29、Gwrthdaro3
まだ昨日のことのように思い出せる。
ジュディカエルが壇上に上がり、ロドリ王に聖別された儀礼用の剣を手渡す。
「顔を上げよ」
ウーナが顔を上げる。
ここには高窓の日の光とともに、栄光そのものが差し込んでいるようにウーナには思えた。
「まさに騎士になろうとする者に。真理を守るべし。教会、孤児、寡婦、祈りかつ働く人々すべてを守護すべし」
脇ではグウィンやガルバーンにギルロイ。先ほど手合わせした者たち、手合わせしなかった者たちまで、朗らかに笑顔を向けてきてくれている。
王が剣でウーナの肩を軽く叩いた。
「主の名において、われ汝を騎士とす。勇ましく、礼儀正しく、忠誠たれ」
「我が魂にかけて」
ウーナは騎士の叙任式の時。
誇らしい気持ちで一杯だった。
きっと守ってみせると。
大切な人々。友人。家族。
ウーナが騎士になったからには、きっと……。
**********
ベザイ家当主ドルナムは書斎で、エリン(アイルランド)からもたらされた紅茶を試飲していた。自ら淹れた茶色い液体を、立ったまま鼻腔に近づけ、口に含んだ。
元は地中海のトルコ原産の茶葉らしく、二段式の変わったヤカンを用いて淹れている。
慣れない味にどう反応していいかわからないような表情で、さして美味しくもなさそうにカップを傾ける。
バンッ!
そこにベザイ家に仕える者が慌ただしく入ってきた。
「当主!」
ドルナムは品のない闖入者に不快な目線を送るが、使いは怯みながらも訳を話した。
「ファーガスが動き始めました……!」
ドルナムは表情を一層不快なものに変えたが、もちろんそれは知らせに入った使いに向けたものではない。
「それで。今度は何を仕掛けてくるのだ?」
「兵を集めております! 決定的証拠を掴んだらしく、この屋敷に踏み込ませるつもりです! 一刻も早くお逃げください!」
ドルナムは怒りの面相を作った後、
「報告は分かった。だが、ここを離れるかどうかは私が判断する」
と言って使いに下がるよう伝えた。
「待て、お前はこのままローナンを呼べ。場所は分かるな?」
使いが部屋の戸に手をかけようとした時ドルナムは呼び止めた。
「承知いたしました」
今度こそ戸を出て行く使いを見送りながら、ドルナムの頭の中はせわしなく回転していた。
**********
「もっと早く走らんか! この、ウスノロがッ!」
ファーガスは騎士団の後ろを追う馬車に乗って、御者にイライラと罵声を浴びせていた。
騎士団は二列の隊列を組んで街中を猛スピードで走っている。
ドシャドシャと重い足音なのは、騎士たちが重鎧を身につけているから。
街人と衝突しないように角笛まで吹いている。
騎士団の早さに、ファーガスの馬車が遅れそうになっているのだ。
「だいたい、この大事な時になぜ隊長の二人が見つからんのだ! ジュディカエル殿が逝ってしまった後は奴らが団長だろうに! 意識の低いやつらめ!」
人や街並みが次々後ろに過ぎ去っていくのに目もくれず、ファーガスはぼやきを続ける。
だが、これでヤツもお終いだ。
そう思って溜飲を下げることにした。
引きつった壮絶な笑みが丸い顔に現れる。
「捕らえたあとは儂が手ずから拷問して、処刑してやる」
小太りの老人の憎しみは、もはや暗い悦びとなっていた。
ベザイ家の屋敷は二階建ての大きな木造家屋だ。広い敷地の中央で近ずく者を威圧するように建った豪邸だ。
騎士達が大きな庭に踏み込み、屋敷の周囲を完全に包囲する。
「出てこい、ドルナム!」
ファーガスが屋敷に怒鳴り声を張り上げる。
窓はどこにもカーテンがかかっており、中には誰も人がいないのではないかとファーガスが思い始めた時、正面の入り口から顔に特徴がない男が現れた。
「一体なんの御用でしょう、ファーガス様」
「貴様はこの屋敷に仕えるものか? ここの当主を今すぐ出せ」
高圧的にふんぞり返って、ファーガスが特徴のない男を見下げる。
「それはできません。現在当主ドルナム様はお休みになっておられます」
「ハッ、それは好都合。騎士達よ、突撃せよ! 売国奴を引っ捕らえるのだ!」
ファーガスの命令に応じて、仮の指揮官になった男が号令をかける。
「突撃ぃ!」
そして騎士達が全方位から屋敷に向けて突進した。
屋敷の壁に迫っても速度を緩めない。
ドンッ!
