9、カストロ・デヴァ
第二章
9、カストロ・デヴァ
数日が経っていた。
ファーガスの暗殺は失敗に終わった。
ローナンは多少咎められたものの、ジュディカエルの助勢は予期できぬものだったとして不問となった。
代わりに新たな指令が下された。
マーシアの城郭都市カストロ・デヴァのアングル人指揮官ベルドハンの抹殺。
ベルドハンはマーシア内で強硬にブリテン島の統一を唱える軍幹部だ。度々起きるマーシアとカムリの国々の衝突は彼が強く推進しているとされる。
カストロ・デヴァ。
五百年以上前に作られた城郭都市。
偉大なるローマ支配の時代の遺物。
横400メートル高さ6メートルはあろうかという巨大な城壁に四方を囲まれ、内郭には多数の兵舎、大浴場、作戦本部などを備えている。
現在、千二百人ものマーシア兵が常時詰めているという。
この城郭都市、かつてはブリトン人がローマ軍の撤退に伴って引き継いだものだった。だが、サイソンの闇が勢力を伸ばす中で奪われてしまったのだ。
しかし、今でもデヴァの見取り図はブリトン人の手にあり、侵入前からローナンは郭内の構造を把握していた。
今は深夜3時過ぎ。
ローナンはカストロ・デヴァの北側の林の茂みに身を潜めていた。
西側と南側はディー河に面しており、そちらから侵入するのは至難。なのでわざわざ船でディー河のデヴァから離れた場所を渡って北側に位置取ったのだ。
四方の城壁にはそれぞれ門があり、門番が二人付いている。彼らは常に探査に魔力を張っているので、隙を突いて入ることも、御用商人の荷物に隠れて忍び込むようなこともできない。
城壁の四隅には見張台があり、夜目の利く当直が詰めている。
厳重な警備だ。
今夜は晴れて、星々や月が静かな輝きを見せる。
その輝きを流れる雲が蝕んで行き、地表に影を落とす。
ローナンはスー、ハーと深呼吸をして、体に黒の魔力を這わせた。全身を包んで影と一体になるイメージだ。
仮面をしっかり固定する。
雲の影がローナンのいる小さな林を飲み込み、デヴァの城壁へ迫る。
その動きに合わせて城壁までの野原を無音でひた走る。
当直の兵の視線がローナンのいるあたりを彷徨う。
バレればたちまちマーシア兵がワラワラ出てきて侵入を試みるローナンを捕らえてしまうだろう。
千人超に囲まれては流石のローナンもただでは済まない。
しかし、当直の視線は他の方向へ移っていった。
門と見張台の中間に無事たどり着くと、そのまま城壁を駆け上がり、6メートルの壁の天辺に手を掛けた。
城壁に取り付いたままそっと左右を見て門番と見張台の様子を確かめる。
気づいてないようだ。
懸垂のように体を持ち上げ壁の内側を覗く。
近くに人の気配のないことを確かめると音を立てないように素早く壁を飛び越え、都市内に侵入を果たす。
兵舎の壁に身を寄せると、雲の影が通り過ぎて再び月の明かりが辺りを照らした。
ふ、と小さく息を吐いて次の行動に移った。
郭内はまるでコンテナのうず高く積み並べられた港のように、赤茶の切り妻屋根の大きな兵舎が規則正しく整列している。
一つの兵舎は縦80メートル横10メートルの巨大なものだが、どれも劣化が激しく、サイソンたちの補修も見られるが継ぎ接ぎだらけのボロ屋のようだ。
やはり蛮族共では至上の栄華を誇ったローマの技術を、十全に使いきれないということか。
そんなことを思いながら、作戦本部の置かれる中央の建物へ足を忍ばせながら行く。
たまに欄干を持った見回りがいたが、士気は高くないようで探査の魔力も放たず、物陰に隠れるだけで酒瓶片手の彼らは通り過ぎていった。
作戦本部のある建物の正面は、パルテノン神殿のようにエンタシスの石円柱が立ち並び、大理石の基壇が敷かれ、アテネやトロイアの古い神々の彫刻の掘られた玄関門と主梁が本殿正面に配置されていた。
鑑賞する暇はないが、もし存分に見ることができたなら、古代の伝説的な気品を大層感じられただろう。
しかし、正面こそ古代ギリシア的だが、建物内はいたって実務的なローマの建築だ。二階建てにした兵舎を二つ並べて両端に廊下を渡して玄関を据え、中央を中庭にしたような造りだ。
玄関門には門番がいる。
デヴァの郭内でも位の高い者が住まう場所だからだろう。
目的のベルドハン将軍は二階の将軍用執務室、でなければ官僚用の寝室か。執務室の一つから明かりが漏れていいる。
ベルドハンはデヴァの総指揮を任される将軍。夜遅くまで執務に追われていても不思議ではない。
そこに間違いないだろう。
戦闘を避けるために正面玄関を避け、側面の侵入できそうな場所を探す。
ここで探査の魔力は使えない。
魔力を相手に当てれば、相手にも自らの存在を知らせることになるのだ。
無人の部屋の窓から屋内に入ると、素早く戸口に身を寄せて廊下を確認する。
起きている人の気配はない。
廊下の向こうに階段を見つける。
