10、メナイの狭き海/Bryn Celli Ddu
「お降り下さい」
ファードルハ翁の先導で、ローナンはグェンエイラと共にバンゴールの西、モン島をすぐそこに見渡せる土手で馬車を降りた。
斜陽も雲に隠され、肌寒い風が前方から吹き寄せる。
ファードルハ翁が屋外に出るのは珍しいことだ。杖に頼る、盲目の彼がわざわざ案内するのだ。それだけに、この訪問が重要な意味を持っているのではないかとローナンは感じていた。
モン島は国の一番北西に位置する特別な島だ。
ドルイトの聖地であり、700年前までは彼らが島を治め、修行の場としていたのだ。
太古の時代では陸続きになっていたと言われるが、今ではメナイの狭き海が大ブリテンとモン島を分けている。
ローナンはモン島に訪れるのは初めてのはずだ。
向こう岸に見える彼の島には、不気味な紫色の空に真っ黒な雲が天を切り裂くように垂れ込めている。
「すでに船渡しも支度を終えている様子。このまま島へ渡ってしまいましょうぞ」
翁に続いて草木も疎らな土手を下る。
土手の先の小さな砂浜には渡し船と二人の船員が待っていた。
「お待ちしておりました。波もいい塩梅」
「よろしい。では」
船員とローナンたちが乗り込むと船は進み始めた。
メナイ海峡は大きな川ほどの狭さだ。しかし、潮の香り立つこの水は確かに海だと分かる。
しばらく進むとファードルハが口を開いた。
「六百年前、モン島では霊験あらたかなドルイト僧たちが皆殺しの憂き目にあったのだとか。無惨なことにローマの連中がこの聖域を踏み荒らし、破壊の限りを尽くしたのです」
嗄れた声を一旦止めて老人は息を整えた。
老いを感じる呻くような息使い。
「しかし、ドルイトの真の財であるネメトンは隠され、守り通された。今では殺されたドルイトの怨霊がその地を彷徨っているそうですぞ」
ひっひ、と老人は嗤った。
グェンエイラが蒼白な顔をしているのがローナンには分かった。まさか怖がっているのだろうか。
異形の左目をローナンが持っていることはグェンエイラも知っている。怨霊などこの異形に比べたら下位互換だろうに、何を怖がるのか。そこらの女のように幽霊を怖がるグェンエイラを笑いそうになったが、本人のために顔には出さなかった。
彼岸に見える土地はゴツゴツした黒い岩で覆われ、荒涼として生気のない印象をローナンに与えた。
船を降りると船員たちは再び船でバンゴールへ引き返した。
「まずは『黒き森の中の丘』へ参ります。そこでこの旅の目的を話しましょう」
**********
渡し船を降りた場所からさらに西へ進む。
「ファードルハ、辛くありませんか?」
ローナンが老人に聞いた。
道はぼこぼこしていて歩きにくい。相当な歳のいっている盲の老人が歩くには少し辛いだろうと思ったのだ。
「坊っちゃま、感じませんか」
何を?
そう聞こうとしてローナンも気がついた。体が軽い。
「これは……」
「申し上げた通り、ここはドルイトの聖地。その血を組むものに加護を齎すのです」
あるいは虐殺されたドルイト僧の霊が力するのか。などと適当なことをつらつら考えていると、骨ばった指でファードルハが指差した。
「アレにございます」
それは丘というにも小さい、高さ4メートル半径9メートルほどの円錐の形をした山だった。
「アレが『黒き森の中の丘』。最初に訪れなければならぬ場所」
周囲は綺麗な円を描いているようだが、それと言われなければ特別なものには見えない。
「ここでお待ち下さい」
少し離れたところでローナンとグェンエイラは待たされた。
ファードルハはブツブツと口の中で何かを唱えながら、山の中心から北東に位置する場所で杖を地面についた。
すると山の外周がにわかに光り始め、老人の側に蛇紋石がせり上がる。
地の底から何か大きな波動を感じる。
ゴオッと辺りの大地から魔力が吹き出し、それが山に収束すると、山の外周からオーロラのように紫と緑に交互に明滅する光の柱となった。
光の柱の中では、山の一部が崩れて暗闇へ続く回廊となった。
「古墳……?」
グェンエイラが小さく呟いた。
なるほど、言われてみれば古代の貴なる者の墓なのかもしれない。
ファードルハが光の柱に触れるとバシッと弾かれて、指の先からシュウシュウと煙が上がった。
「ローナン坊っちゃま、おいで下さい」
翁が振り返って白目を剥いた目でローナンを呼んだ。
ローナンが翁の側に行くと、古代の文字の刻まれた蛇紋石が目に入った。
「只人にこの柱は越えられませぬ。しかし、坊っちゃまならお通りになることができましょう。ささっどうぞ」
老人に勧められるが、手痛そうに弾かれたのを見たばかりだ。
「この奥に何があるのですか?」
「行けば分かりましょう」
大地から吹き出すオーロラは非常に高密度の魔力のようだ。