騎士達の建物への襲撃は、木造ならば、壁を突貫して不意を突くことから始めるのだ。
しかしその瞬間。
ッッズドッッッガアアアン!!!
屋敷は爆発した。
相当体重のあるファーガスも、衝撃波を受けて後ろにすっ転ぶ。
「ああああああ! なんだ! 何が起こったぁ!」
爆音に負けじと叫び散らすファーガスは、仰向けの体勢から上体を起こして屋敷を見た。
屋根が一階まで落ちて潰れた屋敷は、黒煙を吐き出しながら橙黄色に燃えていた。
屋敷の周囲は、爆風の煽りを受けた騎士達が瓦礫と一緒に呻いている。
「くそ……くそくそクソぉッ! やりやがった! 騎士まで罠にかけるのかぁ!」
ファーガスは腰を痛めて立ち上がれなくなっていた。
高級な衣類を地面につけながら、天に向かって叫んだ。
先ほど館から出てきた特徴のない男は、いつのまにか姿を消していた。
**********
ローナンは背後で小さな爆音が響いたのを聴いた。
「距離は……三千五百歩(3.5マイル)ほど離せました。このままマーシアへ亡命するのですね?」
ドルナムに確認した。
ローナンを呼び出したドルナムは、結局カムリを捨ててアングル人の土地へ落ち延びるしかないと考えたようだ。
「そうだ。マーシア王は我々に借りがある。亡命を受け入れるだろう」
ローナンはもう一人の同行人を見た。
ファードルハ翁は深く息をしながらローナンたちについてきている。
「翁、大丈夫ですか?」
「坊っちゃまのお気遣い、痛み入ります。心配は無用です。私が歩けなくなれば置いていきなさい」
「……分かりました。その時はマーシアで合流しましょう」
ファードルハは杖に両手で体重をかけるように歩いていた。
モン島では魔力の補助を受けられたが、ここではそんなこともなく老いが如実に表れていた。
その時、ローナンは首の後ろにチリチリとした感覚を覚えた。
歪んだ魔力がこちらに向かって来ている。
「急ぎましょう」
ローナンは二人に先を急がせた。
迎え撃つなら、良い場所取りをしておきたい。
だが、ローナンは、迫ってくる相手が誰だか分かると、好都合と感じている自分を自覚していた。
**********
ウーナは疲れた足取りでデガンウィの別宅へ帰ってきた。
今日はロドリ王から休めと言いつけられていたので、気晴らしに街に繰り出して買い物していた。
と言っても、何の収穫もなく街をブラブラするだけで終わったが。
溜まった疲れと様々な考え事で、商店に並ぶ雑多なものを見ても何ら心動くことはなかったのだ。
「ああ、ウーナ様。グウィン様をお見かけしませんでしたか?」
ウーナが別邸の小さな庭に入ったところで、館の入り戸から家政婦が出てきた。
「いえ、見てませんが……何か用でも?」
「用という訳ではありませんが、なかなか帰ってこないもので……まあ、次期グウィネッズ騎士団の団長になると噂される方には心配無用かもしれませんが」
「どちらへ向かわれたか分かりますか?」
ウーナは一応聞いておいた。
「この館からそこの北の森へ入っていったのは見かけましたよ」
ウーナは館の北にある小さな森へ顔を向けた。
「……少し探してみましょう」
ウーナは胸騒ぎを感じていた。
小さな森はやけに静かだった。
以前来た時は鳥たちが羽を休めにたくさん来ていた印象だった。今は渡り鳥の移動の季節でもないはず。
