2、マエロルの丘
「ウーナ」
少女は声をかけられて目が覚めた。
幼かった頃の夢。
林檎の木の下で眠ってしまっていたようだ。
ここはハイレーンズの村からほど近い、開けた丘の上。広々とした田園地帯がひろがる一帯で、この丘だけが大地からせり出して突き出ている。そこにポツンと一本だけ林檎の木が立っているのだ。
暖かい春の日差しを浴びて草花の上では蝶が舞っている。木漏れ日と優しい風に撫でられていては、眠ってしまっても致し方ないというもの。
寝起きのふにゃっとした表情で声をかけてきた人物を見る。
黒髪黒目にやさしそうな顔立ちの青年。ウーナと親友のローナンだ。左目に白の眼帯を巻いている。
丘を登ってきた彼は木陰に入るとウーナの側に腰掛けた。
「うなされてたよ、またあの夢を見たの?」
「ええ……」
あの湖で青の宝石を手に入れてもう10年ほど経っていた。今でもあの時のことを夢に見るのだ。
ウーナは口元にかかっていた髪に気づいて梳いて流す。
その仕草を目で追っていたローナンと目が合った。彼は少し顔を赤らめた気がする。
見とれていたのだろうか?
ウーナはクスッと笑いかけると
「あなたこそ、またものもらい?」
眼帯を見て尋ねた。
「あ、ああ、またなんだ……」
気まずそうに目を逸らす。
「やっぱり眼帯の下、気になる。見せてくれない? ものもらいってどうなるの?」
ウーナが顔を近づけながら尋ねると今度は顔ごと背けて答えた。
「女の子には見せたくない……かな」
特にウーナには。
純情少年は最後の言葉を言えなかったようだ。
「そうゆうとこ、お兄さまみたい」
ふふっ、とあどけない笑みを零す。
「私のお兄さまもな~んか、カッコつけてるのよね」
ローナンは兄弟と自分を同列にされたくないような気がしたが、困ったような顔で、言葉は返さなかった。
「そういえば、あなたの兄弟ってどんな人だっけ?」
ウーナは何気なく聞いたのだろう。
しかし、ローナンはなぜだか心に影が差した気がした。
「僕に兄弟はいないよ」
「あら? そうだったっけ?」
いなかったっけ~? と頭上にハテナを浮かべるウーナを見ながら、ローナンは心にざわざわとした感覚を感じていた。
この時代兄弟がいないというのはとても珍しい。
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「それより戻ろう」
彼は話題を変えた。
「年々マーシアは勢力を強めてきてる。ここはデヴァの目と鼻の先なんだし……戦闘がいつ起こっても不思議じゃないんだから」
ローナンは丘の先を見渡した。広い田園の先には林に隠れてディー河が国境線となり、その向こうには憎きサイソンたち(アングル人やサクソン人、ジュート人)の前線基地カストロ・デヴァの城郭都市がある。
戦闘が起こっても不思議じゃない。
「……私、やっぱり騎士になるわ」
ウーナの言葉に、ローナンは心の中でため息をついた。
またその話か。
「女の子が戦わなくてもいいんだよ。君のお父さんだって頑張ってるんだから」
「お父様の役に立ちたいの」
ウーナのまっすぐな眼差しがローナンの黒い目を捉えた。ウーナの青い瞳からは固い決意がよく分かる。しかし、ローナンも譲る気はなかった。
「でも剣を教えてもらえないんだろう?」
「……」
ウーナの父親ジュディカエルは大熊アルスルの生まれ変わりとさえ謳われる有名な騎士だ。ジュディカエルもウーナが騎士になることに反対しており、彼女に剣の稽古をつけさせてもらえないのだ。
「私はハイレーンズの村が好き」
ウーナは丘の後ろに目を向ける。