油断なく周りを見回しながら歩を進めるも、夜の静寂と、時々聞こえるかすかな寝息が精神を落ち着けてくれているように感じた。
階段を登って昇降口の角から二階の様子を伺う。
明かりの点く部屋は、歩哨が入り口近くで一人眠たげに立っている。
ローナンは上から行くことにした。
階段を少し戻って、踊り場にある高窓から身を乗り出すと、そこから飛び上がって屋根上へ乗り上げる。
屋根の上からはデヴァの風景が一望できた。この広い城郭都市を治めるものはこの景色になんとも誇らしい気持ちになったことだろう。
音を立てずに瓦屋根の上を移動し、執務室上の屋根の縁に立った。
一つ深呼吸をする。
意を決すると、後ろに鋼糸を投げて屋根の出っ張りにかけ、何もない前方へ飛び出した。
鋼糸に引かれて振り子のように戻って来ると、ローナンは執務室の木窓をぶち破って飛び込んだ。
部屋の主は窓を背にして机に向かって座っていた。しかし、ローナンの突撃に見事反応し、右に転げると窓の破片と飛び蹴りを躱してみせた。
お互い素早く立ち上がると相手の顔を見る。
予想通り、暗殺対象のベルドハンだ。
口の周りに茶色の髭を生やしたいかつい顔立ち。麻のシャツに綿のズボン。深夜のラフな格好のようだ。
襲撃は予想してなかったのか無手。剣は入り口に立てかけてある。
間髪入れずに間合いを詰めて短剣で攻める。
彼は机を回り込んで逃げる。
その間にも部屋の外の歩哨が入ってきた。
彼らがサイソンの言葉で叫ぶ。
歩哨に牽制で釘を投げる。
その隙に逆手に持ち替えたナイフを振りかぶる。
ベルドハンがナイフを持つ手の手首を手刀で打ち据えようとするのを見て、そのまま至近距離でナイフを投げつけた。
ベルドハンの手刀がローナンの手首をへし折ったが、投擲に反応できずに、ベルドハンは額にナイフを生やしながら即死した。
ローナンは素早く後転して体制を立て直したが、歩哨が襲ってこない。
歩哨は釘を避けれなかったようだ。
歩哨の太い眉と眉の間に太めの釘は根元まで突き刺さっていた。
本当の勝負はここからだろう。
ガヤガヤと騒ぎ声が聞こえて来る。
バレるのも時間の問題だ。
ベルドハンの額のナイフをすぐさま回収すると、執務室の窓から身を乗り出して先ほどと同じように飛び上がって屋根に乗り上げる。
下の執務室では駆けつけた者が入ってきたのだろう。叫び声が大きく夜のデヴァに響いた。
ローナンは屋根伝いに走り出す。
騒ぎが伝播するようにそこかしこで明かりが灯って、デヴァ全体がざわめき出したように感じる。
カンッ、カンッ、とけたたましい警鐘が鳴る。
作戦本部の棟から15メートルほどの通りを飛び越え、向かいの兵舎らしき棟の屋根に移る。
まだ捕捉されてはないはずだ。
そう思った時。
ゾワッ。
足下から大きな魔力の波動が吹き出した。
転がるようにその場から飛び退く。
瞬間、退いた場所に投げ斧のような物が屋根を突き破って飛び出した。
下から叫び声が上がり、次々と屋根の下から槍だの斧だのの先が突き出されてくる。
踊るように避けながら瓦の上を駆ける。
あと兵舎二棟先に城壁があり、その先はデヴァの外だ。
一つ目の棟に飛び移る。
屋根の端に次々手がかかって、マーシア兵が屋根上に飛び乗ってくる。
胃の底を掴まれるような緊張感がローナンの体に駆け巡る。
ローナンはガンッ、と屋根の上方の瓦を踏んだ。
連鎖する瓦が屋根を滑ってマーシア兵の何人かが転ぶ。
突撃してきた敵の槍を側転で逃れる。
一人一人相手などしてられない。
地上では武器を手に取った兵達が溢れ出し始めている。
焦りが首の後ろを逆撫でるように感じる。
ポールアックスの振り回しをくぐり抜けると、屋根の縁を走って次の棟へ飛ぼうとした。
しかし、跳躍の直前の踏み込みが空を蹴った。
追ってきたポールアックスの兵が、足場を切り崩したのだ。
仮面の下に冷や汗が浮かぶ。
落下する前に鋼糸を次の棟の屋根に投げて引っ掛けた。振り子になって次の棟に移るのだ。
振り子の最下部に地上の兵が待ち構えているので、仮面を口元まで上げて、息を吸い込むと炎を吹く。
蜘蛛の子を散らすように兵は飛び免れて、振り子のままに自ら吐いた炎をくぐり、半円を描いて進むとローナンは二つ目の棟へ飛び乗った。
すでに乗り上げていた兵達の突撃をヒラリヒラリと躱しながら城壁の方へ迫る。
ベルドハンにへし折られて右手が使えない。
左手のみで投擲用の小さな剣を放り、回避のために側転しながら掴んだ瓦を、敵にぶつける。
端から端から敵は湧き出る。
ローナンはいつの間にかハー、ハー、と仮面の下で荒い息を吐いていることに気づいた。
次から次へと休みなく押し寄せる攻撃をいなしながら考える。
囲まれたら物量を捌ききれなくなる。
そうなったら終わりだ。
左手で腰のナイフを引き抜くと腰をかがめて、手斧を受けた。
カッ!!