少し進むと木に傷があるのが見えた。
饐えたような匂いがウーナの鼻についた。
タンパク質が焦げた匂い。もっと言えば人の髪が燃えた時の嫌な匂い。
ウーナは戦闘などもう何度も経験した。
戦闘の跡も何度も見てきた。
しかし、それでも動悸がした。
この森に生き物の反応はない。
ウーナの感知能力は、少なくとも生きてないことを告げていた。
目の前の木々の先。
そこには人型の何かがある。
ウーナは歩みを止めなかった。
木々を横切り、
彼を見た。
ガルバーンは仰向けだった。
顔はそっぽを向いていて見えない。
彼の後頭部は丸焦げになっていた。
焼け跡を察するに背中も同様の状態なのだろう。
そして、極め付けは彼の胸に刺さる彼自身の槍だ。
「嘘……」
ウーナは立ち尽くした。
胸の中で鼓動だけが早くなっている。
ゾクッ。
そして、あの気配がした。
異形の気配。
仮面の暗殺者の気配。
ローナンの気配。
ドン!
遠くで爆音がした。
気配とは違う方向だ。
今デガンウィに何が起こっているというのだろうか?
「どうなってるの……?」
泣き出しそうな声が漏れた。
ひとり立ち尽くす森で、逃げ出したくなった。どうにでもなってしまえと思いたくなった。
「でも……」
少女は走り出した。
さらなる絶望を見る未来へ。
**********
「先に行ってください」
ローナンが立ち止まった。
ローナンたちは、グウィネッズとポウィスの間に広がる山脈を越えるルートでマーシアへ亡命するつもりだった。
今は一番手前の山の麓の森に入ったところだ。
「追っ手か?」
はあはあ、と息をしながらドルナムが聞いた。
ファードルハもゼイゼイ喉に痰が絡まってそうな苦しい息だが、一緒にいる。
「はい。倒して追いつきます」
「分かった」
ドルナムは我先へという感じで、翁に目もくれず走り出した。
ファードルハも無言でそれを追った。
彼らの背中が木々の中に分け入って見えなくなるまで見送ると、ローナンは振り返った。
ちょうど彼が現れる。
「遅かったですね」
すでにローナンは仮面をつけていた。
「その声……」
彼、グウィンはギラついた目でローナンを鋭くねめつける。
「邪魔だと思ってたんですよ、以前お会いした時から」
ローナンは仮面をつけていても、正体を隠すつもりはなかった。
「……奇遇だな。俺もだ」
彼が剣をズルリと抜く。
ローナンも後ろ腰の短剣を抜き払って構えた。
二人は初めから殺意を相手に向けていた。
立場や思想や信条など全く関係なく、二人はお互いが気に食わなかった。
生かしておく必要などないと思えるほどに。
グウィンは自分の口元がニヤついたのを感じた。
こいつさえ消えれば、ウーナとつながる障害が減ると思っていた。
ガルバーンも倒した。
今なら、父も超えられる気がした。
魔力はこれまでのグウィンのものとは性質が変わり、押さえつけていたものが弾け飛ぶように溢れていると感じる。
その証拠に。
コイツがファーガス邸を襲撃した時、ウーナやジュディカエルだけが感じ取れたこいつの異常な気配を、今はクリアに感じられる。
怒りと憎悪が最大の心の支えとなっていた。
心の中がグチャグチャになっており、その滅茶苦茶になった思いの丈を他人にぶつけることに楽しみを覚えた。
