8、Gwrthdaro
日が傾き、一番星が小さく見え始める。
それなりの血筋を持つ者が騎士に叙任された後は、宴会が開かれるのが習わし。
今回はロドリ王の呼びかけで宴は始まった。
場所は天守の大広間。
一段高い上座にロドリやジュディカエル、ウーナが腰を下ろすと、他のものたちも思い思いに広間に座る。ちょうどウーナ達を中心とした放射状のような形だ。
人が集まるほどに騒がしさを増し、笑い声やふざけた始めた道化の奇声が場を満たし賑わいを見せる。
椅子やテーブルなどない。
絨毯の上にどかっと座って飲み食いするのがケルトの戦士だ。
酒樽が運び込まれ、酒を催促する男達の声が響く。
女達が料理の大皿を運び込んできた。
大盛り焼きたてのパンの山。
マッシュポテト。キノコの揚げ物。小えびソースのサラダ。
大きなかたまりの山羊のチーズ。
西洋葱とハーブのソーセージ。
豚やイノシシのステーキ。
さすが王の催す宴といったところか。次々運び込まれる料理はたいへん美味しそうなご馳走ばかりだ。
「姫! 蜂蜜酒を~どぞ!」
ギルロイが酒を勧めてきた。
すでに酔いが回っているのだろうか。もしかして下戸なのかも。
「え、ええ、ありがとう」
「どうした、南部で醸した良い品らしいぞ?」
ジュディカエルが尋ねる。
「宴会といってもこれほど豪勢に祝ってもらえるとは思っていなかったもので」
はっはは! とロドリが快活な笑いを飛ばした。
「ジュディカエルの娘が私の騎士となったのだ。これを豪勢に祝わず何を祝うというのだ。遠慮は無用だ!」
それを聞いて、分かりましたと微笑みを返すと、酒杯を一気に煽る。
ゴク、ゴク、と喉を鳴らして全て飲み干すと、
「はふっ!」
と息をついた。
おお~! いい呑みっぷりだ! とお決まりの掛け声がかかって、場が湧いた。
しばらくしてグウィンがウーナの隣に腰掛けた。
随分飲んでるらしく顔が赤い。
「ウーナ」
真剣な表情でウーナを目を見つめてくる。
しかし、酔っている者特有の、フム~、フム~という感じの呼吸の仕方で、ウーナは笑ってしまった。
「ウフフッ、お兄さま酔いすぎではなくて?」
すると、むむッ!?みたいなリアクションをして、顔をそらした。
「……酔ってない」
「酔ってるじゃないですか」
お兄さまったら、変なところで意地をはるんだから。
「ウーナ」
グウィンは再び真剣なキリッとした表情でウーナの目を見つめた。
仕切り直しのようだ。
クスッ、としながら答えてあげた。
「何でしょう、お兄さま」
「お前はオレが守る。何があっても」
ウーナは微笑ましく思いながら、兄を見る。
「ありがとうございます。きっと私が窮地の時はお兄さまが助けてくれると信じています」
しかしウーナはもう騎士になったのだ。
「ですが、守らればかりではいられません。私もきっとお兄さまの窮地にはお助けします。そして、いつかはどんな苦境も跳ね返せるよう励みます。皆と一緒に」
グウィンはそれを聞くと項垂れるように目線を下げた。
彼の長い睫毛の先に寂しさが見えた気がした。
「俺は家族としてお前を大切に想ってるんだ。だが今はそれだけじゃなくて……」
「それだけじゃなくて?」
ウーナが聞き返すと、グウィンは酔いがいっぺんに冷めたかのように顔を白くして黙ってしまった。
ガルバーンは少し離れたところから、親友とその妹のやり取りを聞いていた。
今度は琴をもったガルバーンがウーナの隣に座った。
彼はウーナに軽く笑みを向けただけで、何も話さず琴の音の出を確認し始めた。
昼間の調子の軽い様子はなく、どこか憂いを帯びた雰囲気だ。
広間の面々がそんなガルバーンに気づくと、そこここで話が止んで、騒いでた者も大人しくなり始めた。
皆、彼の琴の腕をよく知っているようだ。
そして彼が歌い始めた。
Rop tú mo baile, a Choimdiu cride:
ní ní nech aile acht Rí secht nime.
(私のヴィジョン、心の主、
七つ天の国の王、あなた以外何ものも意味をなさない)
Rop tú mo chathscíath, rop tú mo chlaideb;
Rop tú mo dítiu, rop tú mo daingen.
(あなたは私の楯、私の剣、私の守り、私の力)
mar marb oc brénad, ar t' fégad t' áenur.
