埋葬曲
町を歩くあたしの足は、いつの間にか賑やかな路地を抜けて暗く狭い道を漂っていた。狭い道を抜 けるまで、どこかに沈んだ記憶の糸を手繰り寄せるためにずっと目を瞑っていた。ついちょっと前までの記憶が飛んでいってしまった。時刻を見れば八時を回っている。あたしの記憶は六時頃からすっぽりと亡くなっていた。たった二時間だけの記憶喪失にあたしは、自分の心と体が離れていくような錯覚に襲われていった。だから彷徨ってしまったのだろう。夜の町は虚ろ。あたしの存在を虚ろにするだけの人混みと喧噪、あたしの知らない人が集まる町はあたしの存在を消してしまう。記憶だけじゃなく、あたしという存在ごと。
狭い道を抜け、開けた場所に出た。人は思いのほか少なく、遠くの方で誰かが歌っている声が聞こえてくる。フラフラした足取りで声の方向へと体を傾け、足がゆっくりと地面を踏み締めながら道を進んでいこうとする。それに身を任せるとすぐに歌声が大きくなった。角を曲がってすぐの場所に小さなスペースがあり、その場所にギターを抱いて少年が歌っているのが見える。
あたしが少年の視界に入るところまでくると、一瞬驚いた顔をした後、不機嫌そうにギターの和音をならしてあたしの顔を見た。人が通る場所であるにも関わらず、少年の傍にいるのは小さな子猫一匹だけだった。その猫もあたしの方を見て、小さく高い声で鳴いていた。
「またかよ・・・今日はどうしたんだ?」
声は怒気を含み、あたしは身をすくめながらその場にしゃがみ込んだ。
「たくさん、ヤなことがあったわ。でも、二時間の記憶が無いって事に一番腹が立ってるかもしれないわね。どうしてかしら、あなた何か知ってるの?」
以前にもこうして少年と話をしたことがあるような錯覚がでてきて、口調は友人と喋るときのように楽な感じだった。
「知る分けないだろ。ったく、本当に嫌なことなかったんだな? じゃぁ、何か悩んでること無いのか?」
「だから・・・二時間の記憶が、無いってことを悩んでるのよ。どうしちゃったのかしら。何があったのか全然分からないのよ」
少年はギターの和音を慣らした。さっきよりも荒々しく、怒っている事をあたしに示すような音だった。大きなため息を吐き出して、またあたしの目を見る。
「二時間前は何してたんだ? それは思い出せるんだろ」
考えを巡らせる時にするような上目遣いをしてから、少年の目に焦点を合わせた。
「あたし、クラスでハブにされてて・・・二時間前に近所の公園に来るように祥子に呼び出されてたのよ。祥子っていうのはあたしをハブにした張本人よ。それで家を出て公園に行ったのが二時間前よ。公園の時計で六時をさしていたから間違いないわ。その後祥子に会って、クラスの女子がそこに集合してた。それから・・・そこから何も思い出せないわ」
なるほどね。少年はギターでしばらくゆっくりなメロディーを作りはじめた。一音一音が間延びしたような間抜けな音をたててる。
「なんて曲?」
「作詞作曲、オレの創作中の曲。もうすぐで出来上がりそうなんだけど、最後のフレーズが決まらないんだ」
そう言いながら懸命にギターを引き続ける。とても人に聞かせるような音ではなかった。汚いというのではなく、自分の世界に入り込んでしまった音だ。自分勝手さと、わがままな性格をあらわしている気がしたが少年からそのよう気配はまったくしない。きっとギターの調子が悪いのだ。
「それで、あんたなんでハブにされたの?」