ぐちゃぐちゃめちゃめちゃの混沌。
他人を攻撃する愉快さは、ペンザンスの沖で見た古代の神へ通じている気がした。
新しい信仰を得たのだ。
自分に本当に恩恵を与えてくれるか判らないキリストの聖霊ではなく、混沌を愛する古代の神へ。
グウィンは目の前の敵に斬りかかった。
相手はナイフで剣を受け止めようとした。
そのナイフに特殊な魔力が注がれるのが見える。
目をつぶった瞬間、まぶたの上からでも鋭く感じる閃光がナイフから発せられたのを肌で感じた。
バックステップで距離を取る。
光の目くらましを初見で見破ったことに自信を付けて、目を開けた。
敵が分身していた。
真っ黒な魔力で全身を覆い、左右に分かれている。しっかりとした実体も感じる。
ありえない。
分身など普通の魔法の常識を超えている。
身体に染みついた動きで、右に剣を、左に裏拳を叩き込むように対処しようとした。
その時、銀色がチラリと見えたかと思うと、グウィンの首の動脈にナイフが当てられていた。
相手に、背後をつかれていた。
何もない中空が陽炎のように揺らめき、黒衣の暗殺者の姿を見えないカーテンから表した。
「あんたの父親も同じ手で殺した。あんた、対応が同じ動きだな」
暗殺者がグウィンの耳元で嘲笑うように囁く。
その言葉は、グウィンに冷や水をかけるようだった。
結局、ジュディカエルを越えてなどいなかったのか。力を手に入れたと感じたのは錯覚で、自棄になっていただけだったのか。
ウーナにも遠く及んでいない。
妹と並び立つことすらできない。
左右の黒影から巨大な拳が放たれ、グウィンの身体はパチンコ玉のように左右に弾かれた。
吹っ飛ばされてボロ雑巾のように地面に投げ出される。
動脈は切られていた。
首から噴水のように血が抜けて、身体に力が入らなくなる。
殴られた衝撃で目の前がチカチカする。
その感覚も薄くなり、真っ暗になった。
ローナンはウーナの兄の亡骸を冷淡な目で見下ろした。
父親と全く同じ死に方だ。
ベザイと似た魔力の流れを感じた。ローナンの感覚ではマナナン・マク・リールへの崇拝と判断できた。だが、古代のブリテンの神への信仰でベザイに勝てるわけがないのだ。
ベザイに伝承されるローナンの目は、古代の神そのもののようなものなのだから。
キリストを捨てたのだろうか?
だとしたらそれまで培ってきたものすべてを捨てたことになる。
そして、その新しい力を手にしても、結局最後は父親と同じ反応をして、同じ末路をたどった。
捨てたはずのものが、捨てきれてなかったということだ。
そんな中途半端ではローナンに太刀打ちできるはずもない。
ドルナムたちの後を追うため、再び森の奥へ走り始めた。
ウーナの兄のことなどすぐに頭の中から消えて無くなった。
**********
ウーナは暗殺者の気配を追っていた。
しばらく、戦闘していたのか強い気配を発していたが、小さくなってウーナとは逆方向へ離れ始めた。
まだ心を決めかねていた。
ローナンに再び会ってどうするのだろう?
何と話せばいいのだろう?
ジュディカエルを殺したことは許せない。
同時にローナンもウーナにとって大切な人間だった。
ガルバーンを殺したのはローナンなのか?
何が目的でファーガスを襲撃したのか?
