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プロローグ 闇に鳴る

 咲哉(さくや)は逃げていた。


 急く呼吸を整えながら、魔術が使えないのはなんて不便なのだろう、なんて咲哉は思う。魔術を使えば咲哉にできないことなど一つもない。だがこの手に刻まれた魔法陣を発動すれば直ぐに彼らに自分の居場所を知られるだろう。そうなるわけにはいかない。――なぜなら自分は人殺しの容疑者なのだから。


 夜の闇を照らす街灯から逃れるように路地裏を走る。その耳に遠くから届く車のクラクションと人の話し声。不明瞭な雑音の中で、自分の呼吸する音が煩わしいほどに耳に纏わりついていた。


 ほとんど運動することのなかった身体が悲鳴を上げている。骨と筋肉が軋み、気管は荒々しく行き来した空気に削られて痛い。じわりと皮膚に浮かぶ汗を感じながら、咲哉は足を止めると壁に寄りかかる。そして壁に背を預けたまま、地面へと座り込んだ。尻の下から感じた冷たいアスファルトの温度と硬さに、咲哉の口から短い笑い声が零れた。


 瞼を下ろせば、その深まった闇の中に浮かぶ陽だまりのような笑顔がある。あの笑顔が遠く感じ始めたのは、一体いつからだっただろうか。それすら分からないほど、咲哉は随分と深くまで落ちてしまった。手を伸ばせば届く範囲にいた彼女にはきっと、もう、届かない。


 もう随分と夜も深い。そうだというのにこの国の警察は眠らない。大切な仲間を殺された彼らは血眼で咲哉を探している。世界最高峰の魔法陣解析機関である【魔法陣紋捜査研究所(まほうじんもんそうさけんきゅうしょ)】――通称『魔研(まけん)』を総動員してまで。エンペラーと謳われた魔術師を確保しようと躍起になっている。


 頬に落とされた冷たさに、咲哉は目を開く。雨だった。その冷たさは髪を濡らし、服を濡らし、地面を濡らし、辺りに湿っぽいにおいを充満させる。雨のにおいには少し甘さがあると、咲哉は幼い頃から感じていた。いつもは好きなその甘ったるさに今は無性に苛立って、咲哉は左手で鼻を覆った。


 春先の寒さが、皮膚に刺さる。凍えたくなどないのに、立ち上がることができなかった。倦怠感に覆われた四肢は咲哉の意思に背き、これ以上走ることを拒絶する。


 両腕で抱えた足。その膝に額を当てて、咲哉は自分のこれからを考える。きっと警察の捜査の手は世話になっていた叔父たちの許にも及んでいるだろう。だがいち早く察した彼らの息子のおかげで疾うに行方をくらましているかもしれない。いつも涼しい顔をして物事を上手くかわす彼の姿を頭に思い浮かべて、咲哉は咽喉の奥で笑った。


 雨粒を含み重くなっていく服に、咲哉は奥歯を噛み締める。雨に濡れた自分は惨めだ。肌に張り付く重さが自分の惨めさを表しているように、咲哉には思えてならない。それでも諦めの悪さが、これからどうやって逃げようかと考えている。もう疲れ果てた身体も脳も、正常に働かないというのに。


 咲哉は地面に手をつき、ゆっくりと足の裏に力を込める。大丈夫だ、まだ動く。そうして立ち上がりながら咲哉は顔を歪めた。


 なぜ犯してもいない罪のため、自分が裁かれなくてはならないのか。そう思って、ぐっと爪が食い込むほど強く手を握り締めた。



(理不尽にも程があるわ)



 雨はやまない。咲哉は雨に濡れた髪をかき上げる。顎を伝う水滴を拭った、その時。ポケットから伝わる振動に気付いた。


 携帯電話が震えていた。すっかり電源を切るのを忘れていた、と思いながら咲哉はポケットから携帯電話を取り出す。


 ディスプレイに映る文字は、非通知。


 警察か叔父か友か。思考を巡らし、この事態に電話を寄越すような人物を探す。出るか出ないか、わずかな逡巡の後、咲哉はディスプレイに触れた指を受信へと滑らせる。



『……――咲哉?』



 そうして耳に当てた携帯電話から聞こえてきた声。


 その声に、彼女は口元をかすかに持ち上げるだけの笑みを浮かべた。


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