3、カイヤナイト
ピュ~イ~。
敵兵の挑発の口笛が暗い森にこだまする。
目論み通り敵兵の目をいったんはくらますことに成功した。が、見つかるのも時間の問題だ。
ウーナとローナンはそろそろと中腰で、物音を立てないように森の中を移動している。
ウーナの視線は後ろの騎兵の方向と前のローナンの背中を往復していた。
ローナンは凄い!
臆することなく立ち向かって、隙をついて逃げ果せたのだ。この友人の背中がこんなにも頼もしく感じたのは初めてだ。
ピュ~イ~。
間抜けを装うような敵の口笛にウーナは振り返る。
敵は何事か言葉を発したようだ。だが、サイソンの言葉は分からない。声色から見て、どうせ下卑た挑発だろう。
前に視線を戻すと、ローナンの背中が消えていた。
ローナンがいない!
少女は冷や水をかけられたように、顔から血の気が引いて行くのを感じた。嫌な汗が頬を伝う。
どうして!?
目を離したのはほんの一瞬だったはずだが、どう辺りを見回しても彼の姿は見えない。
前のほうでガサガサと草葉をかき分ける音がする。
音を立てていることに疑問を感じながら、すがる思いでそこへ進む。
木の影から蔦をくぐって男が出てきた。
ローナンではない。
しかし、マーシア兵でもなかった。
色褪せた、前合わせの黒いローブに、オークの杖を持つからには魔法使いか。緩やかに伸ばした黒髪に、浅黒くも端正な顔。妖しく輝く黄金の双眸はウーナの心を見透かすようだ。
男は微笑を湛えながら穏やかに話しかけてきた。
「こんにちは」
今は挨拶どころではない。だが、男の場違いな穏やかさがウーナの混乱を抑えた。
シィ~と唇の前に人差し指を立てて静かにするよう伝える。
「?……どうかしたのかな?」
焦りといらだちを感じながら振り返った。敵はまだ見えない。
「マーシア兵が来てるんです!」
ウーナは抑えた声でなんとか状況を分からせようとする。男の袖を引いてその場を離れようとした。
「耳を澄ましてご覧」
男はなおも落ち着いた態度を崩さず、ウーナに語りかけてきた。
いいから早く、と言いかけたところで気づいた。
確かに敵兵の気配がしない。
挑発の口笛どころか、トトトッと軍馬が森の柔らかい土を踏む音、草蔓を払い除ける音も何もない。
小鳥の平和そうな鳴き声がかすかに聞こえた来た。陽光が木の葉の間を縫って辺りを明るく照らしている。
でも、ローナンは?
心を読んだかのように。男が答えた。
「君と一緒だった少年なら大丈夫だよ」
まるで男の穏やかさが世界を支配したかのようだ。
「それより」
男がウーナの胸を指差した。
「光ってるね」
見下ろせば服の内側、あの宝石が輝いているのだ。
「良ければ見せてもらえないかな?」
言われるまま、ウーナは首元から宝石をつり出した。
強烈ながらも眼に優しい青い光が溢れ出し、陽光の黄金を上塗りせんばかりに辺りを包んだ。
以前も石は青く光ったことがある。
ウーナが川で溺れそうになったとき。森で迷子になったとき。いつもウーナに勇気と力を与えてくれた。
しかし、今日の輝きは今までにない程だ。
「精霊様が……輝いてる」
「精霊様?」
男は青に照らされた森を見回しているように見える。だが、金色の瞳は焦点が合ってない。何か別のものを見ているのかもしれない。
「精霊が宿っている……と思ってるんです」
するとウーナの目をじっと見た後。
「フッ、アハハ! 『精霊様』ね。多分君の感じているものはそのカイヤナイト本来の力さ」
少し馬鹿にされたようにも感じてむっとしながらも尋ねた。
「この石のこと知っているのですか?」
なおもクックと笑いながら悪い悪いと謝ると、元のアルカイックスマイルになって話し始めた。
「カイヤナイト晶石。強く霊性に働きかけて持つ者の魔力を飛躍的に高めてくれる。魔を断って混沌を遠ざける。……大ブリテンやエリンでは手に入らないものだと思うのだけど。それをどこで?」
ウーナはあの夢の光景を思い出しながら答えた。
「深い霧の中の、大きな湖のほとりで拾ったんです。この近くにあるはずなんだけど、探しても見つからないわ」
「湖の向こうに……何か見えなかったかい?」
「いえ、霧がかかっていたので……でもハープの音が聞こえました」
彼は思案するように近くの木に凭れ掛かった。
「恐らく行こうと思って行ける場所じゃないだろう。場所に招かれなければならない」
場所に招かれる?
