(4)
「城戸さん、起きてくださーい」
その声と同時に聖は身体を揺らされた。その乱暴な扱いに呻き声を上げながら、聖は瞼を持ち上げる。その視界いっぱいに広がったのは、小町の顔だった。
「いつまで寝てるんですか。置いて行っちゃいますよぅ」
頬を膨らましている小町は寝転がっている聖の傍にしゃがみ込んでいる。
「だからわたし一人で充分だって言ったのに……」
不服そうに呟きながら小町が立ち上がった。そんな彼女から目を逸らし、聖は身体を起こす。
辺りには薄い霧が立ち込めていた。地面についた掌からは湿った土と草の感触がする。鼻にすっと入り込む空気はひんやりとして、湿度が高かった。その匂いから、どうやらここは木々の多い場所だと分かる。
「ここは?」
「絵本の中ですよ」
「絵本の中?」
「羽月ちゃんの好きな眠れる森の美女ですね」
聖はゆっくりと立ち上がる。どうやら自分がいるのは小高い丘の途中のようだった。薄い霧の中で、少し下方に吊り橋が見えた。
「霧が晴れてきましたね」
小町が一歩を踏み出す、その足元で踝丈の雑草から雫が弾ける。それに白いスニーカーを濡らしながら歩いていく小町の背を聖は慌てて追った。
「どこへ行くんですか?」
「お姫様はお城の中で眠っていると決まっています」
「……つまり?」
「お姫様の救出です」
聖はそう口にした小町の顔をちらりと眇める。真っ直ぐ前だけを見つめる彼女の顔はどこか楽しそうで、眼鏡の奥にある目尻は緩んでいた。
「今のうちに王子様役をどちらがやるか決めておきましょう」
「……もしかしてふざけてますか?」
「まさか。わたしはいつも至極真面目ですよぅ」
丘を下り切った頃には霧はすっかり晴れていた。目前に迫った吊り橋の向こう側には巨大な城が聳えている。
聖は小町と並んで吊り橋を渡る。一歩進むごとに吊り橋は左右に揺れ、軋む音を立てたが小町が怯えている様子は一切なかった。そんな彼女の横顔を眺めながら、聖はふと尋ねることにする。
「安道さんは魔研に戻るつもりはないんですか?」
「んー?」
誰もが口を揃えて言う。
安道小町は天才だ、と。彼女が魔研にいれば、もっとスムーズに解決できる事件が増えるだろう。それにやはり聖は諦めることができないのだ。
兄の死には志賀咲哉が関わっている。だが釈然としない点があるのだ。
魔術師連続殺人事件。容疑者は志賀咲哉だった。それを解明したのは、聖の目の前にいる安道小町だ。彼女は仕事で咲哉が犯人であることを解き明かしたのだ。その仕事に自信を持っていたのならば、いくら自らの友人が犯人だとしても、例えその友人が事件を切っ掛けに自殺しても、彼女が魔研を去る必要性はないのだ。それならばもっと重要な事柄があの事件には関わっている気がしてならない。
聖が魔研に入ったのは、あの事件の真相を知るためだ。
多くの魔術師の死。犯人は志賀咲哉だ。それは魔法陣の解析から明かされている。それがあの事件の全てであり、真相だというのに、聖はこの三年間その結論に納得できていない。それは咲哉を知り、彼女の話を聞くほどに増していく疑問だ。
「やっぱり俺は貴女の手が借りたいです。貴女はどうして彼女が犯人だと解析しておきながら魔研を辞めたんですか。何か理由があるんじゃないんですか?」
「……犯人は志賀咲哉で事件解決のはずですよぅ。その様子だとあの事件の記録も見たんでしょう」
「見ましたけど……」
「不審な点なんてなかったはずですよぅ」
記録は完璧にまとめられていた。不備などなかった。志賀咲哉の魔法陣の解析から、事件の始まりから解決まで、不自然なところなど一つもなかった。
「でも貴女が犯人の魔法陣を解析して、犯人を特定したんでしょう? そこまでしておいて、どうして魔研を辞めたんですか?」
「……」
「そのことを知って、俺の中で疑問が増えました。それに志賀咲哉は犯人じゃないっていう人がたくさんいました。彼女は人を殺すような人じゃなかったって。だから俺、本当に彼女が犯人なのか、信じられない部分もあって」
