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01-扇島釣り公園

 僕は空を見下ろしていた。太陽が嫌になるくらい自己主張を続ける日。なにも宇宙にいるわけじゃないけど、ベンチに寝転がって両手足をだらりと重力に任せると、そんな錯覚を覚える。


 向こう岸にある工場の煙が、空という巨大な穴に消えていく。僕があの煙を一息に吸い込めばおそらくは即死するだろうということを考えると、空って実際、たいしたやつだ。僕一人の身体くらい、抵抗も無く受け入れてくれるだろう。でも引力ってやつはとても嫉妬深くて、僕の身体を地面に縫い付ける手を緩めない。


 地球よりももっと大きな星がラジコンヘリでも届くくらいに近くにあれば、もしかしたらこの地面から飛び上がれるのかもしれない。辿り着く先は空ではなく、やっぱり地面なのだけど。


 潮風と人工的な汚水の匂い。鼻をひくつかせる。工業地帯に相応しい、とても爽やかな悪臭。

 平日昼間の誰もいない公園で、僕は昼寝をするでもなしに、じっと空を見下ろしていた。


「あの!」


 突然、誰かの声が響く。風の音まで掻き消すような、右耳から左耳へよく通る声。ベンチに到る登り傾斜に、いつの間にか誰かがいて、僕の見下ろし作業を侵略しようとしていた。


 見れば人影は一人分。ずっと空を見ていた視界は赤く、輪郭しか掴めない。堂々と仁王立ちで僕を見上げていた。

 そいつは多分僕をまっすぐに見詰めながら、臆する様子も無く言い放った。


「あなた、駄目な人ね」


 突如として、不躾というレベルではない暴言を吐く。声からするとどうやら女で、どうやら同じくらいの年。もしかして知り合いだろうか。こんな知り合いはいないし、いらないけれど。


 ちらちらと赤かった視界が徐々に落ち着く。輪郭の中身にも少しずつ色が戻っていく。逆さになった侵略者の顔を見上げる。

 やっぱり見覚えはない。だとしたら、それはとても恐ろしいことにこいつは無法者の類いか、でなくても他人を慮るということを知らずに育った可哀想な子だということになる。

 僕は逆さのまま、そいつの姿を観察した。


 目でけぇ。顔ちっせぇ。

 化粧っ気は無いが、雑誌の表紙を飾るモデルみたいに綺麗な顔立ち。髪がきらきらと陽光を反射する。大きな瞳は少し吊り上がり、挑発するように僕を見ていた。流行なんかを気にすることのない太めの上がり眉。ピッと一本通った鼻筋。やや茶がかった長い髪が、爽やかな悪臭を孕む潮風にになびいていた。


 腰に手を当て、坂道の途中で止まって、どうやら僕の返事を待っている。

 なんだろうか、この状況。

 たっぷりと間を置いてから、僕は答えた。


「どうしてそう思ったの?」


 駄目な人。確かにそう。シチュエーションさえ違えば良くも悪くもなる言葉。もう、駄目な人ね、とか、私がいないと駄目なんだから! 的な使い方なら僕の望むところだけれど、初対面故にそれはない。


「平日の真っ昼間にこんな場所にいるんだから、駄目な人でしょう?」


 至極ごもっともで反論の余地無し。一般的には。どこにでも例外はあるのだ。それが僕かはおいといて。


「でも君だってここにいる。時間もたぶん、同じだろ?」

「ええ、そうね」


 言い訳もなく肯定する。


「ねえ、あなた、今暇でしょう」

「ご覧の通り」

「少し付き合ってくれない?」

「もう少し近くに来てくれたら、いいよ」

「?」


 怪訝な顔で、少女はそっと歩み寄る。

 僕は空を見下ろしていた。残念ながら途中で思惑に気付いたようだ。少女は僕から三歩ほど離れた位置で立ち止まった。忌々しい物でも見るような視線を僕に浴びせる。


「これだから……」

「え?」

「なんでもないわ。言う通りに近づいたのだから、そろそろ身体を起こしたら?」

「ん、しょ」


 長らく寝転んでいた僕の身体は思ったよりも強ばっていた。首を鳴らす。想定外の大きな音が鳴った。


「いてて。で、何か用かな、お嬢さん」


 唐突に紳士ぶってみる。ハンカチなぞ隣に敷けたら完璧なのだけど、生憎と僕はポケットティシューすら持ち合わせていなかったし、そうしたところで隣に座ってくれそうもなかった。

