Ⅱ 幸福な沈黙
夏休みが始まる少し前、友達から、変、と言われた。
『フツーは、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さん、お兄ちゃんがはじめから居るよ。琴巳ちゃんトコ、変ー』
琴巳のところは、はじめから居たのは父母だけで、後から弟、祖父母、兄という順番だと話した所為だった。
母方の祖父母は他界している。二年前まで、父方の祖父母もそうだと思っていた。
どうしてなのか解らないけれど、父は生前、自分の親を話題にしたことが無かった。片道三時間もかかる所に離れて暮らしていたから、親子喧嘩をしたまま仲直りができなかったのかもしれない。
とにかく琴巳のところの順番は、祖父母が弟より後だった。そして祖父母の養子となった少年が、たまたま琴巳より三つばかり年上だった。それで〝兄〟も弟より後となった。琴巳にとっては、単にそれだけのことだったのに。
「お兄ちゃんも、変だと思う?」
琴巳はスイカの種をスプーンの先で落としながら隣に問うた。
お盆を数日後に控えたおやつ時、日蔭の縁側はうだる暑さを幾らか和らげている。今年も琴巳は弟と、八月に入ってから、祖父母と兄の琇那が暮らす家に来ていた。
去年出来たての兄は何か言いかけて、軽く顔を背けると一つ咳払いした。声を低め、やや掠れた音で返事を紡ぐ。
「変と言うか……珍しい、程度かな」
「うん、ソレだよ――だよね。その程度だよね」
琴巳がすっきりした心地でスイカにスプーンを入れると、兄は短く笑声を洩らして又ちょっと咳をした。
なんか、長いな。
スイカを口にしながら、琴巳は隣をちらりと見る。
兄の整った横顔に体調を知らせる表情は無い。姿勢良く縁側に腰かけ、密度の濃い睫毛を伏せ気味に、静かにスイカへ匙を動かしている。
琴巳は一年ぶりの兄の声に、違和感があった。久しぶりに会えた兄に、妹弟は代わる代わる話しかけて、彼は相変わらず言葉少なながら応えてくれた。時々掠れる低い声で。去年、形のいい唇からこぼれ出る音は、澄んで綺麗だったのに。
かれこれ一週間以上経つが、たまに兄は咳をしている。以前は身体が弱かったらしいし、風邪なんじゃないかと琴巳は気になるのだけれど、心配症な祖母が世話を焼く様子が無い。
まさか、あたしだけが気づいてるんじゃないよね。
小学二年生の弟は兄の様子に気づいていない気もする。今日も朝から祖父と海で泳ぎまくって、今は二階で昼寝中だ。
弟は体力が有り余っているのか無駄に走ったり泳いだりするのが好きだが、兄は散歩の他は好んで運動する素振りが無い。
琴巳は兄と行動傾向が似ている。だからきっと、八月、琇那の一番近くに居て、琇那を一番見ているのは琴巳だ。
まさか?
スプーンを手にしたまま、琴巳は再度ちらりと隣を見た。
濃い紅茶色の目と、視線が合った。焦って、琴巳は目を彷徨わせる。兄の手元のスイカは、見える範囲の種を取り除き終えたところらしい。
「取り換え、る?」
言葉を途中で詰まらせながらも、低めた声が可笑しそうだった。琇那は表情を見せないけれど、声には少しばかり感情を含ませる。
琴巳は首を振って、違う、と思わず口走った。おや、と言うように兄はこちらを見る。
「じゃあ、何だろう」
音が低い。穏やかに、ゆっくりと。咳が出ないようにかとよぎったら、これまでに溜め込んでいた気懸かりも加わって慌てた。
「えと、えっと――喉、平気? お兄ちゃん、ずっとね、咳して――しょっちゅう。大丈夫?」
自分でも何を言っているのかよく判らなかったのに、あぁ、と琇那は目を細めた。珍しく判り易い笑みだった。
「気にしないで、いいよ。だいぶ、落ち着いてる」
「――そっか」
こんなに優しく笑えるんだと心の内で驚いていたら、祖母が琴巳の空いた隣に腰を下ろした。どうやら弟は、オヤツという魔法の三文字でも目覚めなかったようだ。
会話を聞いていたのか、やんわりと祖母は話に加わった。
「そろそろ三ヵ月くらいになるわね」
