23、ハイレーンズにて
第三章
23、ハイレーンズにて
グウィンはウーナと一緒に、ハイレーンズに向かう四十人ほどの一行の中にいた。ディナス・ファラオンからエドゥも来ている。
ウーナは俯き、目の下には隈ができている。
グウィンは心配で隣のウーナから目が離せなかった。
「ウーナ、来ない方が良かったんじゃないか?」
「うむ、気が弱っている時に病の元となる場所へ行くのは良くない。今から戻って休んだとて、誰も文句は言わんぞ」
兄は再三ウーナにハイレーンズ行きの翻意を促していた。
エドゥもその他の騎士たちも心配していた。
精神的に参っているであろう少女を見ていられない、という思いだ。
「いえ、私が行って、分かることもあるかもしれません」
俯いたまま顔を上げないウーナの声に、当然元気はない。
「まだ団長の……父さんの葬儀もまだなんだ」
「父上も、きっと、分かってくれます。ハイレーンズは私の第二の故郷です。大切な村を救いに行くことを許してくれるはず。きっと葬儀は待ってくれます……」
グウィンもエドゥも黙り込んだ。
王命は、流行り病に犯された地域の封鎖だ。
救いに行くのではない。
一応、僅かな希望を込めてグウィネッズの医師たちや医を心得る司祭たちが同行している。だが、流行り病はそう簡単に収束するものではない。
グウィンには、これがウーナの自傷行為なのではないかと思っていた。
ウーナは父の傍にいて、父を救えなかったのだから。
そのことに責任を感じているのではないか。
だから、わざわざ苦しむ結果に繋がりかねないようなことをしているのではないか。
項垂れたウーナのうなじが見える。
髪はまだ綺麗でサラサラしているが、肌の色は血が通ってないのではないかと思うほど青白くなっている。
消耗しても突き動かされるように行動し続ける妹にどう接していいか分からず、彼女の請うまま連れてきてしまった。
無理やりにでも休ませておいた方が良かったかもしれないと思い始めていた。
「もうここまで来たのです。帰れません」
ウーナが少しだけ顔を上げた先に、ハイレーンズの西端の家屋が見えた。
グウィンはこれ以上の試練がウーナに降りかかることのないように祈ることしかできなかった。
**********
グウィンの祈り儚く、村は目を逸らしたくなるような惨状だった。
腐ったような生臭い匂いが辺りに立ちこめている。
広場にたくさんの重病人が集められ、藁の茣蓙の上に横たえられていた。肌が黒ずんで爛れている。黒っぽい血が流れ、蝿が集り始めている者もいる。
ウーナは目を覆って膝を着いた。
思い出すのはコーンウォールの教会近くの広場。
あの時も夥しい人々の死体が所狭しと並んでいた。
「グウィン、お前は妹のそばにいてやれ。話はわしが聞いてくる」
ウーナの肩を抱き寄せたグウィンにエドゥが言った。
エドゥ爺は医師たちを引き連れて、茣蓙の側まで行くと、ハイレーンズの村長が対応した。
「病に罹ると、見ての通り肌が崩れ始めるのです。痛みというより苦しみが体を覆って、重篤なものは苦しみで眠りにつくこともできず、夜な夜な夢遊病のように歩き回ります」
「患者が徘徊するのですか……」
そう言う村長の肌も崩れ始めていた。移すことのないようにとの配慮か、村長もエドゥとは少し離れた場所から会話している。
エドゥも、その他医師たちも、そんな症状には心当たりがなかった。
「王命よりこの地を封鎖するように言付かっておる。ここに医師たちも来ている。感染の疑いのある者を村から出さぬように協力をお願いしたい」
「……分かりました」
エドゥが心を閉ざすような硬い声で村の老人に告げた。
「子供が見当たらないようですが、罹らなかったのですかな?」
「いえ、病が出始めた頃、早々に子供たちは村から集団で避難させたのです。あの時判断しておいて幸いでした」
「それは見事な判断です。この中に子供がいないのは良かった」
上向きな言葉を口にしてはいても、彼らの声は明るいものではない。
