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Ⅲ いじらしい指

 突然判明した祖父母の存在に、三年前の琴巳は怯えた。

 そのどれくらい前だったかに父が事故で亡くなっていて、それから母はずっと忙しく仕事をするようになっていて。琴巳は、お姉さんだった。弟の面倒を見て、母がこれ以上忙しくならないようにして、毎日毎日。

 三年前、五月の連休が迫る日もそのさなかだったから、母は何を言い出したのかと思った。

『お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがね、会いたいんだって』

 生きていたらしい祖父母は、珍しい遊び場がたくさんある遠い所に住んでいるという。

 母はそうっとした素振りで琴巳と弟を覗き込んで、行ってみない? と続けた。

 弟は遊び場というキーワードに反応して目を輝かせ、迷いなく、行くっ、と言った。

 琴巳は、嫌だった。

『ヘンゼルとグレーテル』みたい。お母さん、一生懸命お仕事しているのに、ウチは大変なの? あたし達を遠くに捨てなきゃいけないくらいなの? お母さん、あたし達が邪魔? お願いお願い、もっと頑張るから。あたしは、お菓子の家じゃなくて、お母さんとここで暮らしたい。だって、あたしは魔法使いのお爺さんお婆さんをかまどの中に蹴り入れるなんて、きっとできない。したくない。ちゃんと弟を連れて、ここへ帰れそうにない。

 心に湧き上がった声は、母が困ってしまう気がして吐き出せなかった。ヤだ、とだけ口にした。そうしたら何故か、弟まで、やっぱりボクもヤ、と言い出した。

『んー、そっか』

 母はそう言って、指先で軽く琴巳達の髪を梳いた。結局、ちょっと困らせてしまったみたいだった。自分達は母の傍に居ない方がいいのかもしれなかったけれど、髪を滑る指が優しくて、やはり琴巳は母と一緒に居たかった。

 琴巳はそれまで以上にお姉さんとして過ごしたつもりだったけれど、母は思い出したように夏休みの前と冬休みの前にも、いっぱい遊べるよ? 楽しいよ? とお菓子の家を仄めかした。琴巳が唇を引き結んで首を振ると、もう弟も頑として頷かなかった。

 そんな年が過ぎ、明けた新年、お菓子の家があるらしい住所から琴巳と弟宛てに年賀状が届いた。差出人は加賀琇那。ウチと同じ姓。

【今年は家に来ませんか。ここはそちらからは遠いので、二人だけで来て帰るのは大変です。でも、お母さんに連れて来てもらって、連れて帰ってもらえば安心です。お願いしてみて下さい。】

 それを書いた時の琇那はまだ琴巳と同じ小学生だったろうに、その文字は子供の目にも書き慣れているのが判る読み易いモノだった。琴巳は母に、お祖父ちゃん? と琇那の名を指して尋ねたものだ。

 問いかけに母は笑った。そして琴巳は、自分に親戚の兄が居ると判った。

 お菓子の家から無事に帰れるという物語を届けてきた彼とは、その年の夏休みにまみえた。

 翌年もかの地で夏だけの違う物語を知り、今年も新しい物語を待ち焦がれていた。

 なのに。



 今年は片道三時間かかる祖父母の家まで、姉弟だけで行くことになっていた。小学三年生の弟が、オレが姉ちゃんを連れて行く、と変な意気込みを発揮した末にそうなった。小学校最高学年の琴巳としては、弟を連れて行く心づもりだった。

 なのに、出発当日の朝。琴巳に初の生理が来た。

 学校で習っていたので一応解ってはいたものの、トイレで真っ赤な血を見て琴巳は動揺した。普段ならとうに仕事に出ている母が運良く家に居たから助けを求め、生理用品の使い方などをきちんと教えてもらい、ほどなく落ち着くことができた。

 問題は、その後だった。

 早朝からの姉のただならぬ様子に弟は不安そうな顔をしていたから、母が取り敢えず琴巳に何が起こったか説明した。加えて、琴巳は祖父母の家には今回の生理が終わってから行くことも。

「――というワケだけど、コーシ君、先に一人でお祖父ちゃん達の家に行けるかな?」

 母がおどけた口調で訊くと、思いがけず、弟はきりりと顎を引いた。着いたら必ず電話してくること、と母に頭を撫でられた弟は、いよいよ出がけになって先ずは祖父母へ連絡することにしたようだった。

 強がりかと思っていたのに、姉ちゃんを連れて行く、というのは本気だったのかもしれない。電話を耳にあてる弟を、驚きと感心が半々の気分で琴巳は母と並んで眺めていた。

「兄ちゃん、おはよー。オレだよーっ」

 電話には兄が出たようだ。琴巳は弟を羨んだ。今、兄と話せていることも、これから――今日中に話せることも。

 ちくりと下腹が痛んだ間に、弟が告げる。

「あのね、これからオレだけ出ます。姉ちゃんは一週間ぐらいしてから行くことになった」

 ちくりちくり。

 生理って一週間もだっけ、と習ったことを不機嫌に思い出そうとしていた琴巳の前で、弟がぽろっと言った。

「赤ちゃんが産めるんだって」

 は? と兄の低い声が電話の向こうから遠く耳に届いた瞬間、琴巳はかっと顔が熱くなった。自分には、去年の兄とは違う変化が訪れてしまった。それを当の兄に知られたのが、どうしてだか解らないけれど、たまらなく恥ずかしかった。