意を決して、光の柱に手を伸ばす。
弾かれて指先が爛れるのを覚悟したが、翁の言う通り柱はローナンを拒絶することなく、抵抗なく通した。
内心ホッとしながら、中に踏み入れた。
ブリテン島全土にわたって、神代からあるとされる巨石群が散らばっている。
環状列石。
この墳墓ももしかしたらその類系なのだろう。
回廊の壁・天井・床は巨石を切ってつなぎ合わせたものとなっている。
カツーン。
石床に足音が響く。
奥に小さな部屋があるようだ。部屋から反響が戻って来る。
やや警戒しながら奥の部屋に踏み入れた。
光源は入口の魔力の柱の光だけ。薄暗い空間にはつるりとした感触の石の円柱があるだけだった。
クスクス。
ローナンは何者かの含み笑いに素早く振り返った。
姿は見えない。
魔力による探査にもかからない。
しかし、誰かがいる。気配を感じるのだ。
油断なく周りを見回していると、突如左目が勝手に魔力を灯し出した。
左目がジンジンと痛み出して、眼帯の上に手を添える。
クスクス。
目端に何か白いものが見えた。
「誰だ!」
ローナンの声がエコーを帯びている。
「分からないの?」
白い影が正面の壁に写っていた。影が白いのだ。蝋燭でできた影のように揺れている。
「お前は何だ?」
「知りたいの?」
影は質問で返した。少年のような少女のような、そんな声だ。
ファードルハは中に入れば分かると言っていた。しかし、一体どうしろと言うのだろうか。
「お前はこの墳墓の主か?」
「いいや、僕は君の中にいる」
その時やっと、影がローナン自身の足元から床を伝って壁に写っていることが分かった。
「お前は……左目の異形なのか!?」
クスクス。
白い影はゆらゆらと揺れた。まるで踊っているようだ。
「そうであって、そうじゃない。僕は君さ」
「……」
語尾に音符がついてそうな、歌うような言い方だ。ローナンは適当なことを言われている気がした。異形とまっとうに意思疎通を図るのは難しいのかもしれない。
しかし、こいつが異形ならば、ファードルハ翁の狙いは簡単だ。さらなる力をこの異形から引き出せ。そういうことに違いない。
「異形よ、力が欲しい。よこしてはくれないか?」
影は沈黙した。
ローナンは影の答えを待った。風に吹かれる篝火のように影が揺れて歪む。
ややあって彼は答えた。
「辛いよ?」
これまでの修練も辛くないものなどなかった。
苦しみ無くして力は得られない。
力が欲しいのはもはやベザイの家のためだけではない。大切なものがある。それを傷つけないためには力が必要なのだ。
「承知の上だ」
「そっか、じゃあお別れだね」
その言葉にローナンは身構えた。
お別れとはどういう意味か。戦闘の合図なのか、力の大きさにローナンの肉体が耐えきれないなどという意味か、それとも異形は気を損ねて何処かへ消えてしまうとでもいうことなのか。
白い影がローナンの足元に戻って、身体の内に入っていく。
しかし、起こりうることに臨戦の心持ちで待っていても、何も起こらない。
気を張りながらも構えを解く。
そこで視界がぐにゃりと歪んだ。
暗い石の小部屋が、次の瞬間草むらに変わっていた。
誰かと手をつないでいる。
ローナンを呼ぶ声がする。
またぐにゃりと視界が変わって、今度はどこかの森にローナンはいた。
女を組み伏せている。
覆いかぶさるようにした女は、感じて、喘いでいた。
ローナンが彼女の胸元の衣類を破り裂く。
女が何かをつぶやいた。
また視界が変わって、次はどこかの屋内で沢山の人に囲まれていた。
皆、笑顔をローナンに向けている。
ブチン。
電波が途切れたかのように真っ暗になった。
手のひらに熱い何かが落ちた感触がした。
ローナンは、いつの間にか目をつぶっていたようだ。
いや、寝てしまっていたのだろうか。
目を開けると、そこは先ほどの墳墓の中の暗い小部屋だった。
円柱に背を預けてローナンは座り込んでいた。
ぽたっ。
膝の上の手にまた熱い物が垂れた。
ローナンは泣いていた。
何が悲しいのか分からなかった。しかし、悲しくて悲しくて仕方がなかった。胸の内側で暖かい何かが溢れ出し、それが涙になるような感覚。
何かを失くしたのだ。
何かを……。
しばらくして気が落ち着くと、頭がすっきりしてきた。
失くした物を取り戻すこと、それが力を手にいれる鍵になる。
そんな気がした。
なんの根拠もないが、ローナンの直感はそう告げていた。
次回、10月16日です。
しばらくローナンのターンが続きます。
『Bryn Celli Ddu』(ブリンセリドゥ)の遺跡は実際にウェールズのアングルシー島、つまりモン島にある石器時代の遺跡です。
ストーンサークルとかってロマンがありますよね。
いつかは行ってみたいものです。