14、星読み
ローナンが目を覚ますと間近にグェンエイラの顔があった。
彼女の膝枕の上のようだ。
彼女は肌着のような薄い白装束に着替えていた。
ローナンは記憶を思い返す間にひどく汗をかいたのだろう、服が水をかけられたように濡れていた。
森の匂い。草の上。地面の石の陣。ヤドリギの絡まるハンノキ。
ネメトンの聖樹の根元のようだ。
頭上に広がる聖樹の新緑の遥か向こうでは、もう青黒い夜空に金粉を散りばめたような星が燦めきだしていた。
ローナンの目からは涙がこぼれ落ちて止まらなかった。
留めることのできない嗚咽が、ヒリヒリして乾いた喉の奥から漏れ出す。
「うっ、ううっ、あ、あああああぁぁぁ!!」
叫びながらグェンエイラに縋り付く。
子供のように泣きじゃくる。
兄の記憶、グェンエイラの記憶、そして母の記憶。
その全てが甦った。
グェンエイラはローナンを、汗みどろにもかかわらず優しく抱きしめ返していた。
しばらくしてローナンの慟哭が収まると、これまでのことを妹のグェンエイラと話し合った。
二人で聖樹に寄りかかり、あれこれ言い合う。
儀式は成功したが、儀式に関するローナンの記憶は全てなくなっていたこと。
グェンエイラはいずれベザイを継ぐローナンを世話するべく、いつも傍らにいたこと。
ファードルハやドルナムに、兄妹であることはローナンに明かさないように言われていたこと。
「でも、どうしてお前は、その……僕を誘惑したんだ?」
ローナンは妹に聞いた。
グェンエイラは微笑みながら言った。
「愛してますから」
この時代、近親相姦はさして珍しくもない。あのアルスルですら姉弟の間に生まれたのだ。近親相姦を禁じているのは一神教の類。古き神々を信じるベザイには関係ない。
「それに兄妹で愛し合うことはいいことなのでしょう?」
ベザイの信奉する教えでは、ゾロアスターの教えよろしく近親における交わりを善しとしていた。
「でも僕は……」
そこでファードルハが現れた。
異形を左目に受容した儀式の時の嗤いを思い出す。この醜悪な老人の本性は記憶をなくしても分かっていたつもりだが、記憶を取り戻してなお再認識させられ、不快の意識がローナンの心にもたげる。
「ヒヒッヒ。そろそろ宜しいですかな? 儀式を完成させましょうぞ」
耳障りな掠れた笑い。
「儀式を完成? どういうことです?」
いつの間にかネメトンを囲む周囲の木々の陰に、あの時のような白と黒のローブの男女たちが幽霊のように静かに立っていた。
「ローナン坊っちゃまの左目は完全なものではなかったのです。記憶に穴がありますれば、魂もまた全備にございませぬ。ローナン様は見事試練を乗り越え、過去を取り戻しました。しからば、異形の統御も全きものとなります。ここに最後の儀式を必要とするのです」
黒装束の男たちがカラドク・マードク・グリフィンの亡骸をネメトンの聖樹を中心とした三方に置いた。
「兄さんたち……」
殺したのはローナン。
兄達の姿を見て心が冷たくなったように感じた。
グェンエイラが、座り込んだローナンの頭を後ろから胸に抱く。
「兄さんたちのことは重い悩まずとも大丈夫です。皆、無い目の痕に苦しんでおりました。ローナンさまは苦しみから解放なさったのです」
「だけど……」
「お兄様たちは感謝してました。死は別れではありません。すぐそばの世界にいらっしゃいます」
異世は遠い場所じゃない。深い森の中、濃い霧の中、夜の闇、湖の彼方。隣り合わせの世界の、いつも近くにあると古き神々の教えは伝えている。
彼女は抱いた腕を離し、優しい目でローナンを見つめた。
そこにファードルハも同調する。
「然り。長い人生は死という中心に収束するもの。坊っちゃまが儀式を完成させればその収束も意義有るものだったと思えましょう。カラドクたちの魂もこれで浮かばれます」
なおもうつむくローナンの顔の前に、翁が大きな杯を差し出す。
「これを」
なみなみと注がれた杯からは、生臭い匂いがする。
「これは?」
「人間の血で醸した酒にございます」
正気を疑って老人を見る。
「これも儀式の完成の為。ローナン坊っちゃま、我慢してください。このファードルハもこのようなものを坊っちゃまに飲ませるのは心が痛みますが、そこを押してお願い致します」
心にも無いことを。
老人の口角が上がりかけたのをローナンは見逃さなかった。
しかし、兄や母の魂が浮かばれるなら。
そう思えば血の酒を飲む程度なんでもないとローナンは感じた。
小さな気泡の浮かぶ赤茶色の液体を飲むのは当然抵抗がある。
匂いを嗅が無いよう息を止めて、ぐっと呷った。
酒が通って喉奥がカッと熱くなるような感覚。どんな造り方だか知らないが、かなり度数が高そうだ。
吐き気がして一旦杯を下ろす。
するとグェンエイラが横から杯に手を伸ばした。
「私もいただきましょう」
「おい」
ローナンがファードルハを見ると、翁は頷いた。兄妹ならば良いということなのだろうか。
こんなまずい物に手を出すなど気が知れない。
いや、ローナンがきつい物を飲むことを肩代わりしてくれているのか。
ドクン。
その時突如ローナンの心臓が跳ねた。
頭がボーッとしてきたのは酔いのせいだろうか?