小町は聖を見ない。眼鏡に昇り始めた朝日が反射して、彼女の目は見えなかった。彼女は平然とした口調で、でも、と唇だけを動かす。
「貴方だって、志賀咲哉が憎いんでしょう?」
「憎いです。全ての証拠が彼女を犯人だと示しているんですから」
「それじゃあ――」
「ですが、」
聖は小町の声を遮り、問う。
「それなら、なぜ、彼女が犯人じゃないという人がいるんでしょう?」
「……」
「貴女は何か知ってるんじゃないんですか」
「咲哉が犯人です」
「でも貴女は現に魔研を辞めている」
吊り橋を渡り切った。二人は開きっぱなしの城門の下を通っていく。城内には人影が一つもなかった。
「俺は今でも志賀咲哉が犯人だと思っています。でも自殺した彼女には真相を訊くことができない」
そこまで話して、そうだ、と聖は思う。
自分が最も知りたいのは、咲哉が魔術師を次々に殺していた理由なのだ。誰よりも最強だと謳われた魔術師が、自らの力を誇示するように次々と魔術師を殺した。ひとから話を聞けば聞くほど彼女は犯人ではないと言われる彼女が、そんな殺人事件を起こした動機が知りたいのだ。
「俺は全て明かさずに死んだ彼女を卑怯だと思います。許せない。俺は兄が殺された理由を知りたいんです」
「……卑怯、ですか」
小町はぽつりと呟くと、一つ深い息をつく。
「わたしも、そう思いますよ」
足を止めた彼女の視線の先には城がある。その城には薔薇の蔓が幾重にも巻き付いていた。全てを拒絶するようなその風体に聖は眉を顰める。その彼の隣で、小町が一息に告げた。
「全て抱えて死んだ彼女は卑怯者です。彼女を許せないというその意見に、わたしも大賛成です」
そこまで話したところで小町は、ですが、と言葉を区切った。
「そのお話はここまでです」
小町がコートのポケットに手を伸ばす。そこから取り出した一枚のカード。トランプ程度の大きさをしたその白いカードの片面には魔法陣が描かれている。
「今はあの子を助ける方が先です」
魔術師によっては予め魔法陣を描いた物を持ち歩く者がいる。小町もその一人のようだ。
彼女は素早くカードを上へ投げる。そして前方を指差した彼女の人差し指の先で、降ってきたカードがぴたりと動きを止めた。
それはほんの一瞬の出来事。次の瞬間には魔法陣が赤く光り、発動された魔術によって城に巻きつかれていた茨が浄化されるように気化して消えた。
「行きますよ」
あまりにも無駄のない発動に聖が呆気に取られている間に小町は城の中へと足を踏み入れてしまう。その後を聖は慌てて追った。
(すごいな)
魔術を無効化することはとても容易くできるものではない。
どれほど魔術師の精鋭が揃えられている魔研の職員でも、先ほどの小町のようにあっさりと他人の魔術を無効にすることが出来る者はほとんどいないだろう。
聖にだって、きっと、できない。
「すごい、ですね」
思わず口から言葉を零せば、不思議そうに首を傾げた小町が振り返る。
「すごいとは?」
「俺にはできないから」
「何が?」
「他人の魔術の無効化なんて、そう簡単にできませんよ」
長い螺旋階段を聖と小町は上っていく。薄暗く肌寒い塔の階段を上りながら、聖は前を行く小町に問うた。
「やっぱり魔大卒生は全員そんな感じなんですか?」
「どうですかねえ……魔研に魔大出身者もいるでしょう? その方たちに訊いてみては?」
「確か今はいませんよ。安道さんがいたときにはいましたか?」
「……どうでしたかね。覚えていませんねえ」
そう答えた小町の表情は聖の位置からは見えない。だがどこか言葉の端々が戸惑うように掠れていたように、聖には感じた。
いつも力の抜けたような喋り方をするだが、時々彼女は躊躇するように言葉を選ぶ時がある。それはいつも彼女が魔研の話をするときであることを、聖は気付き始めている。それほどまでに彼女にとって魔研とは思い出したくもない過去なのだろうか。
「とうちゃーく」
螺旋階段を上り切ると、目前に木製の扉が現れた。薄暗い踊り場にあるその扉を、小町は躊躇なく開く。そうして現れた室内にあったのは、天蓋の張られた大きな寝台だった。その寝台の中で、一人の少女が寝息を立てている。寝台に近付いて確認すると、その少女は斐川羽月その人だった。