(あなたの僅かな光でも堕落な欲望は死に至る)
Go Ríg na n-uile rís íar m-búaid léire;
ro béo i flaith nime i n-gile gréine
(全ての王、敬虔の勝利より、天の国へ導き給え、人の子の輝きよ)
A Chríst mo chride, cip ed dom-aire.
a Flaith na n-uile, rop tú mo baile.
(私の心の核心たるキリスト、あらゆる主宰者、いかなる時も導き給え)
エリンの言葉だろうか。
唄の間、皆一様に耳を傾け、静かに酒杯を仰いでいた。
唄が終わると大きな喝采がガルバーンに向けられた。
「すごい! 上手なんてものじゃないわ。こんな特技があったのね!」
ウーナも惜しみなく彼を褒める。
「いや~、楽しんでくれたら何よりかな~? グウィン、お前はどうだった?」
グウィンはずっと葡萄酒の杯の底に目を落としていたが、呼びかけられて顔をあげた。
「……ああ、相変わらず、素晴らしかったよ」
ウーナには少しグウィンの元気がないようにも見えた。
しかし、ガルバーンがグウィンの隣に移って乾杯したりしてる内に、また笑みを零すようになった。
**********
夕陽は西の山々の向こうへ消え去ろうとしている。
もう闇が訪れる。
コンウィには大きなローマ風の煉瓦屋敷がある。陽を背にしたその全容は影となって暗い。
しかし、窓からは僅かに明かりが漏れ、人の営みを感じる。夕食の準備だろうか、煙突から出た煙が空に伸びている。それが夕陽を浴びて黄金の帯となる。
いつの間にか、道の影に黒装束が立っていた。
ローナンだ。
しかし、ここに立つ彼はウーナに優しげな表情を見せる彼ではない。
ベザイの暗殺者。殺意の影。
白い仮面をつけて、その目穴から虚ろに対象を見ている。
ここはファーガスの屋敷。
ベザイの工作でファーガスはデガンウィ砦の宴会を知らない。いつものように家族と夕食をとるのだろう。
ジュディカエル達、騎士団がここに来ないこともファードルハ翁に確認してある。
影から観察して屋敷の間取りをすばやく把握すると、明かりの付き方から標的の位置にアタリをつける。
一階の、ローナンから見て右手奥にあるダイニング。
音もなくローナンは動き出した。
屋敷の周りの生垣を飛び越え、屋敷の窓際へ。
キィ。
木窓をなるだけ静かに開けると、背面跳びのように窓の中に身を入れた。
入った先は赤いカーペットの敷かれた廊下だった。壁には大きな絵画がかかっている。
カチャ。
屋敷の女使用人だろう。ティーポットを運ぼうとしていたようだ。彼女とローナンの目が合う。
運の悪い女だ。
トス。
彼女の眉間に釘が刺さった。
驚愕に彩られ悲鳴を上げようとした表情のまま、ばたりと仰向けに倒れた。
ガシャン。
厄介にもポッドが落ちて割れた。
ドタドタとダイニングに通じるドアが開くと、屈強そうな男たちが出てきた。
少しだけ緊張を高める。
ファーガスの私兵だろうか?
彼らは侵入者を見ると、手に持つ棍棒や片手剣を振りかぶって襲ってきた。
致し方ない。
左目の魔力を解放し、殺意を漲らせた。
**********
宴会は踊り子たちの踊りで盛り上がっていた。
肌が透けそうな際どい衣装を身に纏う彼女たちは、ガルバーンや他の楽師たちの陽気で軽快なテンポの曲で舞っている。
戦士たちを誘うような、どこか淫猥な踊り方にも見える。
しかし、それも無理からぬこと。
カムリの戦士はモテるのだ。
グウィネッズはこの時世、カムリ全体の指導者的立場にある。ここにいる戦士たちはグウィネッズの戦士であり、カムリ全土の守護者でもあるのだ。
鍛え抜かれた彼らが、かっこよくない訳がない。