「あぁ、それはあたしが一々出しゃばってくるからなんじゃない? 元々クラスの中でも浮いてたけど人にひどく扱われるほど嫌われてないと思ってたのよ。それがあたしの悪いところよ。何があっても自分の責任にはしないくせに、出しゃばって責任感のあることばっかりしようとするの。そういう子ってムカつかない? あたしそういう理由で、ハブにされたのよ、きっと。はじめはただのシカトだったわ。女子も男子も、誰一人としてあたしに話しかけてくれないの。それが一か月続くと、次はあたしに悪戯してきたのよ。教科書に落書きしたり、ノートや机にも落書きして、あたしの持ち物をぐちゃぐちゃにしてしまう悪戯をしてきたわ。それがまた一か月続くと今度は言葉でやってきたのよ。毎朝学校に行ったら必ず黒板にはみんなからの寄せ書きがしてあるの。悪口の寄せ書きよ、気分のいいもんじゃないわ。そしてあたしの悪口大会が休み時間に始まるの。大声で言うのよ。つい最近なんてあたしの机を囲って『あんた生きてる価値ないって、死ねば』を合図にみんなで死ねの大合唱。窓を開けてあたしが飛び下りるのを待つ子までいたわね」
一気に話終えると少年はギターの音を止めた。
「あんたは・・・そのイジメに耐えられたのか?」
イジメか。認めたくない言葉だった。いきなり始まったハブだったがそれまではずっと仲が良かった子がたくさんいるのだ。イジメという言葉で友人を失いたくなかった。でも、もう認めるべきときなのだろう。意地を張ってもしょうがない。
あたしは少年に笑顔を向けた。無理な笑顔だった、本当に笑った顔だったのか覚えていない。
「耐えられなかったわよ。しんどくて、助けてほしくて、あたし何回も自殺を考えてた。でも自殺すれば相手の思うつぼでしょ? だからしんどくなった時には、腕に印を付けるのよ。ムカつく奴の名前を思い浮かべながら、顔を思い浮かべながら、紙に真っ赤な血を落とすの。腕に一筋の線をつけて、血が紙に流れるのを見たらその血で呪ってやるの。気持ちわよ。想像するの、相手があたしの呪で苦しがってる姿をね。それだけで満足よ。なんて・・・楽になれるはずなんてないわ。死ぬのなんて恐くてできないし、立ち向かう勇気もない。誰にも相談できなくて、泣いてるしかできないのよ。ハブなんてすぐに終わると思ってたのに・・・長いのよ。もう、どうしたらいいんだろ」
頬に伝っていく涙は小粒だった。誰にもはなしたことのない事、吐き出してしまって感情がたかぶったんだ。少年に泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、あたしは顔を埋めて声を殺して泣き続けた。しばらく、何の音もしなかった。少年のギターを触る音もしなくて、暗い闇の底にいる気がした。死を考えた時、もっともイメージに近い場所だった。音も色もない、ただ暗い世界。あたしにピッタリの世界じゃないか。そう思うと、涙が止まって哀れな微笑みがこぼれる。
そうしている間に小さな音が聞こえてきた。少年のギターの音だ。柔らかなメロディー。あたしの心に染み渡っていく、心地よい響き。さっきまでと違う音がしてあたしは驚いて顔を上げた。違う人が弾いている気がしたのだ。ただの錯覚だったけど。
「この曲、知ってる気がする。でも分からないな・・・」
「オレが一番好きな曲。この曲を聴くと、落ち着かない? 泣きたいときとか、辛い時にはこの曲を聴いて元気になろうとするんだ。どう、楽にならない?」
目をつむって、眠りそうになるぐらい音に酔いしれてみた。曲を聴くたびに胸の奥がジンと熱くなり、何かが目覚めようとする。後少し、もう少しだけこうしていたら記憶の糸は破裂して、あたしに何かを思い出させてくれそうだ。
そう思った瞬間だった。あたしの目の前で何かが弾けて、視界が真っ白になった。
そうだ、そうだった。祥子に呼び出されていった公園にはクラスの女子が集まってたんだ。あたしをハブにした奴ら全員が。あたしを囲って、今にもリンチをしそうな恐ろしい顔をした少女たちがいた。一歩前に出てあたしに近付く祥子だけが馬鹿にした笑顔であたしを見ている。
