12、ネメトンの森
そこはモン島のどんな場所とも違った。
島の他の自然はあるがままに存在していた。しかし、目の前に高く立ちはだかる鬱蒼とした森は近づく者を拒絶していた。
夏の深緑よりも濃い緑が太陽を完全に遮り、森の内側は酷く暗い。
ファードルハの与太話のごとく怨霊が不浄の気を撒き散らしているのだろうか。嫌な気配が森から漂ってくる。
ローナンがファードルハを見るが、なんの反応も示さない。
この森はまだ目的地ではないのかもしれない。
だが、世の摂理に反するようなドロドロした魔力をひしひしと感じる。
間違いない、ここにネメトンがある。
森に踏み入れた瞬間。
再び目眩のような、白昼夢のような感覚に襲われた。
黒い地面に白の布が敷かれ、その上で黒髪の女を組み敷いていた。
男の昂ぶっている感覚。
女は白い仮面をかぶり、大きめの白い服を身につけていた。
女の短い嬌声が耳に入る。
仮面にくぐもった声で女がつぶやくのが聞こえた。
『ローナンさま……』
ハッとすると暗い森の中だった。
もはやローナンが幻覚を見るのにも慣れたのか、ファードルハとグェンエイラは静かにローナンを見守っていたようだ。
幻覚の中でローナン自身の名前を呼ばれた。
つまり今見たものは異形の記憶でも、前世の記憶でもないということだ。
それに今の声は。
グェンエイラの声だった。
彼女は感情のうかがい知れない表情でローナンを見ていた。
ローナンは先ほど見た幻覚の内容を考えながら、ネメトンを探して歩いていた。
他二人も後から付いてきている。
これまで見てきたイメージは異形のものでも前世のものでもなく、ローナン自身のものであるかもしれない。
とするなら、ローナンには記憶の欠落があるということだ。
過去を思い出し欠落を探す。
すると左目が疼き出してジンジンと痛み始めた。
強く過去を思うほど左目の痛みは強くなる。
痛みで思考がまとまらない。上手く集中できない。
「ローナンさま」
先ほどの幻覚を思い出すようなグェンエイラの呼びかけにビクッとして振り返った。
「この道は先ほど通った道です」
そう指摘されて周りを見回した。
確かに、ここはさっき通った道に思える。
迷いの森。
その先にあるものに侵入者を近づけない防衛機構。
周りをつぶさに観察し、匂いを嗅ぎ、魔力の流れを探る。
方向感覚を狂わせる仕掛けがないか探すのだ。
ハイレーンズの「魔法の森」でマーシア兵を仕留めた時は、薬品を嗅がせることで相手を行動不能にした。ドルイトの知恵にはそういった罠や仕掛けの技術が多くある。
そこでローナンは、先ほどまで異様だと感じる魔力を頼りに森を進んでいたことを思い出した。順当に考えればその魔力がネメトン、もしくはドルイトに関わるものと判断できるからだ。
なるほど、ネメトンを探す者はネメトンに近づけない。
そういうコンセプトの罠らしい。
魔力によってネメトンを探せない。
森は広大だ。
どうするか、そう考えていた時だった。
殺気を感じて上体を捻る。
上半身があった場所に黒塗りの投擲用ナイフが鋭く通過した。
「ファードルハとグェンエイラは下がって」
二人に呼びかけると、前方の木の陰から黒装束の男が現れた。
顔の左半分だけ隠す奇妙な仮面をつけている。黒の短髪で、ゴツく引き締まった顔が右半分から覗く。
ネメトンの防衛機構その2、といったところか。
腰に差した短剣を抜き左手の逆手に持ち、左半身を前に出す半身の構えを取った。
相手はローナンの鏡のように、左右逆だが全く同じ構えを取った。
ローナンの表情に厳しさが出る。見たことのない顔だが、ベザイの家の者なのかもしれない。体術・武器術の手の内が知れていて、ネメトンの守り手となると、なかなか手間がかかりそうだ。
両者音を立てないようなスルスルとした動きで、お互いに向かっていく。
間合いに入り、剣と剣、拳と拳がぶつかるその時に、左右の斜め後ろ両方から新手が飛び出しローナンを襲ってきた。
牽制に目の前の一人目に拳打を放つが、後退して回避された。
構わず斜めに転がって背後の二人から距離を取る。
新手の二人も最初の一人と同様に、左半分しかない仮面に黒の身軽そうな装いだ。長めの黒髪と白髪混じり。
敵三人はすかさず前・右後ろ・左後ろの三方に位置取った。
このフォーメーションを崩さずローナンを囲い続けながら戦おうというのだろう。
一人がローナンの攻撃を受け止め、他二人がローナンの背中を狙う。
普通に考えれば有効だ。
だが、速さが違えば別だろう。
例えば三倍の速さで動けるなら?