男たちはリラックスした様子で踊り子たちを目で楽しんでいる。
まったく、男たちは仕方ないものです。
そんなことを思いながらウーナがイノシシ肉を頬張っていると、上座の壁を背に座っていたジュディカエルが鋭く一点を睨んだのが目端に見えた。
彼は静かに立ち上がると、厩塔へ足を向けた。
「どうした団長殿?」
ロドリ王も気づいたようだ。
戦士長は振り返ると軽い笑みを浮かべた。
「ちょいと用を足しに行くだけですよ」
そう言って立てかけてあった彼の剣を取って、一人厩塔に続く戸に入っていった。
「小便に剣が必要なものか」
ロドリ王が小さく囁くが、ああ言われては座っているしかない。
「私が見てきます」
ウーナは王に声をかけると父の背中を追った。
厩に続く廊下ではジュディカエルは早足で歩いていた。
彼の輪郭にゆらりと魔力が揺れるのをウーナは見た。
意図せぬ魔力の放出は、闘志や焦り、不安などの表れだ。
グウィネッズ最高の騎士とも巷で囁かれる彼が、そこまで感じるにはただ事ではないのかもしれない。
ジュディカエルはさらに足を速めて小走りになって廊下の角を曲がった。
慌ててウーナも追いかける。
角を曲がって厩に入ると、ちょうどジュディカエルが指笛を吹いたところだった。
彼は一つの馬部屋の戸を開けて、外へと駆け出す。
「トータティス!」
彼が愛馬の名を叫ぶ。
戸の開いた馬部屋から巨大で筋骨隆々な黒馬が飛び出して彼の主人を追う。
「お父さま!」
ウーナが父を呼ぶと、やっとウーナが後をつけていたことに気づいたようだ。
彼はいいつけるように指をさして言った。
「お前はここで待ってなさい!」
ウーナは愛馬に飛び乗ったジュディカエルを追って外に出る。
「何があったの……です……?」
外に出てウーナも気づいた。
西。
日の落ちゆく方角。
砦の西、コンウィ河の向こう岸に何かを感じた。
凶々しい気配。
人ならざるモノの殺意害意の波動。
大広間にいた時はまったく気づかなかったのに。
ウーナはドクンと心臓が脈打ったのを感じた。そよ風が頰を撫でると、いつに間にか冷や汗をかいていることを知る。
ジュディカエルの騎馬は全速力で走り去って、もう小さくなっている。
厩に立てかけてあった誰かの剣が目に入った。
ウーナはそれを掴むと父を追うことに決めた。
**********
次々に迫り来るファーガスの私兵をジグザグのバックステップで躱し、棍棒と片手剣のラッシュを捌く。
なかなか訓練されているようだ。
ラッシュの途切れを見逃さず、ローナンは一人の懐に入り込む。
相手の胸に手を置いた。
ドンッ!
インパクトを内臓だけに伝えて、吹き飛ばさないように無力化する。
「ゴプ……」
相手は血を吹き出しながら息を絶った。
回り込もうとした敵に死体を投げつけ、もう一人へ。
ファーガスの私兵は最初の勢いだけだったのだろうか、そこからはスルスルとローナンの歩が進み、彼の背中で敵が倒れた。
ふと立ち止まって振り返る。
まだ死体を投げつけられて足止めを喰った男が残っていたのだ。
ローナンを見て棒立ちになっている。
「化け物め」
フッとかすかに笑う。
おっしゃる通り、化け物だ。
滑るように距離を詰める。
相手はこの動きに間合いを見誤ったようだ。棍棒を横殴りに振り回してきたが、最小限のスウェーで避ける。
心臓の上に掌を置く。
恐怖が浮かぶ目が見えた。
さよなら。
廊下とダイニングをつなぐ扉を開けると、ファーガス一家がいた。
夕食の並んだ長テーブルの向こう、壁際で娘二人に妻一人を背中で守るようにファーガスは手を広げた。
部屋に踏み入れた途端、扉の影から家令らしき老人が棍棒を振り下ろしてくる。
もう一歩踏み出すと棍棒は空を切った。
戦闘など素人なのだろう。
くるりと振り返ると、老人の側頭部に掌底を放った。
ッドシャッ!
