では、基礎魔法陣を規則的に並び替えるんだ」
「規則的に並び替える?」
「三十六ベクトル二十五コマに分けて並び替えるんだって。遺伝子のYやXと同じように。そうすることで、基礎魔法陣の、さらに基盤の情報を読み取ることが可能になる。……とは言っていたけれど、僕たちにはさっぱりだった」
「……つまり、安道さん以外にはその解析魔術は使いこなせなかったってことですか?」
「ああ。哀しいことにね。今までとは全然やり方が違う方法だった。魔術を駆使して基礎魔法陣を詳細に解析するものだ。その魔術は高度で、とてもじゃないけれど僕らには彼女の描いた解析法の魔法陣を理解することすら難しかったよ」
佐脇が哀しげに目を細める。そして気落ちした様子で、切なく呟いた。
「安道さんは言ったんだ。『咲哉の基礎魔法陣は五ベクトル六コマ目に亀裂がある。だが犯人の魔法陣には七ベクトル一コマに亀裂がある。だから犯人は咲哉じゃない』って」
「……でも他の誰にもそれは証明できない」
「ああ。どれほどやり方を教えられて目の前に解析結果を突きつけられても、他の誰にもできないものは存在しないものと同じだ」
「……」
「だから僕らは安道さんの解析結果を跳ね返した。――そして、志賀咲哉は死んだ」
そこまで佐脇の話を聞いて、聖は目を伏せる。
もし本当に小町の証明した解析方法が存在するとするならば、志賀咲哉は無実だったのではないだろうか。――そんな考えが、聖の頭に浮かぶ。
今まで調べてきた咲哉の人柄を考えても、彼女は到底自分の力を誇示するように人を殺す人物ではなかった。彼女が犯人である唯一の証拠は、現場に残された陣紋だった。だがそれが小町の話していた通り、咲哉のものでなかったとするならば。それは、つまり。
「安道さんは僕たちのことを恨んでいるんだ。仕方のないことかもしれないけどね」
佐脇が深い吐息をつく。嘆息に似た吐息だ。
「何より、僕らは安道さんを信じられなかった。未だに、彼女の証明した解析魔術を使える者はいない。だから僕も能上さんもあの時の判断は間違っていなかったと信じている」
「――それじゃあ、」
聖は自分の言葉を確かめるように、唇を開く。
「あの事件の犯人は……」
「僕らは志賀咲哉が犯人だと思っている」
佐脇は聖の台詞を遮るように告げた。それに聖が口を噤めば、彼は困ったように一つ吐息をつく。そして彼は小町の去った方角に視線を投げた。既にそこには誰の姿もない。ただしっとりと静かな闇が広がるばかりだ。
聖は闇の中に消えていった小町の姿を思い出す。たった一人の友人を失った彼女の痛みを思い、同時に彼女の遣る瀬無さや苦しみを思った。救える方法があったのに、それは誰にも伝わることがなかった。信じてもらうことすらできなかった。その苦しみがどれほどのものか、聖には想像もできない。
「でも安道さんに言わせれば……事件の真相は、闇の中だね」
躊躇するように呟いた、佐脇の声は闇に溶けるように消える。