『あたし達に土下座してあやまってみなさい。そうしたらハブ、やめるわ』
今にも左手があたしの頭をとらえて地面にめり込ませそうな動きをしていた。目には怒りよりも憐れみが見えていた。どうしてこんな奴に憐れんでもらわなきゃならないんだろ、って気持ちが高まってくる。あたしは視線を巡らせて以前に仲の良かった友人に目を向けた。一瞬だけ目が合ったけど、すぐにそらされてしまった。権力に逆らうことはできないってことか。あたしは彼女たちに裏切られたんだ。そんな子たちともう一度友人として過ごす気になれなかった。
祥子の目を真っ向から受け止めて、思いっきり睨んだ。
『いやよ』
それが合図になったかのように、祥子があたしにつかみかかり叫びのような言葉をあたしにぶつけていた。たぶん悪口だ。気分の悪くなるような言葉を発していたんだろう。祥子と仲のいい子たちは次々とあたしにつかみかかり、抵抗するあたしを押さえつけながら長い棒を持って何度も体中を痛めつけられた。暴力は初めてだった。こうしているとイジメの上下関係がよく分かる。どうやらあたしの友人だった人たちは唯の傍観者だったようだ。
痛さにめまいがして、あたしは口の中に血の味が広がっていくのを感じた。それから気付いた時には、町の路地にいてあたしは何も知らない少女を装っていた。
「思い出した?」
少年の声が聞こえた。そこでようやく現実に引き戻され、あたしはまばたきを何度も繰り返しながら少年の顔を見た。涙が頬に再び流れ出した。
「・・・あたしっていつ死んだの?」
「たぶん、三か月前ぐらいじゃない? よく分かんないけど、あんたが顔を見せ始めたのが三か月前からだったからね。あんたのこと誰も見えていないようだったから、そうじゃないかと思ってた。ようやく、思い出せたんだ」
えぇ。あたしの声は細くて、弱々しい萎れた花のように元気がなかった。
「思い出せたら、どうなっちゃうの?」
「さぁ? 成仏できるんじゃないかな。オレが送っていってあげようか? あんたに曲を捧げたら上手く行けるかもよ」
あたしは少年に笑顔を向けた。少年も満面の笑みを向けて、あたしを安心させようとしてくれていた。言葉に甘えてあたしは少年の口からこぼれてくる歌を聞いた。目をつむって、安らかな眠りにつけるように歌だけに集中した。
「あたしのこと、見える人がいて良かった。結局、あたし殺されちゃったのよね。それとも、打ち所が悪かったのかしら? どっちでもいいわ。どうせあたしの人生なんて面白いもんじゃないのよ。いい事はあなたに出会えたことだけじゃないかしら? 死んでからだったけど、あたしの話を真剣に聞いてくれた人ってあなただけじゃないかな。・・・ありがとう。これで最後になるんだから、名前教えてくれない?」
埋葬曲を一度とめて少年はあたしの耳に唇を近付けた。そして名前を告げてまた曲を歌い続けた。知らない間にあたしは眠っていたみたいで、少年の声は虚ろにしか聞こえてこなかった。
成仏したってことになるのか、それともあたしは別の場所に行ってしまうのか。どうでもいい。あたしを殺したクラスの女子に復習する気持ちなんてないし、親や兄弟に何かをしてやるつもりもない。死んだなら本望だ。あたしの人生、死ぬなんて早いか遅いかだけ。今死ぬのが、一番いいときなのだ。苦しいことから逃れられるし、先の人生で悩むこともない。人が通るいろんなものを無視したけど、それはそれでいい気がした。
よく耳を凝らすと、少年の歌が聞こえる。あたしがすることは、死んだあたしに優しくしてくれた少年に感謝をして、幸せを祈ることだけだろう。
初めてここで短編というものを書いたので、うまくい書けているか自信がありません。
ですがここまで読んでくれた方にはとても感謝します。また、機会があれば短編を書いてみたいと思いました。
ありがとうございました。