「ぐっすり寝てますね。小町さん、どうやって起こしましょうか?」
「チューしてみてくださいよぅ」
「犯罪です」
突然の小町の提案に、聖は思わず半眼になる。
真面目なのか不真面目なのか、心底よく分からない人物だ。飄々としているかと思えば、真剣な表情をする。掴みどころがない彼女の性質に、聖は深くため息をついた。
小町は瞼を閉じたままの羽月の顔を間近でまじまじと眺めている。羽月の寝息は規則正しく、本当に眠っているのだと言うことが分かった。その眠りが魔術の所為であるかを判断しようとする聖の隣で、小町は尚も尋ねてくる。
「殴るのとチューするの、どっちが良いですか?」
「どちらも犯罪です。なんでそんな極端なんですか、貴女は」
「これは魔術にかかって眠っているわけではないんですよぅ」
「え?」
「だから殴ってもチューしても起きます」
「……」
「どうしました?」
「もう、自分が驚いているのか呆れているのか分からなくなってきました」
それは大変ですね、と返してくる小町は羽月の寝顔を覗き込んでいる。既に聖には全く興味がないようである。小町が何をしようとしているのか。その行動を観察していると、不意に小町が羽月に向かって手を伸ばした。そして迷うことなく羽月の頬に触れた小町の指先は、彼女の頬を抓ったのである。
「え、ちょっとっ……」
「寝坊助さんにはお仕置きです」
小町のことだから遠慮なく抓っているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。そっと小町の指から解放された羽月の頬は全く赤くなっていなかった。
そのことに聖がほっとしていると、それまで頑なに閉じられていた羽月の瞳がゆっくりと開かれた。彼女の双眸はしばし天蓋のレースを彷徨い、やがて自分の顔を覗き込む聖と小町で止まった。彼女はぱちぱちと瞼を瞬いてから、そっと小さな声を発した。
「……だれ?」
「君を助けるように依頼された者です」
聖が答える前に小町が言葉を滑り込ませた。そのまま首を傾げた小町は少女に問う。
「眠り姫の気分はどうですか? 茨のお城で、ずっと独りきりで」
「……」
小町の皮肉は五歳の少女にも分かったようだ。あからさまに顔を顰めた羽月に、憎たらしいまでにやわらかく微笑んだ小町が告げる。
「残念ながら、君を助けに来たのは白馬の王子様じゃないです」
「――どうして」
その、どうして、が一体何を示すのか、聖には分からなかった。それは小町も同様のようで、眉間をきゅうっと絞っている。
「何が『どうして』なのかな?」
聖ができるだけ優しく尋ねると上体を起こした羽月が彼を見た。その瞳にたっぷりと涙を溜めた羽月がか細い声で言う。
「どうして、来たの?」
「……」
「ママがパパに羽月のことを『怖い』って言ってるのを聞いたの。魔術を使えるから、怖い、って……好きで使っているわけじゃないのに……」
その時、聖の頭に羽月の母が浮かんだ。
彼女は、羽月が消えたのは自分の所為だ、と話していた。口にした本人ですら自覚のあった悪意は相手にどれほどの傷を与えるだろう。それも相手はこれほどまでに幼い少女だ。与えた相手が母であるのなら、その衝撃で強い魔術を発動させても別段おかしなことでもない。
「帰りたくないっ……これ以上、ママに嫌われたくないもん!」
「ママは君のことを嫌わないと思いますよ」
小町の返答は早かった。涙目で叫ぶ幼い少女に気後れすることなく、彼女は真っ直ぐに羽月の目を見ている。声はいつもの暢気な調子であったが、羽月を見つめる目だけは真剣だった。
「君がママに嫌われるのを恐れてばかりいるから、何でもそう見えるんです」
「でもっ――」
「嘘だと思うなら、自分で確かめてください。君を説得することはこの依頼には含まれていないので」
ほら、と口にした小町が羽月の手を掴む。だがその瞬間、彼女の手は羽月によって弾かれた。
「嫌っ……帰りたくない!」