兄が頷いて、琴巳は眉を寄せた。そんなに長く患っているのか。病院には行っているんだろうか。
祖父も来て、琇那の隣に胡坐をかいた。すぐに何の話か判ったようで、スイカを手にしながら笑む。
「いい声になってる」
ねぇ、と祖母が嬉しそうに応じた。確かに、掠れない時の兄の声は綺麗な声を深く低めたような感じだから、いい声ではあった。
祖母が、にこにこしながら教えてくれた。
「男の子はね、シュウ君くらいの年になると、女の子よりずっと声が変わるのよ。コウ君もそのうちね」
「――へぇー」
「ウィーンの合唱団が少年だけなのは、その所為だ。ボーイソプラノはそういう儚さも併せ持ってるから、貴重だし、録音しておきたくなるんだろうな」
祖父が言って、スイカにかぶりつく。祖母が自分のスイカの種を取りながら相槌を打つ。
「男の子の高音は独特の綺麗さがあるものねぇ」
「お兄ちゃんの声も録音したの? 綺麗だったよ」
琴巳が見やると、兄は黙ってスイカを食べている。祖父が口から皿に種を落っことしてから、してない、と答えた。祖母が、ぽつりと言った。
「形にして残しておくのもいいけど、心の中だけに残しておくのもいい時があるの」
よく解らなかった。
解らなかったのに、去年の兄の声を思い出したら、何故か、そうかもしれない、と思った。
八月の末が近づく日、終わらせた宿題のドリルを琴巳が鞄にしまっていると、部屋の入口から低声に呼ばれた。開け放しのドアの所に兄が立っている。だいぶん聞き慣れてきた〝いい声〟が告げた。
「おやつに、かき氷作るって」
わぁい、と琴巳は立ち上がる。兄の柔らかそうな薄茶色の髪を見ながら階段を降り、廊下で隣に並ぶと、ふわりと干したての布団の匂いがした。昨年もともすれば鼻先を過ぎていたお日様の香で、今年、どうやら兄から薫るのではないかと確信しつつある。はっきりと確かめてはいないけれど。
じゃれて兄にしがみつくことがある弟に訊けば、確かめられるかもしれない。けれども、なんでそんなことを訊くのかとか、ソレがどうしたのかと問われたら困ってしまう。どうしてだか気恥ずかしいから、断念している。
コウに訊くまでもないよね。近づくと匂うんだから、お兄ちゃんからよ。
琴巳は、ついと横を見る。去年はすっとした鼻の辺りがすぐ目に映ったが、今年は襟元や肩口。それだから、より鼻が香を捉えたのかもしれない。
春の健康診断で琴巳は身長が三センチ伸びていたけれど、兄はもっと伸びたようだ。
そんなことをつらつらと考えつつ兄に続いて居間に入ったら、弟が高い声でタイミングの良さそうな話を祖父にしていた。
「――だからオレね、牛乳、いっぱい飲んでるんだよ」
「牛乳だけでいいもんかなぁ?」
ソファの上で祖父が面白そうに応じる内に、その膝元の弟は入ってきた琴巳達に気づいた。やたらと嬉しそうに胸を張って言う。
「オレね、今測ったら、春に測った時より二センチ伸びてた!」
「おー、オメデト。意外にも成長してたんだ」
琴巳が茶化す間に、弟は並んで立っていた兄と姉に視線を振り、兄に目を固定した。
「お兄ちゃん、何センチ?」
「一六〇」
兄の端的な返答に、琴巳は軽く口をすぼめる。十センチも差がついていたとは。どうりで目にする場所が変わった筈だ。
台所から、祖母がかき氷の一式を運んできた。ソファ近くのローテーブルを囲んで、琴巳は床に座り込む。お日様の香が、ふうわり隣に降りてきた。
音をたてて氷が削られ始めた。琴巳は弟と一緒に、賑やかにシロップやトッピングを選び始める。オレも一六〇センチになる、と弟は遠い目標を宣言して兄と同じ物を選びたがった。
琇那はさり気なく、練乳をぐるりと果物にかけていた。弟がせっせと真似る。
琴巳はこっそりと、心の中で兄に言った。
いつもは、トッピング無しでレモンシロップを少々だよね。
妙なる声。優しい匂い。ありふれた好み。
言葉無く幸せを探る、不器用さ。
また夏、ひめやかに、宝箱の中だけに〝兄〟をしまう。