ローナンは黒の魔力を見に帯びて、左目に異形の焔を灯す。
前方に飛び出す。
と見せかけて左斜め後ろに反転した。
前と右後ろは動きについてこれず、左後ろの長髪とローナンはわずかな間だが一対一になる。
衝突する瞬間、相手はローナンと同質の、黒の魔力を身にまとった。
ローナンは驚愕した。
まさか、こいつも異形を見に宿しているのか!?
精霊や異形といった高密度の魂魄を持つ生命体は、魂が物質にとどまっていられない。この世に現界していられないのだ。
それだけに捕獲、いや捕獲どころか発見すら難しいものをそう簡単に扱うことはできないはず。
そして、そういった高次の魂を持つ存在が、下位の魂の人間などに従うことはまずない。
キイィン!
短剣と短剣がぶつかり火花が散る。
実際ローナンより魔力の収束が随分甘い。
何か仕組みがあるのかもしれない。
しかし。
ローナンが一対一の状況が成り立っている一瞬に拳打、暗器、短剣のラッシュを仕掛けたがことごとく防がれた。
また再び三方を囲まれる前に、森の深くへと駆け出した。
ちらとファードルハとグェンエイラを見ると、平然と観戦していた。敵も二人に攻撃する様子もない。
やはり、これも織り込み済みの試練の一環なのか。
茂みに飛び込んで仕切り直そう。
ローナンは一旦森の暗がりに飛び込み、姿をくらました。
ローナンは木の上にいた。
そもそもベザイの戦闘術は一対多数を想定したものではない。暗殺のための、一人を殺す技術なのだ。
分断を図ることは難しいかもしれない。奇襲の有利で一人ずつ狩るのがセオリーだろう。
それには索敵で先んじて相手を見つけなければ。
油断なく辺りを窺う。
地面だけではなく他の木の上もだ。
木の上での三次元戦闘も、三方に囲まれる平面戦闘よりいいかもしれない。
そう思った所で相手の姿を見つけた。
地上で白髪混じりが魔力で辺りを探しているようだ。
ここで突進するほどローナンも馬鹿じゃない。
囮だろう。
あいつに釣られて出てきたところを側面から叩こうというわけだ。
つまり近くに他が潜んでいる。
ローナンは魔力の放出を完全に消して機を窺う。
目を凝らし耳をそばだてて。
他二人を見つけた。
長髪が側の地上の草陰に、もう一人の短髪が少し離れた木上だ。
無音で木の枝を飛び上がる。
背面跳びのように背を反らせると頭から落下する。
草陰に潜む的の一人の直上に。
ギィン!
心を閉ざし、殺意も害意も表に出さない、完全に気付かれることのなかった不意打ちは、しかし、他の敵の投擲によって防がれた。デコイ役の白髪混じりが探査の魔力を、潜んでいた襲撃役の周りに張っていたようだ。
ようやく草陰の敵はローナンに気づく。
デコイの投げた石を弾いたローナンは、体勢を崩しながらも、草陰の長髪に蹴りを入れて吹っ飛ばす。
これで一対二。
デコイ役に突進し再びラッシュを仕掛ける。
今度は一撃の重さ重視だ。相手も黒の魔力を纏うが、魔力の質はローナンの方がずっと上。
ゴッ! ガッ! ドッ!
掌底、突き、回し蹴り。三度も当てればガードも崩れる。
ついでに釘を足の甲にぶち込むと、蹴り上げで顎を打ち抜いた。
一対一。
ここで先手を相手に取られ守勢に回る。
ナイフ主体の連撃を捌く。
ドガッ!!