ローナンは山を越える道を行っているようだ。
ウーナも麓の森に足を踏み入れた。
ハタと立ち止まる。
視界の右端に、何かが見えた。
それは黒い襤褸のように見えた。
うつ伏せになって顔は見えない。
それでもウーナには誰なのか分かった。
黒いコートは昨日の葬儀から同じもの。そして、黒い髪。
どちらも見慣れたものだ。
傍に膝を折って、彼を抱き起こした。
瞳孔が開いたままのグウィン。
ウーナは兄の目を閉じさせて十字を切り、兄の遺体をそっと木の根元に横たえさせた。
「ローナン…………ローナンッ!!!」
ウーナは俯いたまま叫んだ。
決めかねていた心に方向性ができた。
できてしまった。
その方向に向かって、少女は走り出すしかなかった。
**********
森が開けた。
ローナンの目に、小さな丸い湖が映った。
この場所に来るのは初めてだ。
だが、ローナンはこの場所を知っている。
モン島の星読みの聖域で見えた光景と同じだった。
「父様、ファードルハ。追っ手が来ています。先に行ってください」
ローナンの魔力探知はそこまで広域なものではない。
ウーナの気配など、感じてはいなかった。
「クソッ、もう追いついてきたのか!」
ドルナムが肩で息をしながら悪態を吐く。
「安心を。行ってください」
ローナンが促すと、ドルナムは、ふうと一呼吸整えて再び走り出した。
しかし、ファードルハは動かない。
「どうなさいました、ファードルハ?」
翁はゼェヒィと苦しそうな呼吸のまま言った。
「私めはもう走れません。ローナン坊っちゃま、私めもご一緒します」
「馬鹿を言うな。苦しくとも先に行け」
「坊っちゃま、分かっております。あの娘が来るのでございましょう?」
ローナンは黙った。
老いてもやはりベザイの御用聞きをしているだけはあるということだろうか。
「私めはこの湖に聖絶を施します。ちょうどこの湖は円形。陣も張りやすい」
「……分かった。頼む」
本当は一人でウーナを相手したかった。
老人は湖の対岸に行くと、湖に入って呪文を唱え始めた。
ローナンは目を見張った。
そのドルイトの術は聞いたことがある。
有名な術だ。
大魔道士ミルディン(マーリン)がアルスルの父ウーゼルにかけた変化の術。
ファードルハの体は枯れたように萎み、ついには一本の葦になった。
あの老人にこんな力があったとはローナンは知らなかった。
この分なら湖の聖絶も滞りなく完了するだろう。
ただ、ローナンはウーナに対して……。
**********
今にも泣き出しそうな曇った空の下。
ウーナは森を駆けていた。
途中老人の遺体が路肩に捨て置いてあった。あの老人もローナンが逃亡の途中で殺めたのだろうか。
精神は疲れ果て、気を抜いたら悲しみが涙腺を熱くして涙が出てきてしましそうだった。
ただ、泣く訳にはいかない。
まだ涙していい時じゃない。
ウーナの最愛の親友を止めるまでは。
ローナンの発する魔の気配は、先ほどから動いていない。
しばらく走ると、木々の向こうに湖が見える場所で立ち止まった。
「そこに居るんでしょう!?」
ウーナは一本の広葉樹の幹に向かって問いかけた。
するとそこから仮面をつけた黒装束が姿を現す。
ローナン。
少年と少女は対峙した。
運命は決まっていたのだ。
二人が衝突することは避けられなかったのだ。
「仮面を取ったら? 隠す必要なんてないでしょう? ローナン!」
そう言われて、ローナンはおもむろに仮面を取った。
ウーナをまともに見ることはできなかった。視線が彼女の足元でうろうろする。
「こんな形で会いたくなかった」
「私もよ。でも、あなたがこの状況を作ったんでしょう!?」
ローナンは天を仰いだ。
太陽は雲に隠されて見えない。
「あなたは私の父を殺した」
ウーナと目があった。
「兄も殺した」
彼女が剣を抜いた。
「ガルバーンも……」
その名に心当たりはなかったが、邸宅を爆破したときの犠牲者かもしれない。いずれにせよたくさん殺した中にいたのだろう。
「ここで、私のことも殺すの?」
自分の顔が苦しみに歪んだのを感じた。
ウーナの声に憎しみがのっている。その声が向けられる相手が、自分だということが何より辛かった。
ウーナがもの凄い速さで距離を詰めて、斬りかかってくる。
ローナンは構えながら後退し、湖に背中から飛び込んだ。
彼が湖に飛び込んだ。
ウーナを誘い込んだつもりかもしれないが、ウーナにとっては好都合だ。
水はウーナの味方。
ウーナも迷いなく湖に飛び込んだ。
ドポッ!
