セメント色の空
一番最初に覚えている記憶は、空に刺さるように伸びる黒いビルと、その隙間を埋めるように覆っていたセメント色の空だ。
すべてが暗く滲んで、冷たかった。
見上げた天井からは、何が悲しいのかボロボロと水がこぼれ、瞬く間に自分を濡らした。
一面靄がかったように滲んだ景色の中で、さらに視界を遮るように滴り落ちる水が目に入って痛かった。
そう、自分の記憶は雨の日からだ。
自分は生まれてから親の顔など覚えていない。
気づけば一人で、路上暮らしだ。
どんなに世界が未来に進んでも、『普通の生活』からあぶれる者は山ほどいる。
自分もあぶれた一人だった。
路上のゴミから食い物を探すのは当たり前で、自分の肌で温めた場所、それが自分の家だった。そして常に汚れた身体は自分をみすぼらしく象り、いくら綺麗に整えても、すぐに砂でへどろで、汚れてしまう。
そんな自分を笑う奴など腐るほどいる。
ゴミにわくウジのように、尽きることのない嘲笑を受け流すことがでるようになったのは、最近のことのように思える。
もう、どうでもよくなったのかもしれない。
だが、右目の上の傷、左腕の傷、背中の傷……数多の傷たちが、どうでもよくなったのではない、疲れたのだ。戦い疲れたのだ。
そう聞こえる、気がした。
春の長閑な季節も終わり、梅雨が始まる。
いつものことながら、肌に張り付く湿度にイラつきながら歩いていた。
その日は最後となるだろう、肌寒く感じる日だった。
肩慣らしにと降りだした小雨は、霧のように人を包み、寒さを与えるのか、瞬く間に人の足を速めさせる。
自分はその人々をやりすごそうと、細い路地をのんびり歩いていた。
雑踏と雨音と雑音――――
その音の隙間を通り抜けて、耳に届いた音がある。
歌だった。
今まで何度も聞いたことがある歌。
だが、それは自分の荒み疲れた心にじっとりと染みていった。
冷えた心を優しい毛布でくるみこむような、そんな歌だった。
思わず路地の隙間から顔を出し、覗き込む。
そこには歌を必死に奏でる彼女の姿があった。
汚れたアスファルトに胡坐をかいて、ギターをかき鳴らす。それは秩序を持った音で、彼女の声に絡みつき、美しい音色になっている。
不規則な音たちにかき消されることなく、彼女の声はゆったりと流れ続ける。
まるで彼女の場所だけ雨がないかのような、晴れた日の草原のような、そんな香りがした。
彼女がこちらに振り返りそうになり、自分は急いでその場を去った。
なぜなら、自分は、汚い――――
彼女は夕方の時刻になるとその場所に腰を下ろし、歌を奏でることが分かった。
彼女の歌の時間は自分にとって、全ての現実を忘れられる特別な時間となった。
だが、ネオンの灯りでうつり込む黒いガラスに映った自分の姿が現実をわからせる。
こけた頬に、艶のない髪。身体は汚れ、傷だらけだ。夢も希望も全て擦り切れ、なんの未来も見つめていない濁った瞳――――
自分も彼女の側で聞惚れる人に混じり、彼女の歌を聴き続けたい。
しかし、無理な話だ。
ガラスに映りこむ自分が無様すぎて、言葉にならず、すべてのやる気を殺ぎ取っていくが、一つだけ残していった感情がある。
怒り。
運悪く通りかかったヤツに自分は殴りかかった。このムシャクシャした気持ちを少しでも晴らすことができるのなら、何でもよかった。
多勢に無勢かもしれないが、我武者羅になれる時間が長いのは、何よりだ。
湿気った空気はすぐにモノを腐らせる。
饐えた汚物の臭いは、細い路地を埋めるように湧き上がり、どこに行こうと鼻を独占する。
その鼻腔の奥で離れない臭いの中、自分の足の間接が滑りにくい音を立てて、痛みを放つ。それに顔をしかめながら、声を出すことなくただ歩いていた。
すがる相手もおらず、傷を癒す仲間も居ない。
すぐ適当に座り込み、深い傷を舐めてみた。
鉄の味が口の中で消えることがないせいか、 何の消毒にもなりはしないようだ。
「ぼろ雑巾だな」
この街で長く一人で居る爺さんだ。
確かにぼろ雑巾だ。
言い返す言葉もないので、そのまま黙っていると、
「さっきの威勢はどうした。
まったく、ガキだからな、お前は」
「……うるさい」
「気をつけろよ。
駆除が始まった」
「またかよ?」
「そんなぼろきれじゃ、簡単にひっ捕まるぞ?」
抜けた歯から笑い声がひゅひゅうと洩れる。
嫌いな笑い方だ。
よぼついているにもかかわらず、爺の足取りは軽く、黒い水溜りを蹴り上げて、歩いていった。奇妙な笑い声だけ響いている。
駆除とは、街を徘徊する自分たちのような浮浪者を捕らえて、殺すことを指す。
景観に悪い、病気がうつる、衛生的じゃない……いろんな言葉で表現されるが、どれも殺したい理由でしかない。
必死に這いつくばって生きている自分たちを笑い、邪魔だと殺す。
確かに【あぶれた者】だ。
普通の死に方すら与えられなくて当然かもしれない。
止まらない血を舐め取って、地面に吐き捨てた。何故かわからないが、赤い滲みが惨めを象ったように見えてくる。
「ここにいるぞ?」
声がした。
見上げるが、
駆除のヤツらじゃないか。
明日明後日じゃねーのかよっ!
