Ⅳ すれ違うだけで
三年前の夏、初めて祖父母の養子という少年と対面した時、琴巳と弟の背を抱いて母が頼んだ。
『ね、琇那君、この二人の、お兄ちゃんになってくれるかなぁ』
少年は中学一年生とはいえ小学四年生の琴巳と大差ない身長だったし、とても儚げな印象で、母の願いには無理があると思われた。
しかしながら、少年は微かに唇をほころばせ、大人びた口振りで請け負ったのだ。
『前から、きょうだい、欲しかったんです』
そして少年は、琴巳の当初の予想に反して、理想的な兄になっていった。夏の間は、パズルのピースが埋まるかのように、三人きょうだいになれた。
今年、冬の終わりに、兄は志望校に合格した。
祖父母の家があるK市から、電車で片道三時間ばかりかかるU市の公立高校。たまたまその学校は琴巳達の家から近かった。前年の内に祖父母が乞うて、母も快諾しており、春先、U市の加賀家の一部屋に、兄は僅かな荷物と一緒に引っ越してきた。
夏の兄は如才のなさが際立っていたけれど、春の兄は幾らか抜けていた。
料理が、いささか。正確には、だいぶん。
祖母が料理好きの所為もあってか、兄は全く経験が無かったらしい。琴巳と弟とで見本を示すと見様見真似で始めたが、綺麗な手指にあっさりと包丁や油で傷と火傷を拵えるので、見ていられないからやめてもらった。弟の将来的には料理を覚えておいた方がいいと思って教え込んでいるが、兄の将来的には料理くらいはできなくても大丈夫だろう。多分。
そんな風に、一年中の三人きょうだい。
ずっと、そんな時間が流れると思っていた。時がゆけば、変わっていくのに。家族なら、きょうだいなら、尚更。
五月の連休が終わる頃から、兄がゆるりと妹離れを始めた。
今年は琴巳も通う学校が変わった。S高よりも遠くにある市立の中学校。
初めての制服は白地のセーラー。襟と袖口とプリーツスカートがグレー。
兄の制服姿も楽しみにしていたけれど、S高は制服の無い学校だった。だから兄は私服で、まるきり大人のみてくれで学校に通う。この頃、少々早足。
U市はK市より店も家も密集しており、行き交う人が多い。
今日も、兄と途中まで学校へ行く間に何人かとすれ違う。すれ違う人が、ちらりちらりと兄を見る。あのスーツの女性は、この前も目で兄を追っていた。このところの兄は伏し目がちで、表情には出さないが物憂げな空気を纏っている。何故か益々女性の目を引くようになった。
胸の奥がもやもやする。
「今日のおかず、メンチカツ二種類と、後、野菜の味噌炒めにしてみたよ」
高校は給食が無いから、琴巳は兄にだけ弁当を作っている。兄は余所余所しくなったものの、好き嫌いは無く、残さず食べてくれる。上品に食べるから気づくのに遅れたが、たくさん食べる。兄を目指す弟も量が似てきた。今度、母に食費を増やして欲しいと頼まなければ。
「そう」
素っ気なく応じると、兄は片手を上げ、高校の方へと行ってしまった。
オトシゴロというヤツなんだろうか。意味を、琴巳はよく理解していないけれど。
胸がもやもやする。
すっきりしないのは、きっと梅雨が近いから。
学校の昇降口に入ると、靴箱の所に、気のいい隣のクラスの少女が居た。髪の短い凛々しい感じの子。
あいうえお順で靴箱が並んでいて、早稲と加賀は隣同士。朝によく会うから挨拶していたら、仲良くなれた。小学校の仲良しとは学区が違って殆ど別れてしまったので、中学での初めての友達。
今朝も、おはよう、と笑顔で挨拶を交わす。
琴巳が靴を履き替えるのを待ってくれる。その間に、隣のクラスの他の女の子が登校してきた。挨拶もそこそこに話し出す。