 仁王立ちの少女は隣に座ることはなく、僕を見下ろしながら口を開いた。


「あいらまりあ」

「へ?」

「吾平真理亜。私の名前よ。五の口に平、真理に亜細亜の亜」

「はあ、そりゃどうも」

「あなたは?」

「僕の名前? 姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します」

「……まあいいわ。あなた、悩みとかある?」


 僕の勘ピュータが警鐘を鳴らす。宗教の勧誘か、自己啓発セミナーの類いか。絵を売りつける輩には、こいつはまだ若すぎる。

 どうせ暇だから、付き合うのは構わないけど。


「他人にどうこうできる悩みは、今のところ無いよ」

「他人にどうこうできない悩みならあるのね」

「うん。それはプライヴエェートなことだから、他人に話す内容じゃないけどね」

「例えばどんな?」


 へこたれない。


「そうだなあ。欲しい物があるのにお金が無いことかな。あとは身体の悩みだね。もう少し身長が欲しいとか」


 一つまみの真実を混ぜることで、言葉は真実味を持つという。僕の高等な会話テクニック。九割嘘。


「嘘ね」


 あっさりと看破された。


「うん、まあ、だいたい嘘だけども」


 悪びれない。嘘は悪いことじゃないし、身長が欲しいのは本当だ。


「少しは本当だよ」

「あなたの悩みは閉塞感ね。そうでしょう」


 僕の話など聞いちゃいない。被せるように言い切る。


「つまり?」

「日常がつまらない。これから何十年と、そんなものが続くことが怖い。そうじゃない?」


 毎日が面白くて仕方ない人なんているのだろうか。そんな生活は疲れるだろう。


「ま、そうかもね。たまにはいいこともあるけどさ」

「じゃあ、どんな生活が理想?」


 僕に質問をしているのに、僕に対する興味が感じられない。アンケートみたいに、求める答えに導こうとしている。


「理想の生活ねえ。考えたくもないなぁ」

「それはどうして?」

「理想を考えてしまったら、どうしても今と比べてしまうから」


 これは本心。そういうのは好きじゃない。理想は実現できないから理想なのだ。できないことは考えたくない。


「比べて何が悪いの?」


 何か糸口でも見付けたのか、マリアは初めて返事をした。


「理想を考えて、少しでも近付けるように努力すればいいじゃない」

「努力、嫌いなのさ。なーんにもせずに、なーんにも考えずに、適当に生きるのが好きなんだ」

「なんだ、やっぱり駄目な人じゃない」

「否定はしないよ。別に肯定もしないけど」

「努力が嫌いならそれでもいいわ。むしろ適任。ねえ、あなたを駄目人間と見込んで提案があるのだけど」


 そんな見込まれ方は嬉しくない。


「何もしない生活に興味はない?」


 本題、なんだろう。

 何もしない生活。宗教じゃなくて自己啓発セミナーのほうかな。若くしてそんなものに染まるとは。

 とりあえずノッておこう。後先考えずに。現状より悪くなることも考えにくい。

 矛盾ー。いえーい。


「いいねえ。寝て起きて飯食って。読書とかして、また寝る。そんな生活理想だねえ」


 あ、理想だ。

 理想を考えてしまった。


「どーんと三億円くらい、宝くじが当たらないかな。じゃないと普通、そんな生活できないよね」


 宝くじなんて買ったことないけど。


「できるわよ」


 事も無げに言う。


「ただし、本当に何もしないと約束できるのならね」


 あれ、僕がお願いする立場だっけ?


「今の生活を捨てて、新しい生活をしてみたくはない?」

「新しい生活ねぇ」

「何もしない生活。あなたが何もしないと約束するなら、そんな生活を提供できるわ」


 じっと僕を見る。

 怪しい。普通ならそうとしか思わないだろう。だから、僕の答えは決まっていた。


「いいとも」


 僕の返事に、マリアは目を丸くした。


「約束するの? 本当に何もしないのよ?」

「あー、するする。約束でもなんでも」

「本当に?」

「僕はなんにもしない為なら何でもする男だぜよ」


 しつこいくらいの確認に軽口を返す。ハロー。矛盾、オーケイ。


「ただし礼拝とか瞑想とかもしねぃよぅ」

「宗教の勧誘じゃないわよ。失礼ね」


 予防線、張ったつもりがヤブヘビで。季語無し。

 宗教の勧誘が失礼ってのも失礼な話だ。


「じゃあ、約束するのね?」

「約束は破ったことがないんだ」


 それにしてもツッコミ不在だなぁ、なんてことを考えていたから、返事に僕の思考は無い。

 この軽口を、後悔したことは無い。

 この時から、僕の人生は270度くらい回転した。




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