夜をまばゆい閃光が塗りつぶす。
ローナンは一気に目のくらんだ敵の合間を駆け抜ける。
魔力を全身に貯める。
目が眩んでも魔力で気配は探せる。
屋根の端の二人の兵に全力の魔力をぶつけて探知を妨害しながら城壁へ飛んだ。
行ける。そう思った瞬間。
ドドスッ!
地上の弓兵がローナンの胸と腹を射った。
うぐっ、と呻き、刺すような痛みを感じると城壁を踏み損ねて落下した。
一瞬気が遠のいた。
幸い城壁外に落ちたようだ。
落下の衝撃で右の鎖骨が折れたが、死んではいない。
降り注いできた矢を転がって回避すると、その勢いで立ち上がって前を見上げる。
カストロ・デヴァの西。
カムリ方面。
民家が城壁の側にあり、向こうに夜の暗いディー河が流れが見える。
矢の雨を民家の影に入ってやり過ごす。黒の魔力で身を包めば、少しでも敵の目をごまかせる。
息を整え、敵の動静を探る。
ささった二本の矢の矢羽の部分を折って、背中に突き出した鏃を掴んで後ろで引き抜く。
「ぐ、ウゥ……」
奥歯を噛み締め痛みに耐える。
指先に火を灯して傷口を焼き、止血する。
デヴァの西門から騎馬隊が飛び出してきた。
痛む体に鞭打ってディー河へ走った。
河の側までたどり着くと疲れた目で振り返る。
纏った黒の魔力はうまく敵の目を欺いてくれたようだ。騎馬隊はまだ民家の周囲を捜索している。
折れた腕を押さえながら河に飛び込むと、ローナンは完全にマーシアから姿をくらました。
**********
三日後。
傷と右手の骨折をを魔法と左目の自己治癒で癒したローナンは、ウーナの滞在している館に向かって街中を歩いていた。
穏やかな午後の日差しが街人の眠気を誘うのか、行き交う人々はみなゆったりとした様子だ。
ローナンはベザイ家の言いつけでモン島へ行くことになった。それを伝えるため、彼女に会いに来たのだ。
ただ、理由はそれだけではない。ファーガス邸では仮面を被っていたし、輪郭をぼかす黒の魔力を纏っていた。正体には気付かれてないはずだが、今回の訪問はその確認のためでもあった。
もし仮面の暗殺者の正体に気づいたらウーナはどんな反応をするのか、そしてその時ローナンはウーナの口を封じなくてはいけなくなるのか、考えると胸が苦しくなりそうだ。
行き着いた館は2階建ての、派手さはないものの上品な屋敷だった。庭は狭く、馬車が一つ入るか入らないかの広さだ。
屋敷を見ていると、背後から買い物袋のようなものを持った、黒髪の背の高い青年に声をかけられた。
「うちに何か?」
「いえ、ウーナさんの友達で、彼女に会えないかと」
それを聞くと彼は声を低くした。
「ウーナに何の用だ」
どこか拒絶するような言い方に、ローナンは目を細くして彼を見た。なぜそんな言い方をされなければならないのか。
「さあ? あなたは?」
「ウーナの兄だ」
ローナンは彼の顔を注視する。切れ長の瞳にやや酷薄そうな顔立ち。
「似てないんですね、おにいさん」
挑発的な声色を乗せると、彼はムッとして圧力を高めた気がした。
「ローナン!」
そこで館の扉からウーナが出てきた。
「グウィン兄さまも……二人ともどうかしたの?」
ウーナが二人の様子に小首を傾げる。
「いや、なんでもないんだ」
ローナンが作り笑顔で答えて、グウィンは気まずそうに顔を背けた。
「そう? ……それより、私に会いに来てくれたの?」
「ああ、ウーナがこっちに来てるって知って」
ローナンの心の内にあった不安は、ウーナの笑顔に漂白されて溶けていくようだった。
よかった、正体はバレてなさそうだ。
「ふふ、ありがとう。お茶でも飲んでいかない?」
「いただくよ」
ウーナについて庭に入る。
ふと振り向くと、グウィンが暗い瞳をローナンに向けていた。