彼女の視線の先にはハイレーンズの村がある。豊かな自然に囲まれ、牧歌的で心やさしい人々が暮らしている。その向こうにはハワーデンの砦もあるが、やや遠い。
「みんなの魂が美しいのが見えなくても分かるでしょ? デヴァの目と鼻の先でみんなが危ないなら、なおさら騎士にならなくちゃいけない」
「だけど……」
「心配しなくても大丈夫よ、私には精霊様の石があるもの」
彼はウーナの胸元を見た。
あの青の宝石をウーナはいつも首に下げているのだ。もっとも、今は服の中に隠れて見えないが。
ローナンは『精霊の石』を苦手としていた。嫌なものを感じるのだ。
「その石だって……。だいたいウーナはキリスト教徒でしょ? キリストの神とその『精霊様』とどう両立して……」
「ねえ」
ウーナが言葉を遮った。丘の先、国境線の方を見ている。
「あれ……」
彼にも林から銀色の光が出てくるのが見えたようだ。
甲冑を纏い騎乗したマーシア兵。
まだ遠い。3キロメートル以上はある。
だが、猛然とこちらに向かってきている。
数は5騎。
ジワリと汗が手に滲んだような気がした。
先ほどの話が頭の中に蘇る。「いつ戦闘が起こっても」。まさか本当に今そうなっているのだろうか?
「逃げよう……早く!」
ローナンが叫んだ。
ドックン、ドックンと、ウーナの心臓が危機感の警鐘をがん、がんと鳴らし始めた。しかし、頭の芯の所がしびれたように働かないのを感じる。理性が現実について行けてない感覚。
「早く!」
ローナンが手を引っ張ってくるのに任せて、丘のなだらかな下りを駆け出した。
「『魔法の森』に入ってやり過ごすよ!」
『魔法の森』。子供たちの遊び場で、少し深いだけの森だ。当然、殺意を持った正規兵から身を隠すにはあまりにも心もとない。
「村にマーシア兵が来たこと伝えなきゃ!」
ウーナはもう一度振り返った。
マーシア兵たちが今いた丘の上に乗り上げていた。
「嘘……」
ウーナは半ば絶望の声を漏らした。
まだ10秒も経ってない。さっき見た時は3キロメートル以上離れていたではないか。
魔力。
馬をも包み込んだ魔力の波動で敵兵たちは馬ごと燃えているように見える。
ダダンッッ!!
4騎の大型の軍馬が地を蹴ると空を飛ぶような跳躍で二人の横を爆発するように駆け抜けて行った。
残る1騎がウーナたちの相手のようだ。
「ウーナは森に逃げて!」
ローナンが後ろ腰にさしていた短剣を引き抜き、鬼気迫る声で鋭くウーナに叫んだ。
敵兵はフルアーマーに3メートルはあろうかという槍。腰にはロングソードまである。
対してローナンの短剣は柄も含めて30センチ程だろうか。
無理だ。
根元が大人の男の太もも程もありそうな敵の槍は弾くことすら出来ないだろう。
一撃で死ぬ。
ウーナも逃げ切れまい。
そう思うと体は動かなかった。
ここが自分の死に場所。
いや、ウーナは今年で16になる女だ。敵兵に捕まれば何をされるか。
ローナンの短剣が目に入った。
捕まるぐらいならあの短剣で自ら首を……
ガキィィンッ!!
ローナンは敵の槍を弾いた。
信じられない。
「何してるの早く逃げて!」
彼が再び叫ぶ。
まさかあんなちっぽけな短剣で大槍を弾くなんて!
ウーナは森に駆け出した。
ローナンが命を賭して時間を稼いでくれるなら、決して無駄にしてはいけない。
生き延びるのだ。
全力で走って、森のふちに踏み込んだ。
隣りにローナンが吹っ飛んできた。
「ローナン!」
しかし、なんと幸運なことか! 無事なようすで、転がりながら勢いを上手く利用して起き上がった。
「行くよ!」
二人はサンザシの深い茂みに飛び込んだ。