体が熱くなって、再び汗がではじめた。
グェンエイラが血の酒を飲み終わり、唇にわずかについた紅を舐めとる。
なぜだかとても色っぽく感じた。
彼女も次第に熱くなってきたのか、頬が紅潮してくる。
そういえばなぜグェンエイラは肌着のような白い衣装なのか。
「汗をかいてしまいましたね」
そう言って彼女はローナンの服を脱がせ始めた。
先ほどから夜風が当たって不快になってきていたので、彼女のなすがままに任せる。
いつの間にかファードルハも白黒の装束の男女たちもいなくなっていた。
上半身裸になったローナンにグェンエイラが体を寄せてきた。
そこでようやく先ほどの杯の意味が分かった。
あれは媚薬だ。
ローナンは呼吸が荒くなってきたのを感じた。
しかし、なんでこんなことを。
「これが儀式の最後なのですよ」
グェンエイラが暗い笑みを浮かべてる。
しかし、彼女は望んでしているようにすら感じた。
ローナンの膝の上に跨り、くちづけをしてきた。
舌まで交えて、クチュクチュ水音が鳴る。
ローナンが抵抗して彼女を引き離す。
クラクラするのが酒のせいなのかグェンエイラのせいなのか分からなかった。
ウフフ。グェンエイラは笑った。
「ローナンさまも、もうしたくて、したくて、しょうがなくなってしまってるんでしょう?」
彼女はローナンの首を抱いて後ろに倒れこんだ。
つまり、ローナンがグェンエイラに覆いかぶさるような形になる。
そうだ、イメージの中にもこんな場面があった。これは異形を支配下に置く為の儀式でもあったのか。
「我慢しなくていいんです。我慢しないことがいいことなんです。ベザイのため、母のため、兄たちのため、そして私たち二人のために」
ローナンはそれ以上堪えることはできなかった。
何度も法悦が体をめぐり、実の妹を感じた。
そして最後の一番大きな快楽の波が脳天まで届いて、グェンエイラと一つとなったまま空を仰いだ。
天にはオーロラがかかっていた。
紫と緑が交互に帯を作る壮麗な天上のカーテン。しかし、その極光は星々の光を妨げることなく、柔らかなベールのよう。
ネメトンの聖樹は透き通っていた。透明になった葉や幹に星々やオーロラの光が透けて見える。
ハッとして周りを見ると、兄達の屍体が燃えていた。
カラドクはエメラルドグリーン、マードクは黄色、グリフィンはオレンジ色。それぞれの色の炎で燃えている。
炎は遺体を見る間に灰に変えていく。
ネメトンの魔法陣に光が灯った。
透明な聖樹が天から降る光を屈折させて線を描く。
それは占星のホロスコープだった。
太陽や月、惑星の位置。黄道十二宮。十二室。古代文字の星位図。
ドルイトの星読み。
「よく乗り越えたね」
陣の外の暗がりに白い影がいた。
『暗き森の中の丘』の異形だと思っていた影。
今ならその輪郭が良く見える。
白い影は幼い日のローナンだった。
母の死に作られた第二の人格。否、切り離したもう一人のローナン自身。
「バイバイ、といっても、これからはいつも一緒だね」
白い影は消えた。
ローナンと一つになった。
一つに戻った。
さっきあれほど泣いたのに、また目に涙が浮かんだ。
グェンエイラは眠っていた。
ローナンも眠気を感じて彼の妹の隣に横たわった。
オーロラや星の光に包まれて、安らかで不思議な感覚の中、意識が闇に落ちた。
ファードルハ翁がネメトンの周りを囲む大木の一本の陰から現れた。
聖なるヤドリギの下に、選ばれし兄妹が眠っている。
異形を宿す少年は見ることになるだろう。
未来を。
ここはドルイトの星読みの場。
この荘厳かつ幻想的な風景も、それまでの様々な試練も、もともとは異形の力を集め未来を予知するための仕掛けだ。
「ドルイトの未来に力あらんことを」
老人は静かにつぶやいた。
次回、10月24日です
皆さんはドルイトと聞くとどんなイメージを持つでしょうか? 僕のプレイしたRPGの中だと可愛らしい、自然をモチーフにした衣装にスタッフを持つバフ系職業として現れました。
しかし、よくよく調べてみるとドルイトとは人身御供や人骨・頭蓋骨などを使っておどろおどろしい儀式を行うような宗教指導者のことだったようです。
2000年以上前にケルト民族の間に栄えていたドルイト教。
この物語ではそんな古代の宗教のイメージを楽しんでほしいと思っております。