水中は汚いとは言えないが、やや緑色に霞がかっているようにも見えた。湖底には茶色い水草が揺れている。静かな水の中で音が鈍く聞こえる。
水深は平均3メートルぐらい。湖の中心に近づくにつれ、もっと深くなっている。
ウーナは水を掻こうとして、水がおかしいことに気づいた。
水に魔力が干渉しない。
魔力を放出すると、纏りなく散ってしまう。
水が味方にならない。
その中をローナンがビュンビュン飛び回るように泳いでいた。
彼は水に魔力で干渉している訳じゃない。
背中から真っ黒な羽が生えていた。その羽が、もの凄い推進力で水を掴んでローナンを押し出している。
彼の羽も魔力で編んだもののはずだが、なぜか散らされないようだ。
溺れるように水をもがいたウーナの背後に彼が来た。
ドッ!
肩に踵落としを入れられ、湖底に蹴り飛ばされる。
ゴポポッ!
口から空気が漏れる。
ウーナは生まれて初めて水の怖さを知った気がした。
息が苦しくなる。
湖底を蹴って湖面に出ようと上へ水を掻く。
すかさずローナンが回り込む。
剣を振るうも足場のない水中の斬り付けは、まるで初心者のような振り回しだ。
簡単に避けられて、再び蹴りを見舞われた。
底に突き落とされる。
必死に口を閉ざして空気を吐かないように食いしばる。
本能が死への危機感を煽っているのを感じる。
まずローナンをなんとかしないと、息継ぎもできない。
足場を確保するためコンブのような水草を掴み、湖底に留まった。
ローナンが魚のように早い動きで迫る。
ナイフの素早い連撃をなんとか剣で凌ぐと、回し蹴りが飛んできた。
ウーナはあえて胴に受けた。
ドッ!
水の中に鈍い衝撃波が広がる。
軋みそうなぐらい食いしばっても、口からわずかに空気が漏れた。
しかし、彼を捕まえた。
剣を振るってナイフで受けさせた瞬間、二段蹴りのように湖底とローナンを順に蹴りつけた。
その勢いで海面へ必死で泳ぐ。
すでにローナンは底で体勢を立て直して、ウーナを追ってきている。
口の中に水が入っていた。
息が苦しく、飲み込むわけにもいかず口に含んだままだ。
脳が空気を求めて、熱を出しているように感じる。
ローナンに追いつかれると思うと心臓が早鐘を打つ。
早く、早く!
肺が焼き切れそうな感覚を感じたその時。
ウーナは湖面から顔を出した。
バシャァ!
音が鮮明になって、緑の霞の世界から抜け出した。
ハァッ。
と息を思いっきり吸って、
ドポンッ!