「恵みの島、ティル・ナ・ルーグ、常若の国、またはリンゴの木のアヴァロン。そのカイヤナイトを異世で得たなら、尋常ならざる力がその石には秘められているだろう」
一旦言葉を切ると、男の金色の目がウーナの青い目を覗く。
「……成したいことを成せる力があるはずだ」
ウーナの目に霞が一瞬かかった。彼の言葉に胸の奥で熱い何かが燃えるのを感じて石を見る。
カイヤナイトはキラリと光を返した。
「君の村は今どうなっているかな? サイソンの兵が向かっていなかったか」
考える素振りの後、再びちらりとウーナを見やる。
そうだ。早く行かないと。
ウーナの心の中にはもう既に追っ手の騎兵やローナンのことなど無くなってしまっていた。
「私は行かなくてはなりません」
「ああ、行っておいで」
その前に、
「あなたの名前は?」
ウーナは尋ねた。
男は少し考えるそぶりを見せると囁くように言った。
「キアランターグ」
それを聞くと、ダッと男の横を抜けてウーナは村へ走り出した。
男がそれを尻目に指を振って印を切ったことにウーナは気づかなかった。
森は再び暗く、殺意を孕んだ場所に戻った。
**********
ウーナが消えた!
ローナンは必死に気配を探るが全く手応えがない。
マーシア兵は相変わらず挑発の口笛や言葉を発している。こちらを捕捉してないし、ウーナも捕えていない様子だ。
先程まで背中についていたのに、忽然と消えるなどあり得ない話だ。
もう一度気配を探って、ここにウーナがいないことを確認すると、ローナンは来た道を戻ることにした。
気配をだだ漏れにする、間抜けな敵兵の方へ。
彼は苦々しげに左目の眼帯に手をかけた。
**********
村が燃えている。
森を抜けたウーナはもうもうと煙を上げるハイレーンズの村を目にした。
レンガ造りの家や藁葺き屋根の木造の家が混在している村に、大した防衛機能などない。せいぜい村の周りを木製の馬柵が囲っている程度だ。
マーシア側の正門 ー といっても単に柵がないだけの通り道だが ー に駆け寄ると、村の衛兵が事切れていた。
今朝も彼に挨拶を交わして、この門を抜けて出かけたのだ。それが半日も経たないうちにこんなことになるなんて。
十字を切って彼の冥福を祈る。
ドダッ。
蹄が土を打つ音に顔を上げると、敵の騎馬がウーナを見下ろしていた。
緊張で、息が上がったのを感じた。
とっさに転がっていた衛兵の剣を拝借し、体の中心に構える。
面防に隠れて表情は伺えないが、敵が嘲笑った気がした。
ウーナだって勝てるとは思っていない。
しかし、ローナンにも出来たのだ。
隙を作って逃げ出してみせる。
神よお助け下さい。精霊様よ、私に今一度力と勇気をお授け下さい。
心の内で祈り終えると、ウーナは敵に向かって駆け出した。
軍馬の異常なまでの早さは目の当たりにした。普通に逃げ出しても背中を刺されるだけだろう。しかし、馬というなら旋回はそんなに早くはないはずだ。
大切なのは敵の槍の間合いに踏み込まないこと。
緊張が集中力を研ぎすませる。
槍の切っ先に突っ込むように走り出して、間合いギリギリの所で右に、つまり敵の槍の逆手の方に走り抜けた。
抜けた!
ウーナの見立て通り軍馬の首を巡らして旋回するのに少しだが時間が稼げた。
この隙に道角を曲がって敵を撒くのだ。
しかし。
角を曲がった先には別の敵騎兵がいた。
ガキィィン!