**********
「じゃあ、またお別れなの?」
ベッドに腰掛けて足をブラブラさせているウーナが言った。
この館は、ジュディカエルの家系が持つデガンウィの別荘だ。使用する頻度は低いはずなのだが、ウーナの部屋には大きな化粧台や質の良いベッド、高そうな机がしつらえてあった。
「ああ、僕もモン島に何のために行くのか知らされてないんだけどね」
ローナンは化粧台の椅子をウーナの正面に持ってきて、向かい合いながら話し合っていた。
「そう、でも私も騎士団に入ったから、いつどこに行くことになるか分からないし」
「聞いたよ、王様の前で実力を示したんだって?」
「むふ~、すごいでしょ」
ウーナは座ったまま両腰に手を当てて胸を反らした。
ウーナのてらいのない誇らしげな様子はとてもまっすぐで好感の持てるものだ。少なくともローナンには眩しいくらいの美徳なのだ。
「……ローナンって、私が胸をそらすといつも視線が胸にくるよね」
「ええ!? そんなこと……」
あるけど……。
「私そんなに大きくないと思うんだけど」
ウーナの瞳に影がかかる。コンプレックスなのだろうか。そんなに小さくはないと思うが。
「そんなことないよ、僕は気にしないよ?」
もっとも、恋する少年には大きさも形も、何も関係などないのだろう。
「私は気になるの!」
ツン、とした態度にローナンは苦笑しながら、話題を戻した。
「ウーナにはきっと大きな才能があるって僕も信じてるよ。でも、怪我はしないようにね、それだけが心配だよ」
「そうね、傷だらけになったらお嫁にいけなくなっちゃうかな」
それを聞いてローナンはなんと返そうか一瞬言葉に詰まってしまった。
しかし、首元から顔に熱が上がるように感じながら言葉を漏らした。
「……もしそうなったら、僕が……」
ローナンのあからさまに恥ずかしげな態度を見て、ウーナも顔を赤くした。
「もう、何言ってるの……」
ウーナが小さな声で呟くと、二人は無言になってしまった。
コンコン、とノックがして戸が開くと、この館の家政婦が紅茶を持って入ってきた。
「ああ、ありがとう」
まだ熱の冷めない顔のまま、ウーナが礼を言った。
家政婦は、アラ、お邪魔だったかしらと二人を見比べて、さっさと部屋を後にした。
その後、たわいのない話を続けたが、二人の間に流れるうわついた感じは最後までなくならなかった。
「じゃあ、次会うのはいつになるかわからないけど、お互い怪我はしないように」
「ええ、しばらくお別れね」
庭の前で二人は別れを告げた。
ウーナはローナンが道を曲がって見えなくなるまで、彼に手を振っていた。
「帰ったのか?」
グウィンが館から出てきて、ウーナの側でローナンの去った後を目で追った。
「ええ、家の都合でモン島へ行くからしばらく会えないって」
太陽に薄い雲がかかって、風が吹き始めた。
「あいつは異教徒なんだろう? あんまり仲良くしすぎないほうがいい」
反射的にグウィンに非難の視線を向ける。
「ローナンはそんな人じゃないわ」
「……異教達は別の価値観を持ってるんだ、時に理解できない時もある」
グウィンはウーナと目を合わせなかった。
「お兄さまも、そんなこと言うのね」
ウーナは寂しく感じながら兄の横をすり抜けて館に戻った。
次回、10月14日です。
パルテノン神殿とパンテオン神殿って違うものなんですね。
パルテノン神殿が古代ギリシアの有名なやつ。パンテオン神殿は万神殿といって、一つの宗教に限らず色々な神々を祀っていた神殿だそうです。宗教同士が争い治世の妨げになっていた頃に作ったんでしょうね。
無学な筆者は検索のたびに混同して、「アレ? さっきとページが違う!」とかやっていましたw