ウーナは老人たちの話を聞きながら、心が沈んでいく感覚に囚われていた。
コーンウォールの戦死者の広場。
ファーガス邸で見た、父と騎士たちの散った廊下。
そして、目の前の苦しみの呻きが絶えないウーナの愛した村の広場。
気がおかしくなりそうだ。
眼前の光景が、目眩のようにぐるぐる回って現実感がなくなりそうになっていた。
乗り物酔のように吐き気がする。
気分が悪いのだが、そんな自分を別の場所から客観的に見ているような。
気が遠くなっていく。
遠く、遠く……。
「……ナ。ウーナ!」
ハッとして少女は顔を上げた。
すぐ側でウーナの肩を抱いていたグウィンが叫んでいた。
危ういところで現実から戻ってきた気がした。
「はい、お兄さま」
立ちくらみが治った時のように、顔から血が引いて冷たくなっているような、真っ青になっている感覚があった。
「大丈夫か?」
気遣わしげな兄の優しい声。
「……大丈夫です」
ウーナは立ち上がった。
コーンウォールの広場で、傷を負った者たちを介抱した時のことを思い起こした。
アドウェンナ司教が、あの時ウーナにかけてくれた言葉。
ウーナはいつでも全力だった。ならばウーナは必要以上に責を感じることはない。
世の中に苦しいことは沢山ある。それでも前を向くべきだ。できることを精一杯続けるだけ。
全ては聖霊の導きのままに。
ウーナは十字を切った。
ここでもきっとウーナのやるべきことは一緒だ。
苦しんでいる人たちの介抱をするのだ。
「ウーナ」
グウィンがしゃがんだままウーナを見上げている。
「心配おかけしました。ウーナはもう大丈夫です」
心が晴れた訳ではない。依然として暗い現実が、胸の中にある心を押しつぶそうとしている感触があった。
ただ、ウーナの瞳には光が戻っていた。
グウィンに意志の込もった「大丈夫」を告げると、苦しむ人々の茣蓙の方へ歩み出した。
**********
グウィンはウーナの背中を見つめ続けていた。
立ち直ったのだろうか?
妹の背中の向こうに広がる光景は、この村に住んだことのないグウィンであっても精神的にキツい光景だ。
そこに向かって立ち向かっていくる強さを妹は持っている。
ただ、兄としてそこに痛々しさを感じずにはいられなかった。
「こんにちは」
唐突に後ろから声をかけられた。
グウィンが振り返ると、民家の物陰に男が立っていた。
樫の杖を持った魔術師風の男。浅黒くも端正な顔立ちにゆるく伸ばした黒髪。そして、妖しく光る黄金の双眸。
「この村の者か?」
「いいえ? 私はあなた個人に用がありましてね」
「……なんの用だ」
たったこれだけのやり取りでグウィンはこの男との会話しずらさを覚えた。もともと他人とのコミュニケーションは得意ではないが。
「会わせたい方がいるんです」
「俺に?」
「ええ」
男は微笑しながら頷いた。
「こちらです」
唐突な申し出だが、男は付いてくると確信しているような背中だ。
男は家と家の間の細い道を通って、奥へ進んで行く。
若干の警戒感を感じながらも、グウィンは一応付いて行くことにした。
「あんたの名前を聞いてもいいか?」
男はちらっと首だけ振り返った。
軒下の影となる道で、彼の虹彩の金色が、浮かんでいるように不思議な光の反射をしている。
「キアランターグ」
よろしく、と口ごもると再び道に戻っていった。
「あの方です」
キアランターグが連れてきた場所は小さな林だった。
村に面してはいるが、誰も寄り付かないような忘れられた林。
木々の間に木漏れ日の揺れる、テーブルのように平坦な岩が一つあり、女性が座っていた。
黒髪の女性。修道女のような黒を基調とした服の上に、古代ギリシャの格好のように白く大きな布を巻きつけた奇妙な出で立ちだ。首から奇妙なデザインの十字架を下げている。グウィンはどこかで見たことのあるような気がした。
誰なのか、とキアランターグに視線で尋ねた。
だが、彼はグウィンの視線を受けてニコリと微笑んだだけだった。