耳から上が吹き飛んでしまった。
イヤァ! と小さな悲鳴が響く。首だけ振り向くと娘二人が母の胸に顔を埋めている。母は子供を精一杯抱きしめながら、暗殺者に怯えた視線を送っている。
こういった光景はますますローナンの心を冷たくするのだ。
ああ、自分は人でなしだと。
ピチャンとローナンの指から脳漿が滴る。
「私が狙いだろう!」
ファーガスが叫んだ。
「私はどうなってもいい、妻と子にだけは手を出すな!」
彼が勇敢に一歩踏み出したのを見て、ローナンも彼の正面に向き直る。
左目の緑の炎を直視したのだろう。
ローナンは完璧に魔力の抑えているが、人はこの緑を目にすると感じるようなのだ。
チガウモノだと。
この世の理から外れた異形のものだと。
彼が体の震えを必死で抑えているのが分かる。ゴクリと唾を飲んで続けた。
「なんならあなたのことを公言しないと、あなたの神に、妻と子供を誓わせよう。わ、わたしはどうなってもいいから」
たのむ。最後はすがるような声を絞り出した。
あなたの神。左目を見てキリストの信者ではないと感じ取ったのだろう。
ローナンが返答しようとして。
ローナンの横の壁が爆発した。
赤茶のレンガとその破片を地面に転がって逃げると、爆発的な魔力が場に吹き込んだ。
その魔力の流れに乗るように巨大な騎馬がローナンとファーガスの間に飛び込んだ。重そうな長テーブルにぶつかり、テーブルは半壊、食事は盛大に散らばった。ぶつかった軍馬は痛がる素振りすらない。
漆黒の毛並みに盛り上がる筋肉を蒸気させた軍馬。それに跨るは、身を屈めるローナンにとって巨人にすら見える巨漢の騎士。
ウーナの父、ジュディカエル。
宴会でこちらには来られないんじゃなかったのか。
彼は暗殺者を睥睨するや否や、大剣を突き下ろしてきた。
ゴウッと空気を唸らせる、喰らえば必死の攻撃を、背後の壁に飛び移って躱す。
ジュディカエルが剣とは反対の手を挙げる。
散らばったレンガが浮き上がった。
まさに団長が兵たちに突撃の合図を送るかのように手を下ろすと、レンガは次々とローナンに殺到する。
壁を蹴って天井を駆けてそれらを免れると、大穴の開いた壁の外、ジュディカエルの背後に降り立つ。
騎馬はその巨大さを忘れさせるほど素早く、そして大きく回転しながら横飛びを二度繰り返すと、ローナンに向き直った。
「何者だ」
重低音の声がローナンの頭の上から降ってきた。
答えずに、フードを目深にかぶって距離をとった。
暗殺者が騎士に、それも国で最強の団長に、正面から挑むのは愚策。
逃げ道を探して左右に目をやる。
もう完全に日は落ちて、闇の夜。
暗殺には失敗したが、この男の介入があれば仕方ない。
だが、今なら逃げ切れる。
そう踏んだ時、強烈な危機感をローナンは覚えた。
ザッ、草を踏む音に左を見る。
そこにいたのはローナンにとって世界で最も大切な人。
青い魔力に淡く体を輝かせるウーナだった。
ハイレーンズで4騎を撃退したというのは本当だったのか。
彼女は父親に見劣りしない魔力を発している。
正体が暴露るわけにはいかない。
親子は一つ目線を合わせただけで分かりあったのか、迷いのない目でローナンを見据えた。
もはや僅少の余裕もない。仮面の下で冷や汗が頰を伝う。
全力の黒い魔力で体を覆う。左目が目の奥に侵食するようなジンジンした痛みが生まれる。左目の炎は燃え上がる。
前方のジュディカエルは屋敷に開いた穴の前に陣取っている。ウーナは左。
気負ってはいけない。
姿勢を低く、背を丸めて、体の力を抜く。
さりげなく腰にある丸薬を地に叩きつけた。
ドボン!
煙幕。撹乱の魔力を含んだ特製。音を立てなければ視覚聴覚、魔力による探知が不可能になる。
「喝ッ!!」
ジュディカエルの一喝で煙幕が後方へ吹き飛ばされた。
のみならず、その煙中からウーナが飛び出してきた。煙幕の一瞬で回り込んだのか。
素早く反転し、腰の短剣を抜く。ローナンの仮面に開いた目元を黒の魔力が覆う。
ウーナの剣を短剣が受けた瞬間。
夜が白に塗り替えられた。
短剣がまばゆい閃光を発し、目くらまししたのだ。
「くッ!」「ぐぬぅ!」
今度はまともに食らったようだ。二人だけでなくジュディカエルの軍馬の目も潰せたのは僥倖。
意識を逃走に向けた時。
ウーナの剣が襲ってきた。
弾き、躱して、正確に振り下ろされる剣戟をいなす。
目はしばらく見えないはず。効かなかったのか?