足を掴まれて再び水の中に引きずり込まれた。
ローナンはどうして水中で息を我慢できるのか分からないが、空気を求める様子もなくウーナに攻撃を続ける。
ローナンの連撃に耐えると、再び湖底まで沈められていた。
足場を持たないと剣に力が乗らない。
先ほどと同じように湖底の岩に掴まって浮き上がらないようにする。
ウーナはこの湖が呪われていると、ようやく理解した。
世界に満ちる魔力は神の恩恵と言われる。
その魔力を受け付けないということは、この湖の水は神の理から外れていることになる。
ローナンはウーナの頭上を泳ぐだけで、仕掛けてこなくなった。
息ができなくなるまで待つことに切り替えたのだろう。
この湖では魔力が散らされる。
ウーナは全身に魔力を巡らした。肌の下に押し込めるようにすると、全身が輝く。
貯めて一気に消費するしかない。
湖底を思いっきり蹴った。
それを見てローナンが襲ってくる。
ウーナは間合いの二つ手前で全身の魔力を剣に集めた。
間合いの一つ手前でローナンに振り抜く。
飛剣の斬撃。
ローナンも魔力を放出して全力で回避した。
ウーナの飛剣の斬撃は、湖面を突き抜け水柱を起こした。
その水柱の中からウーナが湖上に勢い良く飛び出す。
そのまま空中に高く舞い上がると、体をくるりと回して下を向いた。
水滴が飛び散る中、世界が反転する。
肺いっぱいに空気を吸い込みながら、腰の後ろの小瓶を眼下の湖面に向かって突き出した。
全力の魔力を小瓶に注ぐと、握り砕く。
シャリンッ!
小瓶に封じられた魔法の水が形をとって大鳥になる。
大鳥は爆発するように突っ込んで、一瞬で湖に凍りつかせた。
呪われた水も、冷気そのもので凍らないというわけがない。
ローナンが湖からトビウオのようにドバッと飛び出してきた。
彼の体にまとわり付く水もパキパキと音を立てて凍った。
ウーナが、荒々しく波立ったまま固まった湖面に降り立つ。
ローナンも足元の凍った波をガシャッと踏み砕きながら、湖上に立った。
「あなたがポウィスの清浄派の拠点に助けに来てくれた時、私はあなたを信じられるかもって思ったの」
氷の上で、ウーナの吐く息が白い。
ローナンは悲しそうにウーナを見つめている。
彼が首を回すとパリパリと氷の膜が剥がれ落ちた。
二人とも濡れた髪のまま見つめ合っている。
「でも、もうあなたのしたことを許すことはできない。きっと誰もあなたを許さない」
だから。
「あなたは私が斬る」
再びウーナが斬りかかった。
ローナンは下がりながらウーナの剣をナイフで弾く。
しばらくローナンは下がって攻撃を受けるだけで反撃がない。
ウーナがいぶかしんだ時、足元に強力な魔力を感じて横に飛んだ。
ドンッ!
足元は爆発した。
ローナンは、器用なことに足元に魔法陣を刻んでいたのだ。
凍っていた湖面は割れて、足場は不安定になる。
ただ、そこでウーナは活路が見えた。
ローナンが爆発の煙の中から飛び込んできたのに応戦しながら、ローナンの背後に強く念じた。
カァンッ!
強めの一撃で距離を稼ぐと、ウーナは剣を持たない左手を突き出し、ローナンを握り潰すようなジェスチャーをした。
ローナンは一瞬訳が分からない顔をしたが、次の瞬間自らの首元に手をやった。
彼の首には、氷の首輪がはまっていた。
呪われた湖の水はローナンの魔力には反応する。
ローナンが足元に刻んだ魔術で爆破をしかけた時、爆ぜた湖の水は呪いから解き放たれたのだ。
自由になった水はウーナの思いのまま。
魔力を送り込んでローナンの首を後ろから締めつけた。
「終わりね」
ローナンはなんとか首に魔力を送り込んで解除しようと試みているようだが、水に対する干渉力でウーナに敵う者はいない。
苦し紛れの釘の連投や鞭のような鋼糸を華麗に躱すと、ウーナの剣がローナンの体を貫いた。
「がッ、は……」
ローナンはウーナに倒れこむように崩れ落ちた。
ウーナの手にべっとりとローナンの血糊がついている。
ドシャ。
彼が仰向けに倒れこんだ。
「ああ……ぐぅぁあ!……」
氷の上で寒いだろうに、大量の汗がローナンの額に浮いている。
胸に開いた穴を両手で掴んで、苦しみ呻く。
ウーナの中にあった憎しみが哀れみに変わる。