コミュニケーションの壁を感じながら、仕方なくグウィンから話しかけた。
「あなたは?」
「私が分からないの?」
女性は心穏やかそうな表情、声色で答えた。
「私はメーヴ。あなたの本当の母親よ」
**********
「ウーナちゃんかい……?」
ウーナが医師たちに手伝いを申し出ようと、茣蓙の方へ歩み出した時。不意に後ろから声を掛けられ振り返った。
「おばさま! それにおじさまも!」
ウーナに呼びかけた人物は、ウーナの遠い血縁の老夫婦だった。
ケルトではある程度育った子供たちを親元から離し、親戚の家に預ける。成人になるまで男なら剣や力仕事、女なら手仕事や畑仕事など、仕事の見習いをさせるのが習わしだ。
ウーナやローナンがこのハイレーンズにいたのもそれが理由。
小さい頃からウーナを見てくれた遠縁の老夫婦は、いつか自分も歳をとったらこうなりたいと目標にする心優しい人たちだ。
「ご無事でしたかーー」
「近づかないでおくれ!」
しかし、おばさんはウーナを鋭く拒絶した。
そしてウーナもその訳を悟る。
手の袖口から黒ずんで崩れ始めた肌が見えた。
「病に、感染してしまったのですか……?」
老夫婦は口元にハンカチを当てながらウーナと話している。ウーナに病を移すまいと気遣っていてくれるのだろう。
ウーナがこの村にいた時、我が子のようにウーナのことを愛してくれていた。
そのおじさんとおばさんがウーナを拒絶しなければならなかったのだ。
少女は胸が締め付けられて涙が出そうになった。
おじさんが口元のハンカチ越しにくぐもった声でウーナに言った。
「泣かないで、ウーナちゃん。いいんだよ、私らはもう長生きしたんだから。それより、これから先の長いウーナちゃんに病が移ったら大変だ」
おばさんも優しいく諭すような口調になって続けた。
「ここから離れて? 私ら、老い先短いんだ。最期にウーナちゃんの顔を見られて、それだけで満足さ」
「そんな、でも、私も何かしたいんです。きっと何かできることがあるはずです」
おばさんは一瞬悲しそうにシワを深めたが、次にはウーナを叱った。
「私らの気持ちを考えてちょうだい! 流行り病なんかに罹ったら助からないよ! あんただけでも生きるんだよ。私らの分まで……」
そう言うと彼らは茣蓙の方へ向かっていった。
何もできないのだろうか。
自分はこんな辛い気持ちになるためにここに来たのだろうか。
パチン。
その時ウーナは奇妙な感覚を感じた。
その方向を見ると、医師たちが本格的に治療に入ったところだった。
「エドゥ爺」
ウーナがその方向から目をそらさずにエドゥに聞いた。
「何か……感じませんでしたか?」
似た感覚をウーナは感じたことがある気がした。。
爺は首を傾げてウーナの目線を追っている。
「何を感じた?」
「魔法の発動時みたいに、何か規則がある魔力の信号のような……」
医師が茣蓙に横たわる患者に手を伸ばした。
パチン。
ウーナは思い出した。
『禁忌術式』
盾でウーナを包んだイセルがつぶやいた言葉。
ウーナは背筋が寒くなった。
何かが人の魂に干渉している。
「これは……」
エドゥも何か感じたようだ。
「病が来たのはマーシア側からで間違いない。ここと同じくマーシアに接しているポウィスでもこれと同じ病があった」
村長は魔力の感覚を感じ取れなかったのか、話についてこれてなさそうだ。
「そう、マーシア騎兵からの襲撃があったはず! その兵や馬の死体は如何なされた!」
エドゥが村長に詰め寄るように問いかけると、村長はやや狼狽しながら答えた。
「え、ええ、ちゃんと焼きましたよ。焼いて埋めましたとも」
「……そうですか、しかしだとすると一体何が……」
ウーナはその話を聞きながら思ったことがあった。
「エドゥ爺」
エドゥと村長がウーナの方に顔を向ける。
「マーシア側から来て、ポウィスとここハイレーンズで共通するもの……。それに一つ心当たりがあります」
根拠はない。
しかし、ウーナには奇妙な確信があった。
次回、11月11日です。