「ねね、早稲さんのお兄ちゃんて、剣道部の早稲先輩ってホント?」
「うん」
「ホントなんだ! いいなー、かっこいいお兄ちゃん」
〝かっこいいお兄ちゃん〟という言葉で、脳裏に兄が浮かんでくる。
「かっこいいかビミョーだけど、アレで良ければ貰ってやって」
おどけた台詞に、琴巳は驚いた。琴巳は誰かに兄を貰ってもらおうなんて、冗談でも考えたことがない。むしろ――
誰にも、とられたくない。
あの優しさも。声も。匂いも。指の温もりも。滅多に見せない笑みも。夏が来る度、琴巳が集めた宝物だ。
料理が下手なら、将来的にも祖母か琴巳が作ればいいと思っていた。他人に委ねるつもりなんてなかった。
己が考えに、鼓動が速まる。もやもやを叩き消す勢いで。
六月に入った夕暮れ時、晩御飯の買い物を終えて近所のスーパーから出た琴巳は、店の前を通りかかった少年の二人組を見留めた。思わず、あ、と声が出る。一人は兄だった。
こちらに目を流した兄は、無表情で足を止めた。琴巳の手元に視線を落とすと、荷物、と低声で告げて手を向けてくる。
ありがと、とどぎまぎしながら渡すと、並んでいた少年が親しげに兄を肘で小突いた。兄より頭半分ほど背が低い。兄と居る所為でいかにも少年に見えるが、同級生だろうか。
兄が友達らしき人と居るのを初めて見た。気づいて、琴巳は一瞬、呆気にとられる。
思えば夏の日々、こんな光景を一度も見たことがなかった。友達と約束があるというような話もしたことがなかった。兄はいつも、家族とだけ過ごしていた。
養子という立場で、あちらでは無理をしていたんだろうか。
小突かれた兄は、それだけで察したのか、口を開いた。
「親戚だ……妹みたいなモノ」
「あー、下宿してるトコの?」
「そう」
兄は淡々と応じる。そかそか、と鼻先をこすってから、少年は琴巳に笑いかけてきた。
「こんちは」
「こんにちは」
琴巳はぎごちなく笑む。少年は兄にも笑いかけた。
「ウチにも妹いるよ、生意気なのが」
「ふぅん」
声に笑みを含ませ、兄は家へ向けて歩き出した。琴巳は無意識に後を追う。横に並びかけ、ためらった。兄は口に出さなかったけれど、琴巳も生意気な妹だと思われている可能性がある。結局、斜め後ろから広い背中を見つつ歩く。
少年二人は、何かの授業で共に発表をするらしく、その相談をしていた。家に着くと、兄はエリというその少年にS高までの簡単な道順を教えた。覚えた、と明るく笑い、またな、とエリは高校の方へと去っていった。
家に入り、琴巳は兄と同時に、ただいま、と口にした。声が重なって、見上げたら目が合った。琴巳はなんとなしに、面映ゆい心地で言う。
「おかえり」
兄は目線をずらし、靴を脱いで廊下に上がりながら、律義に返す。
「おかえり」
胸の奥が痛い。
こんなささやかなやり取りさえ、宝物にしそう。
おかえりー、と弟が居間から出て来た。兄の手からレジ袋を取って、ごはんごはん、と騒いで台所へ運んで行く。
ずっと、こんな時間が流れると思っていた。時がゆけば、変わっていくのに。仮初めの兄妹なら、尚更。
洗面所の入口で、手早く手洗いうがいを済ませた兄と出くわした。互いに一歩引く。踏み出すべきか迷ったら、兄がすいと更に一歩引いた。
「ありがと」
告げてすれ違えば、お日様の香が胸を焦がす。あぁ、と応じる声が、熱い胸の奥で何かと共鳴した。
こころの琴線に触れた時には、こんな音がするのだろう。
宝箱の鍵を開ける音。
感じ、しまっておいた恋は、近づき過ぎて溢れ出してしまった。
やがて、〝兄〟と呼べなくなる。