槍をなんとか受けることが出来た、が、なんて重いのだろう。ふんばりきれずに足が宙に浮いたかと思うと、ウーナは反対側の家まで吹っ飛ばされていた。
地を転げ、バンッと背中を打つと絶望を見上げることになった。
通りの奥からさらにもう一騎現れたのだ。
合計三騎。
なんとか剣は手放さずにいられたが、それが何だというのだろう。
飛ばされた衝撃で服の内からこぼれ出たのだろう。ウーナの目にカイヤナイトの青い輝きが目に入った。
敵にも少女の宝石が見えたのだろう。先程ウーナを吹き飛ばした一人が馬を下りて剣を抜いた。
その時、
ドッッ、と青い閃光弾のような輝きと強い魔力の波動がカイヤナイトから溢れ出し、ウーナを包み込んだ。
身に帯びる魔力の波動は色が透き通っていればいる程上質なものだ。ウーナが身に帯びる青は澄んだ空色。燃える水の衣を羽織っているようだ。
ウーナがすっくと立ち上がると目の前の男は後ずさりした。
感じる。
敵の間合い、構え、魔力、呼吸。全てを五感以外の感覚から感じるのだ。まさに精霊がウーナに教えてくれているかのようだ。
後ずさりした自分を恥じたのか、相手は肩上から剣の振り下ろしを放ってきた。
ウーナが土を蹴ると爆発したように地面が捲れ、振り下ろしを相手の脇からくぐり抜けて敵の背後をとる。
ついでに振り向き様に相手の背中を薙ぎ払う。
ガッッシャンッ!
自動車の追突事故もかくやという、金属が潰れる音がして敵は人形のように吹っ飛んで行った。
ひゅんと頭上で音がして、何かがさくっと背後に落ち、刺さった。敵は全身鎧を着込んでいる。当たり前のようにウーナの持っていた剣の刀身が衝撃で割れて、飛んで行ったのだ。
根元から折れた剣の柄を捨て、右手から迫る敵を横目で見やる。
人馬一体となったみごとな突進。
だが、今のウーナには遅く感じる。
槍の突きは簡単に手の平でいなし、ひらりと馬の突進を躱すと、相手が腰に差した剣を掴んだ。
相手は馬から引っこ抜かれるように落馬。その拍子に剣を抜くと無造作に振り下ろす。
ガッッシャン!
再び同じような金属音が響き渡り、相手の兜は粉々に砕け、振るった剣は敵の頭蓋を割った。
今度の剣は割れることはなかったが、ひん曲がって使い物にならなくなったのは一緒だ。
フゥ、ヤレヤレといった顔を一瞬すると、頭蓋の割れた敵の槍と交換して三人目を眺めた。
三人目の敵は馬をなだめるのに必死なようだ。
憐れ、馬はウーナに近づきたくないとばかりに後ずさっている。
無理もない。
ウーナの魔力の波動は天を焦がさんばかりで、青い火柱のような波動が轟々と揺れている。足下では土ぼこりが幾つもの波となって、たなびいている。
敵の男は半狂乱になって拍車をかけ、馬を叱咤激励している。
馬を下りて戦えばいいのに。
ススッとウーナが進み出ると、ビクッとして男もおびえているのが分かった。
敵の槍のふりまわしをこともなげに避けると胸に一突き。
ドガシュッ!
敵の鉄の胸当ては蜘蛛の巣状にひび割れ、切っ先が背中を抜けて貫通した。
そこでようやく最後の一人が来たようだ。
道の反対側、ウーナの背後から全速力で四騎目が駈けてくる。
目で見ていないのに確かに分かるのだ。
ウーナは気づかない振りで背を向けたまま槍を引き抜いた。
敵は馬上で姿勢を低くし、槍を引いた。
今ッ!
ウーナの心臓を背中から狙う槍をくるりと回って躱すと、回転の勢いそのままに敵の首を刎ねた。
首は放物線を描いて隣りの家の屋根を越えて行った。
首なき敵兵はしばらく股がったまま馬とともに進んだが、正門辺りでずるりと落馬した。
終わった。
周りを見回すと死屍累々の様。
不思議と不快感はなかった。
敵を倒した。村を守った。その高揚感を、ウーナは手に握る槍に感じていた。
物陰から一部始終を見ていた男がいた。
キアランターグ。
軒下の影で民家の壁に寄りかかり、満足げに微笑んだ。
奇妙な金色の瞳が影の中でも爛々と光っている。彼は笑みを絶やさぬまま、その場を離れた。
次回は二日後、10月2日に投稿予定です。
「サイソンの言葉」は、古英語のことですね。