「こっ、コウの馬鹿馬鹿!」

 叫んだ途端に涙が溢れ出した。弟はこちらを見て、ぽかんとする。琴巳が泣き声をあげると、母がこつりと弟の頭を叩いて電話を取り上げた。

「琇那君? えっとね、えっとー、お義母(かあ)さんに代わってもらえるかな?」

 弟の顔がくしゃくしゃになった。うー、とべそをかき出すのを見て、ささやかにすっとする。兄の前で弟に恥をかかされるなんて、絶対に割に合わない。お腹も痛いのに。

 母が祖母と話し始めたようだったが、琴巳は指の背で涙を拭うと黙って階段を駆け上がった。自分の部屋に入り、ベッドにうつ伏せる。

 しばらくして、弟が家を出る物音が小さく聞こえた。



 その日は母が仕事から早めに帰って来てくれて、久しぶりに一緒に晩御飯を食べた。

 ホントに上手になったねぇ、と母は琴巳の作った冷やし中華を褒めてくれる。お祖母ちゃんに教わったの、と琴巳が言うと、楽しそうに母は笑んだ。それから、思いついたように口を開いた。

「ところでさ、琇那君てどれくらい頭いいのかな。琴巳、知ってる?」

 頭いいのかなという質問だったら、いい、と即答できたけれど、どのくらいかと問われると琴巳は答に迷った。かなりいいとは思う。

「えとね、わたし達が遊びに行った時には宿題全部済んでるみたい」

「ほぅほぅ」

 余裕なトコなのかな、と呟くように母は続けた。琴巳が箸を止めて見やると、母は再び楽しそうな顔をする。「琇那君がS高に通ったら、毎日が夏休みみたいになっただろうにね」

 母が言うのは、家から歩いて十分くらいの場所にある高校の名前だった。琴巳は知っていることを口にする。

「お隣の小母さんが、S高って県で一番の学校だって話してたよ」

「うんうん」

「前に集団登校の班長さんだったお姉さんがね、今年受かったみたい」

「へー、すごいじゃん!」

「そのお母さんがね、お隣の小母さんに言ってたの。たくさん塾に通わせて、何時間も勉強をさせた甲斐があったって」

 隣家の玄関口で大声で話していたから、その時、琴巳は家で晩御飯の支度をしていたのだけれど、ほぼ聞いてしまったのだ。

「やっぱりS高を狙うとなると、そんな感じだろうねぇ」

 母は言って、麦茶を含む。琴巳はようやく気づいた。兄は来年、高校生になるのだ。

「お兄ちゃんて今年、受験生なんだ」

「そそ。勉強の邪魔しないようにね?」

 母は麦茶のコップをゆらゆらさせながら続けた。「今年の夏はお邪魔するのやめた方がいいと思ってたんだけど、お母さんが連絡する前に、今年も是非来てね、ってお祖母ちゃんから電話をもらったのよ。コウが琴巳を連れてくって張り切ってたから、来ていいって言ってもらえて良かったよね」

 弟が一足先に到着した今年のお菓子の家には、受験生が居る。

 どんな様子だろう。受験生の兄が上手く想像できない。想像できないから会うしかない。

 早く生理が終わらないかと、琴巳は朝から何度も思っていることを又思ってしまった。



 九日後に、琴巳は一年ぶりの波音を耳にした。夜になると、ひた寄せるように聞こえてくる。

 紛れて微かな足音が近づき、琴巳ちゃん? と窺うように祖母の声が呼んだ。

「花火しないの? 今日は疲れちゃってる? 電車にたくさん乗ったものね。先にお風呂に入ってお休みした方がいいかしら」

「ううん、花火したい」

 琴巳は急いで立ち上がった。部屋を出て祖母に並ぶ。「あぁあ。女の子の日なんか始まっちゃうから、八月半分過ぎちゃった」

「ふふっ、そうねぇ」

「損しちゃった気分」

 階段を降りながらぼやくと、あら、と祖母は目を丸めて見せた。

「そうでもないんじゃない? コウ君がお姉ちゃんをとっても大事に思ってくれてるって、解ったでしょ」

 行きの電車内で母から聞いた話を思い出す。母が出がけに電話をしたら弟が出て、姉ちゃん、大丈夫? などと随分気にしていたらしい。「こういうコトって、近過ぎる所為で、こんな機会でもないと、なかなか気づけないものよ?」