あまりの驚きと逃げなければならない恐怖に一気に口の中が乾いていく。
一気に伸ばされる腕――――
捕まえようとする方に逃げるのが得策。
辛うじて働いた頭で答を出すと、一気に腕を伸ばすヤツに向かって走りこんだ。
男は変な声を上げ、手は空をすべり、自分を捕まえることは出来なかった。
何度もこの状況を潜り抜けてきたんだ。
そう簡単に捕まるわけがない――――
口の端で笑いながら、必死に走った。
後ろで声がする。
「怪我をしてる、捕まえろ!」
そう、自分のようなヤツは、病気を持っているかもしれない。
早々に処理をしなければならないのだ。
痛みなど感じなかった。
痺れているのだと思う。
千切れんばかりに足を振り上げ、地面を蹴った。
肩を揺らし辿りついた場所は、よく漁るゴミ捨て場だった。
心臓が破裂しそうなほどに震え、まるで首を絞められたかのように息が詰まる。
意図的に大きく息を吸い込んだ。肺に満たされる空気があまりに汚れていて、失笑と共に、大きくむせた。
不意に鼻をすする音が聞こえる。
ゴミ捨て場の横に誰かいるのか――――
よくあることだ。
特別なことではない。
誰かが捨てられるなんて当たり前だからだ。
だが、よく見ると見慣れた横顔だ。
いや、
見慣れた、んじゃない。
あの、彼女だ――――
天使のような声を持ち、自分の心を埋めてくれる彼女が、何故、ごみの横に座り込み、泣き崩れているのか。
思わず駆け寄ったが、声をかけられやしない。
かけられるわけがない。
――――自分は、汚い。
だけど、
もう、彼女も汚れてしまっている。
泥水に濡れ、ゴミにまみれ、泣いている。
自分は二人分ほど離れた場所に腰を下ろした。
何もできはしないが、なんとなく側にいたかった。見つめるしかできなくても、
側に居たかった。
ただ横で、泣く彼女の横で、自分は路地の隙間から降り落ちる雨を浴びて、細長い天井を見上げた。
細くひょろ長い天井は、薄く灰色に染まり、うねりながら流れている。
崩れたセメントのようだ。
セメントの天井は、水をこぼし続け、彼女の身体も全て濡らしてしまった。
それは自分も同じだ。
ひとつ、くしゃみがでた。
雨はやっぱり苦手だ。
すると、彼女が自分を見た。
初めて、見た。
怖かった。
逃げなきゃ。
だけど、
彼女は微笑んだ。
自分に向かって、
微笑んだ――
こんな薄汚れた自分に薄く笑った彼女は、小さく話し始めた。
だが壁にでも話すような、そんな口調だ。
そう、ただ、聞いていて欲しいのだろう。
歌と同じように。
「私ね、この街なら、夢が叶うと思ってた。
一生懸命歌っていたけど、
歌えば通じると思ってたけど、
ヘタクソって言われた……
そんなこと聞きなれた言葉だったのに、
今頃になって突き刺さって、
気持ちを突き破って、
自分が情けなくて……
情けないけど、
本当なんだと思う。
だけど、
私のために側にいてくれる君に歌いたい。
だって、
君はいつも聴きに来てくれてたもんね?」
自分は驚いた。
驚いて逃げたかった。
まさか見られていたなんて――
こんな薄汚い自分を、
こんな情けない自分を、
蔑まれ、蹴られ、貶されている自分を?
彼女は笑い、言った。
「ね、いっしょに暮らそう?
君といっしょなら、いい歌が歌える気がするんだ」
伸ばされる手を拒もうとした。
だけど、
彼女の手につかまれば、
ずっと彼女の歌が聴ける。
天使で神様で、女神だから。
今度は、自分が彼女を守ろう。
身体は小さくて守れないかもしれないけど、
それでも彼女は自分が守る――
だから、逃げなかった。
彼女の腕に抱かれると、
「来てくれる?」彼女は言う。
いっしょに行くよ。
「ニャァ」自分は鳴いた。
彼女は満面に笑顔を彫りこみ、
「雨の日に出会ったから、レインにしようか。
初めて歌った日も雨だったしね」
軽い自分の身体を優しく包み、彼女は言った。
セメント色の空が、思い出の空になった日、生まれて初めて喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロゴロと。
雷のようだったけど、それはとても温かい気持ちのいい声だった。