ローナンは背後から側面蹴りを食らって弾き飛ばされた。
草の伸び放題な地面を転がり、大樹の根元に叩きつけられると顔を上げた。
倒したと思った敵二人は起き上がってきていた。
三人とも鱗のような黒い魔力が張り付くように体を覆っている。
収束も質も弱いが、自己治癒能力が高かったのかもしれない。
しっかり殺さないとダメか。
よろよろと立ち上がりながら考える。
側頭部を蹴り抜かれたせいか、気を抜くとふらふらしそうだ。
敵も完全に回復しているわけではないのか動きは鈍い。
彼ら三人を観察する中で、ようやくローナンは勝機を見出した。
ローナンは動かず、三方を囲まれるままにさせた。
アクションを起こさないローナンに、背後の二人がタイミングを合わせて襲いかかる。
ローナンは炎の魔術で目の前を爆発させた。
その勢いで急激に後方に下がると、右後ろにいた敵の左側面を突いた。
三人は顔の左半分を隠す仮面をかぶっている。
この仮面には目元に穴がないのだ。
相手の左側は三人とも死角なのだ。
思えば敵の構えはローナンの鏡のように左右逆だった。ローナンは左半身を前に。敵は右半身を前に。
死角の左をかばっていたのだ。
死角をつければなんてことは無い。三人いてもそれぞれの視野は半分。
一人目の首を切り飛ばし、反時計回りに動きながら相手の左手に回り込む。
速さはローナンが上。
連携は崩れ、対応が遅れたら最後。
二人目の心臓を掌底で穿った。
最後だ。
そう思った時、敵が話しかけてきた。
「強くなったな、ローナン」
そこに戦意は無く、疲れた呼吸でハアハア言いながらの、しかし優しい、声遣いだった。
ローナンは深く動揺した。
ガンガンと頭痛がして片手で頭を抑える。突然左目から涙が流れ出てきた。
「あんたは、誰だ」
声が震えていた。
「この顔を忘れたのか?」
彼が半分の仮面に手をかけた。
ドクン。心臓が、自ら意図し無いような、不快な脈を打った。
仮面が外れたそこには、目元の爛れた、空洞の眼窩があるだけだった。
「お前、ホントに適合できたんだな。よかったよ。誰も適合でき無いんじゃ、みんな死に損だもんな」
ローナンの左目に微笑んだ。
「さあ、俺を殺せ。向こうがネメトンだ。この儀式を、完成させてくれ」
彼は彼の後方を指差した。
「あんた、何言ってるんだ」
訳が分から無くなって、足が震えそうになった。
黒髪に、左目の無い、ローナンを知っている、黒の魔力を扱える、名前も知ら無い、男。
みんな死に損?
何言ってるんだ。
混乱するローナンを見て、彼はもう一度微笑むと、威圧するような、それでいてどこかローナンを守るように包み込むような、そんな魔力を放って特攻してきた。
ローナンは訓練されて体に染み付いた反射で、黒装束の首筋を、体を反転させながら裂いた。
男は特攻の勢いのまま背後で倒れた。
男は首元から大量の血を流しながら擦れ声でつぶやいた。
「兄弟だもんな」
男の瞳から光が消えた。
ローナンの心には理由の分からない悲しみが溢れ出していた。左目の内側から槌で叩くような頭痛が続いている。沈み込むような、体の血が冷めるような感覚に、男の亡骸から後ずさりした。
ハッ、ハッと嗚咽まで喉から漏れ出してくる。
ローナンは駆け出した。
先ほど指差されたネメトンの方角へ。
もう終わりにしたかった。
訳のわからない感情に振り回されるのはもうごめんだ。
緞帳のように垂れ下がった草蔓を払いのけ、藪の中を突っ切る。そこには森に踏み入れた瞬間に幻影で見た、アイボリー色の矩形の魔法陣があった。
魔法陣の中心には、一見若木のようなハンノキが一本生えている。
ハンノキにはヤドリギが絡まっていた。
ネメトンの聖なる木。
ローナンは膝をついた。
荘厳な光が帯となって降り注ぐ。
頭痛が頭の中でいっぱいになり、ローナンは気を失って倒れた。
次回、10月20日です。
嗚呼、可哀想なローナンw