「そっか」

 琴巳は納得して両手を合わせた。「お祖母ちゃんにも見せたかったな。駅前で、コウったら、ちっちゃい子みたいにしがみついてきたんだよ」

 二階も一階も静かだ。男性陣は既に外らしい。祖母のくすくす笑う声が、廊下に柔らかく響いた。

「お姉ちゃんを見て、ほっとしたのね。コウ君、ずっと元気無かったのよ」

 祖母が玄関内の電気を点けた。「琴巳ちゃんが来るまで、いっつもシュウ君にくっついてたわ。心配なのを我慢してたのね」

「え、そうなの?」

 靴に足を入れつつ、琴巳は口をすぼめた。「お兄ちゃん、受験生なのに。邪魔だったんじゃないかな」

「シュウ君は、ちゃんと時間を見つけてやってるわ。気にしなくても平気よ?」

「……そうなら、いいけど……」

 琴巳は、上がり口で立ち止まっている祖母を見上げた。「行かないの?」

「ふふ。新発明のデザート作っておくから、楽しんでらっしゃい」

 その作り方を教わる方が花火より楽しそうだと、ふとよぎる。口にしようとすると、祖母が先に言葉を継いだ。「あ、ほら、噂した所為かしら。シュウ君だわ。迎えに来てくれたのね」

 玄関のすり硝子の向こうに、丈高い姿があった。ゆったりした動作で、横開きの戸に手をかける。からからと軽い音と共に、戸が開いた。祖母の言う通りの人物が現れる。

「早く始めようって、公士が言ってる」

 いい低声が、頭上から降ってくる。いってらっしゃい、と祖母が手を振って、琴巳はぎごちなく頷いた。

 少年が踵を返し、庭を歩き出す。歳は少年でも、後ろ姿はもはや大人だった。暗闇に浮かび上がった真っ白なTシャツが、やけに大きく見える。琴巳は後ろを歩きながら、だいぶん上に行ってしまった淡い色の髪を見つめた。たった一年で、琇那はぐんと背が高くなっていた。

 何センチになったんだろう。わたし、去年より五センチも伸びたんだけどな。

 今、琇那の背中が琴巳の目の高さにある。向かい合っても、胸元しか見えないだろう。

 前を歩いている人が誰か、知っているのに、知らないように思えた。

 賢いのは知っていたけれど、まさかS高を目指せるくらい頭がいいなんて、知らなかった。

 琇那は、来年S高を受験すると言う。今日の昼食時に、祖父母がそう打ち明けた。夏休み前の模擬試験で合格率が九八%と出たそうだ。担任の先生もこれは狙うべきだと言ってくれたので、第一志望はS高校に決めたらしい。

 昼食に同席した母は琇那の成績にびっくりしていた。琴巳も同様だった。

 二度の夏で彼を割と知ったつもりになっていたのに、実のところは大して知らないんじゃないかと心がうろたえる。

 庭の端から浜へ降りる階段を、弱い月の光に照らされ、白いTシャツが降りて行く。開いた距離に、鼻の奥がつんとした。

「お、お兄ちゃん……?」

 琇那は振り返った。何段か降りていた所為で、目線が合う。

「何?」

 理由も無く呼んでしまったので、琴巳は戸惑った。うつむく。

 二人の合間を、さ……と風が吹いた。

 うつむいた視界に線の綺麗な片手が差しのべられて、琴巳は目を上げた。深い色合いの双眸が、真っ直ぐ見ていた。

「おいで」

 やんわりとした低音に誘われ、琴巳はそろりと二、三本の指を重ねた。ほんのりとした温度が指先をくるむ。「そっちの手を手摺にかけておけば、大丈夫だから」

「……うん」

 怯え自体は見抜かれてしまったようだから、言われた通りにした。琇那は琴巳の手を引いて、ふわりふわりと段を降り始める。

 潮の香と別の匂いを鼻が捉えた。()の光を含んだ幸せな匂いが、ゆったりと届く。

 コレは、知っている。兄の匂い。

 少しだけ安心して、琴巳は長い指に包まれた指先を馴染ませる。

「琴巳、去年花火をした時は一人で降りなかったっけ」

「えっ」

 急に質され、琴巳は慌てた。「えと、えっと、とっ、年とった、から」

 くっ、とこもった笑い声が起こった。横に広くなった気のする肩が、小刻みに震えている。琴巳は顔が熱くなった。

「あの、あの、お兄ちゃんは、今年は花火なんかやっててもいいの?」

 あぁ、と笑みを含んだ低声が美しく響いた。

「花火をしたくらいで落ちるようなら、最初から狙わない」

 ほころんだ頬を風が心地好く撫でた。

 そっか、と応じた声は、待ち切れなかったのだろう、弟が打ち上げた花火の音に混ざり込む。不意の音に指先が震えたけれど、そんなささやかな怯えも兄の温度が溶かして消した。



『琇那君がS高に通ったら、毎日が夏休みみたい――』

 今年の夏、物語を綴ったのは母。常夏の夢物語。

 もしかすると――否、どうやら現実になる。だから年賀状に書いてしまおうか。


【今年は家に来ませんか。ここはそちらからは遠いので、毎日、来て帰るのは大変です。でも、こちらに住んでしまえば安心です。お願いしてみて下さい。】


 巡る季節毎、きっと、〝兄〟へ近づく。

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