さっきグウィンの冷たくなった体を抱いた時は、あんなに激しくローナンへの恨みが燃え上がったのに。
ウーナは隣に膝をついた。
ローナンを抱き起こす。
「ウ、ナ。ぐッ、がはッ!」
ごぽっとローナンの口から鮮血が溢れる。
「あい、してた。ウーナの、こと……」
彼が力の入らない手でウーナの頬に触れた。
「君は……僕の人生で、一番の、ハァ、明るい……」
「もういいの。ローナン。もういいの……」
ウーナは目頭の熱さを感じながら、ローナンに優しく言った。
「ウーナ……最期、僕を、この湖に沈めて……? お願い」
「分かった、分かったから……」
ローナンの体から強張った緊張が抜けた。
彼の手がウーナの頬から離れて地に落ちた。
「う……うぅ……」
ウーナは泣いていた。
騎士になりたい。
ハイレーンズの丘の上で、ウーナはローナンにそう言った。
しかし、それは守りたかったからだ。
愛する村を、大切な人々を。
もう、何も残ってなかった。
村も焼かれた。美しい魂を持つ人々もむごたらしい死を遂げた。ガルバーンや騎士の仲間達。ジュディカエルやグウィン、家族。
みんなもういない。
最後は親友のローナンを自分で切り捨てることとなった。
「ああああ、あああああああああああああああああああああああ!!!」
ウーナがはローナンを強く抱きしめ、泣き叫んだ。
凍りついた波は、少女と少年の亡骸を包む繭のよう。
少女の慟哭はいつまでも続いた。
***********
ウーナがローナンを湖に沈めて去った後、湖の端に生える葦がムクムクと大きくなり、醜い老人に変わった。
「ふ~、やっと終わったかぁ」
しかし、その声は老人の者ではなく、若々しい男性の声だった。
彼は禿げた頭をボリボリと掻き毟る。
すると、頭皮がベリベリ剥がれ落ち、そこから黒々とした若い髪が現れた。
両手で顔をゴシゴシ擦り、その下からも浅黒い肌が見え始める。
そして最後に、盲で、いつも白目を剥いているファードルハの目がグリンと周り、妖しく光る黄金の瞳が現れた。
キアランターグ。
彼はファードルハになりすましていたのだ。
「あぁ~、やっぱり、老人からさらに植物に変わる二重変化とかするもんじゃないな。肩が凝る」
うぅ~、と呻きながら首を回すと、ゴリゴリいって彼の身長が元のすらっとしたものになった。
本物のファードルハ翁は、ローナンたちが逃亡してる最中に分断し、殺して脇道に捨ててきていた。
ウーナならそれをちらっと見たかもしれない。
キアランターグは未だに凍りついている湖面を歩き、ローナンが沈んでいる場所まで来るとその穴を見てニヤリとした。
彼が手を翳すと、ザバッと湧き上がるように水が盛り上がり、ローナンの死体が浮かび上がった。
彼はおもむろに手を伸ばし、
ローナンの左目をえぐり取った。
「うん、よしよし」
ぺろっとそれを舐めると、懐から小瓶を取り出し、異形の目を中に入れた。
彼が翻るとローナンの遺体は再び暗い湖に沈んでいった。
彼は微笑をたたえながら、森の暗がりへ入っていった。
その後の足どりは誰にもしれない。
第一編終了!
一話に載せたのよりもいい感じの画像見つけたんで載せます。
"Wales.post-Roman" by author of source image, plus my additions (myself) - sub area of Image:Uk topo en.jpg plus my additionsData on peoples and their location is from John Edward Lloyd's 1912 History of Wales (2 vols.). Licensed under CC BY-SA 3.0 via Commons - https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wales.post-Roman.jpg#/media/File:Wales.post-Roman.jpg
第一編のローナンの物語はこれにて終了です。
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