その声は悲鳴に近かった。聖が驚いて瞠目した一方、小町はなぜか聖の手首を掴んだ。驚く聖の視線の先で、小町が鋭く双眸を細めている。――そして。
「絶対に帰らない!」
羽月がそう叫んだと同時。聖の辺りが暗転した。
「えっ……!」
暗闇の中、聖の右の手首には小町の体温がある。そのことに気付いた時には再び辺りは光を取り戻していた。しかし聖たちがいたのは、それまでいた城内ではない。なぜかこの世界に侵入した時と同じ、あの小高い丘だった。そこから見下ろした城が薔薇の蔓でぐるぐると覆い尽くされていくのが見える。
「あれまあ」
小町はため息をつきながら、聖から手を離す。もしかしたら彼女は羽月が叫んだ時点でこの状況に陥ることが分かっていたのかもしれない。だからこそ、離れ離れにならないように手を掴んでいたのだろうか。何はともあれ、この状況は小町が引き起こしたことに他ならない。そう思うと同時に聖は茨に包まれた城を指差していた。
「どうするんですか、これ!」
「……どうするんでしょうねえ、これ」
「安道さんの所為でしょう!」
「そうですか?」
「ええ。ほぼそうです!」
小町は納得がいかないような顔をしながらも、ゆっくりと城へ向かって歩き出す。
「あまり他人の魔術の中で使いたくないんですけど、事情が事情、ですね」
聖も小町の後を追って丘を降りる。そうして吊り橋に辿り着いた時、頭上に大きな影が現れた。嫌な予感を冷や汗としてじっとりと感じながら、聖が空を見上げる。そこにはバサリバサリと大きな羽音を立てる巨大な生物がいた。
それを見た小町が能天気な声で言う。
「恐竜ですかね?」
「ドラゴンでしょう!」
「怒らないでくださいよ」
思わず聖が叫ぶと小町が困ったように息をつく。そうしながら彼女は上着のポケットから一枚のカードを取り出した。そこには複雑な魔法陣が描かれている。
小町がふっと吊り橋の向こう側へ目を向けた。そこには裸足のまま城門の前に立つ羽月の姿がある。その彼女が怯えたような目で、じっとこちらを見ているのが分かった。そんな彼女から目を離すと、小町はドラゴンを見上げながら口を開く。
「じゃあ、わたしは王子様役にしますね」
「……はい?」
「城戸さんは何役がいいですか?」
「ふ、ふざけてる場合じゃありませんよ!」
よくこの状況でふざけることができるものだ。頭上ではドラゴンが溶岩のように真っ赤な炎を吹いている。いくら絵本の世界とは言え、あの炎を浴びれば間違いなく命を落とすだろう。そう考える聖の前で小町がカードに描かれた魔法陣を発動する。そうすると一瞬にして、あっけなくドラゴンが姿を消失させた。それに聖がほっとしたのも束の間。
次の瞬間。
「ぐっ」
城を囲っていた茨が聖たちに向かって飛び出してきた。勢いよく飛び出して来たその茨を華麗に避けたのは小町だった。普段の彼女からは考えられない機敏な動きで避けられた茨はその勢いを落とすことなく、彼女の背後にいた聖に襲いかかった。あまりの勢いに避けることすらできず、聖は茨の一撃を鳩尾に受けてしまう。
吹き飛ばされた身体は背後にあった幹に強かに打ちつけた。後頭部を強く打ちつけた聖はそのままその場に崩れてしまう。そのままゆっくりと意識が薄れていく。その中で、聖は白ばむ光景を見ていた。
目前に、黒い髪が見えた。
(何、だ?)
若い女の後姿だ。だがそこには小町が立っていたはずである。女性らしい小町の体系とは違う、すらりとした姿。ぼやけた思考で、聖は困惑した。
「丁度いいわ。彼も意識を失っているようだし」
女性にしては少し低い、凛と響くその声。
(違、う……?)
頭を打ったせいなのだろうか。目の前にいるはずの小町の、髪色も、姿も、声も。全てが違う人物の物に感じた。
茨が襲ってくる。だがその全てが目前の女によって弾けるように消される。魔法陣すら使わない、魔術師が本来持っている魔力のみで相手の魔術を消し去っていく。
瞼が重く、聖は完全に目を閉じた。
その中で、聖は彼女の声を聞く。
「さあ帰りましょう。子供の我儘に付き合っていられるほど、私は暇じゃないのよ」