否、ウーナは目を瞑っていた。
バカな。
魔力による感知でもせいぜい居場所がわかる程度。視覚を使わずに戦闘などできない。
視覚でも魔力でもない方法で感知している。
逃げられない。
背後で騎馬の動きを感じた。
早ければもう目くらましから立ち直る頃だ。
ウーナを攻めるしかない。
ウーナには強力かつ精緻な感知能力があるようだ。
ならば不意を突くことができないかもしれない。
手数の多さ、または反応しても回避できない速さ、重さの攻撃で攻めるしかない。
両腕を脱力し、だらんと下げながら、ウーナとの距離を詰める。
剣の誘いだ。
誘いにかかった打ち込みを反射神経で短剣に当ててなんとか受ける。と同時に足技で攻める。
鞭のようにしならせて襲う蹴りを嫌がってウーナが下がり始める。
娘が責められているぞ、父親。
ウーナの突きをくるりと回って右に回避すると、勢いそのまま肘鉄でウーナの左頰を狙う。
彼女の左手がガードに入るのを見て、肘鉄をスルー。
回転のまま右膝蹴りを横っ腹に叩き込んだ。
「ガッ! グゥ……」
手加減はした。しかしまともに入ったためか彼女は膝をついた。
背中で騎馬が地を蹴って突撃に入った音を聞いた。
やっと来たか父親。
素早く反転し、巨大な軍馬に突っ込んでいく。
ジュディカエルの突きを、上半身を後ろに倒し軍馬の下を滑り潜って、スライディングのように逃れる。
騎馬は後脚をドリフトのように滑らせてローナンに向き直るがもう遅い。
ローナンはファーガス邸へ再び走り込んだ。
ファーガス家の娘を狙って。
魔力を放って居所を探る。
ファーガス家族はダイニングルームの奥の、裏口に続く料理場へ逃げ込んだようだ。
半壊したテーブルの上を跳び、魔力を集めた掌底で大きな風景画のかかる壁を絵画ごとぶち破る。
衝撃でファーガスが吹っ飛んで奥の壁に激突し気を失った。
娘の一人の背後に回ると、首元にナイフを突きつける。
止まれ、と手を突き出すと、ジュディカエルはダイニングに走りこもうとしていた馬に制止をかけ、馬を降りた。
「やはり暗殺者というのは卑怯なものなのかね? 仮面君」
彼が一歩踏み出すと、ダイニングのシャンデリアの光が怒りを抑えた大騎士の顔を照らした。
会話には乗らない。
ウーナが横腹を抑えながらジュディカエルの隣に並んだ。
蹴ってゴメンね、ウーナ。
心の中で謝ると、人質の女の子を放した。
当然、良心の呵責に苛まれたわけではない。
女の子の背中を優しく掬うように蹴り飛ばした。
ウーナとジュディカエルの意識が少女に移る。
投擲用の黒塗りの短剣を2本取り出して、まず放り蹴った少女に投げた。
凶刃から守ろうと騎士の二人が少女に手を伸ばす。
もう1本を気絶した暗殺対象へ。
ドスッ。
なんと彼の妻がファーガスに覆いかぶさって庇った。
今一度ファーガスを殺そうとナイフを振り上げる。
その時、猛烈な危機感がローナンを襲い、左に避けた。
ローナンとファーガス夫妻の間に割って入るように斬撃が飛んできたのだ。
蹴った少女への投剣をウーナが弾き、抱きとめ、その一方でジュディカエルが斬撃を放ったようだ。
これが噂に聞く剣術の奥義。
隣にファーガスの娘がもう一人いるが、ジュディカエルが油断なくこちらを伺い、再び斬撃を飛ばす構えを見せている。
作戦は失敗か。ここが引き時だろう。
怒気を湛えたジュディカエルの睨みを冷めた目で返しながら、裏口へ走って闇に消えた。
「追いますか?」
ウーナがジュディカエルに聞いた。
「いや」
暗殺者は不意打ちのアドバンテージで戦う。夜闇に一度見失った相手を追うのは危険だ。
弱者を平気で狙う暗殺者の性への怒りを収めると、老い皺のできるような疲れをジュディカエルは感じた。
「それより人を呼んで、夫人の手当てを急ごう」
ファーガスの方へ歩みを進める。
ジュディカエルは暗殺者にアタリを付けていた。
下手人が誰かはこの際どうでもいいことだ。早急にマーシア宥和派と話し合わなければならない。これ以上同胞同士で争わないためにも。
夫人は事切れていた。
夫人の目を瞑らせて、ウーナとともに十字を切った。
開いた裏口から夜空が覗く。
遠い星々に、騎士団長はカムリの未来を想った。
次回、10月12日です。
作中歌は以前予告した通り、6世紀にはあった「Rop tú mo Baile」という聖歌です。日本語版もあって「こころみの世にあれど」というのだそうです。文中ではガルバーンが「憂いを帯びた」みたいに書きましたが、聞いた感じとても陽気な印象を受ける曲でした。
youtubeにゲール語でいい感じの「Rop tú mo Baile」ありました。
良ければ聞いてみて下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=t1nTztTEHVY